香川県です。
第六十六番「雲辺寺」・・・覚えています。
四国遍路も時代の流れ、だいぶお参りの数が減っているそうです。
今日、四国出身の人と話す機会があり、聞いたみたら、「ぼくが子供のころは、地元の人も遍路してましたが、今はだいぶ減ったみたいです」と言ってました。
ウィキより、伽藍画像もウィキより、
「雲辺寺(うんぺんじ)は、徳島県三好市(もと三好郡)池田町白地ノロウチの雲辺寺山山頂(標高927m)近くに位置する真言宗御室派の寺院で、巨鼇山(きょごうざん)千手院(せんじゅいん)と号し、本尊は千手観世音菩薩である。
本尊真言:おん ばさらたらま きりく そわか
ご詠歌:はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今は麓にぞ見る
納経印:当寺本尊、毘沙門天(阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神霊場めぐり)、最高峰四国高野のナス形の朱印、大悲殿(期間限定)」
以下、四国遍路雑記です。
「真念法師・・・貞享4年(1687年)に『四国遍路道指南』を刊行した。発見されているそれまでの書物は遠慮があり番号を付けてなかったが、真念は下級僧ゆえ遠慮無く寺に番号を付け、宿泊所情報なども盛り込み、巡拝者には重宝なガイドブックとなっている。
宥辨 真念[1](ゆうべん しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した[2]。
四国八十八箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と云われる『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』と、その霊験記である『四國徧禮功徳記』を出版し、また、遍路に宿を貸す人を募り、自ら遍路屋(真念庵)の建立や標石を200基余造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされている。
また、雲石堂寂本[4]の『四國徧禮霊場記』の作成に資料を提供した。同記には、初めて各寺の風景が描かれていて、当時の寺の様子が視覚でわかり、各札所の縁起・由緒がまとめられている。同記により四国遍路に興味を持った読者が、真念の本を持って四国遍路に出立するように意図されている。
以上の功績を遺してのち、元禄の初期に遍路巡拝の最中、讃岐国高松藩三木郡内において同郡の大町村と原村(現在の香川県高松市牟礼字大町から字原の区間)を結ぶ元結(もといむすび)峠の東側(原村側)にて倒死したとされる[5]。墓は現地の人々の手により当初は元結峠付近の丘に建てられたとされるが、のちに地域の墓地整理などの紆余曲折を経て牟礼字大町の南三昧墓地に無縁仏として置かれるも、さらにのち1980年(昭和55年)に同墓地にて発見されたことで改めて手厚い供養を行う意図の元、現在は香川県高松市牟礼字宗時の洲崎寺に置かれている。」
真念さんのことはテレビで観て知りました。
ではまた。
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