宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

無事是貴人(臨済録)

2006-10-17 23:37:27 | 禅語
無事是貴人(臨済録)ぶじこれきにん

『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語
が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安
泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走(しわす)とい
われるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事
に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、
平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありま
せん。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人
とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、
安心であり、道の完成を意味します。
 私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違(たが)わぬ純粋
な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあり
ます。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になる
ことであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に
求めてウロウロするのが現実です。
 「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と、臨済
禅師は喝破(かっぱ)します。求める心があるうちは無事ではありません。
「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事で
あるのです。その無事が、そのまま貴人です。
 「但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(な)かれ、祇(た)だ是れ平常(びょう
じょう)なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずか
しい」の反対語に「造作(ぞうさ)なく」という言葉があります。当然のこと
を造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる
境界(きょうがい)に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがまま
に、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」と
いうべきです。
 今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千
利休の茶の師である武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に依頼されて花を活けま
す。あまりの見事さに感心した紹鴎は質(ただ)します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
 専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けまし
た」
 沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたい
とかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いている
だけです。
 専応も花活(い)けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹
鴎を感心させようと小細工を弄(ろう)するわけでもありません。造作なく、
すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一
本一本挿していっただけです。
 専応もまた、無事底の一人であるのです。


東風吹散梅梢雪 一夜挽回天下春(円機活法)

2006-10-17 23:36:05 | 禅語
東風吹散梅梢雪 一夜挽回天下春(円機活法)
とうふうふきさんず ばいしょうのゆき
いちやばんかいす てんかのはる

東風とは春風の事、即ち春一番の東風が吹きます。梅の梢に残っていた雪
を吹き払い、一夜にして春がやって来たというわけです。しかしこの句は、
ただ春を迎えた喜びを表現しただけではありません。冬の日々を修行時代
に、天下の春を悟りを得た喜びの消息に喩えるのです。雪と氷にとざされ
た厳しい修行の日々。しかし、時節因縁が来て、機が熟して来ます。春一
番の東風が吹けば、一斉に雪や氷がとけて、一輪の梅花が咲き、一夜のう
ちに春になります。煩悩、妄想が吹き払われて、明るい悟りの世界が開け
ます。この辺の消息を、「東風吹き散ず梅梢の雪、一夜挽回す天下の春」
と頌すのです。
 学問、芸道、武道、いずれの道でも春を迎えるには、それ相応の艱難辛
苦(かんなんしんく)が必要です。まして禅修行に於いては並大抵の努力
では成じる事は出来ません。
 近頃、中国の明末に?(しゅ)宏(こう)(一五三五~一六一五)という禅者
が選述した『禅関策進(ぜんかんさくしん)』という書物を読む機会を得ま
した。この書は古人が如何に修行したかを記したものです。二、三、紹介
します。
  「懸崖(けんがい)の樹(じゅ)に坐す」
 静琳(じょうりん)禅師は経論の講釈を止めて坐禅を修します。しかし坐
禅中にどうしても眠気がさして心が落ちつきません。寺の側に高い崖があ
り、下を望むと千仞(せんじん)の深さで途中に一本の木が突き出ています。
禅師はその木の上に草を敷き、その上で坐禅を組み、心を一つに集中して
一昼夜坐り通します。少しでも気を許せば千仞の谷に墜ちます。全身全霊、
坐禅に徹してついに悟りを得ます。
  「衣帯(えたい)を解かず」
 金光寺の昭(しょう)禅師は、十三歳で出家し、十九歳で洪陽山(こうよう
ざん)に入り、迦葉(かしょう)和尚の処に止(とど)まって修行する事三年、
衣の帯を解かず、寝るにも坐睡のみで、横になる事がありませんでした。
そして数年、豁然(かつねん)として悟りを開きます。
  「錐(きり)を引いて自ら刺す」
 慈明(じみょう)、谷泉(こくせん)、瑯(ろう)や*三人がグループを組ん
で修行しています。時は大寒で河東(かとう)地方は大変寒く、大勢の修行
者はフトンに潜り込みます。しかし、慈明和尚だけは、毎日毎日坐禅三昧
です。夜、遅くなって眠くなると錐を立てて自分の股を刺して眠気を払い
修行に励みます。その後大成して西河(さいが)の獅子とまで云われる大宗
師(だいしゅうし)になります。
 これは決して誇大妄想の話ではありません。私達は襟を正してこの話を
聞き、「東風吹き散ず梅梢の雪、一夜挽回す天下の春」の消息を得たいも
のです。

風吹不動天辺月 雪圧難摧澗底松(普灯録)

2006-10-17 23:34:32 | 禅語
風吹不動天辺月 雪圧難摧澗底松(普灯録)
かぜふけどもどうぜずてんぺんのつき
ゆきおせどもくだけがたしかんていのまつ

ひとたび、大風でも吹けば、地上の塵芥(じんかい)が飛び散り、草木は皆
揺れ動きます。空にたなびく雲といえども、たちまち形を変えて流れ去り
ます。しかし、天上に輝く月は、そんなもの「何処吹く風」とばかりに、
少しも動じるところなく悠々と照り輝いています。
 また、ひとたび大雪でも降れば、あたり一面の雑木はたちまちその重さ
に耐えかねて折れたり、潰されたりするものです。しかし、日頃雨に打た
れ風に吹かれた「澗底(かんてい)の松」、すなわち谷底に育った松は、雪
ぐらいではビクともしません。雪を撥ねのけ、依然として色鮮やかに緑を
保ち、松籟(しょうらい)を聞かせてくれます。
 「風ふけども動ぜず天辺の月、雪圧せども摧け難し澗底の松」。月と松
に喩(たと)えて、どんなことにも動じない確固たる信念、どんな困難に遭
遇しても挫(くじ)けない強い意志が大切だというわけです。
 科学評論家で駒沢大学の教授の丹羽小弥太先生には、かつて二十余年ほ
ど前、生物学の講義を受けたことがあります。小兵ながら精悍(せいかん)
な物腰で、ていねいな講義をされていたのが印象的でしたが、十四年前に
口腔底部ガンに侵され、あごの骨を切り取って、骨の代わりに針金を入れ、
体の他の部分の皮膚を移植して人工あごを作る大手術をし、長い闘病生活
の末に、教壇に復帰します。しかし、それでもガンの猛威は止むことなく、
至るところに転移し、入院、手術、退院の繰り返しです。その絶望と苦渋
の中で、病魔の正体を知りつくした一人の科学者として、自分自身を冷静
に見つめて、壮絶な闘病レポートを発表しています。

欠伸(あくび)せんに 顋(あきど)は痛し舌痛し 噛み殺しては涙するかな

すさまじいばかりの生きざまが偲ばれます。しかし、昭和五十八年九月二
十八日、ついに力尽きて亡くなります。三日後の朝日新聞「天声人語」に
追悼文が出ています。

――記録をつづると言ってもそれはかなりきつい仕事だ。ものを深く考え
続けると、たちまち顔の下半分にしこりができて耐え難い苦しさを味わう。
左肩の皮膚をはいだ跡がケロイドになり、左腕が十分にあがらない。右腕
との均衡がとれないからものを書くとすぐ疲れる。
 やせ細った体では座り続けるとしこりが痛み出す。流動食しかとれない
体はむりがきかない。悪条件の中でものを書くことは、自分の体を切り売
りするに等しいことだ。それでもなお書き続けたのは丹羽さんの中の「科
学者の目」のせいではなかったか。がんを宣告され、手術を受け、転移を
恐れながら生きる、そういう自分自身の心と体を見つめることで、科学者
として生きることの証左を示したかったのではないだろうか。
 丹羽先生の壮烈なまでの生きざま、科学者として最後まで戦い続けた先
生こそ、「風吹けども動ぜず天辺の月、雪圧せずとも摧け難し澗底の松」
の消息です。


楓葉経霜紅 ふうようはしもをへてくれないなり

2006-10-17 23:32:23 | 禅語
出典等は不詳ですが、暑い夏が終わり、秋が深まってくると茶席でよく見
かける句です。
 「楓葉は霜を経て紅なり」の句もその辺の消息を云おうとしています。
「楓」とはかえでの事、即ちもみじとも云います。楓の葉は骨に徹するほ
どの厳しい霜を経験して初めて真赤に紅葉し、そうでなければ美しい紅葉
は見られないというわけです。私達もこの楓葉のように人生の様々な苦労
を経験し、それを耐えしのぐ事によって初めて人間として成長すると云っ
ているのです。私達は何かというと安易な道を選ぼうとしますが、時には
求めて「霜」の厳しさも味わう必要があるのではないでしょうか。
苦難艱難を一つ一つ克服する事によって人生の深みも増し、何物にも負け
ない強い人間に成長するのではないでしょうか。
 井伊直弼は、文化12年(1815)に十一代彦根藩主の十四男として生ま
れますが、五歳で母を失い、十七歳で父と死別します。嫡子ではなかった
ので、井伊家の家風に従い、藩から三百俵の宛行(あてがい)扶持(ふち)を
支給され、城内を出て北屋敷に移り住みます。しばらくして大名の養子口
の話で異母弟と二人で江戸に出ますが、弟が選ばれ失意の内に帰彦します。
 そして自分の居室を「埋木舎(うもれぎのや)」と呼び閑居します。
その間、経済的にもかなり苦しかったようで、直弼はこの世の辛酸をつぶ
さになめることになります。しかし直弼はこのような境遇にあっても、
「ただうもれ木の籠(こも)り居て、なすべき(・・・・)業(わざ)をなさまし
とおもひ……」と決してひがむ事なく、なすべき業がありと積極的に学問、
修養に励みます。
 居合術では一派を創立するほどの腕前となり、茶道では片桐(かたぎり)
宗猿(そうえん)に就き石州流を確立し、『茶湯一会集』を著わします。ま
た、本居(もとおり)派の国学者
長野義言(よしとき)と共に、国学の研究に没頭します。しかし忘れてなら
ない事は、直弼のこの充実した精進の裏には、禅の修行があった事です。
「大徹底(だいてってい)の人はもと生死(しょうじ)を脱(だっ)す。何に依
(よ)ってか命根(みょうこん)不断(ふだん)なる―大悟徹底した人は生死を
超越する。どうして生死に執らわれない命を得る事が出来るか」
という仙英和尚の問いに、直弼は即座に、わたつ海の底にはふちも瀬もな
くて 水のみなかみ常にたえせずと答えます。
無根(むこん)水上の活飛龍(かつひりゅう)
雲を排し霧をひらいて九重(ここのえ)を出(い)づ
威気(いき)自然(じねん)畏(おそ)るる処(ところ)なし
霊幽(れいゆう)未(いま)だ窺(うかが)い窮(きわ)むることを許(ゆる)さず

 和尚は直弼を活(い)きて飛ぶ龍にたとえて讃嘆します。井伊直弼といえ
ば、「茶人」「剣人」「国学者」「大老」というイメージですが、禅道に
おいても深い悟境があったのです。
 苦節十八年、十二代藩主の死によって直弼はついに十三代の藩主となり
表舞台に出て来ます。長年の下積の生活で一般庶民の心情や生活がよく理
解出来たので藩政でも実績を上げる事が出来、それが認められて幕府の要
職に招かれ、ついに開国を断行し、日本の命運を開く事になるのです。思
えば埋木舎の不遇な時代の「苦闘」があったからこそ、後の「井伊直弼」
があったと云っても過言ではありません。直弼の一生、「楓葉は霜を経て
紅なり」の句と重なります。


主人公(無門関)

2006-10-17 23:30:53 | 禅語
『瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(お
うだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、他時異日、人の瞞(まん
)を受くること莫れ、」(『無門関』第十二則)

瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、ま
た自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましている
か」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」とい
って、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
 ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、
会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
 私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、
私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を
奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主
体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。
「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければなら
ない。
 盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。

主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在る
ということではござらんか。

 主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいる
ことをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、
力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、
どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、
心の中に何かがあるからです。
 心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自
分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈
迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公
になられたのですが、それが主体的な自己というものです。


百花春至為誰開(碧巌録)

2006-10-17 18:47:57 | 禅語
百花春至為誰開(碧巌録) ひゃっかはるいたって たがためにかひらく


『碧巌録(へきがんろく)』第五則 「雪峰尽大地(せっぽうじんだいち)」の公案の頌(じゅ)にある言葉です。
寒風吹きすさぶ冬の時節は、見渡す限り枯野原でも、ひとたび春風が吹けば、何処(どこ)からともなく次から次へと青い芽を出し、たちまち緑をつけて、一斉に花を咲かせます。 梅、桃、桜、牡丹(ぼたん)、五月(さつき)、つつじ等が、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)と咲き乱れます。花の便りに浮かれ出て酒宴を設け、放歌乱舞(ほうからんぶ)の乱痴気(らんちき)騒ぎの「花見」だけでは花に申し訳ありません。この百花の姿が私達に大切な事を教えているのです。
 
江戸の漢学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉にあります。

月を看(み)るは、清気(せいき)を観(み)るなり、円欠晴翳(えんけつはれかげ)の間(かん)に在(あ)らず。花を看るは、生意(せいい)を観るなり、紅紫香臭(こうしこうしゅう)の外に存す。(『言志四録』)
 月を観るのは清らかな気を観るのであって、月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、かげったりする形を観るのではない。花を看るのも、その生き生きとした花の心を観賞するのであって、紅や紫の色とか、香りのような外に現われた様子を観るのではない。

即ち花の生命(いのち)、心を学ぶべきだというのです。
「百花春至って誰が為にか開く」。花は一体、誰の為に咲くのでしょうか。誰の為でもありません。何の為でもありません。そこにはそういったはからいは微塵(みじん)もありません。自分の生命の赴(おもむ)くままに自分の全生命を無心に発揮して、天地一パイに「ただ、ただ」咲いているのです。
ただ咲いて、私達に生き方を教え、勇気づけ、慰め、そして楽しませてくれます。しかもその功を少しも誇る事もありません。なんとすばらしい事ではないでしょうか。
 
花といえば小島昭安(こじましょうあん)師が著作の中で心温まる話を紹介しています。

ある日、浅草のある幼稚園の前を通りかかった時、園舎の片すみにあるごみ捨て場に、園児(女児)が一人、枯れかかった花を持って、走ってきました。
で、何気なく見ていますと、その子は大きな声で、「花さん、どうもありがとう」と言って、ポイと捨てました。その行為に、ハッと胸をつかれた私は、その子を呼びとめて尋ねてみました。「いつもそういって、お花を捨てるの?」
 するとその子は、首を大きく、こっくりすると、こう言ったのです。「そうよ、お母さんはいつも、そうしてるのよ。だって花はきれいに咲いて、みんなを嬉(うれ)しくさせてくれたんだもの。だからお礼を言って捨てるの」 (総持寺出版部発行『心をたがやす』参照)

この子供も「花の生命」「花の心」のわかった子供です。否、「花誰が為に開く」のわかった子です。

禅語について4

2006-10-17 11:20:17 | 禅語
体露金風(たいろきんぷう)
体露とは全体の露顕、本体の露出ということで、宇宙大自然の現われであ
り、仏のご慈悲の現われである。金風とは、錦の彩りに染めて豊熟した黄
金の天地を創り出している秋風のこと。自然の風景を眺め、ただ物思いだ
けにふけるのではなく、自己を習わねばならぬ。?                  


月千古輝(つきせんこにかがやく)
何時の世も変る事なき明日の光が、くまなく燦々と降りそそぐ。悠々たる
秋の夜長の風情は、古来、東洋の詩歌の題材として君臨している。理屈か
ら抜け切り、この幽幻な風光に身心脱落、没入してほしい。          


月落碧潭(つきへきたんにおつ)
岸辺の松の枝より天空に悠々と輝く一輪の月の眺めには一点の乱れなく無
限の風趣が溢れている。              
淡々と水をたたえ、幽谷に横たわる静かな湖に映える天地万象の脈動にこ
そ無作無心、任運自在の境涯がある。


拈華微笑 (ねんげみしょう)
釈尊は八万の大衆を前にして、無言で一輪の花を示された。大衆沈黙の中
に、ただひとり、迦葉はその意を悟ってにっこりと微笑した。
これで釈尊の後継者は決まった。生きた仏法は、言葉を超え、教義を要せ
ぬ。正に阿吽の呼吸である。これ程単純で真実の道があろうか。ここに到
るにはさまざまの道があり、方法がある。しかし、ここに到れば以心伝心、
無心の心である。  


無常迅速(むじょうじんそく)
生死事大、無常迅速。 人の世の移り変りは常にはかなく変転してやまな
い。時は移りゆき、形あるものは必ず滅する。一切が無常であり生滅する
そのことわりを凝視して、ぼやぼやしていたらすぐに死ぬのだから、あた
ら無駄に過ごしてはならない。    


流泉為琴(りゅうせんをきんとなす)
岩もあり木の根もあれどさらさらと流れる水の流れは泉声と化し、清凉幽
寂を深める琴の曲となって浮世の塵に汚れがちな人の心を洗ってくれる。
古人は「白雲を蓋と作し流泉を琴と為す」妙趣に至人の境涯を窺えと歌っ
ている。


雨収山岳青 (あめおさまりてさんがくあおし)
降りしきる雨に視界をおおわれてしまうと、われわれの眼には何もはいっ
てこないが、一旦雨があがると、前方に夏の山がいつもの通り青くくっき
りと現れてくる。蒼々たる緑樹は輝かんばかりである。煩悩の雲霧を払っ
てしまえば、人々に円満具足する仏性も、おのずからその輝きを増してく
るであろう。

放下著(ほうげじゃく)
「放下」とは投げ捨てる、ほうり出す等の意味。何ものにも執着をもたず
一切をさっぱりと棄て去ることで「著」は動詞につける助辞。禅匠はこと
さらにおろかな物事へのこだわりを戒めている。捨てきる心こそ、一切が
生きかえる。全くの無一物に徹することは至難の業。            


一期一会(いちごいちえ)
茶道から出た人生の名訓。大茶人でもあった井伊直弼が茶道の奥義を書き
残した「茶湯一會集」の巻頭に説かれている。 一期は一生、一会は唯一、
今生の出会い、茶席で幾度同じ主客が会するとしても今日の茶会はただ一
度限りの茶会。なれば主客は全身全霊、誠心を傾けて取り組めと心を示した。


一念忘機(いちねんきをぼうず)
人間は感情の動物と言われる。喜怒哀楽だけにとどまればいいものが、自
我やら執着心が吹き出し、無心になることが極めて難しい。「機を忘ず」
とりもなおさず心を働かせず、無用な一切の計らいを捨て切る処に、何時
も晴れ晴れとした豊かな心の持ち主になれると、先哲は教えられた。 


帰家穏坐(きかおんざ)
わが家に帰ってゆっくりとあぐらをかいた時が一番だ。男は外に出ると多
くの敵に出会うという。充実した精一杯の仕事を終えて帰るわが家こそ、
心安らかな自由と安穏の世界がある。心のわが家、魂の憩うふるさとが一
人ひとりの家なのだ。    


光陰如箭(こういんやのごとし)
禅堂では時を告げる木板に「生死は大事なり。無常は迅速なり。光陰矢の
如し、時人を待たず」と書して修行者を戒める。時間ほど大きな働きを
するものはあるまい。一日二十四時間に使われず、使ってこそ無限に充実
する。             


諸行無常(しょぎょうむじょう)
激動し、変遷が続く現代にあって、釈尊の説かれた真理は、月の光にも似
た光芒を放つ。諸行無常、是生滅法(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり)
歓びと悲しみ、そして苦しみ、さまざまな出来事があった中で、限りない
いのちの歓びをたたえて、大晦日には、無常の響きを除夜の鐘が伝えてく
れる。


晴耕雨読(せいこううどく)
晴れた日には山を下り、百姓の牛の尻を追って農耕に従い、雨が降れば草
庵で仏祖の書をひもとき、静かに古教照心のひとときを送る。    
晴耕雨読の語は、濃州伊深の里で聖胎長養された頃の関山国師の日常を髣
髴させる。ある日突然勅使が下り、国師は召されて京に上ることになる。
知らぬとはいえ、そんな立派な国師に牛を使わせていた農民のなげきはつ
きないが、国師の面目は、自然に随順して生きた伊深の里の晴耕雨読の生
活にこそあろう。           

葉々起清風(ようようせいふうをおこす)
七月炎天下の静寂。「相送って門に到れば修竹あり。君が為に葉々清風を
起す」心と心が触れあい、共に修業で汗を流した交りはさわやかだ。
辛苦の末に悟りを得て、師匠に送られて下山す


洗心(せんしん)
「聖人は此を以って心を洗う」という古語がある。神仏に詣でる時、手を
洗い口を清めるが、同時に自らの心を洗い浄めることが肝要であろう。
手脚の汚れは目についても、心の垢には気がつか


福寿(ふくじゅ)
禍いなく、寿命の長きを願うのは人の常。現実には仲々叶えられない。今
、禍いなければ、それが最大の福、生かされる尊い命あることを寿と受け
とめ、禍いの中に幸福をみる。「生死の中に永遠にほろびぬ生命の歓びを
感得するのが仏法である」と。


慕古(もこ)
『得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり』
                            (礼拝得髄)     
吾が身を顧みて、素直に振り返りつつ仏祖の古道をお慕いし、それを現代
生活に反映させる工夫が如何に大切かを道元禅師は説かれた。あらゆる人
間の生き方の根本には大地があり土がある。
共生して生かされている自らであることをゆめゆめ忘れてはなるまい。


帰去来(ききょらい)
「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす、胡ぞ帰らざる」という陶淵明の
「帰去来の辞」にある有名な語。うかうかと面白おかしく歳月を送るのは
止めにして、人間本分の事に帰ろうよという。


百雑砕(ひゃくざっすい)(ひゃくざっさい)
物体や器物だけではなく、心に宿る煩悩妄想、是非善悪や智識等一切を木
端微塵に打ち砕いてしまえ。地位、名誉の一切合切を捨て切れば、どんな
にか清々した気持になれることか。 


平常心(びょうじょうしん)
「禅とは何か」という問いに、「食事がすめばお椀を洗っておきなさい」
と答えた禅匠があった。禅とは、或いは仏道とは何もむずかしい事では
なく、はからいのないあるがままの一瞬一刻を誠実に生きて行くことにほ
かならぬ。理屈ではなく、その積み重ねが一年の歳月、一筋の道につなが
る人生となる事を教えて余りある。       


風露香(ふうろかんばし)
自らの修行の正師をそして一真実を真剣に求め、風をくらい野に露宿し、
求道に命をかけ行脚する僧侶の姿にこそ、輝かしい人生行路の象徴を見る
思いだ。       




禅語について3

2006-10-17 11:17:49 | 禅語
松無古今色(まつにここんのいろなし)
「松無古今色  竹有上下節」春夏秋冬、一年を通じ、また、幾歳月を経
ても、松は常に青々としてその色の変わることはない。百年の風雪に耐え
た松の緑こそは日本の誇りである。現代は緑を保つために現代の科学を動
員しなければならない。不断の工夫と努力で失われゆく緑の世界を守り、
その言葉の裏にひそんだ「竹に上下の節あり」の平等即差別、差別即平等
の対句を忘れてはなるまい。                              


瀧  直下三千丈(たき ちょっかさんぜんじょう)
水は自ら形無くともどのような形にも順応し、低きについて先を争わず、
時にはすべての生き物のすさまじい力となりて岩石も砕くエネルギーとな
る。全身全霊を叩きつける勇者の姿に筆魂が宿る。「飛流直ちに下る三千
尺、疑うらくは、是れ銀河の九天より落つるかと。」と李白はうたう。         


明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう)
「山川草木悉皆成仏」大自然、すべては仏法の貴い姿。少しも、うそ、か
くしがなく目の前に堂々と現われている真理を無心に眺めることの大切さ
に気づくことが尊い。

渓声便是広長舌(けいせいすなわちこれこうちょうぜつ)
夜来八万四千の偈・・朝から晩まで絶えることのない如来の無限のご説法
を聞くことが出来るではないか。他日如何が人に挙示せん・・このすばら
しい仏のご説法の感激を誰に、どう伝えようか、言葉でも言い表せない筆
舌しがたいことだ。
“ 野に山に仏の教えはみつるれども仏の教えと聞く人ぞなし”
との歌にも通じよう。実に、谷や川、山や木々は無情であり、何ら人の心
があるわけではない。けれど、その無情の山川草木から偉大なる仏の教え
を見つけ、聞きだし心洗うことが出来る優れた感性、能力を人は頂いてい
るのだ。すべての計らい、捉われから解き放ち、謙虚に大自然に抱かれて
見るとき、自ずから清浄法身仏の雄弁なるご説法にふれることが出来よう。                            


一行三昧
禅で言う三昧は全身全霊そのことに徹し、なり切りながらも、なんら自性
を失うことなく、日常底においても持続する境地でなければほんものでは
ない。しかも常に純一無雑にして活発自在な働きをもつ三昧である。茶の
湯に於ける利休は、茶の湯の極意として「火をおこし、湯を沸かし、茶を
喫するまでのことなり、他事ある可からず」とのべているごとく、様々な
作法、決りごと多々ある茶の湯の世界で、なおそのことに縛られず、淡々
と三昧になって直心の交わりをもって茶を楽しんだ人である。

         
百尺竿頭進一歩(無門関)百尺竿灯に一歩を進む
その悟りより、「さらに一歩、歩を進めよ」と言うことは、百尺の竿の先
きから踏み出すほどに不惜身命、命をも投げ出して、衆生救済へ向かって
こそ、悟りの意義があると言う意味。いかに大安心の悟りを得ようとも、
そこに腰をすえておったならば、禅者としての悟りの意味は無くなってし
まう。なぜなら、それは自ら一人の安心、満足であっては、大乗仏教とし
て、多くの人々の救済、済度という禅者の使命を果たすことができないか
らである。

清風萬里秋 (せいふうばんりのあき)
人生の無常を感じつつ、今年も落ち葉を掃く季節が到来した。無心に散っ
た一葉に、自分を燃やし盡くしたものの姿の美しさを感得したい。市中の
息苦しい書窓にも、数竿の長竹は無限の清風を呼ぶ。心の自由を取り戻し
た身心脱落の人にこそ一葉のそよぎに真の清凉の世界を体感する。                 


独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)
「我がくらし楽にならざり、じっと掌を見る」啄木が詠じた歌の中に或る
種の嘆きと未来を真剣に見つめる思いがこめられ、かけがえのない自分の
発見とともに大切に生きようと念ずる人生観を窺い知ることが出来る。今、
ここに「独りの絶対的な自分の存在」を感謝をもって自覚出来ることは
素晴らしい。


遠観山有色(とおくみてやまにいろあり)
「遠観山有色 近聴水無聲」山を離れて遠くから見れば、千紫萬紅の多彩
は消えて青山一色、そこには悟りの鋭さを拭い去った境涯がうかがえる。  
山の中にいて山の大きさはわからないが遠く離れて始めて気付く山の大き
さでもある。                      


白雲抱幽石(はくうんゆうせきをいだく)
深山峡谷に湧く入道雲。さながら眼前に石を抱く夏の妙景は喩えようもな
く悠大である。生けるものの如き夏雲の大自然の閑境に無心でひたるひと
ときにほっとする。        


日出乾坤輝(ひいでてけんこんかがやく)
「日出乾坤輝 雲収山岳青」水平線上の初日の出は、旧年の闇を一掃して
大光明は天地にかがやく。新しい世界が生まれた。地上のたたずまいはそ
のままに、無限の光りを浴びて祝福の浄土が出現する。これは大悟の風光
である。心の太陽は、いかなる闇夜、いかなる暗雲の中にも必ず存在する。
人は無知のゆえに、時に迷いと絶望の深底に沈むが、心の太陽の実在を信
ずる者は、やがて豁然と夜明けを見ることができるだろう。                   


平常心是道(びょうじょうしんこれどう)
日常生活は茶飯事にこだわることなく、伸び伸びと人生を味わい乍ら生き
たいもの。 ところが、その伸び伸びとする心を真に自らのものにするこ
とは至難の行である。道は四六時中、踏まれても怒らないし、踏む人も踏
んでいることを忘れている。平易な言葉の中にもこのように意識が働く教
えの厳しさを味うべきだ。               


無事是貴人(ぶじこれきにん)
厳しい修行規格に従い、妙法に修行して転迷開悟の実をあげ、更に悟後の
修行で悟りの臭みをぬき去り、到達した迷悟両忘、酒々楽々の境涯からさ
らに無作無心の高貴な境涯に体達した人物こそ貴人。無造作に自然法爾に
行ずることが「無事」の意味。単に事故の無い安全、有閑徒食と間違えて
はならない。        

一華開五葉(いっかごようをひらく)
対句に『結果自然に成る』とは、一つの花に五弁の花びらが開き、やがて
自然に実るように、初祖達磨の教えが末広がりに栄えていくことを予言し
て、二祖に伝えたとされる言葉。


竹有上下節(たけにじょうげのふしあり)
「松無古今色  竹有上下節」人間平等の面だけを主張し、老幼の差別
順序を無視し、貧富、上下の差別のみを認めて人間としての平等を認めな
いのは物事の一面しか見ていない。悪平等の傾向にある社会への警鐘でも
ある。


紅爐一点雪(こうろいってんのゆき)
煩悩妄念を断滅した坐禅三昧の正念のある処、ここにはどんな邪念も寄せ
つけない。迷妄、邪悪は、恰も紅蓮の炎をあげて赤々と燃え盛る炉の上に、
一片の雪花が舞い落ち、一瞬のうちに溶けて跡形もなく消えてしまうかの
ようだ。


松樹千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)
春は花、夏は新緑、秋は紅葉と感覚的な美しさに押されて、松の翠が人の
目をひくことは少ないが、寒風吹きすさぶ蕭条の候ともなれば、今まで
目立たなかった松の翠の万古不易の美しさが、改めて見直されることにな
る。うつろいやすい世の中の、うつろうもののみに目を奪われて、常住
不変の真理を見失うようなことがあってはならない。


青山常運歩(せいざんじょううんぽ)
山は動かないものの代名詞だが、仏法の山は山のままで仏法を説き、仏道
を示す。あますところなく私達を包み込むように仏法を説きつつ、我が眼
前にせまって来る清浄身つまり仏様。人間の歩行のようでなくとも常に広
大無辺青山より運歩して来る事なるを疑う事があってはならないと先哲は
説く。


青山元不動(せいざんもとよりふどう)
千変万化の人生の姿に本性不動の喩し。青山は本来、人の持つ仏性に、白
雲は妄想や煩悩によく喩えることがある。雲があってもなくても、青山は
元々不動のものである。どこで何をするにしても、万縁万境に本性をとら
われることなく、自らは変幻極まり無い雲に動じない悠々たる山のように
泰然としていれば、魔性も亦、入り込む隙はなかろう。


春眠不覚暁(しゅんみんあかつきをおぼえず)
童心は道心に通ずとか。人は生まれ乍らに仏心を具備し、教えずとも、
おのずから輝き出る天真爛漫眠りのしぐさがそれを語る。それを妨げるも
のは大人の欲。陽が高く昇ってもなお静かに眠る童子はどんな夢を見てい
るのだろうか。春の眠りは深い。
盛唐の詩人孟浩然(689~740)の「春暁」の一句。








禅語について2

2006-10-17 11:14:53 | 禅語
歩々是道場 (ほぼこれどうじょう)(趙州録)
修行は決して深山幽谷などの静閑清浄の場所だけとは限らないというので
す。街中の雑路であれ、満員電車の中であっても、心が純一、無雑の直心
であれば、道場ならざるところなしなのです。歩々是れ道場であり、何時
でも、何処でも、何をしていようと、随処において主体性を失わず、随処
に主となっておれる境地を築いていきたいものです。


莫妄想 妄想すること莫(なか)れ
三毒五欲という貪(むさぼり)・嗔(いかり)・癡(おろかさ)と人は必
ず有するむさぼり止まないさまざまな欲望から起こる煩悩妄想は尽きない。
人はまた相対の世界に生き、一方を取り、他方を捨てようと分別し、また
いづれかに執着して煩悩妄想をつのらせる。すなわち、妄想することなか
れとは、その相対の取捨分別をすることなかれと言うことになる。禅の道
は悟ろうとか、仏になろうとか真理体得をしようと計らい執われる心が
すでに妄想なのである。

不住青霄裡 (臨済録)   青霄裡 (せいしょうり) に住 (とど) まらず
「悟り臭きは上悟りにあらず」でまだ禅者としてはホンマモンではないの
だ。だから禅では悟後の修行というべき聖体長養を尊ぶ。やはり悟りの高
い境地に留まっていては、艱難困苦に迷う衆生の現実は見えなくて、衆生
済度者たるべき仏教者としての働きはできない。そのためには自らが衆生
の迷海、苦界の娑婆世界の泥にまみれながら利他の精神から衆生救済にあ
たってこそほんまもんの禅者なのだ。

                              
好事不如無 〈碧巌録〉 好事 (こうじ) 無きに如 (しか) ず
人は好事あればその好事に執着しがちなものである。そして又さらにより
以上、好事多きを求めてしまう。禅者はその執着の心、求める心を嫌う。
好悪の分別を捨て、好事は好事に任せ、又否定もせず、求めもせず捨てる
ことも無くあるがままに受け止める無為自然、無心の境地を尊んだ言葉で
ある。禅を修するものはやはり世間的であってはならない。好悪、吉凶の
分別をなして好を取り、悪を捨てる等による取捨憎愛の心から生ずる煩悩
の因としてはならないのだ。なのだ。  


木鶏鳴子夜(五灯会元) 木鶏子夜 (しや) に鳴く)
本当に強い鶏というのは肩をいからせたり奮い立ち威嚇したり虚勢を張る
ことはなく、まるで木鶏のように相手の動きに動かされたり惑わされるこ
とがない。泰然と構えてじっとしているだけだという。すなわち、これは
人の道のことで、徳が充実していれば、戦うとか、勝つとか負けるとか一
切の計らいも無く無為自然の心の状態である。無我無心の状態であれば相
手の敵対の心を無くし、戦わずして勝つというより呑んでしまう無心の働
きなのだ。

無功徳 (むくどく)
達磨が言う「無功徳」は例え善事善行をなそうとも、あれもした、これも
してやったと果報を求めたり、見返りを求めて行う打算的善行は真の善行
ではないという諭したのだ。つまり信心、信仰はご利益を求めて行うもの
でなく、喜捨奉納も功徳を求めて施すものではないのだ。
真の信仰は、自らの見返りのない無心にして真心からの施し、神仏へ絶対
帰依心による祈りであり、施しであり、誓いである。


花看半開 酒飲微醺 花は半開を看(み) 酒は微醺(びくん)を飲む
世間の人は一般に花は満開が一番見ごろで美しいものだと思われがちであ
る。だが、その満開の花より半開こそ見ごろであり、本当に生き生きとし
た美しさを感じさせるし、奥ゆかしさがあり、却って趣きを感じさせるも
のだ。 そしてまた、酒も十二分に飲む勿れであり、ほんのりほろ酔い加
減がいいのである。あまり飲みすぎ、酔いつぶれてしまうのは邪道であり、
風流も解せない人であると言えよう。酒は味わい深く飲みたいものだ。
満開の花は誰が見ても美しいと感じられることだろう。しかし、これから
咲く花、あるいは散ってしまった花を想像力で心の中に美しい花を咲かせ、
趣を感じ得るのはそれなりの教養が必要なのである。
これがさらにわび寂びの美意識につながるのだ。

明歴々露堂々(禅林句集)〈めいれきれき ろどうどう〉
人生においても、執われず、あせらず、気取らず、ごまかさず、素直で、
ありのままに堂々と生きたいものである。自分を飾れば不自然だし、虚勢
を張り強く見せたり偉ぶれば、理論武装や無理がいく。神仏に頂いた、与
えられた立場や環境の中で神仏と共にあってかくすことなく堂々と生きよ
うとするところに、この言葉が輝く。                              


山中無暦日(唐詩選)太上隠者の「人に答うる」と言う題の詩の中の一節
禅語としては、単に実際の深山幽谷の山中の静寂そのもの環境に身をおい
て花鳥風月を眺めている閑道人であることを決して喜び尊しとはしない。
「忙中閑あり」で喩え日常は多忙を極めながらも、己を失うことなく、時
間に使われること無く、心境においては深山にいて、悠々自適の生活ので
きることで、この語がいきる。例え、繁華街おいて暮らそうが、時間を超
え、空間も超越して何のわだかまりも、悔いも無いおおらかで、ゆったり
とした心境を築いてこそ「山中無暦日」の語が活きる。


松無古今色 竹有上下節(松に古今の色無し 竹に上下の節あり)
松には千年にわたる翠の平等がありながら、その中には古今の差別が歴然
としてあるし、竹の節には歴然とした節という上下の区別をみるが、同じ
一本の竹には上下の優劣は無く平等である。世の中のすべては同じである
わけは無い。それぞれにはそれぞれの特徴があり、役割が違う。差別歴然
であるが、その役割、いのちはみな平等であり差別は無い。しかし、節操
の無い平等は自然に調和しない。家庭には親子があり、男女があり、社会
には長幼の序があって調和する。一人一人平等であるが、平等一辺倒でも
世の中の成立はありえない。そこに「竹に上下の節あり」の意義を感じな
ければならない。

禅語について1

2006-10-17 11:12:09 | 禅語
平常心是道 平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)
人生には喜怒哀楽があって、一喜一憂、悩んだり苦しんだり、泣いたり笑っ
たりしながら心は揺れ動くのが常である。嬉しいときは喜び、悲しいときは
涙するのは人として当然のことである。この揺れ動く自分のその心そのもの
が我が心のそのときの真実の心であり、さまざまな状況、状態に応じて変化
し現れるのが、人の心であり人間としての自然の姿である。
むしろ上がり緊張している我が心こそ、今の自分の真実の姿であり、ありの
ままの心なんだ、ということを素直に認め受け入れることである。
「平常心」は普段のまま、現在の煩悩心のそのままではない。道元禅師の言わ
れる「ただわが身も放ち忘れて仏のいへになげいれて、仏の方より行われ、
是に従い行くとき ちからも入れずこころもついやさずして 生死を離れて
ほとけとなる」とある。要は仏のいえ、大自然の運行、自然法爾のままに、
一切を御仏にお任せするその心そのままが平常心なのである。



一華開五葉 結果自然成 一華(いちげ)五葉を開き 結果自然(じねん)に成る
一華開く・・・心の花を開く=仏性(ぶつしょう)に目覚めること。清浄無
垢な心に立ちかえること。心華が開けばやがて自然に仏果菩提の実を結ぶ。
また、五葉とは五弁の智慧花びらに当てられる。

  大円鏡智   清浄な人間の心―――大きな円鏡はすべてのものをその
         まま映しとる智慧。

  平等性智   周りにあるものすべてをわけ隔てなく平等に仏心をあら
         わす智慧。

  妙観察智   優れた観察力をあらわすことの出来る智慧。

  成所作智   仏の智慧のよりあらわれる行い。所作。

  法界体性智  一切の存在、世界のすべて仏の心の顕現であるとする智。

茶禅一味と言うように、茶席の花は「一花五葉」を活けるといわれる。茶花
など茶席の花は単なる活け花でも、床の間の装飾でもなく、「心の華を開け
よ」という教えでもある。

喫茶去 (きっさこ)
相対する分別、取捨、過去・現在、あちら・こちらと分かつ一切の意識を断
ち切った、絶対の境地のあらわれに他ならない。そこには、凡聖、貴賎、男
女、自他等の分別は無く一切の思量の分別の無い無心の境地からの「喫茶去」
なのだ。この無心の働きからでるところに、茶道家はこの「喫茶去」の語を
茶掛けとして尊んで自ら無心に茶を点て、貧富貴賎の客を択ばず無心に施す
心を養ってきたことだろう。私たちはおうおうにして、好きな人や、金持ち
や身分の高い人が来れば鄭重にもてなし、嫌いな人や貧しい人にはいい加減
な対応をしてしまいがちである。分別を入れず、誰に対しても計らい無く、
真心から接して行きたいものである。


自浄其意 (じじょうごい)
「仏教の根本の教えとは何か」と質問した。道林和尚は即座に「諸悪莫作、
衆善奉行」即ち、悪いことをするな、善きことをせよと答えたのだった。
あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて「そんなことは三歳の童子でも知
っていることではありませんか、馬鹿にしないでください」反発したところ
「三歳の童子でも知っているであろうが、八十の老人でさえ行うことは難し」
と平然と答えたという。

  
寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎
寒時(かんじ)は闍黎(しゃり)を寒殺(かんさつ)し、熱時(ねつじ)は
闍黎を熱殺(ねっさつ)す
『寒いとか暑いとか言うのは暑さ寒さを分別比較して、寒いといい、暑いと
いって嫌い避けようとして、結局、寒暑に振り回されてしまうから愚痴にな
ってしまうのだ。寒いときは寒さになりきり、暑いときは暑さに徹して逃げ
ようとか避けようとするのでなく、暑さに任せておけばいいじゃないか、何
で迷うことがあろうか』と洞山禅師が示された言葉である。
ただし、これは僧が問うた寒暑とは単なる暑さ寒さのことでなく、心のうち
の苦悩煩悩のことであり、苦しいとき辛いとき悲しい時の悩みをただ避けた
り、一時逃れるするのでなくありのままに受け止め、そのこと、その事柄に
徹しなりきることによって煩悩苦悩から解放されることなのだという教えで
ある。

徳不孤 必有隣(論語)  徳は孤ならず 必ず隣有り
人はおうおうにして、自ら学び得たことや、技量が世間に省みられず、認め
られないことは耐え難いことである。ところが、それまで己の主義主張や心
操を曲げて、世間に妥協し世間に迎合してしまいがちになることも少なくな
い。しかし、意志堅固に道を求め続け、学において究め続けていれば、身に
光は備わりおのずから理解者は現れ、支持する人も出てくるものなのだ。
陰徳陽報ということばがあるが、目立とうが当が目立つまいが、人の嫌がる
ことや、避けて終いがちなことでも、喜んでさせていただく下座行、陰徳の
行を修めることによって自ずから身に光は備わり徳は高まり、人々は慕い集
ってきて孤にしてはおかないものである。

鶏寒上樹鴨寒下水 鶏(とり)は寒うして樹に上り 鴨は寒うして水に下る
お釈迦様の説法は皆に対して同じであっても、聞く側の、理解力、関心の対
象の違いによって受け止め方も違いがあり、膨大なご説法の理解、解釈が違
えば、その伝え方も自ずと異なるのは仕方がないことである。このように、
一つの真理、一つの教えにも、修行者の感性、境地によって教意と見るか、
祖意と見るかにわかれて行くことを、巴陵和尚はのべ、また、敢えて教意だ、
祖意だと分別する必要も無く、教禅一如であることを示された言葉でもある。


放下著 〈ほうげじゃく〉
修行者は苦修錬行、ちょっと道理がわかり、いささかの境地が得られると既
に大悟したかのように、悟りの境地に迷う。俗にいう「味噌の味噌臭きは上
味噌に非ず」というように禅でも悟りの悟り臭きは上悟りに非ずといい、真
の悟りとしては評価されない。更に放下し、捨て去り、その悟りの臭みをも
抜ききってこそ本来無一物の境涯を得られたといいうるのだ。  


東山水上行 東山(とうざん)水上(すいじょう)を行く〔雲門広録〕 
私どもは常に、一般的に抱く常識的、相対的認識の世界にあって、 動とか静、
善とか悪、生とか死、苦とか楽などの二相に分別しているから、 その分別妄
想を起こし、執着し、迷いあるいは苦しみ、業を重ねているもの である。そ
ういう二元対立、ニ相分別の観念を打ち砕き、私どもの常の概念 とする常識
や理屈の殻を突き破らしめる禅匠としての雲門禅師の境涯が 伺える。
是非、善悪、愛憎、動静の分別を起こさず、山と静とを対比せず、山は山そ
のもの姿を見、水は水の姿 そのものを見れば、動、不動の分別二相の発想は
起こらない。あるいは自らが山になりきり、また水その ものになりきっての、
純粋認識である。そこに諸仏の無碍自在の境地がある。

青山元不動 白雲自去来 (せいざんもとふどう)(はくうんおのずからきょらい) 
超然とした青山は周囲の雲がどのように去来し、覆おうが青山の本来の面目
は何ら変わるものではない。私たちの生活においてもこのようでありたいも
のだ。煩悩妄想の雲は必ずかかる。これが人の世の常なのである。
しかし是非得失、愛憎、悲喜、苦楽等分別相対の世界に暮らす現実の社会に
あっても、人間本来の面目たる仏から賜る佛性をしっかり見据えていれば、
煩悩妄想の雲には惑わされない。

深林人不知 明月来相照 (唐詩選) 深林人知らず 明月来って相照らす
人は物に満たされても心までは満たされない。だから多くの人は生きがいを
探し、生きる価値をさがしもとめるが、それは遠く求めてもえられないかも
しれない。“秋風やなすことなくて心足る”の句を隣寺の老僧から頂いたが、
まさに孤独の中に合っても、自然の中に身をおいて、自然の悠久の時間に遊
び、秋風を喜び、月の照り来るを喜べるところに生きがいなんていらない。
より豊かな生活がここにあるのだ。
                              

采菊東籬下 悠然見南山 菊を(と)る(とおり)のもと 悠然として南山を見る
この庵のある山合い風光はなんともいえず心を休ませてくれる。鳥も空に浮
かんで自然に溶け込み、その中に私も同化してしまったよ。もう煩悩だ妄想
だということさえなく、悟りという臭みさえ忘れ果てたし、執着だ、無執着
だということさえない。そんな心境だ。
  

主人公〈しゅじんこう〉(無門関)
禅の目指すところは「己事究明」による「見性成仏」である。己の内心を究
明し究明して、生まれながらに頂いている仏性への目覚めに修行の眼目があ
るのだ。坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合って対話する形から成り立
っているが、その人とは己れ自身ともう一人は別なる自分、すなわち内心の
自分、魂の自分のことである。主人公と叫ぶ己と、、と応えるもう一人の自
分である。主人公と叫ぶ自分と、応える主人公の自分が互いに主人公になり
きりった尊い姿を見なければならない。

便是人間好時節 (無門関) すなわち是れ人間の好時節
禅的に言うところの自然(じねん)は、おのずから、そのようにとか、真理
のままにというような有らしめられている現実そのものを言い、単なる自然
(しぜん)とはちがうし、ここでは自然(しぜん)を賛えることの言葉だけ
の意味ではない。
とかく人間というものは、三毒五欲の煩悩に迷い、閑事の、どうでもよいこ
と、つまらぬこと、むだごとに囚われて、嘆いたり悲しんだりである。そう
いう閑事にとらわれたり、迷い、己を見失うことがなければ、春夏秋冬いつ
でも人間の好時節なのである。それは自然(じねん)法爾(ほうに)の中に
いきることであり、生かされてあることなのだろう。それがすなわちそのま
ま仏の道であり、そのままであることが平常心なのである。

風定花猶落 鳥鳴山更幽 (風定まって花猶落ち 鳥鳴いて山更に幽なり
すべての動きが止まった単なる静けさではなく、静かさの中に穏やかな温も
りと時の動きを感じる静けさである。全くの無音状態が静かとは限らない。
無音は却って不気味さ不安さを感じさせ心穏やかならず、決して静寂さを味
わうことは出来ないものである。
茶室の静寂も茶釜が奏でる松音によって一層引き立つようなものである。
「鳥鳴いて山更に幽なり」の語もやはり静かさの中のひとつの鳥の叫びが却
って静寂さを際立たせる効果を生む。いずれも「動中の静、静中の動」の境
をを表す言葉として面白く禅者は好む