若いころの飲みすぎが原因で、運動をかかすことができないため、土日でも何がしらの運動をしています。昔、武道をやってた関係で、筋トレはずーっと続けていますが、寄る年波には勝てず、「首」「肩」は、故障中のままですが継続しています。
ベンチプレスは140キロオーバーまで行きましたが、昨年、完全に右肩を壊したため、今は軽い負荷でやってます。右肩から右大胸筋内側の靭帯が、「ぶちぶちぶちっ」と言う音と共に激痛が走り、今に至っています。今でも挙げようと思えば120キロは挙がりますが、また、「ぶちぶちぶちっ」となったら怖いので控えています。今日は、骨盤のズレが出てないので、全身筋トレしました。若いころと違い、筋肉がついてしまうのが悩みです。筋トレは、「筋力アップ」と「筋肉肥大」で、やり方が違います、私は、これ以上筋肉は要りません。
第五十九番「国分寺 (伊予国分寺) 」・・・珍しい真言律宗です。真言宗ですが、律宗の末寺は珍しいです。
ウィキより、伽藍画像もウィキより、
「伊予国分寺(いよこくぶんじ)は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山(こんごうざん)、最勝院(さいしょういん)と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所霊場の第五十九番札所。札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり」
四国遍路番外編・・・衛門三郎(えもんさぶろう)
四国遍路の伝説に、衛門三郎さんの話があります。史実なのか、伝説なのか、それとも、史実を元に話が拡大した説話なのかはわかりません。
ウィキより、
「天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし(つかんで地面にたたきつけたとするものもあり)、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師(空海)であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫び、望みはあるかとの問いかけに来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい(石手寺刻版には「伊予の国司を望む」)と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月(石手寺刻版では天長八年辛亥のみ。杖杉庵縁起では天長8年10月20日。)のことという[1]。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。」その他異説もあります。
今日は、ハシブトガラスのリキ達、ハシボソガラスのテツ、トンビのお嬢と小エビ、金若もしくは姫、ニューたち、モズ、スズメ軍団、ヒヨドリのヒヨ、ツバメ軍団と赤トンボ軍団、アマガエルに、羽虫のコッチたちが元気に動いてました。久しぶりに、ヤブサメと思われる小鳥も「ギー」と鳴いていました。「ダーウィンが来た」で、カマキリが小鳥のキクイタダキを捕食する衝撃の映像を観て以来、「ギー」のことが心配でした。キクイタダキほどではないにしろ、スズメよりだいぶ小型の鳥なので。
鳥好きである、うちの菩提寺住職に聞いたところ、やはり極小鳥のメジロちゃんは、「カマキリには負けない」とのことでした。カマキリも生きるためには必死なんですが。オオカマキリには色々と思い出があります。昆虫の中で、オオカマキリほど個性が色々ある昆虫はいません。
ではまた。
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