●私の感じた茶史
現代の茶道は、久松真一が言うようにここまで「禅なる物」でなければならないのか?
禅僧により日本にはいり、僧によって飲まれていたお茶が、時の権力者や、知識人へとでてゆく。そこで婆娑羅と出会い、闘茶や、綺羅びやかで、何もそこには思想的な物はない「茶の湯」となる。そういう世の中であればあるほど、ついて行けない者が表れてくるものだ。此れはいつの時代でも同じではないだろうか?そんな「もやもや」とした所に、茶の湯の経験を持つ「いいとこのお坊っちゃん」が、其の時の反逆者とまではいえないが、反抗精神の強い一休禅師との出合いにより、若さと知識欲でそこを寝城とする若い教養人と熱にうかされた者のように、けんけんがくがくと討論しあい、段々と茶道の形が出来上がって行ったのではないだろうか。
歴史の司書には表れない「もやもや」の人達に賛同され、協力され、引き立てられたのではないか?
革命児でもないし、人間形成を狙ったのでもない、ただ素直にお茶が好きだった男が、「場」と「時」の動きにより、其の時代の流行と反対の力が働く振り子現象のように、堕落した物が大きければ大きいほど、段々と振り幅が大きくなり侘びの精神が生まれて来たのではないか。
時代も戦国時代に入り、禅の教えを基としていた茶道が、いくさ、戦に明け暮れ、常に「死」と対面しなければならない武士のより所として、武家社会に取り入れられた。其の精神とは別に茶道の道具に付加価値を付け、場を設け、上手く利用した男が信長ではないだろうか。
茶人は折よく、上手くスポンサー・パトロンを見つけ茶道発展の夢を見つつ、台子のフォーマル点前に励んでいった。信長の死後、秀吉が最高権力者となるが、所詮生まれは「山ざる」、何処かにコンプレックスを持っていただろう。其の時代の教養として求めるには、此れだけ幅の広い、奥の深い茶道をおいて他にはなかったのではないだろうか。時の権力者は、茶道の今で言うカリスマの利休を身近に置く事により、自分の足りない部分を補い、誇っていたのではないだろうか。また利休も自分の成しつつある侘び・寂の茶道を完成し、茶道の支配者になる為には、秀吉と持ちつ、持たれつ、ギブアンドテイクの世界で、やっていたのではないだろうか。
しかし、純粋培養に近いタカだか茶人と、秀吉、家康などは戦国時代を命をかけて生き残り、人も、物も見る目も違う。我々凡夫が「どうの、こうの」と訳知り顔で語るレベルではない権力者とでは、何処かに噛み合わない物があったのだろう。ワンマンな天下人と、其れに従服している諸大名とでは、まるで違う人種なのだという事に、気を付けなければならなかったが、禅宗を身に付けている茶人として、最高権力者の汚さ醜さが見えてはいたが、ささやかながら、手を変え戦っていたのではないだろうか。
朝顔の件にしても普通は、ここまでやるか? 美の追求というより、他の者の犠牲により、生き残っているのが「アンタナンダ!」と嫌みをぶつけて戦っている利休を感じる。他のエピソードもこの目で見たら底に流れている闘志が、見えるのではないか。
利休の最後も、戦い疲れ、矢が折れ、「やけっぱち」でなく最後まで戦い、「相打ち」の心意気が見えてくるのは私だけだろうか。---利休は勝った!---
利休最後の歌には、禅宗の教えは生きているのだろうか。自分と、権力者、二人のための「戦いの茶」は、此れで幕となる。
利休の後の茶人は、茶道の「道」のための、形だけの「禅」を残し、形式を重んじた、我が身可愛さの「ヨイショの茶」となる。その後も、いろいろと茶人は変わるが、元から外れたリサイズ、リバイス、リサイクルの「道」としか感じられない。
其れでは、今の時代の茶道とは「なんなのか?」「どんなんだ!」と思う。
それは、もはや「○○○の茶」と一言では言えないない、色んなバリエーションがあり、□□□中心のお茶になって行くのではないだろうか。其のコンセプトは、平和であったり、癒しであったり、拝見であったりの個性を活かした創造性豊かな個人の茶道になって行くと感じられる。久松師ほどの茶道の落ち目を感じたくないのが本音だろう。
何でも飲み込み、咀嚼し、吐き出す。これが日本の地の「気」なのだ。