一、仏教を信じ、仏教を実践することは、信心によって安心出来た、救われたという体験があるからです。安心の生活をしていく為のよりどころを、仏教の中に見出し、信心していくことが学習する場合大切なことです。仏教の話を聞いても、もの知りになるというだけでは、心もとない人生になってしまいます。
二、仏との出会い
(1) 釈尊は「ダンマが熱心に禅定には入っている修行者に、あらわになった時、その時一切の疑惑は消滅した」と自説教で説いておられます。
だんまを別の言葉でいえば、如・真如・真実・仏の御いのちです。
「仏の御いのち」が因となり、時々刻々の変化の縁によって、どんどん生まれ、その森羅万象は、生住異滅の四相の仏の仕事をしている。
夜安心して、寝ておられるのも、「仏の御いのち」に生かされているからです。朝起きて空気を吸いご飯を食べるのも、私でないものの力によって、守られているからです。手足が動く、身の諸器官が動く、私の生命は、私の思いの外の事実として働き続けているのです。
私の生きている姿が、「仏の御いのち」の御用をつとめさしていただいていると判れば、ずっと楽になります。仏に守られているという感じが得られた時安心です。
(2) 「仏の御いのち」の精髄は、天地自然の姿です。天地自然の理性の中に現われている。水が低きに流れ、焔の空に登る如く、人間のはからいから離れた、自ら然らしむるものが自然です。様々な姿をしているがその本質は「仏の御いのち」の現われである。天地自然は、「我がものという心」「執着の心」「浄穢・好悪の分別差別の私心」から離れている。
青黄赤白黒の花は、違ったままで、すばらしいものです。人間の選り好みの寸法で好悪をいっても、はじまりません。立派な人生、立派な死に方、立派も、立派でないも、ありはしないのです。
余分な気苦労もせず、「仏の御いのちの御用」にまかせておけば安心です。
三、法との出会い
世の中の総ての事象は、縁によって起こっているのです。縁によって起こるというのは、総ての存在は、我ならざるものによって作られている面があるということです。縁なしには、この世に存在するものは、何もないのですから、固定的な変わらないものは存在しない。必ず、移り変わりつつあるということです。(縁起・空・無常・無我)そうであっても、老いる・病気・死・家のこと等の問題が起こってきて、人生の苦しみは強まります。
変わらない私、変わらないもの、というものに執着していると、苦しみから離れることはむつかしくなるばかりです。
自分が生かされている世界は、世界の果てまで、仏の御いのちの源まで、つながっている、そういう大きな力の中で生かされて生きているという自分を、ありのまま受け入れることです。
食事するとき「オカゲサマ」「アリガタイ」という気持ちで頂く、頂けないときは「スミマセン」という気持ちで頂く、何事をするにしても、心の持ち方を仏法一つにする信心が功徳である。
四、人との出会い
人に出会うことは、単なる人との出会いではなく、人以上のものに出会うきっかけになるのです。
社会的に活躍出来るのも、有形無形に生かしてくれる様々な条件なしには、その達成はありえない。「私はある」ということは、私の力だけしか分からずにいることです。他の力から眼を離すことであり、大きな力の存在に背くことです。そうわかった時私のおごりは消え、大きな力に心を開くことができる。
「心に草は無けれども、迷いの草は生い茂る」という言葉がありますが、心に草が生えないように「きれいにしよう」と心の掃除をしてみませんか。
仏教では、「三学(さんがく)」(仏道を学ぶための最も大切な基本的修行を三つに整理したもの)といって、「戒学(かいがく)」・「定学(じょうがく)」・「慧学(えがく)」を挙げます。「戒学」というのは戒律(悪を止め善に努める)を身に付けることであり、「定学」というのは、禅定(心をしずめ雑念を払って精神統一を行うこと)で参禅(禅の指導者の室に入って禅の問題である「公案」に対する自己の見解を述べ、その当否を問うこと)することであり、「慧学」というのは、智慧すなわち経典・論書などで仏の教えを研究し、あるいは戒学と定学の上に立って真実のすがたを求め究めることで、この三つを学んではじめて「仏教徒」といえるのです。
泥に住めども 心は清し 咲いてきれいな 蓮の花
という句がありますが、我々人間さまも、今一度、蓮の花の気持ちを見直し、見習ってみたいものですね。『落穂集(おちほしゅう)』には、
澄めば澄む 澄まねば澄まぬ わが心 澄ませば 清き月も宿らん
という歌がありました。
現在の世情は、まことに複雑怪奇(かいき)・混沌(こんとん)としておりますが、蓮の花を眺めつつ、自分自身の心の中に蓮の花を咲かせる努力をしたいものです。国(文部科学省)としても「心の教育」を唱(とな)え出しているところですが、今一番大切なことは、「家庭の中の和・家族のきづな造り」、「家庭の輪造り」ではないでしょうか。
随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり
この言葉は、臨済宗の祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の言行録である、『臨済録』という書物の中、示衆(じしゅう)の一七に出てきます。
どんな会社にいても、どんな仕事であっても、自分が主人公となって(積極的に)行うならば、そこでの生き様はすべて真実である、というような意味です。
人は「一度座って、改めて出直す」という勇気が必要です。
「一度座って、改めて出直す」という行動を般若と呼びます。
生きとし生けるものが、幸せでありますように」と朝から晩まで、寝ていても思いだせるほどに念じていくのです。そうすると、自我中心の心が徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみが消えていきます。こうして、慈悲の心が育つとやさしい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。それこそが、エゴを乗り越える道なので す。
掃けば散り、払えばまたも塵積もる 人のこころも 庭の落ち葉も(道歌)
心にも庭にも、落ち葉は、あとからあとから降り積もります。日々勤めねばなりません。
二、仏との出会い
(1) 釈尊は「ダンマが熱心に禅定には入っている修行者に、あらわになった時、その時一切の疑惑は消滅した」と自説教で説いておられます。
だんまを別の言葉でいえば、如・真如・真実・仏の御いのちです。
「仏の御いのち」が因となり、時々刻々の変化の縁によって、どんどん生まれ、その森羅万象は、生住異滅の四相の仏の仕事をしている。
夜安心して、寝ておられるのも、「仏の御いのち」に生かされているからです。朝起きて空気を吸いご飯を食べるのも、私でないものの力によって、守られているからです。手足が動く、身の諸器官が動く、私の生命は、私の思いの外の事実として働き続けているのです。
私の生きている姿が、「仏の御いのち」の御用をつとめさしていただいていると判れば、ずっと楽になります。仏に守られているという感じが得られた時安心です。
(2) 「仏の御いのち」の精髄は、天地自然の姿です。天地自然の理性の中に現われている。水が低きに流れ、焔の空に登る如く、人間のはからいから離れた、自ら然らしむるものが自然です。様々な姿をしているがその本質は「仏の御いのち」の現われである。天地自然は、「我がものという心」「執着の心」「浄穢・好悪の分別差別の私心」から離れている。
青黄赤白黒の花は、違ったままで、すばらしいものです。人間の選り好みの寸法で好悪をいっても、はじまりません。立派な人生、立派な死に方、立派も、立派でないも、ありはしないのです。
余分な気苦労もせず、「仏の御いのちの御用」にまかせておけば安心です。
三、法との出会い
世の中の総ての事象は、縁によって起こっているのです。縁によって起こるというのは、総ての存在は、我ならざるものによって作られている面があるということです。縁なしには、この世に存在するものは、何もないのですから、固定的な変わらないものは存在しない。必ず、移り変わりつつあるということです。(縁起・空・無常・無我)そうであっても、老いる・病気・死・家のこと等の問題が起こってきて、人生の苦しみは強まります。
変わらない私、変わらないもの、というものに執着していると、苦しみから離れることはむつかしくなるばかりです。
自分が生かされている世界は、世界の果てまで、仏の御いのちの源まで、つながっている、そういう大きな力の中で生かされて生きているという自分を、ありのまま受け入れることです。
食事するとき「オカゲサマ」「アリガタイ」という気持ちで頂く、頂けないときは「スミマセン」という気持ちで頂く、何事をするにしても、心の持ち方を仏法一つにする信心が功徳である。
四、人との出会い
人に出会うことは、単なる人との出会いではなく、人以上のものに出会うきっかけになるのです。
社会的に活躍出来るのも、有形無形に生かしてくれる様々な条件なしには、その達成はありえない。「私はある」ということは、私の力だけしか分からずにいることです。他の力から眼を離すことであり、大きな力の存在に背くことです。そうわかった時私のおごりは消え、大きな力に心を開くことができる。
「心に草は無けれども、迷いの草は生い茂る」という言葉がありますが、心に草が生えないように「きれいにしよう」と心の掃除をしてみませんか。
仏教では、「三学(さんがく)」(仏道を学ぶための最も大切な基本的修行を三つに整理したもの)といって、「戒学(かいがく)」・「定学(じょうがく)」・「慧学(えがく)」を挙げます。「戒学」というのは戒律(悪を止め善に努める)を身に付けることであり、「定学」というのは、禅定(心をしずめ雑念を払って精神統一を行うこと)で参禅(禅の指導者の室に入って禅の問題である「公案」に対する自己の見解を述べ、その当否を問うこと)することであり、「慧学」というのは、智慧すなわち経典・論書などで仏の教えを研究し、あるいは戒学と定学の上に立って真実のすがたを求め究めることで、この三つを学んではじめて「仏教徒」といえるのです。
泥に住めども 心は清し 咲いてきれいな 蓮の花
という句がありますが、我々人間さまも、今一度、蓮の花の気持ちを見直し、見習ってみたいものですね。『落穂集(おちほしゅう)』には、
澄めば澄む 澄まねば澄まぬ わが心 澄ませば 清き月も宿らん
という歌がありました。
現在の世情は、まことに複雑怪奇(かいき)・混沌(こんとん)としておりますが、蓮の花を眺めつつ、自分自身の心の中に蓮の花を咲かせる努力をしたいものです。国(文部科学省)としても「心の教育」を唱(とな)え出しているところですが、今一番大切なことは、「家庭の中の和・家族のきづな造り」、「家庭の輪造り」ではないでしょうか。
随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり
この言葉は、臨済宗の祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の言行録である、『臨済録』という書物の中、示衆(じしゅう)の一七に出てきます。
どんな会社にいても、どんな仕事であっても、自分が主人公となって(積極的に)行うならば、そこでの生き様はすべて真実である、というような意味です。
人は「一度座って、改めて出直す」という勇気が必要です。
「一度座って、改めて出直す」という行動を般若と呼びます。
生きとし生けるものが、幸せでありますように」と朝から晩まで、寝ていても思いだせるほどに念じていくのです。そうすると、自我中心の心が徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみが消えていきます。こうして、慈悲の心が育つとやさしい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。それこそが、エゴを乗り越える道なので す。
掃けば散り、払えばまたも塵積もる 人のこころも 庭の落ち葉も(道歌)
心にも庭にも、落ち葉は、あとからあとから降り積もります。日々勤めねばなりません。