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古代日本の歴史を謎解き

パソコンが故障して、パスワードが分からず
旧ブログから引っ越しです。

「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」⓸

2021-01-03 19:26:47 | 歴史
最初に
帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
を疑ってみましょう。
後漢の時代に、倭国王へ「漢委奴国王」金印を贈っていますし
倭国王と名乗る帥升等が百六十人の捕虜を献じ、参内し天子にお目にかかることを願い出た。
伊都国に一大率をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
後漢の役人が伊都国まで来ているので
伊都国、奴国、不弥国までの距離、道程は正しく把握していたでしょう。

投馬国、邪馬台国、つまびらかに出来ない国々の情報は
当時の倭人からの情報です。
残念ながら当時の 里 と云う距離の単位を知りません。
距離は日数で伝えたでしょう。
「女王国からここまで〇〇日かかりました。」みたいにです。
この情報を伝えたのは
度々、女王の命令で帯方郡を訪れている難升米・(都市)牛利らでしょう。
難升米らは
邪馬台国から帯方郡までは 南へ水行十日、陸行一月
投馬国 から帯方郡までは 南へ水行二十日
水行十日、陸行一月は
帯方郡から末盧国まで水行1万里(10日)
末盧国から邪馬台国まで陸行27日(国々を回って27番目に邪馬台国)
1万2千里も末盧国から最短コースで2千里です。
周旋するこ と五千余里も
対馬国~一支国~末盧国 で既に2千里ですの
末盧国から邪馬台国まで27国を経由して3千里です。

投馬国も帯方郡から水行だけで20日かかる地域です。
こちらは末盧国経由ではないです。
末盧国で一度船を降りて陸路で博多湾の伊都国、奴国ですので
朝鮮半島から伊都国を経由せずに
直接、倭国へたどり着くもう一つの航路が存在したはずです。
朝鮮半島から
・関門海峡経由、日向
・隠岐の島経由、出雲のどちらかでしょう。
投馬国(ズマ国)と出雲(イズモ)の発音も似ています。
日本神話で、天照と素戔嗚が兄弟(?)で喧嘩もありますが
国譲りで一つにまとまっています。
弥生時代の出来事が平安時代まで神話として残っていたのでしょうか。

卑弥呼の元へ訪れた大陸の役人 張政らがいます。
帰国したのは266年ですので、卑弥呼の死の原因なども伝わっていたはずです。
立派な卑弥呼の墓や葬儀の状況等の情報はきちんと伝わっています。
卑弥呼の死は、卑弥呼の名誉を傷つけるような悪い情報だったのかもしれません。
如何でしょうか、
これでだいぶすっきりしませんか。

「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」⓷

2021-01-03 17:55:02 | 歴史
「魏志倭人伝」をどの様に理解しようとも
不弥国の後の
投馬国 まで 南へ水行二十日
邪馬台国まで 南へ水行十日、陸行一月

帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里
周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかり
と矛盾します。つじつまが合いません。
帯方郡から末盧国まで水行1万里(多分、水行10日)
投馬国から東周り、西回りでも、更に水行20日も南へ進めば
鹿児島を通り越しますし
水行10日=1万里で計算すると
水行20日=2万里で、1万2千里をはるかにオーバーします。
邪馬台国まで更に、水行10日陸行30日ですので
めぐりまわっても五千余里の範囲に入りません。
末盧国まで水行1万里なので、邪馬台国まで南へ最短コースで2千里
唐津辺りから背振山(多久辺り)を経由して有明海湾岸を南へのコース

周旋五千余里は一番北の対馬国から末盧国を経由して
諸国(27国)を回り、遠回りで邪馬台国まで5千里でしょう。
対馬国~一支国~末盧国まで2千里ですので末盧国から残り3千里
唐津辺りから一度、博多の方へ移動して
廿日市、久留米を経由して有明海を南へのコース
邪馬台国が有明海側の佐賀、福岡、熊本辺りで都合よく一致します。
邪馬台国近畿説は成立しません。

しかし、陳寿の元に
投馬国 まで 南へ水行二十日
邪馬台国まで 南へ水行十日、陸行一月
の情報があった事も事実でしょう。

或いは
邪馬台国まで1万2千里の情報
周旋するこ と五千余里ばかりの情報が
間違っていたのでしょうか?

「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」⓶

2021-01-03 15:38:25 | 歴史
「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」の類似点、相違点
倭国の国名と道程については「魏志倭人伝」が詳しく紹介しています。
後漢書では
●使駅、漢に通ずるは三十許国
●その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里
●楽浪郡境はその国を去ること万二千里
魏志倭人伝では
帯方郡から七千余里にして、はじめて一海をわたり
千余里で対馬国にいたる。
 帯方郡から狗邪韓国まで7千里でまりがいない様です。
帯方郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
 こちらもほぼ同じです。
狗邪韓国~対馬国~一支国~末盧国 と玄界灘を船で1日づつ
ここまで3千里、帯方郡から末盧国まで1万里ですので
女王国まで残り2千里です。
末盧国~伊都国~奴国~不弥国 は陸行100里です。
玄界灘側の国でしょう。(方向が東南と若干の食い違いがあります。)
そして、不可解な二行
投馬国
南へ水行二十日
邪馬台国
南へ水行十日、陸行一月

邪馬台国の
北側につまびらかにしようとしてもできない20の国々
南側に女王に属さない狗奴国
更に
倭国を周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかり
投馬国  南へ水行二十日
邪馬台国 南へ水行十日、陸行一月
が無ければすべてのつじつまが合うのですが
陳寿が、この様なつじつまの合わない事を記述している事になります。
范曄に至っては、これらの記載がありません。
更に大きな違いは
後漢書
●女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず

魏志倭人伝
●女王国の南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず
●女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種

倭国大乱後で国が30国にまとまった時代ですので
後漢の時代と重なります。
後漢書の著者 范曄 が陳寿の魏志倭人伝を参考にしたため
同じような記載が登場すると考える人が多いようですが
元々、後漢の時代の書物が点在して有名であった。
范曄も陳寿もそれを参考にした。
范曄が魏志倭人伝を見ることは無かった。

卑弥呼の敵国 狗奴国は、どちらでも女王国に属していません。
東に海を渡ること千余里     だったのか
南に狗奴国あり、男子が王となる だったのか
狗奴国との争いで応援を送る程、魏と親しくしています。
「魏志倭人伝」を信じるべきです。
海を隔てて東の国も卑弥呼には属していない国がありました。
但し海を隔てているので争いに発展することは無かったのでしょう。

「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」①

2021-01-03 13:58:29 | 歴史
新年明けましておめでとうございます。
弥生時代を知る手掛かり「魏志倭人伝」と「後漢書東夷伝」を簡単に紹介したいと思います。
范曄著『後漢書』の成立は432年以降と後漢滅亡から200年以上が経っている。
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末に書かれた。
歴史的には後漢の時代(25年 - 220年)、魏の時代(220年 - 265年))と
後漢書の時代が先ですが、後漢書が完成したのは大分後の時代です。
それぞれに「魏志倭人伝」「後漢書東夷伝」の章があり倭国の事を紹介しています。
しかし、多くの部分でそっくりの部分があり、お互いが引用した事は間違いないです。

後漢書東夷伝にしか記載されていない内容
紀元57年、倭の奴国が、貢物を持って後漢へやってきた。
使者は自らを大夫と称した。
奴国は倭の南方に位置し、
光武帝は使者に奴国に官職を与えるための印鑑を授けた。
これが「委奴国王印」で福岡の志賀島で発見される。
107年、倭の国王である帥升たちが、
160人を献上して、安帝と会うこと願った。

霊帝の在位期間(147〜189年)
倭国は大いに乱れ、国々が戦いあって、国を治める者がいなかった。
最後は
一女子がいて、名は卑弥呼という。
高齢だったが、独身で、鬼神道につかえ人々を惑わし操った。
各国は共同して卑弥呼を立て王と為した。
と、徐福伝説を紹介しています。

魏志倭人伝にしか記載されていない内容
帯方郡から倭国までの道程と30国の国名
238年 倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。 「親魏倭王」卑弥呼に制詔する
汝の大夫難升米・次使都市牛利をおくり
汝が献ずるところ の男生口男四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。
五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹などを
難升米・牛利にことづけしてある。
240年帯方郡の太守の弓遵は、建中校尉の梯儁などをつかわし、
詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。
倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、
あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。
倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。
243年倭王は、また使の大夫の伊声耆・掖邪狗など八人をつかわし
生口・倭錦などを上献した。
245年詔して倭の難升米に黄幢をたまわり、帯方郡にことづけして仮授せしめた。
247年帯方郡の太守王が、魏国の官 庁に到着した(そして、以下のことを報告した)。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。
倭国では、載斯・烏越などを帯方郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。
郡は塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。
卑弥呼はすでに死んだ。
あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。
こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺しあった。
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女の壱与(台与)なるもの、年十三をたてて王とした。
国中はついに定まった。
壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人をつかわし、張政らの帰還をおくらせた。

後漢書では、卑弥呼が女王になった(180~190年位 不明)
で終わり
魏志倭人伝は
238年の卑弥呼の朝貢から詳しく紹介しています。

107年の帥升たち朝貢しているが皇帝にはあえていない。
以後、倭国大乱になる
190年頃、卑弥呼が女王になるが、後漢へ朝貢はおこなっていない。
238年(50年位後)に魏国へ朝貢を行っている。
約130年ほど大陸の皇帝との交易がありません。
護国の力も弱体化してる。
倭国も大乱であった。
等の理由が考えられます。

卑弥呼の死の原因(おまけ)

2020-12-19 17:33:59 | 歴史
更に前の投稿の続きです。
魏志倭人伝の最後は、卑弥呼の死後を
あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。
こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺しあった。
倭人たちはまた卑弥呼の宗女の壱与(台与)なるもの
年十三をたてて王とした。
国中はついに定まった。
張政らは、檄をもって壱与を告諭した。

壱与(台与)は倭の大夫の率善中郎将掖邪狗ら二十人をつかわし
張政らの帰還をおくらせた。
と締めくくっています。
13歳ですので・・・
仮に卑弥呼の死後249~250年頃の出来事として
卑弥呼が「親魏倭王」の称号をもらった238年頃の生まれになります。
4~5歳くらいで身の回りの出来事がわかるようになったとして
・卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼との争い
・卑弥呼死後の出来事
を記憶している年齢でしょうか
最後の卑弥呼と近い年齢の宗女はいなかったのでしょうか?
何故、卑弥呼の後継者にふさわしい 巫女 の名前を引き継がなかったのか。
卑弥呼は生涯独身とされていますが、最後の卑弥呼は結婚していた?
10代で壱与(台与)を238年頃主産していた?
妊婦が政治の頂点で大仕事をするとも考えにくいので
最後の卑弥呼とは血縁関係のない別の女性の子供かもしれません。
卑弥呼に近い人物の子供であった事は間違いないでしょう。
帰国していた難升米、張政ら
卑弥呼の死後は
卑弥呼反対派と卑弥呼信仰派の争いが残っていた。
帰国していた難升米、張政らが仲裁に入り
国を二つに分けて、お互いに争わない約束をすることで
平和になった。
そのひとつが、壱与(台与)の国
もう一つは、後の時代の筑紫ではないでしょうか。
もちろん、卑弥呼の宗女は他にもいるので
幾つかの国へ嫁入りしたでしょうし
王家へ嫁入りできなくても召使として連れ添った人もいたでしょう。
但し、男性側には容赦なかったかもしれません。
魏志倭人伝に壱与(台与)のみが登場するのは
張政らが共にしたのが壱与(台与)だったので女王として大陸で紹介された。
当時の卑弥呼の宮殿となった環濠集落も無くなったはずです。
卑弥呼が持っていたはずの鏡や金印も
割られた、つぶされた、溶かされたなどして無くなってしまった。
或いは、卑弥呼の墓に一緒に埋められたかもしれません。

こうして倭国は一つにまとまることなく古墳時代を迎えます。
後の「古事記」の上巻にある日本神話では
九州は 筑紫、豊(トヨ)、日向、熊襲(狗奴国)の四つがある。
天孫降臨が高千穂、神武東征出発が日向で豊国、筑紫に寄って
瀬戸内海を経由して近畿へ
天皇家の祖先が天照大神(女性)と云う流れに伝承された。
卑弥呼の宗女の子孫が後の大和朝廷を建国したと考えています。

卑弥呼が亡くなった時代

2020-12-19 15:04:06 | 歴史
前の投稿「卑弥呼複数説」の続きです。
238年 卑弥呼は魏国へ貢物を贈り
大陸から「親魏倭王」と倭国王の称号を受けます。
魏国からの称号に不満を持つ人も多かったでしょう。
その一人が狗奴国の卑弥弓呼かもしれません。
狗奴国との対立が激しくなっています。
卑弥呼の味方であった魏国へ応援を求める形で
247年には、更に貢物を贈って応援を依頼しています。
狗奴国との対立も激化していて
卑弥呼側も苦戦した様子が伺えます。
卑弥呼は自分が亡くなるなどは考えていません。
徹底抗戦の構えです。
しかし、難升米が戻ってくると「卑弥呼以て死す」
卑弥呼は既に亡くなっていて、大きな墓が作られ
既に埋葬が終わっています。
卑弥呼が亡くなった後に、直径100歩もある大きな墓を作り
難升米の帰国に間に合わせることが出来るでしょうか。
「歴代卑弥呼らの墓があり、そこへ埋葬され葬儀を行った」と考えます。
徇葬者のは百余人は
・卑弥呼の為に生き埋めにされた100人なのか
・倭国が作り上げた作り話なのか
・或いは卑弥呼のそばで働いていた人々も無くなり一緒に埋葬されたのか
卑弥呼が年齢による自然死ではない事は間違いないでしょう。
「卑弥呼(巫女)複数説」で考えると次代の卑弥呼を指定したはずです。
卑弥呼(巫女)による政治を止めた事は間違いないです。
あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。
とありますので
卑弥呼反対派の男王もいたはずです。
男王の名前が記載されていませんので
狗奴国の卑弥弓呼ではないはずです。
卑弥呼が狗奴国の兵士に殺害されて、倭国の権力をてにしたのが
狗奴国の卑弥弓呼ではない様です。

邪馬台国連合側の国王でしょう。
卑弥呼の死は
・邪馬台国連合の不和による処罰説
倭国連合崩壊、内部分裂が有力だと考えています。

帰国した難升米らに味方する人も少なかったでしょう。
難升米の名前も登場しなくなります。
卑弥呼の祈祷と大陸からの「親魏倭王」の称号が全く無力になったはずです。
金印や鏡も処分された(燃やされた、溶かされた。)或いは
卑弥呼の墓に埋葬された。
いずれかでしょう。
190年頃から60年ほど続いた卑弥呼(巫女)の祈祷と大陸崇拝の歴史が
幕を閉じだというのが「卑弥呼の死」です。
ちょうど同じ時代に弥生時代の文化
・環濠集落
・銅鐸、銅矛信仰
が無くなり
各地の豪族による古墳時代の幕開けとなります。

卑弥呼の年齢

2020-12-19 14:06:27 | 歴史
前投稿の「卑弥呼の死の原因?」から続きです。
卑弥呼の年齢は?
魏志倭人伝では
もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。
名づけて卑弥呼という。

女王になった年代は定かでありません。
魏の時代ではなく、漢の時代だからです。
その為。魏志倭人伝の多くは「後漢書」を参考にしています。
「後漢書」の記載と当時の漢王の年代と比較して
卑弥呼が女王になったのは、190年頃と推察されています。
そして
・鬼道につかえ、よく衆をまどわす。
・年はすでに長大であるが、夫壻はない。
・男弟があって、たすけて国を治めている。
男弟がいて既に高齢であったようです。
当時の寿命は40歳程度で、10代で結婚していたでしょうから
卑弥呼が20代で老けて見えた。
或いは、既に40歳ほどであった。
でしょう。

239年(或いは239年)
倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。
「親魏倭王卑弥呼に制詔(みことのり)する。
魏国の資料が元になっているので間違いは無いと思います。
卑弥呼が女王になって、既に40年後
卑弥呼の年齢は60~80歳
245年
倭の難升米に黄幢をたまわり、帯方郡にことづけして仮授せしめた。
247年
張政らが倭国に向かい出発
到着すると「卑弥呼以死」
更に、10年ほど経過して卑弥呼の死が確認された。
このままの計算では
卑弥呼が亡くなった時の年齢は 70~90歳??
当時の寿命を考えると、とても不思議です。
また、卑弥呼の政治を助けていた男弟の存在が無くなり
難升米らなど倭国の役人と思われる人が登場します。
考えられる事は
卑弥呼は一人ではない(卑弥呼複数説)です。
卑弥呼は一人の女性の名前ではなく
現在では云えば、巫女の様な祈祷の役職を務めていた役職名です。
初代卑弥呼は、祈祷(占い)によって国同士争いをなくした。
238年の魏国への朝貢を行い、「親魏倭王」の金印を贈られる時代には
数代目の卑弥呼になっていて、卑弥呼を助ける役人も多数いた。
卑弥呼の権力が頂点に達していた時代ではないでしょうか。
この事が南側にある狗奴国との対立を深めた原因かもしれません。
魏国から100枚の鏡を贈られていますの祈祷の方法も変わったかもしれません。
最後の卑弥呼の時代に、祈祷(占い)による政治判断に終止符が打たれて
女王「卑弥呼(巫女)」信仰による国づくりを止めた。
そのため、複数の男王が立ち国が乱れたのでしょう。

卑弥呼の死の原因は?

2020-12-19 12:51:37 | 歴史
卑弥呼については大陸の歴史書魏志倭人伝」に頼るしかありません。
卑弥呼の死について

247年 帯方郡の太守王が魏国の 庁に到着した。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、まえまえから不和であった。
倭国では、載斯・烏越などを帯方郡にいたり、たがいに攻撃する状況を説明した。
郡は塞の曹掾史の張政らをつかわした。
使者たちは詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、檄(ふれぶみ)をつくって、
攻めあうことのないよう告諭した。

しかし、使者張政らが到着すると
「卑彌呼以死」
卑弥呼はすでに死んだ。
大いに冢つかをつくった。径は百余歩・徇葬者のは百余人であった。
卑彌呼以死 の解釈は色々とある様ですが
死に至った原因は記載されていません。
張政らが卑弥呼の死に間に合わなかったことは事実の様ですが
葬儀の様子まで詳しく紹介されているのに
卑弥呼がどうやって亡くなったのか記載されていないのが不思議です。

その為
・年齢による自然死説
・邪馬台国連合の不和による処罰説
・狗奴国部隊による殺害説
などがあります。

「魏志倭人伝」を読んでも幾つかの疑問もあります。
大陸が嘘を記載する必要もありませんので
・倭国の情報が間違っていた。
・倭国が嘘を伝えていた。
・情報が間違って伝わった。
と考えるべきでしょう。
「魏志倭人伝」の疑問を考えながら
卑弥呼の死の原因を考えてみます。

邪馬台国 近畿説と九州説

2020-12-06 15:15:02 | 歴史
邪馬台国 近畿説
弥生時代に近畿は ヤマト国と呼ばれる連合国であった。
魏志倭人伝の倭国は 九州北部から近畿までの西日本の地域
ヤマト国は漢字で邪馬台国と記載された。
日本神話の神武東征は弥生時代初期、中期の実話
弥生時代後期には山陽の国々(安芸、吉備)と
ヤマト国は連合していた。
倭国大乱は九州北部の国々の対立で
ヤマト国の卑弥呼を女王とする事で
九州北部から山陽~近畿までの連合国が出来上がった。
次の女王 大陸の使者 張政らが台与に進めた国づくりは
大陸の皇帝の様に 男王と頂点とする国づくりに変わった。
古墳時代に出雲とも連合し、大和朝廷と発展した。

邪馬台国 九州説
いやいや、魏志倭人伝では
邪馬台国まで 1万2千里、九州の伊都国、奴国まで既に1万里以上
残り1千里では近畿までは考えられない。
方向も伊都国、奴国の南でその南に狗奴国
魏志倭人伝で南を東と間違っていたと考えると
狗奴国は奈良の東、三重(伊勢)と言う事になる。

魏志倭人伝の倭国は九州北部から中部まで
倭国大乱で代表となった卑弥呼は
有明海側にあった邪馬台国の祈祷師
卑弥呼の死後、玄界灘側、有明海側は筑紫の国に発展
張政らは台与を連れて大分(豊国)の王と結婚させた
後に、宮崎(日向)とも連合体となった。
古墳時代に台与の子孫が神武東征を行った。
大分(宇佐)、山陽(安芸、吉備)と連合しながら
近畿の国々と対立するも、比較的発展していなかった
奈良の山奥(宇陀)で国づくりに初めた。
ここまでが、神武東征の神話であり、実際の歴史である。
国名をヤマト(邪馬台)と呼び、漢字では倭を使った。
古墳時代末期には、山陽の安芸、吉備とも連合し
最後は出雲も連合に加わり、九州の筑紫との二大連合となった。
出雲の国譲りも実話が元になっている。
400年代中ごろに朝鮮半島支配に兵を送り込んだ「倭の五王」
こちらも、筑紫或いは出雲の王ではないか。
527年の筑紫磐井 VS 継体天皇の筑紫磐井の乱
「古事記」「日本書紀」の記載と年代が一致するのは
継体天皇以降です。
初代神武天皇即位を紀元前600年に設定したために
結構、大勢の架空の天皇を追加しています。
神功皇后や日本武尊など神がかり的な能力を発揮する天皇もいます。
初代 神武天皇~9代開化天皇
10代崇神天皇~日本武尊~14代仲哀天皇(后 神功皇后)
15代応神天皇~25代武烈天皇
継体天皇の血統が本家で
本来であれば分家の話
この神という漢字を付けた天皇で三つのストーリーに
分けられる。
台与の子孫が張政らの考えた国造りの考えを引き継ぎ
古墳時代(多分4世紀ごろ)九州を離れて
新しく近畿でヤマト国を作り始め
後の大和朝廷へ発展
と考える。

魏志倭人伝の邪馬台国が大和朝廷へ発展した
というか仮定にしています。
もちろん
邪馬台国と大和朝廷は全く関係ないと云う考え方もあります。
しかし、九州の地名と近畿の地名が似ている事実があります。
大分の宇佐 があり、近畿の最初の国が宇陀
たまたまでしょうか。
魏志倭人伝の邪馬台国だけでなく
卑弥呼の時代(3世紀中ごろ)から継体天皇(6世紀初め)までの
250年位の歴史も一緒に考えてみて如何でしょうか。

日本神話ストーリーの矛盾

2020-11-30 17:47:18 | 歴史
神話ですので、現実を知る私たちから見れば信じられない事ばかりです。
年代設定や年齢が異常に長い、仙人でしかない。
八岐大蛇の様な化け物登場など
大和朝廷のご先祖様が素晴らしかったことを誇張する為に
色々な話が盛り込まれたのでしょう。
しかし、天皇家の正当性を主張する為の「古事記」「日本書紀」です。
何故?と思われるストーリーの部分です。
・天皇家の祖が 女性 天照大神から始まる。
 歴代天皇は男性の子孫です。
 三貴神 天照大神、素戔嗚、月読 ですが
 天上界の高天原に残るのは男性の方が良くないですか。
・追放された素戔嗚が出雲で再度活躍する。
 最後は国譲りの話となり、ちょっと見苦しい。
 天孫降臨した神様が次々と国を作った方がふさわしい。
・天孫降臨の土地が九州の高千穂
 近畿の山に降臨して周囲の国々を従えてくストーリの方が良い
・神武東征の必要性
 天皇家の祖先は九州生まれ、近畿に上陸するも古銭の連続
 二人の兄を失う。
・八俣のオロチの尻尾から出てきた草薙の剣
 ライバル国を滅ぼし奪った剣が国の宝になっている。
・海幸彦・山幸彦は九州、素戔嗚の活躍は出雲
 近畿以外の地域が日本神話
 もちろん、東海や関東が神話の舞台になる事はありません。
大和朝廷が栄える以前は九州と出雲の方が栄えていた時代背景の物語です。
古墳時代、飛鳥時代の伝承が西日本全域で知られていたのでしょう。
或いは、神武東征が事実であったのかもしれません。
もし、邪馬台国近畿説で邪馬台国が後の大和朝廷であるなら
神武東征は卑弥呼より以前、弥生時代中期以前の出来事になります。

天照大神は卑弥呼 或いは 台与など邪馬台国の宗女で
後に結婚して新しい国を九州の起こしヤマト国名乗る。
古墳時代に九州を離れて近畿で復興する。
この言い伝えに色々な話を盛り込んだと考える方がすっきりするのですが
如何でしょうか。
ちょうど、卑弥呼の死後、3世紀後半に近畿で鉄製品の出土が見受けられます。
台与らが九州から近畿へ移住する際に鉄製品を持ち込んだのではないでしょうか。
青銅製から進化した鉄の剣
卑弥呼の祈祷に使った鏡
先祖代々、大切にしていた勾玉
この三つが揃う条件が出来ます。
それ以外では
近畿のヤマト朝廷が手に入れた、或いは当時の職人に作らせた
・立派な剣
・大きな鏡
・きれいな勾玉
かもしれませんが
何故のこの三つと云う疑問は残ります。
その由来は、卑弥呼や台与の登場を考えると腑に落ちます。