宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

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宮崎慈空老師

2006-10-17 10:25:32 | 禅とは
正師との出会い

禅とは、何かの苦悩、問題を感じた人が、己事究明をするこ
とだとされる。つまり、何かの問題を感じるのは、真の自分
を知らず、現状の自分に落ち着いていられないために、真の
自己を究明するものであるという。
真に己事究明をなしとげた先達、正師に会うことが大事とな
る。

子供が一歳四カ月の時に妻と離婚、そんな頃、以前付き合っ
ていた女性が病死したことを知った。その女性の母親から切
々たる想いを託した便りが届けられた。
「この二つの出来事が効果的なダブルパンチとなって私の人
生に対するそれまでの自信と展望を根底から崩壊させ、人一
倍強かった自尊心をズタズタに切り刻み、私を個の破産状態
に陥れた。宗教臭いことが嫌いで、かつて一度も佛教書の類
いを繙いたことのない人間が、こうして「無常」を骨身に徹
して体感することになる。」

「私は般若心経の「無眼耳鼻舌身意」に何か生死を超えた重
大な真理が語られていることを直観し、心経を心のよりどこ
ろとした。

豁然として釈尊の生まれる以前からの本地の風光が現前した。
物がただそれ自体の作用の連鎖のままであり、どこにも中心
や基準がない。それも今始めてここに踊り出た風光ではなく、
過去現在未来の切れ目なしにぶっ通しなのだ。いわゆる「不
生不滅」の様子。
およそ人為の及ぶ消息ではなく、認識の主体が落ちているか
ら「無眼耳鼻舌身意」そのものである。「事事無礙法界」と
いう言葉があるが、たとえようもない静謐、故国にあるが如
き安らぎの世界なのだ。これによって私は、病死された過去
の女性を含め、一切万物の成佛を見届けたのである。」(1)

宮崎師は、見性した。原始仏教経典で、「涅槃」「寂静」と
いう言葉で表現している人間の原事実を証する体験でああろ
う。釈尊が初めて体験したものであるとされる。大乗唯識説
では「真見道、無分別智」といい、禅では「自己を忘るるな
り」(道元禅師)という。自分一人の成仏ではなく(2)て、す
べての人が、そのように成仏しているという自覚。

師との出合いということから言えば、何処に縁が転がってい
るか判らないものだ。ただ自分から求めて歩かなければ、
「正師」の方はむしろ日日遠ざかって行くとも言えるー生死
無常という意味で。私が敬宗老師に晩年において相見できた
のは、得難い勝縁であったものと、今にして思うのである。

「仏道の行程」は、通常は、「師との相見ー修行ー見性体験
ー見性後の修行ー大悟ー慈悲行」という行程をたどる
指導を受けない人が、自然に見性体験を得ることがあるのだ
ろう。日本では、芸術家にそれがあり、ドイツのエックハル
トもそうであろう。禅や仏教は、縁起説を思惟、理解するだ
けでもなく、坐禅をして終わりでもない。それでは、みな自
我(自他を苦しめるエゴ)を残している。解脱、悟道は、釈
尊以来、多くの禅僧が証言している。

オウム真理教など新興宗教の教祖などで、解脱したとか、釈
尊の生まれかわりだ、とかいうものを見ればわかる。違うも
のを描いて(見取見)悟りだと錯覚して、確信してゆるがな
い。しかし、仏教の悟りではないから、醒めた者から見れば、
こっけいである。自分の我見(見取見)で描いた悟りは、自
分にも他人にも誠実ではない。本来誠実で、自由を得られる
はずの人を、浅いところに抑圧して、矮小な人間につくりあ
げる。

悟ったという体験をかえりみることもなく(仏法を知りたい
人にやむをえず慈悲心から語る場合を除いて)、悟ったとい
う慢心、執著などはないが、その後の、生活の根底に、悟っ
たことによる落ち着いた生活がある。求める必要もなく、慢
心する必要もなく、苦悩する人に会えば教えることができる、
そういう生活に自然に活かされていく、というのであろう。

自分にもある貪・瞋・癡・慢・悪見を深く洞察もせず、好き
嫌い、感情に影響された頭でつくりあげた説では、自分とは
何か、成仏とは何か、死んだらどうなるのか、心の病気で深
く苦悩する人の問題を解決できない。だから、心を病む人、
自殺する人、いかがわしい教祖崇拝のカルト宗教(1)などに
向かう人が跡をたたない。多くの仏教学、禅学、禅僧の説が、
魂の宗教ではなく、頭で学習する思想になっている。仏教の
真意が曲げて説かれているのであろう。

中国では、禅が盛んだったのに、やはり、叢林という大規模
な寺院の中での僧侶だけの禅(悩みのない僧侶たちが機鋒す
るどく自己の向上をめざす)が中心であったから、禅や宗教
が断圧されると、大衆に根づいていない禅も滅亡した。
一般在家大衆を忘れて、学問好きな者、僧侶中心の叢林の中
でしか通用しない仏教の末路は、みな滅亡の道をたどった。
今の日本も学問研究と宗門の中でしか通用しない思想づけの
宗教行為(加持・祈祷・坐禅など)の二つが隆盛を極める仏
教であり、一般在家大衆の現実の苦悩を軽視している点で、
インドや中国の仏教、禅の滅亡前の状況に似ているであろう。

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2 コメント

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ウソ (円空)
2015-08-15 10:05:49
慈空さんが見性したなんてウソですよ。
彼が言っていることは、
すべて本からの引用です。
なにからなにまでパクリですよ。


Unknown (正師)
2021-05-02 19:27:42
以前、慈空さんに会ったとき、やたら
「正師を得ずんば、学ばざるに如かず」
とおっしゃる ので、「では師になってもらえますか?」というと、「それはあなたの問題だ」と云われた。
意味不明でしたのでそれ以上は、
相手のプライドを考えて差し控えましたが、確かに悟ってはいない・・
と思いましたね。

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