茶道を語るには余りにも大きすぎるので、
まず茶道を分解してみよう
初めは人間の感覚の総称である・・・五感から
❶視(目で見る・観る)=掛軸・お道具や所作・お茶の色など目で見る所から始まって、もっと深い所を心の眼で観る。観の眼で、観察者の目で物を見る。
観察すると言うことは「これは何だ!これで良いのか」を疑って判断する事が出来る。見えないものが見えてくる。
❷聴(耳で聞く)=戸を開ける音・畳をする音・湯の沸る音、注ぐ音・茶を点てる音・亭主や客の話し声を聞く。
ただ耳から聞こえてくる聞くでなく、聴くは注意深く正しく聞く。ここでもまた疑う心でふかくききわける。
❸嗅(鼻で嗅ぐ)=お茶の匂い・お炭の匂いなどを単に匂いを感じ取るだけでなく、わかりにくい事を探り知る。探り出す意味がある。
お香などは匂いを深く吸い込むことによって、知覚する嗅ぐとなる。
❹味(口で味わう)=飲食物に対する舌の感覚(味の基本は5つの種類がある)お茶や菓子などましてやお茶事においての、あじ・味覚の他に、
物事のオモムキ、趣味や興味・賞味など物事を考えて理解する肌感覚も味に含まれるのか?
❺触(手で肌でさわる触覚)=皮膚感覚の一種で、物に触れた時に感じる感覚。圧覚とも良い、指先・くちびる・舌の先などは特に鋭い。
お茶の世界では茶碗などが一番触に影響される。用の美の素になる感覚で、顔以外の部分での危険から対応する生きるための感覚。
五観から始まり次は「心・技・体」での茶道の分解
仏教には五感どころか8観まであるそうだが私のレベルでは第6感止まりです。
五感の感覚から第六感の意識(ここでは見えない物、言葉に表せられない物、簡単に言えば「心」と表現して行きます)
ある方が「体感」と「心感」と分けて、心の中にある物物を外から刺激して膨らせる物。感動などがそうだとしておりました。
❻識(しき)=知る・考える・悟るの意味があるが仏教用語として、意識や心の働きを指すこともある様です。
ここからは哲学や脳科学の世界に入っていくそうなので、専門分野の方にあとはよろしく!
茶道に特化しての心には何があるのだろうか?掛け軸からの禅語や茶道百首などから少しは自分を見つめ、
残り少ない寿命を心安らかに送る手段として、また充実した生活を送る糧として茶の湯に「浸る」身でありたいと切に思います。
心の大切さは、相手を思う心尽くしにつきると自覚してます。なので大寄せのお茶会からはこころの修行はちと難があるかも?
「体」は自分では何とも仕様のないもんでして、産まれ出たあり用は何ともしゃ〜〜無い。訓練・お稽古など気休めはやめてくれ。
低いものは高くはならないし、短いものは長くはならない。最後に残った
「技」は術なので、正解はないので自分に合ったように改善・改良して行くのも一つの手かも知れません。茶道で技となる部分に呼吸法がある。
吸う、吐くにより腰を伸ばす、曲げるの動作や、茶器などを置き合わせ、戻る手などの間や気持ちの入れ方が大切。
茶道は総合芸術だ!と言われることに理解はできるが、これ全てを同時に行なっているお茶人ってすごいですな〜〜〜。
結論:私にとっての茶道とは、足湯ならぬ身の一部を茶の湯の世界に浸ること。
まず茶道を分解してみよう
初めは人間の感覚の総称である・・・五感から
❶視(目で見る・観る)=掛軸・お道具や所作・お茶の色など目で見る所から始まって、もっと深い所を心の眼で観る。観の眼で、観察者の目で物を見る。
観察すると言うことは「これは何だ!これで良いのか」を疑って判断する事が出来る。見えないものが見えてくる。
❷聴(耳で聞く)=戸を開ける音・畳をする音・湯の沸る音、注ぐ音・茶を点てる音・亭主や客の話し声を聞く。
ただ耳から聞こえてくる聞くでなく、聴くは注意深く正しく聞く。ここでもまた疑う心でふかくききわける。
❸嗅(鼻で嗅ぐ)=お茶の匂い・お炭の匂いなどを単に匂いを感じ取るだけでなく、わかりにくい事を探り知る。探り出す意味がある。
お香などは匂いを深く吸い込むことによって、知覚する嗅ぐとなる。
❹味(口で味わう)=飲食物に対する舌の感覚(味の基本は5つの種類がある)お茶や菓子などましてやお茶事においての、あじ・味覚の他に、
物事のオモムキ、趣味や興味・賞味など物事を考えて理解する肌感覚も味に含まれるのか?
❺触(手で肌でさわる触覚)=皮膚感覚の一種で、物に触れた時に感じる感覚。圧覚とも良い、指先・くちびる・舌の先などは特に鋭い。
お茶の世界では茶碗などが一番触に影響される。用の美の素になる感覚で、顔以外の部分での危険から対応する生きるための感覚。
五観から始まり次は「心・技・体」での茶道の分解
仏教には五感どころか8観まであるそうだが私のレベルでは第6感止まりです。
五感の感覚から第六感の意識(ここでは見えない物、言葉に表せられない物、簡単に言えば「心」と表現して行きます)
ある方が「体感」と「心感」と分けて、心の中にある物物を外から刺激して膨らせる物。感動などがそうだとしておりました。
❻識(しき)=知る・考える・悟るの意味があるが仏教用語として、意識や心の働きを指すこともある様です。
ここからは哲学や脳科学の世界に入っていくそうなので、専門分野の方にあとはよろしく!
茶道に特化しての心には何があるのだろうか?掛け軸からの禅語や茶道百首などから少しは自分を見つめ、
残り少ない寿命を心安らかに送る手段として、また充実した生活を送る糧として茶の湯に「浸る」身でありたいと切に思います。
心の大切さは、相手を思う心尽くしにつきると自覚してます。なので大寄せのお茶会からはこころの修行はちと難があるかも?
「体」は自分では何とも仕様のないもんでして、産まれ出たあり用は何ともしゃ〜〜無い。訓練・お稽古など気休めはやめてくれ。
低いものは高くはならないし、短いものは長くはならない。最後に残った
「技」は術なので、正解はないので自分に合ったように改善・改良して行くのも一つの手かも知れません。茶道で技となる部分に呼吸法がある。
吸う、吐くにより腰を伸ばす、曲げるの動作や、茶器などを置き合わせ、戻る手などの間や気持ちの入れ方が大切。
茶道は総合芸術だ!と言われることに理解はできるが、これ全てを同時に行なっているお茶人ってすごいですな〜〜〜。
結論:私にとっての茶道とは、足湯ならぬ身の一部を茶の湯の世界に浸ること。