宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

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楓葉経霜紅 ふうようはしもをへてくれないなり

2006-10-17 23:32:23 | 禅語
出典等は不詳ですが、暑い夏が終わり、秋が深まってくると茶席でよく見
かける句です。
 「楓葉は霜を経て紅なり」の句もその辺の消息を云おうとしています。
「楓」とはかえでの事、即ちもみじとも云います。楓の葉は骨に徹するほ
どの厳しい霜を経験して初めて真赤に紅葉し、そうでなければ美しい紅葉
は見られないというわけです。私達もこの楓葉のように人生の様々な苦労
を経験し、それを耐えしのぐ事によって初めて人間として成長すると云っ
ているのです。私達は何かというと安易な道を選ぼうとしますが、時には
求めて「霜」の厳しさも味わう必要があるのではないでしょうか。
苦難艱難を一つ一つ克服する事によって人生の深みも増し、何物にも負け
ない強い人間に成長するのではないでしょうか。
 井伊直弼は、文化12年(1815)に十一代彦根藩主の十四男として生ま
れますが、五歳で母を失い、十七歳で父と死別します。嫡子ではなかった
ので、井伊家の家風に従い、藩から三百俵の宛行(あてがい)扶持(ふち)を
支給され、城内を出て北屋敷に移り住みます。しばらくして大名の養子口
の話で異母弟と二人で江戸に出ますが、弟が選ばれ失意の内に帰彦します。
 そして自分の居室を「埋木舎(うもれぎのや)」と呼び閑居します。
その間、経済的にもかなり苦しかったようで、直弼はこの世の辛酸をつぶ
さになめることになります。しかし直弼はこのような境遇にあっても、
「ただうもれ木の籠(こも)り居て、なすべき(・・・・)業(わざ)をなさまし
とおもひ……」と決してひがむ事なく、なすべき業がありと積極的に学問、
修養に励みます。
 居合術では一派を創立するほどの腕前となり、茶道では片桐(かたぎり)
宗猿(そうえん)に就き石州流を確立し、『茶湯一会集』を著わします。ま
た、本居(もとおり)派の国学者
長野義言(よしとき)と共に、国学の研究に没頭します。しかし忘れてなら
ない事は、直弼のこの充実した精進の裏には、禅の修行があった事です。
「大徹底(だいてってい)の人はもと生死(しょうじ)を脱(だっ)す。何に依
(よ)ってか命根(みょうこん)不断(ふだん)なる―大悟徹底した人は生死を
超越する。どうして生死に執らわれない命を得る事が出来るか」
という仙英和尚の問いに、直弼は即座に、わたつ海の底にはふちも瀬もな
くて 水のみなかみ常にたえせずと答えます。
無根(むこん)水上の活飛龍(かつひりゅう)
雲を排し霧をひらいて九重(ここのえ)を出(い)づ
威気(いき)自然(じねん)畏(おそ)るる処(ところ)なし
霊幽(れいゆう)未(いま)だ窺(うかが)い窮(きわ)むることを許(ゆる)さず

 和尚は直弼を活(い)きて飛ぶ龍にたとえて讃嘆します。井伊直弼といえ
ば、「茶人」「剣人」「国学者」「大老」というイメージですが、禅道に
おいても深い悟境があったのです。
 苦節十八年、十二代藩主の死によって直弼はついに十三代の藩主となり
表舞台に出て来ます。長年の下積の生活で一般庶民の心情や生活がよく理
解出来たので藩政でも実績を上げる事が出来、それが認められて幕府の要
職に招かれ、ついに開国を断行し、日本の命運を開く事になるのです。思
えば埋木舎の不遇な時代の「苦闘」があったからこそ、後の「井伊直弼」
があったと云っても過言ではありません。直弼の一生、「楓葉は霜を経て
紅なり」の句と重なります。


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