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無事是貴人(臨済録)

2006-10-17 23:37:27 | 禅語
無事是貴人(臨済録)ぶじこれきにん

『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語
が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安
泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走(しわす)とい
われるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事
に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、
平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありま
せん。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人
とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、
安心であり、道の完成を意味します。
 私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違(たが)わぬ純粋
な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあり
ます。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になる
ことであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に
求めてウロウロするのが現実です。
 「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と、臨済
禅師は喝破(かっぱ)します。求める心があるうちは無事ではありません。
「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事で
あるのです。その無事が、そのまま貴人です。
 「但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(な)かれ、祇(た)だ是れ平常(びょう
じょう)なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずか
しい」の反対語に「造作(ぞうさ)なく」という言葉があります。当然のこと
を造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる
境界(きょうがい)に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがまま
に、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」と
いうべきです。
 今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千
利休の茶の師である武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に依頼されて花を活けま
す。あまりの見事さに感心した紹鴎は質(ただ)します。
「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」
 専応は答えます。
「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けまし
た」
 沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたい
とかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いている
だけです。
 専応も花活(い)けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹
鴎を感心させようと小細工を弄(ろう)するわけでもありません。造作なく、
すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一
本一本挿していっただけです。
 専応もまた、無事底の一人であるのです。


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