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●武道と茶道

2021-10-13 18:44:03 | 茶の湯
茶の湯を「心」の部分を禅に中心を置いて、思った事を記したが、今回は茶の湯の点前を日本の武道の「技」から見て、取り入れる事が出来ないかを考えてみる事にしよう。

「修業論」光文社新書 内田樹より(うちだ たつる/哲学者であり合気道7段)

●「敵」とは「私に心身のパフォーマンスを低下させる要素」である。敵とは同じルールで戦う「対戦相手」に限定されない。武道家が「敵」という概念を出来るだけ広義かつ網羅的にとらえ、それを効果的に統御する技術を習得しようとするのは当然のこと
である。「天下に敵無し」とは、敵を「存在しては成らないもの」と捉えないという事である。そういうものは日常的風景として「あって当たり前」なので、特段気にしないという心的態度の事である。
茶の道では? 敵という言葉は当てはまらないが、茶会日の天候や自分の体調、点前でのトラブルなど事前に心配しても無駄な事や直前に避けられない自体になる事は往々にして起こりえるものだ。利休百首にあるように、「降る前に雨具の用意」など、前持っての心の準備や、あって当たり前とトラブルが生じた時にパニックにならないように日常想定外を心に止め、日々心身のモードの切り替えを出来る人に癖を付けること。


●「敵を作らない」とは、時間意識を書き換える事なのである。
「間髪を容れず」に反応するとは、反応しないという事である。入力と出力、刺激と反応という継起的なプロセスに即して出来事を見てはならない。入力と出力のタイムラグをゼロにすること。それが答えである。「即答しようと怠りなく準備している主体」がどれほど素早く反応してもそれは即答には成らないからである。
茶の道では? 茶で「石化之機」の状態をお点前に活かす事が有るのかどうかは理解しにくいが、お点前の中には「同時の連続」でもあり、トラブルへの予想して動くのでなく、脳からの指令を待つ事なく、前でもなく、後でもなく、今この時点の新しい生き方に喜怒哀楽に迷う事なく受け入れてほしい。


●現代における「真剣勝負の場」とは日々生業を立てている「現場」である。そこで私達の身に備わった生きる知恵と力を開花させるために役立たないのであれば、「武術」とは言えない。
生業の場は、日頃の稽古の成果を発揮する場で有り、道場において何をどう稽古すべきかを思慮する場でもある。
茶の道では? 技法を稽古する事は言うにおよばず、お点前自体が究極の目的では無い。日々の場でも所作や態度において訓練かつ勉強になるし、稽古場に於いては個々の技量を高めるとともに自分ならではの「真・行・草」、「心・技・体」、「序・破・急」、「守・破・離」や「間・残心」などを心がけなければならない。
その他、師匠や仲間から受ける「見取り稽古」や知識など自分だけではない、一人稽古では味わえない場なのだ!


●武術の稽古を通じて開花される能力のうちでもっとも有用なものは、間違いなく「トラブルの可能性を事前に察知して危険を回避する」能力だからである。実践的な意味での「生き延びる力」である。最も重要な能力は、「集団を一つにまとめる力」である。
端的に言えば、「他者と共生する技術」、「他者と同化する技術」である。合気道とは、その技術を専一的に錬磨するための訓練の体系で「愛と和合の武道」と考えている。
初心の合気道家は、この「愛と和合」を、漠然とした精神的・道徳的な目標のようなものだと思っているかもしれない。だが、これは極めて精緻に構成された技術の体系である。
茶の道では? 良い茶会とは、客との共生であり、気を合せて相手との一体化、気配りである。茶室や茶道具、技とも同化し、共に動く伴頭、お運び、料理、進行役などをまとめる愛のある亭主の「コミニュケーション能力」ではないだろうか。
ある一点に特化したバラバラ感や、ましてや利益誘導によって統合された集団ではあってはならない。


●武道を修業してきたものなら誰でも「無我無念」とか「則天去私」とか「梵我一如」といった言葉は知っている。「我執を捨てないと技芸は上達しない」という言葉は誰でも知っている。
敵を忘れ、私を忘れ、戦う事の意味を忘れた時にこそ人は最強となる。最強の身体運用は、「守るべき私」という観念を廃棄した時に初めて獲得される。敵を無くすには「これは敵だ」と思いなす「私」を消してしまえばいい。自己点検禁止、自己評価禁止、自画自讃禁止。 「木偶の如く愚者の如き容姿」を理想。
稽古を重ねると、「なんとかうまく動こう」という意思が消えて、何事をなす時も無心無念となり、まるで操り人形が踊っているようになる。その「操り人形」こそが、武道的身体運用の理想であると柳生宗矩は書いている。
茶の道では?  無心・無体・無私によって、お点前を褒められたいとか、道具を自慢したり、客に不快感を持たせたり、逆に卑下しすぎるのも良いもんではない。利休のお点前は「夕暮れ時の雨上がりの感じ」と書かれたものがあったが、嫌みのなく、爽やかで、春風が吹いているような、お点前だったのだろう。


●「減点出来ると」いう事は「満点を知っている」という事になる。だが、考えれば自明の事だが、「完成形」というものを仮想的にではあれ先取りするというのは、単一の度量衡に居着くという事を意味している。これは武道的には致命的である。というのは、武道においても、身体技術の向上は、ほとんどの場合、「それ迄そんな身体の使い方が出来るとは思ってもいなかった使い方」を発見するというかたちをとるからである。
茶の道では? 居着くという考え方は習い事においては進歩が閉ざされた、創意工夫もないものになってしまう。身体技術から見れば、持ち方、置き方、歩き方、座り方、開け方、閉め方、捨て方、入れ方など、あらゆる状態の変化に対しても「美しく、美味しくお茶を立てられるのか?」と思い続ければ「思ってもいない身体の使い方を見つける事が出来る。これこそ「奥義」


●政治家たちの好きな「常在戦場」という言葉は、本来は「時間的リミットが示されないままに、身体能力を常に高い水準に保っておく」という事を意味している。それは言い換えると「戦争を生活する」という事である。「戦いを生き延びるということを、日常生活の自明の目標として、淡々と日々を暮らす」ということである。道場はそれに備えるためのものである。けいこは、競ったり、争ったり、恐れたり、悲しんだりする事を免れて、ただ自分の資質の開発という一事に集中する事が許された、特権的な時間である。道場はそれを提供するための場である。
茶の道では? 茶の湯には日常の生活の中に稽古場がある。水屋での道具を置く場所や点前の手順において流れるように、決められた時間を進む。終われば後片付けなど始めにあったままの姿に戻っている。修行する事により無駄のない、美しい、整理された構成力や統制力を身につける事が出来る。料理する事や職人や事務などの普段の仕事にも生かされて来る。「仕事のできる」人の様を手本に見習う心がけを持とう。出来る人の周りはきれいに整理整頓されているものだ。


●暴走して来る車に対処する時、刻一刻と形を変えているが、その変化にはある法則性がある。この法則性を読み切ったものは衝突を免れる事が出来るが、「何だか分けの解らないもの」が切迫して来ると私に居着いたものは生き延びる事がむずかしい。
適切な状況判断が「できない」のは、遭遇した出来事が「想定外」だからである。何が起きるのか「待つ」構えは、原理的に「後手に回る」。どれほど迅速かつ的確に反応したとしても、そもそも「反応する」ということが「遅れる」という事を前提にしている。
「狐疑」に居着いている人間は、外からの操作的介入に極めて感受性が高く、こちらの指一本の動きにも敏感に反応し、技をかける側から言えば、「狐疑」に居着いたものは活殺自在なのである。
(狐疑とは何が我が身に起きたのか、起きつつあるのかを知ろうとする。この状態を武道的にいう。)
茶の道では? 失敗もしていない段階からどうしようと「狐疑」に捕われると、身体が硬くなり、頭はボーッとして、何時もの自分ではない状態になってしまう。博打打ちは幾ら高額な掛け金の時も「ソヨトモ」心を動かさないそうだが、凡人には無理な話し。そんな時どうすれば良いかは人それぞれにあるのであるが、私の場合「笛の発表会」では、まず自分は「今、上がっている」と自分に言い聞かせる。上がってるなら、上手く出来なくても「しゃ〜〜〜ないべ!」「恥かいても今だけだ!」と開き直る。次に、頭の酸素不足にたいし、大きく腹式呼吸を3回程行う。其の後、硬くなっている口や指をマサージして揉みほぐす。これが今の俺の実力で、それ以上でもなく、それ以下でもない。