【タイ山岳民族の村に暮らす】

チェンマイ南西200キロ。オムコイの地でカレン族の嫁と綴る“泣き笑い異文化体験記”

【小楊との再会】

2007年07月08日 | アジア回帰
 昆明に出れば、洛陽への移動は簡単だと思っていた。

 ところが、昆明空港で確かめてみると一旦北京へ飛ばなければ洛陽へは行けないという。

 チェンマイを午後2時40分に発ち、昆明着が午後5時過ぎ(タイ時間では4時過ぎだが、中国との時差が1時間ある)。

 昆明発北京行きは、午後7時45分。北京着は、午後11時である。

 宿の不安が頭をかすめたが、今日中に北京へ飛ばないと、明日の洛陽入りは無理だと言われれば致し方ない。

 なかなか通じない英語と、まったく聞き取れない久々の中国語と、思わず口をついて出るタイ語とに混乱しながらも、なんとか北京経由洛陽行きのエアチケットを手に入れた。

 久々に目にする中国人たちは、相変わらずパワフルである。

 言葉を変えれば、がさつで、図々しく、にぎやかだ。

 彼らに比べれば、タイ人は優雅なまでにおとなしく人がいい。

 タイの経済が中国系タイ人によって牛耳られている理由は、空港での人間観察でも明らかである。

 空港内にある唯一の飲食施設ケンタッキーフライドチキンに紛れ込めば、店員の叫び声も客のわれがちの押し合いへし合いもも、半端ではない。

 その繁盛ぶりを眺めていると、5年ほど前、北京や上海で目にした外資系外食産業のはしりも、今や地方都市の隅々にまで定着しつつあるのだろうと感慨を覚えずにはいられない。

      *

 オリンピックを1年後に控え、北京空港も立派な国際空港に変身していた。

 深夜12時近くだというのに、ホテル紹介所が開いており、なまりは強いとはいえそこそこの英語を話す女性スタッフがてきぱきと近在のホテルを探して、迎えのバスの手配をしてくれた。

 受付スタッフの対応がお粗末きまわりなく、朝食がおそろしくまずい3つ星ホテル(330元)で一夜を明かし、再び空港に向かった。

 空港から小楊に電話を入れると、照れ臭そうに笑いながらも流ちょうな英語を話すのでびっくりしてしまった。

        *

 北京を12時40分に発ち、2時15分に洛陽に着いた。

 洛陽はぽつぽつと雨がまじる曇り空で、肌寒いほどだ。

 3年前に世話になった運転手の小李には連絡せず、客待ちのタクシーに乗り込んだ。

 小楊に教わっておいた発音“ブータンジャン”(牡丹城・ペオニーホテル)がまったく通じず、運転手の掌に指で漢字を書いてなんとか宿まで辿り着いた。

 小楊の手配のおかげで、通常一泊380元の4つ星ホテルに260元で泊まれることになった。

     *
 18階の部屋で旅装をほどき、2階のビジネスセンターに顔を出した。

 3年前よりも、少しだけ大人びた小楊が振り返り、やや戸惑ったように控えめに笑った。

 ふたりの同僚に挟まれて「どう対応したらいんだろう?」という顔をしているので、思わずタイ式のワイ(合掌礼)をしそうになったのだが、ここが中国であることを思い出して、とりあえず握手をすることにした。

「4時になったら、今日の仕事は終わりだから」

「あと、15分か。じゃあ、ここでeメールをチェックさせてもらうよ」

 オフィスのコンピュータは、2台とも新品に変わっていた。

 3年前はインターネットのスピードが遅くて、つながる間に無駄話ができたくらいだ。

 ここで毎晩のように18歳の小楊を相手に英語を教えたり、ビジネススクールのまね事をして過ごしたことが懐かしく思い出された。

      *

 メールチェックを終え午後4時過ぎにホテルの正門脇で待っていると、私服姿の小楊が現れた。

 黒い制服姿はずいぶんと大人びて見えたが、私服になるとやはり21歳の女子大生である。

「ここからバスで30分くらい行ったところに、麗京門(リージンメン)という古い町並みの名所があるの。そこにおいしい料理を食べさせる店があるから、行ってみない?」

「オーケイ。俺は何でも食べられるから、キミに任せるよ。それにしても、ずいぶんと大人になったね」

「へへ・・・。きれいになったでしょ?」

「うん、本当にきれいになった。3年前は、高校を出たばかりの赤ちゃんだったからなあ(笑)。・・・あれ、最後に会ったのは2年前だったっけ、3年前だっけ?」

「3年前だよ!ジーティエン(私の苗字の中国語読み)ったら、洛陽に来る来るって言いながらちっとも来ずにニューヨークに行ったりして・・・。わたしはもう、大学3年生。21歳になっちゃったんだから・・・」

「済まん、済まん。しかし、あれから3年も経ったんだなあ・・・」

 ということは、俺はカミさんが逝ってから、すでに3年以上も旅を続けているのか・・・。

 そもそも洛陽に来たのは、カミさんの死直後、2年間の看病疲れで死にそうになっていた私を中国式漢方マッサージで救ってくれた留学生の小黄(xiao huang)が春休みに帰郷するというので、彼女が故郷の洛陽を案内する代わりに私が彼女に英語と日本語を教える、という約束をしたのがきっかけだったのだ。

 そのときに滞在したのが、小楊がビジネスセンターで働いていたこのホテル牡丹城だったのである。

      *

 小楊が案内してくれたのは、洛陽名物の“水席料理”を食べさせる店だったが、開店まで1時間ほど待ってくれという。

 そこで、“老城”という名の古い町並みを活かした「麗京門」をぶらぶらと歩いてみることにした。

 石づくりの古い家(中には今にも崩れそうな家もある)が立ち並ぶこの通りには、あらゆる食い物屋が密集している。

 小腹をすかせた私を気にして、小楊が豚肉の角煮状のものを包丁で叩いて小麦製のバンズにはさんだスナックのようなものを買ってくれた。

 わずか1元程度の買い物とはいえ、成長した娘が身銭を切って“父ちゃん”にうまいものを食べさせてくれる心遣いは、涙が出るほどに嬉しいものだ。

 その“娘”はアメリカ資本のコカコーラを無邪気にあがない、私を休ませるためにベンチのある公園に導く。

 夕刻の公園では、西日を木陰に避けながら数多くの市民たちが憩っている。

 中央の舞台では、揃いの衣裳を着た一団が伝統舞踏を舞っている。

 ベンチに腰をおろしデジカメを取り出してタイでのスナップを見せると、小楊が若い娘らしくデジカメに興味を示して、自分の顔や町の様子をぱちぱち撮り始める。

 さすが若いだけに飲み込みが早く、すぐにいろんな機能を使いこなすようになった。

       *
 料理店に戻る途中、今度は豆腐の串焼き(唐芥子味)を買ってくれる。

 これで腹がくちくなって、肝心の水席料理があまり食えなくなってしまった。

 久々の地ビール「洛陽宮」も、生ぬるくていまひとつだ。

「大学の方は順調かい?何を専攻してるの?」

「うん、順調、順調。結局、コンピュータ・ネットワークを専攻することにしたの」

「ふーん、それはいいね。で、来年卒業したら新しい仕事を探すのかい?」

「できればそうしたいけど、洛陽ではちょっと難しそう」

「じゃあ、北京か、上海か」

「でも、わたしは洛陽が好きだし、両親は地元でボーイフレンドを見つけて結婚してほしいみたい」

「それはそうだろうな。で、もうボーイフレンドは見つかったの?」

「全然。もしも、いまわたしにボーフレンドがいたら、今日ここに連れて来れたのにね」

「没問題(メイウェンティ・問題ないよ)。小楊は、まだ21歳なんだから、これからいくらでも見つかるよ」

「うん、分かってる。ところで、今回はいつまで洛陽にいられるの?」

「うーん、ちょうど10日間だな。今月の15日には、またタイに戻るんだ」

 チェンマイで私の帰りを待っているラーは、今月13日にマッサージ学校を修了する予定だ。

 それを機に、私はラーの暮らすカレン族の村を訪れるつもりでいる。

「もしも休みが取れるなら、麗江に行こうか?今も行きたいなら、の話だけど」

「行きたいよ。大学はちょうど夏休みだし。だって、ずっと前から連れてってくれるという約束だったでしょ?」

「うん、済まん、済まん。じゃあ、行くか?」

「うん、明日、マネージャーに休みをもらえるよう話してみる」

「うん、そうしてくれ」

 そんな話をしながら、ゆっくりと饅頭と水席料理を味わった。

      *

 腹ごなしにぶらぶら歩きながら、王城広場に向かった。

 「おなかいっぱい」と言いながらも、小楊は道々コーラを買い、アイスクリームをなめる。

 料理代は無理矢理私が払ったものの、小さい買い物は頑固に自分で払い私には払わせようとしない。

 月給は800元程度で、学費も自分で払っている彼女は決して楽な暮らしをしているわけではないのだが、年上やゆとりのある者におごってもらうのが当たり前と思っているタイの女たちとは、まるで金銭感覚が違うようだ。

      *

 広場では、あちらこちらに人が集まり、まるでラジオ体操のように整列して、なぜかディスコ調の曲に合わせて踊っている。

 よく見ると、ほとんどが中高年や老人である。

 朝の公園でゆったりと太極拳を舞っているような年齢層の人々が、夜の公園ではなぜかディスコダンスである。

「私にもテンポが早過ぎる」

 21歳の小楊が、苦笑いしながら元気な年寄りたちのダンスを眺めやっている。

 日が暮れて広場の周囲に縦長のランプが灯った。

 浮かび上がったのは、「論語」の一節である。

 「ロンユウ」

 小楊が、中国語の発音を教えてくれる。

 ディスコダンスと「子曰く」が共存する、この不可思議な文化の国。

 だが、みんながみんな、同じ振り付けで踊る姿はいささか奇妙かつ奇態である。

 その姿は、日本人にも通じるものがある。

 タイでは、ラジオ体操やパレードにも緊迫した統一性はなく、みんながてんでんばらばらに好きなことをやっているという印象が強く、私にはその方が好ましい。

      *
 8時半になると、名物の“噴水ショー”が始まった。

 音楽に合わせて、ライトアップされた噴水がまるでシンクロスイミングのような華麗な舞いを見せるのである。

 無数の老若男女が夕涼みがてら、この水のパフォーマンスを楽しんでいる。

 中央には洛陽を建造した「周王」の彫像も建造され、この王城広場のいわれを物語っている。

 9時にショーが終わった。

「さあ、ホテルに帰ろうか」

 小楊は、ホテルに隣接した社員用宿舎に寝泊まりしている。

 明日も、7時半からの早朝勤務だ。

「いつもは仕事が終わったら、コンピュータの勉強をしているのかい?」

「仕事中はコンピュータが使えるけど、勤務時間が終わったら使えないの。それに、宿舎は8人でシェアしているからうるさくてなかなか勉強できない。だから、たいていは寝ていることが多いわ」

 劣悪な環境の中で、よくも3年間仕事と勉強を両立させてきたものである。

 私がこの3年あまりの間に関わってきた女たちの中で、もっとも気高くけなげに生きているのは、この21歳の小楊にほかならない。

 私も含めて、彼女よりも年上の人間たちは、いずれもだらしなく、志が低い。

 小楊には、教えられてばかりである。

「じゃあ、お休み。今日はありがとうな」

「うん。また、明日ね」

 今夜はいい夢を見てほしいと、心から願い、別れた。

 

 
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