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古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

佐賀県伊万里市の古代史(大和朝廷時代)

2019-01-13 21:31:05 | 歴史
更に出土した
杢路寺古墳出土 三角縁三神三獣鏡・鉄剣・鉄刀
杢路寺古墳の後円部で発見された
礫(れき)敷きの棺床(かんしょう)から
・青銅鏡(せいどうきょう)1面
・鉄剣(てっけん)5点
・鉄刀(てっとう)2点の副葬品
この青銅鏡は三角縁神獣鏡で日本で作られた複製品です。
4世紀末頃
・飛鳥時代の大和朝廷の時代です。
・吉野ヶ里の様な環濠集落も無くなり、古墳を造る時代も終了します。
・九州は筑紫と名前を付けられて、松浦半島地方は筑前と呼ばれます。
・地名が王の名前だったのですが、それが使えなくなります。
・地名を変える代わりに大和朝廷が地方の王族へ贈っていたようです。

伊万里と云う地名は焼き物の伊万里焼で有名ですが
江戸時代初期1600年代には使われていたようです。
その前はよくわかりませんが
今利 と云う漢字が使われた時代もあったようです。
何時の時代に、誰が 今利 を 伊万里 に変更したのかは不明でした。
伊都国も糸島と漢字二文字です。
多分、自らは 糸 と地名を付けたと思いますが
氏姓制度で漢字二文字を強要されて 糸島 ではないでしょうか。

石器時代、縄文時代、弥生時代、飛鳥時代を複数の遺跡が出土する稀な地域
伊万里市です。
博多湾の地域でも多数の古代の遺跡が出土しています。
奴国のミニチュア国が松浦半島の西側にもあったようです。

佐賀県伊万里市の古代史(地名)

2019-01-13 20:46:34 | 歴史
更に出土した 伊万里市大坪町 午戻遺跡石棺墓出土遺物

弥生時代中期中頃(紀元前1世紀頃)から弥生時代終末期(3世紀頃)にかけての墓群
石棺墓から青銅鏡1面、鉄小刀1点、鉄鎌(てつがま)1点、ガラス小玉1点
その鏡が後漢(ごかん)時代頃の中国でつくられた鏡だったのです。
王のような有力者が伊万里市にもいたようです。
「魏志倭人伝」に紹介される倭国で、卑弥呼の朝貢より少し前です。
末盧国、伊都国、奴国と並んで玄界灘湾岸の国 古代の伊万里市 が
巴利国 ではないでしょうか。
他にも、現代の地名と近い国名が
烏奴国(あなこく)、対蘇国(とすこく)・・・鳥栖
鬼国(きこく)、鬼奴国(きなこく)  ・・・基山
呼邑国(おぎこく)          ・・・小城
蘇奴国(さがなこく)         ・・・佐賀
華奴蘇奴国(かなさきなこく)     ・・・神崎
支惟国(きくこく)          ・・・多久
そして、巴利国(はりこく)      ・・・万里(ばんり)
鏡を使った祈祷など大陸文化が既にあったようです。



佐賀県伊万里市の古代(弥生時代中期)

2019-01-13 20:00:38 | 歴史
伊万里市の重要文化財のホームいページを参考に進めます。
伊万里市黒川町 土井頭(どいがしら)遺跡で出土した 青銅製の戈(か)
土井頭遺跡は、弥生時代中期(紀元前1世紀位)ですが
古代中国の殷(いん)時代(紀元前1600年頃~紀元前1046年)中期に出現した両刃の刃物を柄の先端に直角に取り付けた武器です。

この時代、倭国には馬車などはありませんので、武器として利用価値はありません。
しかし、遺跡の歴史より1000年ほど古い大陸の武器が二つも発見されたわけです。
先に紹介しました徐福が持ち込んだのでしょうか。
既に有明海側には「吉野ヶ里遺跡」など大きな集落が出来ています。
玄界灘側の伊万里湾に、集落があっても不思議ではありません。
大陸との交易面では、有明海側の国々より有利だっかでしょう。
石器時代、縄文時代に移住した民族の後
大陸が殷、周(秦の始皇帝の時代の前)の時代に、大陸から移住した一族がいたのでしょうか。
大陸には、海のはるか向こうに不老不死の仙人が住む 常世の国(とこよのくに)理想郷があり
後の日本の神話
・天照大神などが生活する高天原
・海崎彦、山幸彦が訪ねた竜宮城
・浦島太郎の竜宮城などにも登場します。
大陸から見た海の向こうの仙人が住む理想郷は、ちょうど倭国だったのです。
弥生時代の始まりは、紀元前10世紀ごろと訂正されました。
この時代、大陸からの移住が始まっていても不思議ではありません。
黄海に近い長崎や伊万里の様な地域が最初であったはずです。

佐賀県伊万里市の古代史(石器時代、縄文時代)

2019-01-13 18:03:46 | 歴史
ここからは伊万里市の重要文化財のホームいページを参考に進めます。
お話は、何と 旧石器時代
伊万里市の南にある山 腰岳(黒神山山系)
地表に、黒曜石が表面でも出土している極めて稀な山です。
黒曜石は、鋭利な形をしていて、旧石器時代に 石刃や石斧に使われた石材です。
北麓の標高約100m付近には鈴桶遺跡
小木原遺跡
腰岳産の黒曜石は九州各地で確認されているようで
伊万里市に住み着いた古代 石器時代、縄文人が広く交易をしていたようです。
氷河期に
・北海道から南下した民族
・朝鮮半島から移住した民族
・南方から船で渡ってきて、鹿児島や熊本から北上した民族
博多湾、唐津湾、有明海同様、伊万里湾も人々が生活するには良い地域だったようです。
黒曜石と云う石器の材料の産地で栄えました。

佐賀県伊万里市の古代史(地名)

2019-01-13 18:02:21 | 歴史
先の投稿で末盧国(唐津市)について紹介しましたが
ふと、お隣にある 伊万里市です。
不思議と感じたのが
伊万里(漢字3文字、一文字の読みが一音)でイ・マ・リ

飛鳥時代、大和朝廷で行われた氏姓制度で
氏名、地名は 漢字二文字に統一されます。
※無理やり3文字が二文字に、一文字が二文字に改名されたケースもあります。
漢字三文字の地名も多数ありますが、多くは
・北九州市 など東西南北上下の方向を地名に加えた。
・大牟田市 など大小、或いは山川などの地名を加えた。
がありますが、漢字三文字、読み3音の地名は稀です。
伊万里市
佐世保市
久留米市
・・・など
伊都国が漢の役人の国名で、良い意味の漢字が使われています(お隣は奴国)
万里 は、秦の始皇帝が造った万里の長城
始皇帝から大船団を準備してもらい黄海を渡ってきた徐福
松浦半島にたどり着いたのであれば、西側の伊万里湾に入港して住み着いた。
伊万里から金立(佐賀市)にかけて徐福伝説が多数あります。
魏志倭人伝にも、巴利国(はりこく) の国名が・・・

末盧国(唐津市)まで10~20km伊万里市
古代より大陸との交易で栄えた地域ではないでしょうか。
伊万里市のホームページを参考に古代の伊万里を探してみます。

魏志倭人伝の末盧国

2019-01-13 14:40:39 | 歴史
ふと思った疑問です。
魏志倭人伝に紹介される 末盧国
朝鮮半島の狗邪韓国から出航、壱岐対馬(対馬国、一支国)を経由して最初の上陸地
現在の松浦半島で間違いないと思います。
次は、糸島半島の伊都国、博多湾の奴国と繋がります。
疑問
・松浦半島の末盧国までは水路
・末盧国に船をおいて、陸路で伊都国、奴国へ
松浦半島から船で糸島半島を迂回して博多湾の航路が早いし便利なはず。
何故、陸路に変更したのか?
考えられる理由
・末盧国は唐津湾内部の浜辺
 古代の木造船ですので小さく沢山の船に分かれています。
 長期間停泊させるには、浜に上げていたはずです。
 松浦半島の岸壁が多い地域では無理です。
 松浦川が流れ込む唐津あたりが末盧国だったでしょう。
・唐津から糸島半島の伊都国は陸路が近かった。
 一度、湾内に停泊、再度、糸島半島を迂回する航路より
 陸路の方が伊都国、奴国へは近い(早い)
・末盧国は、陸路が集まる最終地点であった。
 東方向は、伊都国、奴国
 南方向には、邪馬台国など
 西方向には、長崎方面の国々から陸路を通じて貨物集まる拠点
・邪馬台国に至るまでに、伊都国、奴国は経由しない。
 松浦川を上流へ、背振山などを超えて、現在の多久市、佐賀市方面へ進むと
 邪馬台国がある。
朝鮮半島の帯方群から邪馬台国まで1万2千里
末盧国まで、既に1万里です。
邪馬台国は末盧国(唐津)から南へ山越え陸路で、残り2千里
末盧国~伊都国が500里ですので
邪馬台国は佐賀市を更に南へ進んだ有明海の国になります。


魏(三国志)の時代 と倭国

2019-01-12 20:12:16 | 歴史
最初の投稿から
やっと「魏志倭人伝」の卑弥呼の時代です。
238年に卑弥呼が朝貢して「親魏倭王」金印をもらう。
南にある狗奴国と戦争になり
応援に張政らが派遣されるが卑弥呼は既に亡くなっていた。
男王が立つが国が乱れて、結局は卑弥呼の宗女 台与(13歳)女王になりまとまる。
倭国の役人、大陸の役人の名前などまで詳しく書かれています。

しかし、以前(100~200年)になると意外と曖昧です。
狗邪韓国から奴国、不弥国までの7国
非常に詳しい。

名前だけが21国(奴国が出てくるので20国かも)
投馬国が南へ水行二十日で五万戸
邪馬台国が南へ水行十日陸行一月で七万戸
更に南に狗奴国(女王に属せず)
狗奴国を入れて31国 或いは30国
周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかり
女王国の東(方)に千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。
曖昧になりますが
「後漢書」などと比較すると
かなり詳しく詳しいです。
この時代(魏の時代)の倭国は
・九州説の場合
 佐賀、福岡~熊本、大分、宮崎など九州北部
・近畿説の場合
 九州から近畿までの西日本
になります。
卑弥呼が支配する地域が倭国(周旋5千余里)で
・狗奴国
・東へ海を渡った国
は倭人が住む国になります。
更に南にある
葉黒国
裸国は倭人ではない様です。

一方、大陸の役人が出入りしたのは
伊都国まで(或いは奴国、不弥国)までで
残りは倭人から聞いた話
張政らが初めて邪馬台国までたどり着いたことになります。
張政らは後に帰国したことになっていますが
ならば
・後の倭国の事(台与の国)などもっと詳しく書き残してほしかった。
ひょっとしたら
・実際は誰も帰国していない。
・帰国しても事実は語らなかった。
大陸が乱れて、朝鮮半島の高句麗が力を付けた時代です。
空白の4世紀の後は
朝鮮半島の史記
飛鳥時代の古墳などに倭国の歴史が感じられるようになります。
漢字が伝わり、倭 という漢字が国名にふさわしくない
漢字を 大和 と変更します。

漢の時代と倭国

2019-01-12 16:23:47 | 歴史
先の投稿から三話目です。
漢の時代 有名な「漢委奴国王」の金印の発見です。
後に作成されますが「後漢書」

『後漢書』「東夷傳」

安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。

建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。
倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす 。
・年代がはっきりしている。
・実際に金印が発見されている(国宝です)
事実で間違いないでしょう。

少し前の時代を紹介している『漢書』には
楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
地理的には、朝鮮半島の南に倭国があります。

倭奴国 は 倭国の極南界なり ですので
倭奴国が博多湾の奴国であれば
この時代までは、朝鮮半島南端から玄界灘の九州北部が倭国です。
倭国王帥升(初めて国王の名前が登場します)は九州北部の地域の権力者です。
百余国も大げさで「沢山ありすぎて把握できない」でしょう。

まだまだ
日本列島の事は知られていない時代です。

秦の始皇帝 と 倭国

2019-01-12 14:26:44 | 歴史
前投稿の続きです。
大陸を武力で統一した 最初の皇帝 秦の始皇帝
一代で終わりますので、年代も紀元前259年 - 紀元前210年 とわかりやすいです。
始皇帝と倭国の関係は
秦の始皇帝と徐福 に登場します。
「海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛洲といい、仙人がこれに居る。・・・」
徐福曰く「船で東へ行くと仙人が住んでいて不老不死の薬があるので取ってきます。」
二度出航していますが、最初の航海では薬草を見つけることが出来ませんでした。
徐福は更に「大海には魔物がいます。もっと大きな船団が必要です。」
始皇帝に大きな船を沢山準備させ出航
そして戻ってきませんでした。
日本では、大陸文化が伝わる弥生時代に始まりあでう。
三千人を超す大群で日本に上陸したのですから、その影響は大変大きかったでしょう。
しかし、徐福は
黄河下流を出航して、海を東へ渡ると 倭国 があるとは紹介していません。
不老不死の仙人が住み、不老不死の薬草がある・・・
徐福は、朝鮮半島の南に 倭国がある事を知っていたでしょうが
始皇帝には、途中には魔物がいる。その先に神秘の島があると別の国として紹介したのです。
朝鮮半島の南にある倭国と
徐福が目指した仙人の島は違うと説明したのでしょうか。

大陸から人が移住した弥生時代ですが
当時の日本の事は、大陸には伝わっていない様です。
まだまだ、神秘の国存在の様です。

大陸が名付けた 倭(始まり)

2019-01-12 13:34:33 | 歴史
古くは大陸は日本の事を 倭 という漢字を使って ワ と読んでいたようです。
では、いつ位から 倭 と呼ばれていたのか?
多くの人は、「漢委奴国王」の金印の時代 漢?
と思っている人が多いのでは・・・
ちょっと、調べてみました。
大陸の史記 『論衡』(ろんこう) が最初の登場の様です。
・周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
・成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
・周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。
 白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
成王は、周朝の第2代の王で前1042年 - 前1021年
倭人は暢草と云う薬草を周や越の王に渡しているようです。
紀元前1000年もの昔
今の七草がゆの様なご飯と野菜類を一緒にして雑炊にしていたのでしょうか。
そして、倭人と名乗る薬草売りの一族がいたようです。

次に有名なのが「山海経」大陸の国々を紹介してる書
 蓋国 在鉅燕南倭北 倭属燕
 「蓋(ケイ)国は鉅燕(きょエン)の南、倭の北に在り、倭は燕に属す。」
鉅燕は中国の北部(紀元前11世紀頃~紀元前220年)
蓋国は後の韓(朝鮮半島)
北から順に 燕、蓋国、倭国 です。

倭国の場所が推定できます。
日本列島(多分、九州北部)の様です。
当時、日本は縄文時代です。
・大陸に暢草と云う薬草を運び交易できたのか。
・暢草とは、どんな植物なのか。
 植物の葉の部分であれば、枯れてしまうので大陸まで運べない。
 ウコンや朝鮮人参の様な物を一度干して、お湯で戻して食べる。
 そんな保存方法が既にあったのでしょうか。
どうも、『論衡』に登場する倭人 と 『山海経』に紹介される倭国
同じではないようです。
共に、よくわからない人種、国 を倭と呼んだのかもしれません。
日本語の五十音でも ワ は一番最後(もう一つ ン がありますが)
さすがに ン と読む当て字の漢字が見つからないので
ワ(倭)を使ったかもしれません。