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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

茶道と禅

2006-10-17 23:28:45 | 茶道と禅
●『正法眼蔵 弁道語』
「わづかに一人一時の坐禅といへども、
諸法とあひ冥し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、
無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり。」

「たとえ一人の一瞬の行動とはいえ、
それは無限の空間に広がり、過去現在未来に響いて、
途絶えることはない。」
つまり、禅のもとめる究極の美しさというのは一瞬のうちに永遠の時
間と空間が凝縮されて、過去現在未来が分かちがたくなり、自分の身
体がどこにあるのか(空間)、どこからきたのか(因果)も定かでは
なくなるときに現れる。この境地においては主体と客体の区別はなく
なってしまい、対象世界(自然界)と完全に一体化してしまう。

禅の悟りは、自然の観照から得られる。
自然界の事物そのものが無目的性であることによる。花が咲き、川が
流れて鳥が飛び、木の葉が散るといった自然自体には意識も思慮も計
算も無い。まったくどんな目的意識も無い。これを禅では「無心・無
碍(何にも妨げられないこと)」と言う。有心の、目的意識・計算を
もったすべての行為、事物、思念は「無心」にくらべたら取るに足ら
ぬものなのである。

●<「道」と「術」>
『剣道』『柔道』『茶道』はもともとは『剣術』『柔術』『茶藝』で
あった。日本人は具体的な「技・術」の積み重ねに、精神性・思想を
加えて深みを与えてきたとされる。
例えば宮本武蔵。彼は30歳ぐらいまで連戦無敗と伝えられる。それ
はひとえに型に縛られない臨機応変な兵法による。術のたゆまざる積
み重ね、完成の後『五輪の書』で理論化する。しかし、日本はその思
想・観念だけを見て、それに縛られる傾向にあるのではないか。

●日本の茶「道」
『井戸茶碗』 と 『沓(くつ)型茶碗』この二つは日本の茶道で使
われる茶碗であるが形が歪んでいるという共通点が有る。
しかし、その成立には正反対の理由がある。
井戸茶碗は高麗の雑器である。そのときの高麗ではもはや茶は廃れて
いた。飯茶碗として作られたものが井戸茶碗である。その形は破形・
不均斉であったので茶人たちはこれに「完全への否定」という禅思想
が見られるとして大絶賛した。
沓型茶碗は反対に茶人が有名な陶工に強いて形を歪ませ、作らせたも
のであり「井戸茶碗」に見られた「完全への否定」を意識的に企てた
ものなのである。
しかし、井戸茶碗を雑器の中から「至高の美」として見出した初期の
茶人は果たして「完全への否定」という思想が見られたから井戸茶碗
を美しいと感じたのだろうか。そもそも井戸茶碗を作った高麗の陶工
というのは当時一番低い身分で、文盲だった。しかも儒教が主流で禅
が流行しなかった朝鮮半島で、「完全への否定」のような思想は生ま
れようはずが無い。

井戸茶碗は量産された茶碗であり省みられることの無かったものであ
る。すなわち作るほうは形など気にしてられなかったのでありおのず
からかたちが崩れたのだ。井戸茶碗を作った陶工は積極的に均斉さを
否定したわけではない。柳宗悦はこの無意識から生まれる「至高の美」
を「美」と「醜」という概念が生まれる以前の「不二の美」と呼んで
いる。

井戸茶碗が日本の茶人の創始者たちに受け入れられたのは意識も思慮
も計算も無い。まったくどんな目的意識も無い。「無心・無碍(何に
も妨げられないこと)」からではないのか。

沓型茶碗は初めから「完全への否定」などという目的意識にガッチリ
縛られてしまって「無心・無碍」からは程遠くて、禅の思想からもか
け離れたものになっている。「目的表象無き合目的性」ではなく、
「目的表象はあるけれど、反目的性」になってしまった。
「禅の思想を以て茶器を作っても、それは茶器でもなく、
禅の思想からもかけ離れたものができてしまう。」

●中国の茶「藝」
最近日本では中国茶藝が流行している。中国茶藝は固定化して観念・
理論にガッチリ縛られてしまった日本茶道と違って、今も変化の途上
である。いいものは何でも取り入れ、茶器に対しても捉われの無さが
ある。日本の茶道の創始者たちが、「茶」にまったく関係ないもので
も積極的に取り入れて茶器として用いてきたように中国茶藝において
はガラスでもプラスチックでも、良い物はなんでも活用する。


●<まとめ>
自分にも言える事だが、やはり日本人は何をやるにしても
性急に「答え」を求めすぎる傾向があるように思う。
そして「答えのようなもの」が見つかるとそれに縛られてしまう。

茶「道」という形で観念的に固定化しなかった茶「藝」のほうが
理論に縛られていない分、具体的な行動の中に「禅」を体現している。
理論に縛られてしまった「日本茶道」は「ワザ・術」を
喪失してしまっているのではないか。

宮本武蔵が「術」を積み重ねて積み重ねて五輪の書という「道」を
作り上げたように、茶道も「茶を楽しむ」という具体的な「術」を積
み重ねて「道」に到達したはずである。 

千宗旦

2006-10-17 23:26:25 | 茶道と禅
千宗旦は、利休の孫であり、現代まで続いている茶道の家元、
三千家のもとを作った人で、茶と禅は一つ、という茶禅同一
味を説き、武士に仕官せず、清貧の生活の中で、わびの茶に
徹した茶人である。


宗旦の参禅
千宗旦は、若い頃に、春屋宗園に参禅し、後には、清巌宗謂
に参禅した。次のような評価があり、『茶禅同一味』が宗旦
の精神を伝えているといわれたくらい、宗旦の茶は禅そのも
のであったといってよい。芭蕉や、世阿弥の俳諧や能の底に
禅があるのと同様である。茶道の行為を無心、無我で行うこ
とが、禅と同じであり、指導が正しければ茶道によって禅者
と同じく、自己の正体をあきらめ、悟りに至るのである。
それは、利休が言った、草(草庵)の茶湯でなければ、達せ
られない。宗旦の詫び茶である。
禅の精神を知らないものは、伝統や型や道具に執着し、そこ
からだけ判断するが、それの無力なことを知り、本物を求め
る人々もいる。宗旦はそんな町衆に望まれた。

宗旦は、「乞食宗旦」と呼ばれた。乞食は、本来、仏道の修
行のひとつであった。
茶に禅的要素を強調したということが含まれています。」

言葉は、自分の背丈で深くも浅くも解釈するのが人間である

根きりして花は盛りの京の春
二重の読み方をしてみよう。宗旦は「希望的」なところを歌
っているのではなくて、逆にみるのである。
一見、花は美しく見えるが、根が切られているから、まもな
く、死んでしまう。こういう悲観的、絶望的な、文化や茶道
の現況を嘆いているのだとも思える。華やかに見えるが、精
神がなく、死んでしまう茶道、その他の京の文化、
宗旦は、華美を嫌ったというが、わびに徹したという精神は、
経済的にゆとりができても、生涯変わることはないと思う。

宗 旦 の 茶 室
宗旦が作った茶室は、次の茶室がある。今日庵は、特に小さ
い。利休も、小さい茶室での「草庵小座敷の茶の湯」が
「心に至る」と言っていた。

* 今日庵--茶席の広さは一畳台目(台目は4分の3)。
      現代、裏千家の茶室。
* 寒雲亭--六畳。
* 又隠(ゆういん)--四畳半。

そういう狭い茶室を建てる要領、秘訣、それから、そこでお
茶をやる要領。これは、みんな秘事、秘伝 として伝わってい
ます。一般の人は、そういう茶室に入ってお茶をやることは
できません。その茶室に関する秘伝を授かった名人でないと、
そこで適当したお茶はやれなかったらしい。今日の茶人は、
やたらに、ああいう所でやっていますが、本当からいうと、
随分、図太い話だと思います。まあ、今日庵でなくたって、
どこの茶室でも、狭い茶室で茶事をやるというのは、狭いか
ら、やりいい、なんていうものではなくて、非常にむつかし
い秘伝がある。
別な意味も考えてみたい。作法には真はないと利休や宗旦は
いうから、「秘伝」の形を取る作法や型は、本来の茶道(禅
とひとつとしての)の精神にとって価値はないかもしれない。
面接、人物調査などに基づいて特定の人に伝えるなどという
と、金や地位のある(指導者の利益になる)人だけを選ぶ魂
胆がある場合もある。あるいは、それ相応の境地に向上した
者にのみ授ける難しい精神のものもあるだろう。
もし、自己をあきらめるというのが茶道の精神ならば、特定
の人ではなくて、すべての人に、常に狭い場所での、一対一
の「独参」のごとき指導が不可欠である。だから、利休も宗
旦も狭い茶室を本来の茶だといったのかもしれない。そうい
う指導を通して、自己の正体を覚る。だから、精神を自覚し
た茶人は、すべての弟子を、最初から平等に、狭い茶室で指
導したのだろうと思う。
そういう人が出現したら、「あの人は認められたらしい。」
とうわさが発生し、知らない人は「秘伝された」などという
だろう。精神の自覚には、秘伝はなく、自己が自ら自覚する
ものではなかろうか。

桑田氏が言いたいのは、小さい座敷で茶をできるのは、侘び
に徹した茶人のみ、だという趣旨であることがわかる。しか
し、禅茶一如から言えば、侘び茶に「徹する」ということは、
悟りを得る、ということである。茶道で、悟りを得るのでな
ければ、小座敷での指導はできない・・・。
そうであれば、利休や宗旦が禅を重視した意味がはっきりし
てくる。
悟りを得るほどの茶の指導は、一対一の小座敷の茶でもない
とできない。それは、権威や金や地位や身分などにかかわり
なく、すべての希望者が受けるべきである。限定する茶人な
らば、差別の心があり、侘び茶に徹した人とはいわれないだ
ろう。
茶道が、本質を見忘れると、真剣な求道ではなくなる。一体、
茶道の真の精神とは何だろうか。

柳宗悦と民芸運動

2006-10-17 23:24:02 | 茶道と禅
名もない民衆が無造作に作った工芸品に美を発見し、「民芸」
という言葉を作り、「日本民芸館」を創設した柳宗悦(やなぎ
むねよし)。彼は、陶芸家バーナード・リーチ、浜田庄司、
河井寛次郎と民芸運動を推進し、版画家棟方志功を育てた。
民芸、宗教、禅、茶道についての深い考察がある。

柳の民芸
*実用品、普通品
特定の場所だけのものではなく、庶民の生活の場にあるもの。

* 無名の人のもの
特別の人のものではなく、無名の人のもの。

* 無意識から生まれる美
美しくしようというはからいなく、無意識でなしたものであ
りながら、美しい。

* おごりなく、自然
「自らは美を知らざるもの、我に無心なるもの、名におごら
ないもの、自然のままに凡てを委ねるもの、必然に生まれし
もの、それらのものから異常な美が出るとは、如何に深き教
えであろう。凡てを神の御名においてのみ行う信徒の深さと、
同じものがそこに潜むではないか。「心の貧しきもの」、
「自からへり下るもの」、「雑具」と呼びなされたそれらの
器こそは、「幸あるもの」、「光あるもの」と呼ばるべきで
あろう。天は、美は、既にそれらのものの所有である。」

柳によれば、民芸は、このような特質をもつ。そのような民
芸を生むのは、無名の人による、無心の域に達した反復の動
作から生まれる。禅や念仏にもそういう性格がある。名誉や
権力を持つ僧侶や学者ではなくて、大地にねざした無名の僧
侶や庶民の中に、禅や念仏の本物の実践がある。智に走らず、
名誉に執著せず、黙々と反復実践する念仏や禅が、無私の人
間の心の完成に誘う。そのようなものに似た民衆の生活の中
の反復から美が生まれる。

実生活の真っ只中で活かされるものである。自分や自我に重
きをおかず、自己を超えた大きなものに任せることが、かえ
って自己を超えた働きを生み、大いなるものに包まれた救い
の中にいる安心を得る。禅は一般には、「自力」といわれて
いるが、実践してみると、「自力」も「他力」も区別はない
ことがわかる。禅も他力の域に達して、意識せずして、しか
も、今のことになりきっていく他力的境地になったとき、や
はり、向こうから(自分の知性によらず)自己の真相が開け
てくる。

宗悦の民芸と宗教
柳は宗教の研究から入って、民芸の美の発見におよび、民芸
と宗教は一つであることを証明した。民芸は民衆による真の
美を持つ工芸品である。柳の言う宗教は学者や僧侶による学
問宗教ではなくて、民衆による直観に基づく真の安心を得る
宗教であるから、宗教と民芸が一つになるのである。

*学問はもろい
大学を出たエリ-トが心を病み、自殺している。学問は、人
生の深い問題には役に立たない。学問は、最も自力的である。
禅も念仏も、自我を捨てる。他力的である。その自力の学問
は、死の問題を解決してくれない。禅は他力的といったが、
禅に批判的な勢力は、禅は自力だという。禅は場所的には、
自分の根源の場であり、自力に見えるが、方法は自我を捨て
る他力である。学問では得られない方法である。

*生活と宗教とが不可分 
すべての日常生活の場にあるのが深い宗教である。教団施設
の中だけとか、特別の宗教行事の時(坐禅、念仏の時)だけ
とか、信者同志が会合している時だけとかいうような宗教は
浅い。

*自力と他力の極地は一つ
「自力と他力と分けるのは、吾々がまだ道の途中にある時に
過ぎない。」
「漸次登るにつれて視野に入る展望は、近寄ってくるのであ
る。そうしてついに嶺に達する時、二つの道は絶え、一つの
頂きに結ばれてしまう。」

禅は自力、他は他力、などという人は、自力も他力もわかっ
ていない。浅いところしか知らない。
深い宗教は、自力も他力もない。

*宗悦の宗教、美の遍歴
柳の民芸運動と宗教観がどのように形成されたかを概観しま
す。柳は若くして、父、妹の死にあい、また、自分の息子の
死も経験した。身近な人の死から「生死」の問題に関心を持
った。学生時代には心理学を専攻し、宗教哲学、特に神秘主
義の研究から初めて、東洋哲学への関心から、東洋工芸に関
心がむかい、民芸の美の発見、それを生み出した他力の信仰
に研究が結びついていった。

知性の色眼鏡で見ないでものをじかに見ることを、柳は
「直観」と呼び、「直観」について多くの研究をした。

民芸美論
無名の工人が、自然や伝統や実用性にたすけられて、生み出
したとして、民芸を仏教の他力道になぞらえる。
信と美の深く結ばれた世界の実在を示して、多くの衆生(少
ない天才ではなく)を招くという。その論理はこうである。

* 仏の国には美醜の区別が存在しない  
* 人は本然の性に帰れば、美醜未生の境に在ることができる  
* 天才でない凡夫に、その救いの道が開かれている  
* その証拠は、民芸、妙好人が示している。
 柳は、名もない民衆がなぜ、民芸品の美を生み出すかの理
論的根拠を仏教経典の中に見いだした。
「どういう仏縁か、私はたまたま越中城端の別院で一夏を送
り、一日「無量寿経」をひもといて、そこに記された四十八
大願を読み返していた時、はたと第四願に目を留めた。「好
醜」の二字があったためである。「好醜」とは「美醜」のこ
とである。この時何か啓示的感激を受けて、急に美思想の扉
が開かれた感じであった。

茶道論
茶道に用いられる茶碗で国宝級のものは、朝鮮の民衆が作っ
た雑器だった。それは、庶民が無造作に大量に、素早く作っ
たから、巧まない美が恵まれたというのである。日常雑器の
中に美があることを四百年前に気づき、茶の湯に取り入れた
初期茶人に、柳は畏敬の念も持ち、茶の湯の美をも研究し
『茶と美』『茶の改革』などの書物を刊行した。また俗化し
た茶道に対して、厳しい批判がある。

病気になる
深い宗教の学問的研究を重ねて、すばらしい業績を残してき
たのに、彼自身の体得は十分ではなかったことがわかる。
やはり、宗教は学問を超えたものに、本当の安心がある。
こうもいう。体験的闘病の心得である。がんを告知された人
の心得である。
「病気と仲よくしろと注意してくれた人もありますがこれは
名言ですが強いて仲よくしようとするのも、よろしからず、
いいも悪いも気にしないのが一番と思います。」
良い悪い、善悪を超えて、現状を受け入れていくのがいい。
現状(今、ここ、自分にあるもの)は、大きなものから与え
られたものであるから、小さな自我でじたばたしないのが法
則にあっていて、葛藤がおこらない。仕事の品質向上や、社
会の悪や、他人の苦を見過ごすというのではない。
 昭和三十六(一九六一)年、七十二歳で没した。



千利休の茶道と禅

2006-10-17 23:21:10 | 茶道と禅
真の茶道は草庵小座敷 現代、茶道が盛んですが、様々な人
々から現代の茶道は、千利休の精神を忘れて形だけになって
いると批判されています
茶の湯について二つあると言っている。
二つの茶の湯
●書院台子の茶の湯
広い書院で台子(だいす)を用いる。名物の茶器を用いる。
大勢が参加する。
台子は茶道具を飾る棚
●草庵小座敷の茶
露地の中に独立した狭い草庵で、台子を用いない。小人数で
行う。

利休は繰り返し、草庵、小座敷の茶の湯しか、本心に至りえ
ないと述べている。なぜだろうか。書院台子の茶の湯は、禅
寺の法事のごとく、草庵小座敷は、坐禅と独参のごとしです。
仏道を志す者が、法事ばかりやって、坐禅も師匠との問答も
しなかったら、仏道を得らないのと似ているだろう。法事の
最中に師匠は弟子に仏法指導はできない。
茶道が[人間とは何か][道とは何か][自己とは何か]
[心とは何か]を究めるものであるならば、茶の師匠と弟子
がその根本に立ち向かう草庵での会にこそあるのは当然であ
る。たとえ作法を覚えた人でも、朝夕工夫をすると「心に至
る」はずである。

書院の茶は世間、草庵の茶は出世間
書院台子の茶は世俗の行事作法であり、草庵の茶は仏道であ
り、自己を悟るのが目的である。得道とは禅の言葉で、悟り
を得る、世間の自我を離れること。悟りの時、自我を忘れる
こと、無になること、こういう禅体験がここに記述されてい
る。だから利休の茶の目標は茶の湯をとおして悟りを得るこ
とである。趣味や芸術や友達つきあいを楽しむだけのもので
はない。
作法規矩からはいって、そこを離れた境地まで至ると、茶の
湯が遊びや趣味や小遣いかせぎでなく、[道]となる、という。

特に小座敷の茶の湯は仏道そのもの
「小座敷の茶の湯は、第一、仏法をもって修行得道する事な
り。家居の結構、食事の珍味を薬とするは俗世の事なり。家
は漏らぬほど、食事は飢えぬ程にて足る事なり。是れ仏の教
え、茶の本意なり。水を運び薪をとり、湯を沸かし茶をたて
て、仏に供え、人にも施し我も飲み、花をたて香をたき、皆
々仏祖の行ひのあとを学ぶなり。」

悟道の利休の茶の精神(形や作法や美学でなく)は悟道の人
でなければ真に理解できないのかもしれない。茶を行う主体
は禅的真人である、ということである。もし、茶人が禅を実
践すれば独創的な茶道、現代に本当に生きる新しい茶道がで
きると思われる。それを千利休、千宗旦、柳宗悦、久松真一
などが強く説いたはずである。

自由自在、我がなく、自分の誤りをかくすことなく、他人の
よいところを認める、というのは[無我]つまり我のないこ
とのあらわれで、禅の悟りを得たことが明白。自他の差別な
く、心にかけるのはただ[道]のことであった。茶人は、こ
れを手本として一歩でも近づきたいと願い、努力をする人で
あろう。

真の茶道は出離の人のもの
「茶一道、もとより得道の所、濁りなく出離の人にあらずし
てはなしがたかるべし。未熟の人の野がけふすべ茶の湯は、
まねをするまでのことなり。手わざ諸具ともに定法なし。定
法なきがゆへに、定法、大法あり。その子細はただただ一心
得道の取りおこない、形の外のわざなるゆへ、なまじゐの茶
人構えて構えて無用なり。天然と取行ふべき時を知るべし。」
 真の茶道は出離の人でなければできないから、特に野がけ
は得道の人以外はしないほうがよい、という。出離、得道の
人とはどういう人をいうか、よくよく検討すべきであろう。



河井寛次郎 言行一致の希有の人

2006-10-17 23:18:55 | 茶道と禅
私は突然一つの思いに打たれたのであります。なあんだ、な
あんだ、何という事なのだ。これでいいのではないか。これ
でいいんだ。これでいいんだ。焼かれようが殺されようが、
それでいいのだ。-それでそのまま調和なのだ。そういう突
拍子もない思いが湧き上って来たのであります。そうです。
はっきりと調和という言葉を、私は聞いたのであります。
なんだ、なんだ。これで調和しているのだ。そうなのだ。
-と、そういう思いに打たれたのであります。

何時この町や自分達がどんな事になるのか判らない不安の中
に、何か一抹の安らかな思いが湧き上って来たのであります。
私は不安のままで次第に愉しくならざるを得なかったのであ
ります。頭の上で蝉がじんじん鳴いているのです。

それからは警報が鳴っても私は不安のままで安心-といった
ような状態で過ごす事が出来たのでありました。しかし、何
故殺す殺されるというような事がそのままでよいのだ。こん
な理不尽なことがどうしてこのままでよいのだ。-にも拘わ
らず「このままでよいのだ」というものが私の心を占めるの
です。この二つの相反するものの中に私はいながら、この二
つがなわれて縄になるように、一本の縄になわれてゆく自分
を見たのであります。

ぐるりの青々とした松や杉の中に、この木一本が葉脈だけ残
ったかさかさの葉をつけて立っているのです。葉っぱは虫に
食われ、虫は葉っぱを食う-見るからにこれは痛ましいもの
そのものでありました。私は見るなりに気付いた事でありま
したが、痛ましいというその思いの中に、これ迄かつて思っ
た事もない思いが頭を擡げたのでありました。葉っぱが虫に
食われ、虫が葉っぱを食う。

葉っぱが虫に食われ、虫が葉っぱを食っているにも拘わら
ず、虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている-そうい
う事をその時はっきり見たのであります。食う食われるとい
うような痛ましい現象が、そのままの姿で養い養われるとい
う現象であるというのは、抑々これは何として事なのであり
ましょう。
 この間中からむらむらしていた事が、これでよいのだ、こ
れで結構調和しているのだというような、しかしつきつめる
と何故そうなのだか解らなかった事が、ここではっきり正体
を現わしたのであります。不安のままで安心。さてはそうな
のか、そうだったのか。米や魚がものを作ったり、豚や牛が
考えたり、書いたりしないと誰が言えるでしょう。

●第二の世界、第二の自分
河井は、絶対の「此処」は「第二の世界」を見たのだ。同じ、
この世界が違って見える。本当は、すべての人がそんな世界
にいるのだが、心のあるスイッチが働かないので、見えない
のだ。「此処」をどのように作るか我々にゆだねられている。
「現実の裏にこんな世界がくっついているとは」という驚き。
人はみな誰でもそれを見ることができるのに。

此処はすべてのものをそのままでは見ない処なのだ。眼に見
たそのままのものは悉く拒絶する処なのだ。心が見たもので
なくては、受け入れない処なのだ。あらゆるものの中から精
を見、魂を見ようとだけする処なのだ。
模様は人にだけしか作れない精神なのだ。

第二の生命を作る事が出来る此処は場所」。「ここ」を見れ
ば、従来の自分ではなくて、もう一つの自分に生まれ変わる。
第二の生命を得る。仏である自己、という「第二の自分」。
「なあんだ、このまままでいいのだ。」という絶対の安心が
生まれる。神にも仏にも宗教者にも頼らない。

「人は皆自分である以前の自分を-誰にも与えられているこ
の自分を持つ。これこそ病む事のない自分。苦しむ事のない
自分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。
いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代
わりに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている
自分。行かなくても到り得ている自分。」

人は二つの自分を持つ。---にも拘わらず、第一の自分しか認
めようとはしない。二つなんか持っていないと思っている。
にも拘わらず、二つを持つ。---自分だと思っている自分と、
自分でない自分とを。」

俗の世界から出て、新しい世界
「出て見れば
  何もない代わりに 何もある
   空が破れて のぼる処がない
    底が抜けて 落ちて行く処がない」 
「はてしない土地
  新しい世界  -身体」
河井の悟りの境地。俗世から絶対無の世界に出た。絶対無か
ら、すべてが生じる。そこが見えれば、じたばたして昇る必
要もなく、落ちるところもない。絶対の安心。河井は、世俗
の賞や名誉を求めなかった理由もここにあろう。住む精神世
界のレベルが違っていたのだ。しかし、それでいて、世俗的
な家庭生活を営み、世俗的な目でみても超一流の陶器を作っ
た。世俗を出て、世俗へ戻る。世俗にあって世俗に染まらない。

人は縛られてなんかいない。かって縛られた事があったであ
ろうか。縛られていると思うならば、それは縛っている自分
自身なのだ。人は昔から解放されている。今更何に解放され
るのだ。」
最後の段落「人は縛られてなんかーー」は、人間は本来、仏
だと言っているのである。これがわかっているから、本来、
宗教は不要なのである。それを知らない人は、自分に縛られ、
他人に縛られる。宗教に縛られる。

あなた」は、個か超個か。
「自分で作っている自分
   自分で選んでいる自分」

自分で自分を規定している自分。自分をそれだけの自分だと
限定している自分。自分というのは自分が作っている場所の
謂(いい)なのだ。だからこそ作り放題の場所。どんなにで
も作れる場所。
ない場所に立っているない自分。これ以外に吾等の場所が何
処にあるのであろうか。どんな自分を作ろう。どんな自分を
選ぼう。
人は皆自分である以前の自分を-誰にも与えられているこの
自分を持つ。これこそ病む事のない自分。苦しむ事のない自
分。老いる事のない自分。濁そうとしても濁せない自分。
いつも生き生きとした真新しい自分。取り去るものもない代
りに附け足す事もいらない自分。学ばないでも知っている自
分。行かなくても到り得ている自分。」

人はみな仏であるが、そんな自己であることを知らないで、
自分を小さく縛って、苦悩する。それも自分が選んだもの。
そう河井は言う。

物の見方は、およそ、二つに大別できる。世俗的、二元的見
方を持つ人が理解できる見方と、世俗的な見方、二元的な見
方でない、仏、菩薩が理解できる見方。河井が書いた言葉は、
後者なのであるが、読む人は多分、前者の見方で解釈する。
すなわち、もう読まれた言葉は、河井の言葉ではない。読む
人の言葉になる。

生まれた時から井戸の中に住む蛙は、大海があることを予想
もできない。この地上は、仏の眼からみれば、一真実の世界、
極楽世界であるが、人間の眼では、一人一人別々な世界を描
いている。

●栄誉を辞退
浅い真理と深い真理との間には、超えることが難しい眼に見
えない壁がある。仏教学者の知性でも容易に超えられない壁
が。そして、学のない素朴なチューラパンタカ(釈尊の弟子
で頭が悪かったという人)の実践で簡単に超えられた壁が。

自己を脱落
「私は病気で寝ています。
  私は病気をしていません。
   病気が病気をしています。
    病気のことは病気にまかせ
     病気の病気わしゃ知らん」
 
戦争中に自己を脱落した河井は自分の生死を問題にしていな
い。「私が」病気だというが、「私」って何だ。「身体か」。
「私は病気をしていない」とすると、私は身体ではない。
そうすると「私は何か」。「私」が病気でないのなら、
病気のことは病気にまかせておいて、私はしたい事をする。
「私はもうすぐ死ぬかもしれない?」という人には、河井は
言うだろう。「私は病気をしていません。私は死のことをし
りません。死のことなんか死にまかせておいて、私はしたい
ことをする」

世の中には社会のために大事をなして、世間から認められて
いない人が多い。道元禅師、良寛さま、宮沢賢治なども認め
られなかった。程度の低い俗世に認められなくても、奥底の
魂に照らして恥ずかしくない生き方をしていればいい。世間
に知られずして、しかし自分の役割をちゃんとはたしていく
無名の大勢の民衆。その人たちこそ、おごらず、つつましく、
誠実であるから、背後の大きなものが見守っている。

無位無冠
「借りている生命を、なん等かのかたちで、人々や物の恩恵
に応えようとした父だと思わないではいられないのである。
もらった生命を思いきり使わせてもらい、初心の志を奉じ、
無我夢中で仕事に励み、無位無冠のまま、寸刻を惜しみ「も
のつくり」に喜々といそしみ、ときに不合理や不条理さえ大
調和の世界と観じ、仕事に仕え、常に歓びを人と共に分ち、
ひたすら美の発見に全生命を捧げやまなかった。」


千葉県立泉高等学校 片岡 勝規 

2006-10-17 23:14:46 | 茶道と禅
―禅と茶道の結び付きは果たして明白なものなのか?

茶の湯は禅宗より出たるに依りて・僧の行を專にする也。
珠光・紹鴎、皆禅宗也。『山上宗二記』
茶の湯と禅の結び付きは、利休の高弟、山上宗二の言葉を引
用するまでもなく、よく知られていることである。抹茶の風
味・茶人の立ち振る舞い、侘びた茶室の佇まい等々、禅宗の
ストイックな雰囲気は茶の道のいたる所に看取できる。

禅宗の寺には「規矩」と呼ばれる細かい規則があり、食事の
仕方から草履の上げ下ろしに至るまで正しい作法が決められ
ている。その意味では、「点前」と「規矩」の類似性から茶
道の細かい決まり事も、禅と無関係ではないと言うことはで
きるだろう。だが、それにしても、現象的な共通点以上のも
のではなく、思想的な裏付けがあるわけではない。
禅宗を含めた仏教が目指すのは、いっさいのとらわれやこだ
わりをなくすことではなかっただろうか? 法外な値段で売
買されてきた茶器はまさに欲望(煩悩?)の対象であるといえる
だろう。そして、茶道の美意識とこだわりの体系は、すべて
を超越した悟りの意識の前ではどれほどの価値をもつのか? 
こうしてみると、茶道と禅の関係は極めてあやういものに思
えてくる。

徹底した様式化とその反復、そして、反復による様式のさら
なる洗練。茶の湯の文化は、武道や芸能と同じように、コジ
ェーヴの言う日本的スノビズムの様相を呈している。この饒
舌な姿はそのままでは《悟り=言葉の停止》と縁があるとは
言えないだろう。これらのスノビズムと禅の間に関連がある
とすれば《悟り》そのものにおいてではなく、そこに至るま
での過程においてではないだろうか。先にも述べたとおり、
禅寺での修行僧の生活が事細かに規則によって規定されてい
ること。そして、日本曹洞宗の開祖、道元が「只管打坐」と
伝えるように、ただひたすら座禅を反復し、打ち込むこと。
これらはいずれもそれ自体は《悟り》そのものではなく、あ
くまでも《悟り》に至るための過程である。このように、茶
道をはじめとする日本のスノビズムの文化は禅の精神そのも
のというよりも、禅の形式の引用といったほうがよいのでは
ないだろうか。

(久松真一『茶道の哲学』)禅とは文化と人間の否定であると
述べている。文化=記号の意味を宙吊りにする営みが《悟り》
であることを意味している。一見すると、このような文化や
人間という価値を否定する思考が、新たな価値や文化を生む
ことは不可能のように思われる。しかし、日本のスノッブな
精神はその困難を軽々と乗り越えて、固有の文化の様式を洗
練させる。この軽やかなジャンプ力こそが日本文化の本質と
いえるのではないだろうか。







青山二郎 『眼の哲学・利休伝ノート』

2006-10-17 23:13:19 | 茶道と禅
「俺は日本の文化を生きているんだ」というのが口癖の青山
二郎である。

青山二郎がほとんど解読可能な文章をのこさなかったのも、
やりにくい。とくに陶芸についての文章があまりない。いや、
いろいろ書いているが、すこぶる暗示的か、別のことを書い
て煙に巻くような見立て文なのである。
どんな調子かというと、「見れば解る、それだけの物だ。博
物館にあればたくさんである」という具合で、とりつくシマ
がない。「民芸の理論を抽象化した物は、一つ見ればみな分
かるという滑稽な欠点をもっている」と言われても、困るで
あろう。そういう調子が多いのだ。
たとえば、桃山の陶芸について、「長次郎と光悦が茶碗に手
を付けた。彼らは最後に美に手を付けたのである」と書く。
その通りだが、この意味を敷衍するのは難しい。また、長次
郎らが「茶を犠牲にしても、茶人の身になって見たかったの
だ。これが鑑賞家の芸術である」と続けた。これもよくわか
る言葉だが、その意味を説明しろといわれると、困る。青山
二郎がたいそう昵懇だった北大路魯山人についても、「魯山
人も最高ではないが、他の連中が人も作品も引っくるめて魯
山人以下なのである」と書く。これでわかるといえば全部わ
かるが、その青山を批評する手立てはない。

そもそも青山二郎は陶器を見ていない。見るのではない。観
じるのである。何を観じるかというと、陶器の正体を観じる。
「見るとは、見ることに堪えることである」とも言うし、
「美は見、魂は聞き、不徳は語る」とも言った。
これでは鑑賞の言葉なんて一息に呑みこまれてしまう。外へ
出てこない。語るようではオワリなのだ。禅僧に「貴僧が悟
られた説明をしてください」と聞くようなもので、これでは
「馬鹿野郎」と一括されるのがオチである。

  「眼に見える言葉が書ならば、
       手に抱ける言葉が茶碗なのである」。

利休は誰にも理解されなかったというのが、青山の基本的な
視点である。また、利休の根本思想には茶道も礼儀もなく、
その“なさかげん”が茶碗に残ったというふうに見た。鑑定
を強いられ、それに我慢がならなくなったという見方もする。
 まさに青山らしい。最もおもしろいのは利休をトルストイ
に見立てたところである。どうも青山にはカトリシズムに対
する共感があるようなのだが、一方で高潔なアナキズムにも
共感をもっていたようだ。きっとそういうところが出たので
あろう。

トルストイはひたすら言葉と文章だけによって、全身没頭感
覚をわれわれの「眼」に見えるようにした。 

一休宗純 『狂雲集』

2006-10-17 23:11:17 | 茶道と禅
一休は、女色も男色もほしいままにした。隠れてこそこそし
たのではない。平気でそのことを『狂雲集』に披露した。自
分のことを「骨軆露堂々、純一将軍誉、風流好色腸」(骨体
はまことに堂々としていて、一休宗純は将軍の誉れ、しかも
はらわたの奥まで好色で詰まっている)などと豪語した。こ
んな七言絶句もある。

  一生受用する米銭の吟 
   恥辱無知にして万金を攪む
    勇色美尼 惧に混雑 
     陽春の白雪 また 哇音

どういう意味かというと、お経を読んでいさえすれば、坊主
なんてものは一生食いっぱぐれない。適当に恥をかき、無知
を承知でいれば大金は入る。そこへもってきて男色に遊び、
ついでに尼さんをものにしていれば、これは陽春(堺の陽春
寺)でほとばしる「白雪」だっていつもピュッピュと飛ばせ
て、気持ちいいこと限りない、くだいて言えば、まあ、こう
いった内容だ。 

一休は天真爛漫なのではなく、「毒」をもっていたのだ。毒
だけではなく、「悪」がある。悪だけではなく、「狂」があ
る。そもそも自身であえて「狂雲子」あるいは「夢閨」(む
けい)と号したほどである。狂雲子は風来とともに風狂風逸
に生き抜くことを、夢閨は夢うつつのままに精神の閨房をた
のしむことを意味した。
これを偽善に対する偽悪の姿勢とみてもよいけれど(一休の
偽悪者ぶりはこれまでもさんざん語られてきたが)、それだ
けではない。野僧であろうとしながら大徳寺をとりまとめた
し、破戒僧でありながら一休文化圏をつくりきった。飯尾宗
祇、柴屋軒宗長、山崎宗鑑、村田珠光、金春禅竹、曾我蛇足、
兵部墨溪‥‥、いずれもその後の文化を大成していった連中
の多くが、一休文化圏の住人だった。
一休はまた、尊皇の気概もすさまじかった。

次の七言絶句の漢詩と、その現代語訳の試みをくらべるとよい。
 秀句寒哦す 五十年
  愧(は)ずらくは乃祖洞曹の禅に泥(なず)みしことを
   秋風に忽ち洒(そそ)ぐ小時の涙
    夜雨青燈 白髪の前

  俺の人生寒かった、洞春おやじがうらめしや。
  風が誘った幼児の涙、青い灯火に白髪が光る。

 これは、禅語録として『狂雲集』を研究し、上田堪庵の一乗
寺野仏庵では1年にわたって狂雲集講座ともいうべきを語り
つづけた柳田聖山の訳である。まるで歌謡曲である。しかし
柳田さんは、ぼくが思うにいま最も一休を理解できている人
なのである。
 また、次の「懐古」という漢詩では、はやくから一休に惚
れこんで日本詩人選に『一休』(筑摩書房)を書き、好きな
漢詩を片っ端から大胆でポップな現代語にしていった富士正
晴が、以下のような訳をほどこした。

  愛念愛思、胸次を苦しむ
   詩文忘却一字無し
    唯悟道有って道心無し
     今日猶愁う生死に沈まんことを

  エロスは 胸を苦しめる 
  詩文は忘却 すっからかん
  ロゴスあれども パトスなし
  まだまだ気になる 生き死にが

うまい、うまい。さすが飄逸の富士正晴だ。が、こういう意
訳で当たっているのかどうかという問題ではない。一休その
人が、いま、このような応接を、われわれに迫っているとい
うことなのである。

菩薩とは、修行を完了した者が他者を意識したときの姿の本
来のことをいう。そこに向かうことが菩薩行である。それを
することを仏教史では「大乗」とよんできた。
 禅も、むろんこの大乗の菩薩を意図して、他者に向かって
いく。禅が自己の悟りを求めているなどというのは、わずか
20年だけのことなのだ。みだりに禅と自己発見などをつな
げないほうがいい。

正恁麼(しょういんも)の時」といって、「まさしくこの時、
この状態をどうするか」という、正念場を迫るときにしょっ
ちゅう使われる「どうしてくれますか?」なのである。「さ
あ、やるのか、やらないのか、正恁麼」「行くのか、行かな
いのか、正恁麼」というふうに。道元も『正法眼蔵』でこれ
を乱発した。

仏教では、供養は心からのお節介ができるかどうかというこ
となのだ。お節介ができない者など、そもそも仏門にすら入
れない。供養というのはそもそも衣食住すべての世話をする
ことで、古代インドでは四種供養といって、衣食住に薬を加
えて病気の世話も供養と考えた。

世阿弥元清 『風姿花伝』 (花伝書)

2006-10-17 23:08:41 | 茶道と禅
『花伝書』の言葉は当時そのままで受容したほうがいい。
 キーワードやキーコンセプトは実にはっきりしている。際
立っている。第1に、なんといっても「花」である。ただし、
何をもって「花」となすかは読むにしたがって開き、越え、
迫っていくので、冒頭から解釈しないようにする。
 この「花」を「時分」が分ける。分けて見えるのが「風体」
である。その風体は年齢によって気分や気色を変える。少年
ならばすぐに「時分の花」が咲くものの、これは「真の花」
ではない。けれども能には「初心の花」というものがあり、
この原型の体験ともいうべきが最後まで動く。それを稽古
(古えを稽えること)によって確認していくことが、『花伝
書』の「伝」になる。

第2のコンセプトは「物学」であろう。「ものまね」と読む。
能は一から十まで物学なのだ。ただし、女になる、老人にな
る、物狂いになる、修羅になる、神になる、鬼になる。その
たびに、物学の風情が変わる。それは仕立・振舞・気色・嗜
み・出立(いでたち)、いろいろのファクターやフィルター
による。

第3に、「幽玄」だ。この言葉は『花伝書』の冒頭からつか
われていて、観阿弥や世阿弥が女御や更衣や白拍子のたたず
まいや童形を例に、優雅で品のある風姿や風情のことを幽玄
とよんでいる。
 しかし、それは芸能の所作にあてはめた幽玄であって、む
ろんその奥には俊成や定家に発した「無心・有心・幽玄」の
余情の心がはたらいている。その“心の幽玄”を見ていくの
は、『花伝書』の奥に見え隠れするもので、明示的には書か
れていない。われわれが探し出すしかないものなのである。
もし文章で知りたければ、世阿弥が晩年に綴った『花鏡』の
ほうが見えやすいだろう。

第4には、おそらく「嵩」(かさ)と「長」(たけ)がある。
 これは能楽独得の「位」の言葉であって、「嵩」はどっし
りとした重みのある風情のことで、稽古を積んで齢を重ねる
うちにその声や体に生まれてくる位である。これに対して
「長」は、もともと生得的にそなわっている位の風情という
もので、これがしばしば「幽玄の位」などともよばれる。
 けれども世阿弥は必ずしも生得的な「幽玄の位」ばかりを
称揚しない。後天的ではあるが人生の風味とともにあらわれ
る才能を、あえて「闌けたる位」(たけたるくらい)とよん
で、はなはだ重視した。『花鏡』にいわゆる「闌位」にあた
る。

第5にやはり「秘する」や「秘する花」ということがある。
すでに述べたように、これは「家」を伝えようとする者にし
かわからぬものだろうとおもう。しかし、何を秘するかとい
うことは、観世の家のみならず、能楽全体の命題でもあった
はずで、その秘する演出の構造を、結局われわれは堪能させ
られているということになる。このことは、別の「千夜千冊」
の項目で、あらためて謡曲論あるいは能楽論として、ふれて
みたい。

こうして「花」「物学」「幽玄」を動かしながら、『花伝書』
はしだいに「別紙口伝」のほうへ進んでいく。
 そして進むたび、「衆人愛嬌」「一座建立」「万曲一心」
が掲げられ、その背後から「声の花」や「無上の花」が覗け
るようになっている。それらが一挙に集中して撹拌されるの
が「別紙口伝」の最終条になる。これがおもしろい。
 この口伝は、「花を知る」と「花を失ふ」を問題にする。
そして「様」ということをあきらかにする。問題は「様」な
のだ。様子なのである。しかしながら、このことがわかるに
は、「花」とは「おもしろき」「めづらしき」と同義である
こと、それを「人の望み、時によりて、取り出だす」という
ことを知らねばならない。そうでなければ、「花は見る人の
心にめづらしきが花なり」というふうには、ならない。そう
であって初めて「花は心、種は態(わざ)」ということにな
る。
 ここで口伝はいよいよ、能には実は「似せぬ位」というも
のがあるという秘密事項にとりかかる。物学をしつづけるこ
とによって、もはや似せようとしなくともよい境地というも
のが生まれるというのである。そこでは「似せんと思ふ心な
し」なのだ。
 かくて、しだいに「花を知る」と「花を失ふ」の境地が蒼
然と立ち上がってきて、『花伝書』の口伝は閉じられる。
 ぼくは何度この一冊を読んだかは忘れたが、いつも最後の
「別紙口伝」のクライマックスで胸が痛くなっていた。









世阿弥

2006-10-17 23:05:36 | 茶道と禅
日常生活の中で常に禅の工夫を世阿弥は『花鏡』の中で次の
ように述べている。
「いろいろな技芸はつくりものにすぎない。それを支えて生
かしているのは心なのだが、この心の存在をひとに見せるこ
とがあってはならない。万一、見せてしまえば、それは操り
人形の糸をみせてしまうような失敗である。----
 さらにいえば、舞台に出て演戯をしているときだけのこと
ではない。夜も昼も、日常生活のあらゆる瞬間に、意識の奥
底の緊張を持続して、すべての動作を充実した心の張りでつ
なぐべきである。このようにつねに油断なく工夫しているな
らば、そのひとの能はしだいに向上して行くいっぽうであろ
う。この条項は、秘伝のなかでもとくに最高の秘伝である。
ただし実際の稽古にあたっては、こうした不断の緊張のなか
で、おのづから締めつゆるめつの呼吸があるべきである。」

無欲、正直
世阿弥なら、最高の能である。金や名誉ではない。学者なら
学問的真理であろう、自己の名声や金であってはならないは
ずだ。ビジネスマンはそれぞれの仕事の品質であろう。宗教
者なら、すべての人々の救いであろう、自己の名声や金や権
力であってはならない。

自我の空虚なことを自覚するので、世阿弥は自分の才能を威
張らない、誇らない。
どの分野でも、上には上があるもので、それを知らず、井戸
の中の蛙が、自分は最高を極めたと、威張って、それ以上の
境地へ向上する努力を怠るものらしい。法華経では、頭での
理解とか、信じただけではだめだ、それでは、すぐ死ぬ「草」
だ、千年も万年も生きる「大樹」になれ、という。世阿弥は
そんな法華経を引用して能の役者に、低いところで自己満足
して低いことを自覚せぬ役者を厳しく注意している。

見所とは観客のことである。世阿弥の能は見所(観客)を、
能になりきらせるという「忘我」がねらいである。役者も観
客も我を忘れ(無心)て、能になるのが最高の境地である。
うまいだの、面白いだの、批評が頭にわいている間は、感動
が低い。我を忘れてぼうぜんとなる。その後、我にかえって、
「ああ、さっきのは何とすばらしいのだろう(後心に安見)」
と後に感動がわく。

日常生活の中で常に禅の工夫を世阿弥は『花鏡』の中で次の
ように述べている。
「いろいろな技芸はつくりものにすぎない。それを支えて生
かしているのは心なのだが、この心の存在をひとに見せるこ
とがあってはならない。万一、見せてしまえば、それは操り
人形の糸をみせてしまうような失敗である。----
 さらにいえば、舞台に出て演戯をしているときだけのこと
ではない。夜も昼も、日常生活のあらゆる瞬間に、意識の奥
底の緊張を持続して、すべての動作を充実した心の張りでつ
なぐべきである。このようにつねに油断なく工夫しているな
らば、そのひとの能はしだいに向上して行くいっぽうであろ
う。この条項は、秘伝のなかでもとくに最高の秘伝である。
ただし実際の稽古にあたっては、こうした不断の緊張のなか
で、おのづから締めつゆるめつの呼吸があるべきである。」

無欲、正直
世阿弥なら、最高の能である。金や名誉ではない。学者なら
学問的真理であろう、自己の名声や金であってはならないは
ずだ。ビジネスマンはそれぞれの仕事の品質であろう。宗教
者なら、すべての人々の救いであろう、自己の名声や金や権
力であってはならない。

自我の空虚なことを自覚するので、世阿弥は自分の才能を威
張らない、誇らない。
どの分野でも、上には上があるもので、それを知らず、井戸
の中の蛙が、自分は最高を極めたと、威張って、それ以上の
境地へ向上する努力を怠るものらしい。法華経では、頭での
理解とか、信じただけではだめだ、それでは、すぐ死ぬ「草」
だ、千年も万年も生きる「大樹」になれ、という。世阿弥は
そんな法華経を引用して能の役者に、低いところで自己満足
して低いことを自覚せぬ役者を厳しく注意している。

見所とは観客のことである。世阿弥の能は見所(観客)を、
能になりきらせるという「忘我」がねらいである。役者も観
客も我を忘れ(無心)て、能になるのが最高の境地である。
うまいだの、面白いだの、批評が頭にわいている間は、感動
が低い。我を忘れてぼうぜんとなる。その後、我にかえって、
「ああ、さっきのは何とすばらしいのだろう(後心に安見)」
と後に感動がわく。


懸詞、縁語、引用が心地よく受容される
能のせりふは、懸詞、縁語が多く、他の物語、和歌、経典か
らの引用が多い。役にふさわしい言葉を、耳なれた和歌、古
典からとってくるのもそれを聞く観客に心地よく受容される。

シテに集中させる
世阿弥の能では登場人物が少ないのが特徴である。観客の心
を一点に集中させようという意図であろう。観客が大勢の人
物を追っていては、心が散乱するであろう。

「一同の気分を演者(シテ)一人に集中させて謡いつづけ
るうちにその気分をしだいに視覚的な姿にも移行させ、もっ
て観客全員の交感が成立して称賛を得るならば、これが成功
した理想的な上演だといえるだろう。」
「為手一人へ諸人の目・心を引き入れて、その連声より風
姿に移る遠見をなして、万人一同の感応となる褒美あらば、
一座成就の遊楽なるべし。」

序破急が考慮される
世阿弥は「序破急」ということをよく書いている。序は、は
じめ、導入部。破は、最も肝要の部分。「序の、本風の、直
ぐに正しき体を、細かなる方へ移しあらわす体なり。その日
の肝要の能なり。」急は、最後、名残の能。
 導入から徐々に盛り上げ、最後近くで頂点に盛り上げ、最
後に静かに終わる。一日の能の配列にも、一曲の中でもこれ
が配慮される。一曲の中では、後場で、動きの多い舞が舞わ
れる、ここが頂点。

はからいなく、自然に動かされる演者
 舞は音に舞わされる、しぐさは詞に先導されるようにせよ。
これはシテが詞に舞わされるのである。これが続くのを見て
いると観客も引き込まれて舞わされるような気分になり、忘
我にはいりやすいと思われる。

▽舞は音声より出て、音声におさまる
「舞は、音声より出ずば感あるべからず。一声の匂ひより舞
へ移る堺にて、妙力あるべし。又、おさむる所も、音感へお
さまる位あり。」
▽先聞後見
演戯というものは、台本に書かれた言葉の内容を本位として
見せるべきものである。そこで、言葉(謡い)に少し遅れて、
しぐさをするべきである。「まづ諸人の耳に聞くところを先
立てて、さて風情を少し遅るるやうにすれば、聞く心よりや
がて見ゆるところに移る堺にて、見聞成就する感あり。-- 
「まづ聞かせて、後に見せよ」となり。」

能の理想美は「幽玄


世阿弥の能の理想美は「幽玄」である。
「しからばただ美しく柔和なる体、幽玄の本体なり。」
幽玄が第一であるが、この境界に入る演者はいない。これは
演者にレベルの違いがある。

「幽玄の風体の事。緒道・諸事において、幽玄なるをもて上
果とせり。ことさら当芸において、幽玄の風体、第一とせり。
まずおほかたは、幽玄の風体、目前にあらはれて、これをの
み見所の人も賞翫すれども、幽玄なる為手(して)、左右な
くなし(容易でない)。これ、まことに幽玄の味はひを知ら
ざるゆゑなり。さるほどにその堺へ入る為手なし。」

「本当に幽玄の正統的な芸風で最高位をきわめた者は、時世
の好みがどうであっても、その舞台効果にはなんの変りもな
いもののように思われる。従って能を書くにつけても、幽玄
の舞台成果をもたらすような素材を本位として書かなければ
ならない。くりかえし強調するが、上代においても、昔も今
も、時代ごとに芸人が得意とする芸風はさまざまであるが、
このうえもなく、しかも永久に天下の名望を得る演戯者とい
うのは、幽玄風を身につけた者だけであるにちがいない。 
--応永年間に自分が創作した能の数々は、後の時代にもさ
ほど評価に変動はあるまいと信じている。」

説法を聞いて、本を読んで理解するだけが禅ではない。頭で
の理解ではなく、生活が違ってこないと、解答が出てこない
ものがある。行動医学、臨床心理学などでも、それが指摘さ
れる。今の仏教学、禅学はこの人間の基本が理解されず、た
だの理解(しかも浅い)に落ちてしまった。その結果、人を
感動させ、救うことができなくなった。芸術も同じであろう。
芸術を頭で理解することと、自ら美を発見し創作する喜びと
は全く違うであろう。

解答を教えることだけが教育ではない。苦労して身体ごとぶ
つかり、弟子が自分から解答を発見する手助けをする師であ
る。そういうふうにして得たものは、その人のものになった
のである。

東山魁夷   東山魁夷芸術の原点となる体験

2006-10-17 19:48:07 | 茶道と禅
すべてを放下した時
「あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる希望も無くなった
からである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、
はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。」

戦争にあって、死を意識した。画壇にも認められなかった。希望が全くなくなった。
天守閣から城下の風景を眺めていたその時、人間としての考えや意志や理想や、
すべて人間的なものが放棄されて、ただ呆然となっていた。その時、生命の輝き
が見えた。人間のはからいが全く止んだ時、生命の神秘に触れる。これは禅者の、
自己(も世界もすべて)を忘れる体験、見性体験と同じだと思われる。
「自分の力でそういう精神状態になったのではなく」という、このことは重要で
す。ある種の宗教信者は「自分」が信じて「自分」が幸福になる、と思うでしょ
うが、そのように「自分」を認めている間は、禅も念仏もキリスト者でも、東山
さんのような深い精神状況には到達しないでしょう。
「自分」のはからい、智恵、努力などを一切放ち忘れて、ただ自己の根底に働く
何物かにまかせていくことをしない限り、生命の輝きも神の恩寵も知ることはで
きないでしょう。「自分」に自信を持っていて、自分の考えや自分の信仰で生き
るという「強い」人には、神は見向いてくれないでしょう。

制作になると、題材の特異性、構図や色彩や技法の新しい工夫というようなこと
にとらわれて、もっとも大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生
命に対する把握の緊張度が欠けていたのではないか。そういうものを、前近代的
な考え方であると否定することによって、新しい前進が在ると考えていたのでは
ないか。」
「また、制作する私の心には、その作品によって、なんとかして展覧会で良い成
績を挙げたいという願いがあった。
万一、再び絵筆をとれる時が来たなら--恐らく、そんな時はもう来ないだろう
が--私はこの感動を、いまの気持で描こう。

こざかしい人間の考えをめぐらし、金や名声を求めている間は、自然の本当の輝
きは見えないことを体験によって悟った。無心、無我の自己の自覚と、それにま
かせる時偉大な力がさずかることの自覚であった。

喜びと悲しみを経た果てに見出した心のやすらぎとでもいうべきか、この眺めは
対象としての現実の風景というより、私の心の姿をそのまま写し出しているよう
に見えた。
この時には、「風景が自己の心そのまま」という主観(自分)と客観(もの)が
一つという自覚が生まれた。この東山画伯の体験は、芭蕉のいう「物我一如」、
西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の「純粋経験」、柳宗悦の「直観」、禅者
誰でもいう「自他一如」と同じであり、無我の体験からくる自覚であると思う。
 無我とは、自我は実体がないことをいい、自我がなければ、ものと我とがひと
つという大いなる自己にめざめる。


禅では、「大死一番、絶後蘇息」(自我に死んで、真の自己に活きる)というが、
東山さんが「死の認識によって生の映像を見た」とは、死に望んで自己を空しく
したとき、自分に働く生の根源を見たというのであろう。それを仏とも神ともい
うが、画伯は、「泉」「もっと大きな他力」、「私の小さな意志なんかではなく、
大きな力」、「無形の何物か」という。画伯が友情をかわした川端康成は、この何
物かを、住吉三部作では「あなた」と呼ぶ。
 
世間の流行には振り回されず私とは何かを追求「その時々の傾向とか流行、新形
式にすぐ敏感な反応を示すとうことがない。時は流れて行く、その中で、いつも
新鮮なものは何か、という問題の方が、私にはより興味があり、切実である。日
本画家である私が、私自身とは何か、をたどり考えてゆくことは、結局、日本の
美は何かの問題に到達する。」

主体の確立である。何が人間の真実かわかっていれば、それから離れたものなど、
目もくれる必要はない。「私自身とは何か」「自己とは何か」、これがすべての
芸術と宗教の根本課題であろう。そこから外れたものも多いが、そんなものは顧
みる価値もない。

●無我の人格と芸術
無我になった時、生命の輝きを見た東山さんの芸術は当然、無我、無心のなせる
芸術となった。自分が描くのではない、何か自己の根底にあって、自己を超えた
ものが、働くのである。
「私を真実に感動させるものは技術の巧みではなくて直観的な生命力の把握である。
「日本の美術は何処へ行くのだろうか? それに直接携わっている私達はせめて
技術の陥り易い無気力と繁雑な意識の過剰に押しつぶされないで、新鮮な生命力
を持ちたいものだと自分自身に云い聞かせたが、現在の自分の仕事を反省すると
重苦しい気持ちになる。」
「重苦しい気持ちになる」とは、謙虚さである。このように東山さんは、自分を
誇らない。お会いしたことはないが、誠実なご人格であることは、文章のすみず
みから感じられる。実るほど頭を下げる稲穂かな、とはこの方のことであろう。

●人間を超えたもの
「画家であると云うことは、人間以外のものであることを必要とする峻烈なものです。

●無心、無我
「自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。自己を無
にすることは困難であり。不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在る
と、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」
「絵などというものは考えても描けるものではありませんし、ただもう無心で描
くということに尽きるのです」
「自然の姿の中にあらわれているものが、私の心の呼吸と一つになると感じた時
にスケッチして歩いた。それを基にして制作し展覧会に出すという考えから離れ
て、自由であり、無心ともいえる精神状態のときに限った。」
 無心に描く。この、ひとつの道を歩く。

●自己を無にする時、自己を超えたものの声を聴く
「人は意志するところに行為がある、といわれます。これはいうまでもないこと
のようですが、しかし、はたしてそうでしょうか。意志するということは、自己
という主体から発するものか、あるいは自己の外に発するものが自己に伝わって、
自己の意志するように導いてくれるものか。
 自己を無にするばあいに、はじめて自分の外から発する真実の声が聞こえるの
ではないか。その真実の声に合致した行動がとれるのではないか。」

●主体の確立
自我を立てて、他者と対立したり、自我をおしつけて他者の意見に聞く耳を持た
ない者は、大いなるものからの力の恵みを拒否している。人は自我を空しくして
こそ、自己を超えたものからの恵みを受けて、真に主体的な働きを実現させる。
一見、逆説的な論理であるから、なかなか理解されないが、これが人間の真理で
ある。東山さんはこういう。

●自我を捨てることが自己の確立
「自己の確立ということは、むしろ、自我を捨てるところにあると、昔からいわ
れている。それは容易なことではない。しかし、そこから、万物へのこまやかな
心の通い合いが生まれる、人生一般の場合でも、大切なことではないだろうか。」
 「ただ、自己を完全に燃焼させて、燃え尽きることによって、人は、なお長い
生命を保ち得るのではないだろうか。」
東山画伯は、師の結城素明から、「こころを鏡のようにして自然を見る」よう忠告
を受けた。(昭和十一年ころ)
「よく自然を見ることだね。心を鏡のようにして」と結城先生から言われた。

●自然は私自身の反映
東山魁夷画伯は、自然と自己について、しばしば語っている。自然を深く見るこ
とは、自己自身の心の奥を見ることである。
「自然に対して私は常に敬虔な気持ちを持っているが、自然は私達画家にとって
は、心の中に発酵して来て表現されることを希っている無形の何物かが、その姿
を借りて形を得、色彩を得る手段である。
自然は又、私自身の反映であって、その中に深く深く自己を投入してゆくことに
よって、自然の微妙な心、即ち私自身の心の奥を見ることが出来る。」
画伯の絵の風景には、人物が出てこない。しかし、「人間」を描いていないわけ
ではない。
「私の風景の中に人物が出てくることは、まず無いと言ってよい。その理由の一
つは、私の描くのは人間の心の象徴としての風景であり、風景自体が人間の心を
語っているからである。」
禅についても触れる。中国の山水画は、無相の自己の表現ではないかと言われる。

「禅が六世紀頃から盛になったことは、自然現象に対しての思索を深め、人間の
奥底にある真の自己である「無相の自己」が表現されているものとしての「山水」
という考え方が宋元の名画の深遠な風格となっているのではないだろうか。」

●風景は心の祈り、心の鏡
「風景は心の窓」とも言われる。汚染された風景は、人間の汚染である。心の美
しい人は、風景を美しく見る、そういうのであろうか。
「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信
じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと
思っている。汚染され、荒らされた風景が、人間の救いであり得るはずがない。
風景は心の鏡である。」
「自然を愛することは、人間を愛することである。自然が荒れてゆくことは、人
の心がすさんでゆくことを意味する。」

●自然と自己はひとつ
 画伯は、常に風景をみつめた。風景と人間の根は一つであると感じる。
「自然に常に接していると、自然と人間は同根のものであると思わないではいら
れない。」
「自然も私達も同じ根に繋がっている。」
「私は自分の芸術を生んでくれた故郷として、日本のいたるところにある自然の
山野や林や海を、もっとも親しいものに感じているのです。」
「自然と私自身とが一つになったことを感じた」

●風景は人間の心の祈り
自然は自己である。自然に相対する時、安息が感じられる。美しい風景と美しい
心でないと安息は感じないだろう。
「自然に相対する時に、私には最も安息が感じられる」
「私の心が澄めば、私の絵も澄み、私の心が深くなれば、私の作品も深くなると
思うのである。
芸術の世界には究極の到達点というものもなく、したがって年齢もない。将来楽
が出来る時も来そうにもない。どこまでも、この道をこつこつと弛まず歩いて行
かなければならない。
「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信
じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。」
「象徴としての風景の中に、心の平安を祈る気持ちが通じ合う」

「私は障壁画を描いているうちに、私にとって描くということは、祈ることだと
気づいた。・・・恐らく、戦後の歩みの最初の作品とも言える『残照』以来、私
の心の底を流れているものは、終始、変らないのではないかと思う。」 
こうして東山さんの言葉を追ってくると、自己は自然と一つである、その自己は
自然を見て平安を得る、そのような自然を描くことが祈りである。自己、自然、
祈り(宗教)が渾然とひとつになっている。そして、東山さんの、生活が。他人
が流行を追いかけても振り回されず、根源的な心の象徴として、自然を描き続け、
生活も誠実で、自分をほこることなく、大きな力に生かされている、と言われる。
 画伯は、禅の人ではないのに、禅の人と同じようなことを言っておられること
に注目を払うべきです。仏教が因果のみという学問からは、自然が自己というこ
とは出てきません。芸術家と禅者が同じようなところに到達している。人間の事
実だからでしょう。

●創造と孤独

東山魁夷画伯は「肯定的な態度」で生きるという。「肯定的な態度」は、「ある
がまま」といえよう。自分の能力や環境を嫌わず、否定せず、与えられたままを
受け入れ、肯定し、そこに自分のできることを行っていくことであろうか。こう
いうと、こういう東山画伯や禅的生き方に悪意を持つ人は、「差別をそのままし
のべ」ということで、差別の肯定だという。だが、仏教や禅でいう肯定とか、
「あるがまま」はそうではないのだ。「いろんな苦しみに耐え」て生きていく自
分の問題なのだ。苦を絶対のものとして見て苦にまけるのではなく、苦を違った
眼で見て、苦を超克していく宗教的なこころの問題なのだ。差別する側の論理で
はない。差別する者は、「あるがまま」になっていない。我利、エゴイズムの眼
を持ち、闘争心、権力の行為を敢えて行う。それは仏教的「肯定」「あるがまま」
ではない。
 「あるがまま」に生きるという。しかし、ともすれば「あるがまま」は傲慢、
エゴイズムな自分の「あるがまま」の人がいる。東山画伯の「あるがまま」は、
誠実、謙虚、素朴、無我のあるがままである。

今、神経症、うつ病などの心の病気、ひきこもり、自殺が多い。大胆に簡略化す
ると、神経症は「不安」をあるがままに受け入れず、不安を嫌い逃げる。「不安」
をあるがままに受け入れない。「うつ病」は、仕事、人間、自分の能力、経済、
など何でも自分の思いどおりになっていないとして、絶えず、嫌悪・不満の感情
を起こす思考をすることによって「抑うつ」の状態になっていく。自己と環境を
あるがままに受け入れ、冷静に観て、そこでできることをしようとする目が曇る。
自殺は、「抑うつ」がひどくなった「うつ病」によることが多い。
 「在るがままに在る、ひとすじの道」を我々も信じいつも感じていたいもので
ある。

どんな場合でも、風景との巡り会いは、ただ一度のことと思わねばならぬ。自然
は生きていて、常に変化して行くからである。また、それを見る私達自身も、
日々、移り変わって行く。生成と衰滅の輪を描いて変転してゆく宿命において、
自然も私達も同じ根に繋がっている。」

真ん中に鏡がある。孤独の人のみが自覚するのである。普通の人は、外が真実だ
と思っているが、鏡を自覚する人は、その鏡の中が真実だという。天地に我一人
という孤独であろう。これは人間の本質的な孤独である。東山さんは、それを描
いた。仏教者も同じようなことを語ろうとしてきたが、いまだに理解されていな
い。容易ではないのである。
 画伯は、孤独の鏡を、絵で語ってきた。しかし、画伯はまた、別の孤独感を抱
えていた。画伯の内面には常に孤愁が漂っていた。

「その後は多くの人々の好意で思いがけなく順調といわれる道を歩んできたが、
私自身の内面には常に払い除けようのない孤愁の淵が暗く淀んでいる。」
「暗い密室は消えることはなかった」
「心の根底に暗さ」









茶道・禅・スノビズム

2006-10-17 09:05:54 | 茶道と禅
茶道・禅・スノビズム

禅と茶道の結び付きは果たして明白なものなのか?

千葉県立泉高等学校 片岡 勝規  

1.はじめに


 茶の湯は禅宗より出たるに依りて・僧の行を專にする也。珠光・紹鴎、
 
 皆禅宗也。(『山上宗二記』)


 茶の湯と禅の結び付きは、利休の高弟、山上宗二の言葉を引用するま

 でもなく、よく知られていることである。抹茶の風味・茶人の立ち振
 
 る舞い、侘びた茶室の佇まい等々、禅宗のストイックな雰囲気は茶の
 
 道のいたる所に看取できる。禅的であると同時にそれは、日本的とい
 
 う言葉もふさわしいと言えるだろう。


 しかし、現象的な面だけではなく、思想的な面でも茶と禅を強く結び

 付けることは可能だろうか? 茶を一杯飲むだけのために必要とされる、

 覚え切れぬほどの煩項な点前。「数寄」の名のもとにくり広げられる、

 かくあるべき価値体系。これらは茶道を特徴づけるものではあるもの

 の、果たして、禅の精神に沿うものなのだろうか? たしかに、禅宗の

 寺には「規矩」と呼ばれる細かい規則があり、食事の仕方から草履の

 上げ下ろしに至るまで正しい作法が決められている。その意味では、

 「点前」と「規矩」の類似性から茶道の細かい決まり事も、禅と無関

 係ではないと言うことはできるだろう。だが、それにしても、現象的

 な共通点以上のものではなく、思想的な裏付けがあるわけではない。

 逆に、禅宗を含めた仏教が目指すのは、いっさいのとらわれやこだわ

 りをなくすことではなかっただろうか? 法外な値段で売買されてき

 た茶器はまさに欲望(煩悩?)の対象であるといえるだろう。そして、

 茶道の美意識とこだわりの体系は、すべてを超越した悟りの意識の前

 ではどれほどの価値をもつのか? こうしてみると、茶道と禅の関係

 は極めてあやういものに思えてくる。




2.記号論的視点から禅と茶道を解釈する

 ロラン・バルトは禅と言語についてこう語っている。


 禅において《悟り》と名付けられているもの、これはおそらく、言語

 の空おそろしい宙吊り、わたしたちの内なる「記号列」の支配を追い

 払う空白、わたしたちの人となりを構成する内的詠誦の割れ目にほか

 ならないのではなかろうか。この無言語の状態が一種の解放であるの

 は、二次的思考(思考についての思考)の増殖・あるいは余分な表徴化

 作用の行う終わりのない補足--つまり言語そのものがその行い手で

 あるとともに規範である悪循環--これが仏教的体験を閉塞するもの

 だからである。逆に、二次的思考の廃絶こそが、言語の悪しき無限を

 うちくだく。これらの仏教体験の一切において、たいせつなのは、言語

 をいわく言いがたいものの神秘的な沈黙のもとに押しつぶすことでは

 なくて、言語に「見切りをつける」ことなのであり、たえず象徴が執

 念ぶかく事物にとってかわろうとする働きを独特の旋回運動のなかに

 まきこんで、表現へと導いてしまう言葉の独楽を停止させることなの

 である。要するに、そこにおいて攻撃の目標となるのは、意味論的作

 業としての象徴なのである。


(ロラン・バルト『表徴の帝国』)


フランスの記号学者バルトが言っているように、禅の目標とすべき地

点は「言葉を停止させる」ことであるといえるだろう。この場合の

「言葉」とは我々が口に出し・読み・書く記号だけを表しているので

はあるまい。ソシュールが提唱した記号学が音声記号だけでなく・広

く文化一般を対象としたように、禅が停止させるべき意味はすべての

価値体系、すべての文化体系に広がるはずである。

そのことは、禅の「以心伝心、不立文字」という教えの中にも見るこ

とができる。《悟り》の経験というものは経典などの言葉で伝えるこ

とはできない。逆に悟りを言葉でとらえようとすればするほど、いわ

ゆる「悪循環」に陥ってしまう。それを手に入れるには(それはもちろ

ん、容易なことではないのだが)、記号の持つ意味作用を宙吊りにする

ことが不可欠だということである。



一方、茶道を記号論的な観点から解釈するとどうなるだろうか。いく

つかの茶書から、茶書の特徴と言える部分を引用してみる。


名物の釜

一 平蜘蛛  松永の代に失す。宗達平釜、藤波平釜、弐つ。但し此の三つ釜は、

当世在りても用いず。

客人類

一 客になりて座敷へ入る事、上座入は、上座の分の障子をあけ、次に下座のほう

をあけ、下座入は、先ず下座の方をあけ、後に上座の方をあくべし。さて、縁より

床ならびに勝手へ目をくばり、気を閑めて座中へ入るべし(以下項目続く)


一 数寄と云う事、何れの道にも好み嗜みを云うべし。近代、茶の湯の道を数寄と

云うは、数を寄するなれば、茶の湯には物数を集むる也。侘びたる人も風炉釜・小

板・水指・水翻・蓋置・茶入・茶碗・茶筅・茶杓・茶巾・囲炉・自在・炭斗・火箸

・花入・画・墨跡・葉茶壺・茶臼等を集むる也。諸芸の中に、茶の湯ほど道具を多

く集むる者これ無し。(同上)


これら茶書のありかたは、現代のカタログやマニュアルとほとんど同

じものと考えてさしつかえあるまい。ここには引用しなかったが、南

坊宗啓が書き残したといわれている『南方録』にも曲尺割(かねわり)

と呼ばれる、道具の置き方の非常に細かい法則がイラスト入りで描か

れている。これらのありさまは、あたかも昆虫の図鑑か、語学の文法

書にも似て、茶の道の文化体系の網の目の様子を示している。

徹底した様式化とその反復、そして、反復による様式のさらなる洗練。

茶の湯の文化は、武道や芸能と同じように、コジェーヴの言う日本的

スノビズムの様相を呈している。この饒舌な姿はそのままでは《悟り

=言葉の停止》と縁があるとは言えないだろう。これらのスノビズムと

禅の間に関連があるとすれば《悟り》そのものにおいてではなく、そ

こに至るまでの過程においてではないだろうか。先にも述べたとおり、

禅寺での修行僧の生活が事細かに規則によって規定されていること。

そして、日本曹洞宗の開祖、道元が「只管打坐」と伝えるように、た

だひたすら座禅を反復し、打ち込むこと。これらはいずれもそれ自体

は《悟り》そのものではなく、あくまでも《悟り》に至るための過程

である。このように、茶道をはじめとする日本のスノビズムの文化は

禅の精神そのものというよりも、禅の形式の引用といったほうがよい

のではないだろうか。


3.おわりに ―― 禅の引用としての茶道文化の積極的な意義前項では、

 茶道をはじめとする日本のスノッブな文化は、禅の《悟り》そのもので

 はないということを述べた。だがそれは、茶道では禅の修行にはならな

 い、ということではない。「仏法を以て修行得道する事也」(『南方録』

 覚書)といわれるように、茶道が《悟り》に至る過程を引用しているもの

 ならば、それをたどって大悟する可能性もある。また、それは茶道に限

 ったことではなく、唐の普化禅師を開祖とする普化宗では、吹禅と称し

 て尺八を吹くことを修行とした。さらに、道元が宋に渡った時に年老い

 た典座(食事係)との問答で理解したことは、禅者にとって本来雑用はひ

 とつもなく、すべてが仏道の実践であるということであった。つまり、

  食事を作ることでも、掃除をすることでも、それが何であろうと《悟

 り》に至る可能性はあるということだ。

 この、可能性の広がりが茶道文化を豊かにする契機となっている。それ

 に関連して、西田幾多郎の弟子、久松真一はこう言っている。茶道文化

 の内容というものは、非常に広汎にわたるものでありまして、普通はた

 だお茶をのむ、ある一定の作法によってただお茶をのむとか、あるいは

 手先の点前とかが、お茶だというように考えられている向きもあると思

 いますが、しかし、茶道というものをよく考察してみますると、これは

 非常に広汎なものであります。日常生活の掃除とか食事とかいうような、

 ごく普通の、何でもない日常些事といわれるような事柄から、人間生活

 としましては一番深い高いものであるといってもよいと思われまする謂

 わば非日常的な宗教というようなものにいたりますまで、全体を包括し

 ているのであります。だから芸術の方面もありますし、あるいは道徳の

 方面もある。そしてそういうものが一つの体系をなしている。そこに茶

 道文化の体系というものが成立しうると思うのであります。   (久松

 真一『茶道の哲学』)


 久松氏はこの著作の中で、禅とは文化と人間の否定であると述べている。

 それは、前に述べたとおり、文化=記号の意味を宙吊りにする営みが

 《悟り》であることを意味している。一見すると、このような文化や人

 間という価値を否定する思考が、新たな価値や文化を生むことは不可能

 のように思われる。しかし、日本のスノッブな精神はその困難を軽々と

 乗り越えて、固有の文化の様式を洗練させる。この軽やかなジャンプ力

 こそが日本文化の本質といえるのではないだろうか。

「おいしいお茶」。簡単なようですけれども、少しばかり思いかえしてみると、
それが実に容易でないことがわかってきます。日々、本当に「おいしく」「お
茶」をいただいていますか? これまで本当に「おいしいお茶」をお出しした
ことがありますか? みずからに問うてみると恥ずかしい限りです。
 たとえば茶事においては、すべてが一碗の「おいしい濃茶」のためにあると
いっても過言ではないようです。初座で炭をくべる時、主(あるじ)は濃茶を
点ててお出しする時にちょうど良い服加減となるように、「火あい」「湯あい」
を工夫します。また、懐石は決してメインではなく、「おいしいお茶」をいた
だくためのプレリュードと言えるかもしれません。そして、席あらための後、
いよいよ濃茶のお点前。亭主から出されたよく練り上げられた濃茶を、正客は
一口ふくむと
主(あるじ)「いかがさまでございましょうか?」
客(きゃく)「たいへん結構なお服加減でございます」
一座のクライマックスがここにあります。「主」は「客」に如何に「おいしい
お茶」をお出しするかにのみ心をくだき、「客」は「主」のお茶
をただ「おいしく」頂戴します。そこには何の「まじりけ」もありません。