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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

意見のあわない方は、御容赦。

禅の知識

2006-10-17 23:42:27 | 禅とは
一、仏教を信じ、仏教を実践することは、信心によって安心出来た、救われたという体験があるからです。安心の生活をしていく為のよりどころを、仏教の中に見出し、信心していくことが学習する場合大切なことです。仏教の話を聞いても、もの知りになるというだけでは、心もとない人生になってしまいます。

二、仏との出会い
(1) 釈尊は「ダンマが熱心に禅定には入っている修行者に、あらわになった時、その時一切の疑惑は消滅した」と自説教で説いておられます。
 だんまを別の言葉でいえば、如・真如・真実・仏の御いのちです。
 「仏の御いのち」が因となり、時々刻々の変化の縁によって、どんどん生まれ、その森羅万象は、生住異滅の四相の仏の仕事をしている。
 夜安心して、寝ておられるのも、「仏の御いのち」に生かされているからです。朝起きて空気を吸いご飯を食べるのも、私でないものの力によって、守られているからです。手足が動く、身の諸器官が動く、私の生命は、私の思いの外の事実として働き続けているのです。
 私の生きている姿が、「仏の御いのち」の御用をつとめさしていただいていると判れば、ずっと楽になります。仏に守られているという感じが得られた時安心です。

(2) 「仏の御いのち」の精髄は、天地自然の姿です。天地自然の理性の中に現われている。水が低きに流れ、焔の空に登る如く、人間のはからいから離れた、自ら然らしむるものが自然です。様々な姿をしているがその本質は「仏の御いのち」の現われである。天地自然は、「我がものという心」「執着の心」「浄穢・好悪の分別差別の私心」から離れている。
 青黄赤白黒の花は、違ったままで、すばらしいものです。人間の選り好みの寸法で好悪をいっても、はじまりません。立派な人生、立派な死に方、立派も、立派でないも、ありはしないのです。
 余分な気苦労もせず、「仏の御いのちの御用」にまかせておけば安心です。

三、法との出会い
 世の中の総ての事象は、縁によって起こっているのです。縁によって起こるというのは、総ての存在は、我ならざるものによって作られている面があるということです。縁なしには、この世に存在するものは、何もないのですから、固定的な変わらないものは存在しない。必ず、移り変わりつつあるということです。(縁起・空・無常・無我)そうであっても、老いる・病気・死・家のこと等の問題が起こってきて、人生の苦しみは強まります。
 変わらない私、変わらないもの、というものに執着していると、苦しみから離れることはむつかしくなるばかりです。
 自分が生かされている世界は、世界の果てまで、仏の御いのちの源まで、つながっている、そういう大きな力の中で生かされて生きているという自分を、ありのまま受け入れることです。
 食事するとき「オカゲサマ」「アリガタイ」という気持ちで頂く、頂けないときは「スミマセン」という気持ちで頂く、何事をするにしても、心の持ち方を仏法一つにする信心が功徳である。

四、人との出会い
 人に出会うことは、単なる人との出会いではなく、人以上のものに出会うきっかけになるのです。
 社会的に活躍出来るのも、有形無形に生かしてくれる様々な条件なしには、その達成はありえない。「私はある」ということは、私の力だけしか分からずにいることです。他の力から眼を離すことであり、大きな力の存在に背くことです。そうわかった時私のおごりは消え、大きな力に心を開くことができる。

「心に草は無けれども、迷いの草は生い茂る」という言葉がありますが、心に草が生えないように「きれいにしよう」と心の掃除をしてみませんか。

仏教では、「三学(さんがく)」(仏道を学ぶための最も大切な基本的修行を三つに整理したもの)といって、「戒学(かいがく)」・「定学(じょうがく)」・「慧学(えがく)」を挙げます。「戒学」というのは戒律(悪を止め善に努める)を身に付けることであり、「定学」というのは、禅定(心をしずめ雑念を払って精神統一を行うこと)で参禅(禅の指導者の室に入って禅の問題である「公案」に対する自己の見解を述べ、その当否を問うこと)することであり、「慧学」というのは、智慧すなわち経典・論書などで仏の教えを研究し、あるいは戒学と定学の上に立って真実のすがたを求め究めることで、この三つを学んではじめて「仏教徒」といえるのです。

泥に住めども 心は清し 咲いてきれいな 蓮の花
という句がありますが、我々人間さまも、今一度、蓮の花の気持ちを見直し、見習ってみたいものですね。『落穂集(おちほしゅう)』には、

澄めば澄む 澄まねば澄まぬ わが心 澄ませば 清き月も宿らん
という歌がありました。
 現在の世情は、まことに複雑怪奇(かいき)・混沌(こんとん)としておりますが、蓮の花を眺めつつ、自分自身の心の中に蓮の花を咲かせる努力をしたいものです。国(文部科学省)としても「心の教育」を唱(とな)え出しているところですが、今一番大切なことは、「家庭の中の和・家族のきづな造り」、「家庭の輪造り」ではないでしょうか。

随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり
この言葉は、臨済宗の祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の言行録である、『臨済録』という書物の中、示衆(じしゅう)の一七に出てきます。
 どんな会社にいても、どんな仕事であっても、自分が主人公となって(積極的に)行うならば、そこでの生き様はすべて真実である、というような意味です。

人は「一度座って、改めて出直す」という勇気が必要です。
「一度座って、改めて出直す」という行動を般若と呼びます。

生きとし生けるものが、幸せでありますように」と朝から晩まで、寝ていても思いだせるほどに念じていくのです。そうすると、自我中心の心が徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみが消えていきます。こうして、慈悲の心が育つとやさしい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。それこそが、エゴを乗り越える道なので す。

掃けば散り、払えばまたも塵積もる  人のこころも 庭の落ち葉も(道歌)

 心にも庭にも、落ち葉は、あとからあとから降り積もります。日々勤めねばなりません。




「教外別伝 不立文字 以心伝心」とは、

2006-10-17 18:45:37 | 禅とは
道元禅師は『威儀即仏法、作法是宗旨』(いいぎそくぶっぽう、さほうこれしゅうし)といい、私たちの普通の生活の中に仏法の極意があるぞと示されます。世間では「形より心が大事」と言いますが、形が崩れると内容も流れるものですし、ものわかりのよい考えは堕落につながるものです。『威儀即仏法、作法是宗旨』をひらたく言えば、すべての立ち居振る舞いが坐禅に帰結するということです。正しい形が正しい心を生み出すということであり、坐禅が日常の行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に展開されるということになります。

道元禅師が、食生活全般を含めた仏道について示された有名な著書に『典座教訓(てんぞきょうくん)』があります。
「典座」というのは、昔も今も禅寺で修行僧の食事のすべてをつかさどる役職名です。また典座の職にある修行僧を、尊敬と親しみとをこめて「典座さん」と呼びます。禅林の生活はきびしい中にも自主的でいわば民主的です。禅林の教育・経営・生活のすべては、古参の修行者と新参の修行者と組み合わされた人事で運営されるのです。
 
禅を含めて大乗仏教の思想には 『人間は万物の霊長』 という見方はありません。人間は万物と同列であり仲間であるという生物の平等観に立ちます。さらに、人間を含めてすべての生物は、みな仏となる可能性(悉有仏性)を持っているとします。そして仏となる可能性(仏性)にめざめその仏性を開発するのが、真の仏道教育の目的であると考えます。
したがって、私たちが食事をとる目的は、ただ身体の栄養だけでなく、心を発育させる心の糧にならなければなりません。食事をつくるにしても技術的な域に止まることなく、精神的にも人間を育成する心の師でもなければならないという道理です。けれども、実際に人間の物心両面を充実する食事をつくるということは容易ではありません。このむずかしい問題を解く修行の任にあるのが典座職ですから、禅門の要職中の要職に典座職が置かれる所以となる訳です。


 このことは、道元禅師の思想を汲む禅門の食事前に読誦する食事作法の「五観偈」によく示されます。

一つには功の多少を計り、かの来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つにはおのれか徳行の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず.
三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗とす.
四つにはまさに良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり.
五つには成道(じょうどう)のための故に今この食を受く.

わかりやすく大意を説明しますと
一.自分にはそれだけの功績があってこの食事がえられたものであろうか、また、いま口に入れようとしているお米は、ご飯としていただくまでに、いかに多くの人々の手数や苦労があったかを深く考え、感謝していただきましょう。

二、まごころをもって供養された、この食事をいただくに値するほどの正しい振舞や世のため人のために役立つような行ないをしているかどうか反省していただきましょう。

三、心を悪事から防ぎ、罪過を離れるべく心をくらます、むさぼり、いかり、ねたみの三毒(貪瞋癡)をおさえ、修養の心をもっていただきましょう。

四、食事は、贅沢や空腹を満たすためではなく、私たちの身体の健康を維持するための良薬として、必要限度を正しい目的をもっていただきましょう。

五、生きんがための食事ではなく、仏教の理想を達成し、衆生救済の生活ができるように、身心ともにすこやかに、仏の道を成ずるためにこの食事を受けるのである。

道元禅師は、1227年に中国から帰国すると、かつて禅師が渡宋する以前に修行したことのある京都の建仁寺に2、3年止宿します。道元禅師によれば「建仁寺にも、典座職が置かれてあるものの実は名のみで、典座の仕事が仏道修行の大切な仏事であることを心得ていない」と、このことを大いに嘆かれます。 かくて禅師は「典座教訓」を書き示されることになりますが、とくに典座職はもちろんのこと、禅門のどの職務にあっても「喜心・老心・大心」の三つの心を常に保持すべきであると教示されます。言い換えれば、この三心は「威儀がそのまま仏法になるための三つの基本」ともいうべきものでしょう。

 その「喜心」というのは喜び感謝する心です。仏教の捉え方として、生活にも恵まれ、快適な状態にあって悩むことを忘れているような人を仏教では天人と称します。凡人の目から見ればまことにうらやましい境遇にある人たちです。しかし、天人には物質的には快楽の極みにあっても、老いと病、そして死がいつかおとずれます。この不安を現実の快楽で一時的に解消させることはできます。けれども、天人は人間最大の苦悩である老いと、病と、苦しみを真剣に考えようとはしないので、仏の教に出会うことが非常に難しいのです。
 仏教では、地獄から極楽まで十界を示します。十界というのは、
 『 1.地獄界  2.餓鬼界  3.畜生界  4.修羅界  5.人間界  6.天上界 7.声聞界  8.縁覚界  9.菩薩  10.仏 』 がそうです。この、地獄界から天上界までを六道(ろくどう)というのですが、天人の幸福とは仏教の上ではけっしてさいわいなことではないのです。秦の始皇帝は、晩年になると酒池肉林の現世の極楽を永遠に望み、不老長寿に至る神仙思想にのめりこみ神薬を方々に求めます。望むことは何でも叶い、快楽の日々を過ごす始皇帝にとっては、現世こそが極楽ですから、死につながるものは最も忌むべきものであり「死」という言葉さえも使用を禁止したと云われます。願っても叶えられないことを願い始めたとき「夢」が「妄想」となるのです。
 餓鬼界は人間が堕ちやすい次元でもあります。なぜなら、嫉妬、憎しみ、物惜しみといった感情はいくらでもあるからです。そして餓鬼界,畜生界,修羅界では仏縁は極端に薄くなります。さて、5番目の人間界はというと、苦楽相半ばする境遇です。人間には煩悩は多いが極悪人は少ない。苦しいだけではなく、楽しいことばかりでもない人間のこころの不安というのは、じつは真剣に人生を考える機縁となるのです。即ち「喜心」というのは「生きていてよかった」ではなく、仏の教えに出会えたことへの驚きと喜びのこころです。それは「生きていたことによってすばらしい善行ができる喜び」となり「随喜」となります。幸福になるためには「他人の喜びをいっしょに喜ぶことのできる性格」は必ず育てなければならないと尊い気持ちだと強調しています。

 「老心」とは、おじいさん・おばあさんが孫を思いやるような慈しみの心です。おじいさんおばあさんの親切というのは孫に見返りを期待しないで、ただよかれと思うことを為すのみです。一般的には掃除をしたりナベを洗ったりすることは雑用のように思う人が多いものですが。けれども、「仏道」には雑用はありません。日常生活の時事の行動そのものの上に意義を見いだすことが仏道です。しかし、修行が未熟ですと「私が何でこんな仕事をしなければならないのか」という意識が潜在し、バカらしいという考えがつきまといます。そんなことでは仕事に対する情熱も出ませんから仕事に身が入りません。日常の作業を禅では「作務(さむ)」と呼びますが、作務そのものが禅修行なのです。修行の余暇に作務をしているのではないのです。ですから、日常生活そのものの中に禅の奥義をとらえることができてない者には典座職はまかせられないということになります。

「大心」とは「仏心」ということ。かたよらない心、寛大な心です。
茶の湯では″亭主の粗相は客の粗相、客の粗相は亭主の粗相″といって、主人の立場と客になる人の立場とをお互いにかばいあう美しい言葉があります。茶席で客が作法を誤ったり、お茶をこぼしたりしても、それは主人の粗相として客を責めないのが、老心であり大心であります。
 かつて英国のエリザベス女王が、英国を訪問したある発展途上国の国王と会食したときのことです。食後に指を洗うために出されたフィンガーボールの水を来賓の国王がそれとも知らずに飲んでしまいました。女王の侍臣たちはそれを見て思わず失笑しました。するとエリザベス女王も、自分の前に置かれたフィンガーボールの水をさっと飲んだのです。女王がとっさにとったこの態度に、嘲笑した宮廷の家臣たちは、はじめて自分たちのいたらぬ行動を恥じたといいます。
即座に客の粗相をかばいながら、且つ人としての本分を示すとはこういうものではないでしょうか。かたよらない心、寛大な心、この心を大心というのです。  



●良寛さまに「仙桂和尚(せんけいおしょう)」という詩があります。

仙桂和尚は真の道者
黙して作(な)し 言は朴(ぼく)なるの客
三十年 国仙の会にあって
禅に参ぜず 経を読まず
宗文(しゅうもん)の一句だに道(い)わず
園菜(えんさい)を作って 大衆に供養す
まさにわれ これを見るべくして 見ず
これに遇(あ)うべくして 遇わず
ああ 今これに放(なら)わんとするも得(う)べからず
仙桂和尚は 真の道者
良寛さんは若いときに、岡山県玉島の円通寺で修行していました。そこで、仙桂和尚は典座の仕事をしていたのです。仙桂和尚は坐禅や経典を読むということでなく、いつも黙々と野菜を作り、調理し修行僧にささげていたのです。そのころ、良寛さまは、仙桂和尚を台所で働くおじさんくらいにしか思っていなかったのでしょう。ところが、円通寺を去って新潟の山中に住むようになってから修行時代を振り返ってみると、当時それほど思わなかった仙桂和尚が実に偲ばれるのです。言葉少なく、心をこめて食事を作り、多くの修行僧の為に精進していたあの仙桂和尚こそ真の修行者であったというのです。しかしながら、気がついたときには、もう会うこともできなくなっている---
 仙桂和尚のような典座職は、まさに「喜心・老心・大心」の心なくしてでき得ないことであるという漢詩であります。

皆瀬川の白鳥 秋田県十文字町












至道無難(しどうぶなん)禅師

2006-10-17 10:48:48 | 禅とは
仕事でも何かする、見るにつけ、物に向かう時、心を移るば
かりにしていなさい。ただ、見る、ただ聞く、ただ、行う、
直の心です。
老衰の人に向かうと、汚い、馬鹿にする、憎く思う思いが起
こっていたであろうが、そんな汚い思いを起こさず、「衰れ
に見る」のが仏心であり、慈悲の心である。
今、坐禅する皆さん、坐禅の時ばかりが、悟りではありませ
ん。至道無難禅師のお示しのように、坐禅していない時にも、
仏の悟りの心(たとえまだ、自覚できなくても)のまねをし
ていくのがいいのです。最初は、努力して、まねをしている
と、やがて、努力しなくても、そのとおりになるのが、人の
心の不思議さです。
もし道心とげんと思う人は、第一友を選ぶべし。たまたま道
心思い立つとも、あるいは、若き友へさそわれ、山水に日を
送るもあり。あるいは高位高官の人に呼ばれ、我名利未だつ
きざれば悦びて道心妨ぐるもあり。
真実、仏道とは、何か。達成したいならば、それをともに実
践していく友を選びなさい。道友とはありがたいものです。
仏道を語り合い、助けあい、脱落しそうになるのを励まして
くれます。「第一、友を選べ」。至道無難禅師の教えです。
真実の道友は少ないのです。それだけに、一層、ありがたい
のです。



柴山全慶老師

2006-10-17 10:29:51 | 禅とは
仏教・禅は「中道」の人格上の体現

「禅はあくまでも自己が身をもって体得した事実でなければ
ならず、事実の影にすぎない思想や知識であってはならない。
「無」とは有無を超えるものである、一切の二元的分別を尽
しきった絶対的一者のことだ、などと知解をろうしていたら、
真の「無」は永久に失われてしまう。」
「自と他、主観と客観の二元的分別心を超えて、超個にして
しかも個である一如の妙用(自由無礙な禅的働き)に生きる
ことである。」
「実践的な禅の修行では「声に随い色を逐う」すなわち二元
的な分別意識におぼれて、客観界に引き落されることを何よ
りも避けなければならない。禅は普通次元でいう主客を共に
超えて、絶対主体として生きる真実の自己を確立するものだ
からである。」

禅の究極の目的は、悟りの体験によって全く新しい宗教的人
格を完成し、一瞬一瞬、一挙手一投足に禅を生きることにあ
る。この根源的な悟りの体験を欠くならば、どんなに優れた
技能も心的状態も、それはもはや禅ではない。」
悟りを得た者は、そこにとどまることなく、苦悩する人々の
中に入り、悟ることによって見た本質を生活に体現して、
人格的な体現をつづけなければならない。

山田耕雲

2006-10-17 10:28:49 | 禅とは
在家の師家であった。元、東京顕微鏡院理事長。朝日新聞社
論説委員の下村満子氏の父君である。安谷白雲師のあとをつ
いで、三宝教団の師家となった。


哲学を研究してみても、人間が円満完全、無限絶対の実在で
あると説く教えは仏道以外にはない。この事実を思想的に理
解するのではなく、体験として見得し、納得することが禅の
ねらいであり、これを見性といい、悟道というのである。

自分を不完全な、有限相対の存在と思っている人間が、円満
完全、無限絶対の自己の本質に目覚め(これを見性といい、
悟りという)、この事実を自ら納得する(これを証という)
とき、人間の一切の不安、苦悩はいっぺんに雲散霧消するの
である。この時の歓喜は全く筆舌につくしがたい。人によっ
て深浅、強弱の差はあるが、一度この歓喜を体験した人でな
ければ、本当の禅の話は通じない。どんなに仏教に関する学
識が豊かであろうと、どれほど禅録、祖録を読破し、そらん
じていようと、この体験がない限り、禅にとっては全くの門
外漢である。」

青野敬宗老師

2006-10-17 10:27:19 | 禅とは
公案修行を終え印可証明を得るが満足せず、他の師に参禅、
見性・大悟ーある禅僧の例

師が義衍老師から指示された工夫の要諦は実に具体的で行じ
るに無理のないものであった。「ここ(耳)で「おいっ」と
言ったことを「何のために」とここ(頭)へ持って来て
「ああ、敬宗が呼ばれておるんだな」と。それは作った世界
だ。だから、ここ(耳)から聞いたら、すっと(反対の耳か
ら)逃がしなさい。目に触れても、そのままにしなさい。意
識はそのまんまで、知と意で扱いさえしなければ、いつでも
ゼロのはずである。」

坐禅が深まると、何度か「ひよっとすると、これか」と思う
ような体験がある。見性の前段階である(2)。知らない師は、
見性と認めてしまうこともあるだろう。だが、そうではない
から、後になってまた、疑問が生じる。

その晩はそのまま夜が明けるまで打坐を努め、その明け方、
盆踊りの練習の太鼓の音と同生同在、音のほか自己なくまた
音もない消息ーーー「「ナァーンジャーッ」と、嬉しゅうな
って涙がボロボロ出た」という。悟りとも解脱とも何とも名
付く以前の、一切のものに備わった赤裸々で寛やかな命の根
源に邂逅したのである。」

人が悟りを悟るのではなく、人は悟りに「悟られる」という
のが真相である。しかし、ややもすると悟った人間が残って
しまう。その病弊を防がんがために、正師家は「身心脱落」
し来る者に「脱落、脱落」の箴(はり)を施すのである。
「そのままでーー」という一言は、師匠として弟子の見性大
悟を肯(うけが)いながら、なおそこに留まらせないための
箴だったのだ。」

宮崎慈空老師

2006-10-17 10:25:32 | 禅とは
正師との出会い

禅とは、何かの苦悩、問題を感じた人が、己事究明をするこ
とだとされる。つまり、何かの問題を感じるのは、真の自分
を知らず、現状の自分に落ち着いていられないために、真の
自己を究明するものであるという。
真に己事究明をなしとげた先達、正師に会うことが大事とな
る。

子供が一歳四カ月の時に妻と離婚、そんな頃、以前付き合っ
ていた女性が病死したことを知った。その女性の母親から切
々たる想いを託した便りが届けられた。
「この二つの出来事が効果的なダブルパンチとなって私の人
生に対するそれまでの自信と展望を根底から崩壊させ、人一
倍強かった自尊心をズタズタに切り刻み、私を個の破産状態
に陥れた。宗教臭いことが嫌いで、かつて一度も佛教書の類
いを繙いたことのない人間が、こうして「無常」を骨身に徹
して体感することになる。」

「私は般若心経の「無眼耳鼻舌身意」に何か生死を超えた重
大な真理が語られていることを直観し、心経を心のよりどこ
ろとした。

豁然として釈尊の生まれる以前からの本地の風光が現前した。
物がただそれ自体の作用の連鎖のままであり、どこにも中心
や基準がない。それも今始めてここに踊り出た風光ではなく、
過去現在未来の切れ目なしにぶっ通しなのだ。いわゆる「不
生不滅」の様子。
およそ人為の及ぶ消息ではなく、認識の主体が落ちているか
ら「無眼耳鼻舌身意」そのものである。「事事無礙法界」と
いう言葉があるが、たとえようもない静謐、故国にあるが如
き安らぎの世界なのだ。これによって私は、病死された過去
の女性を含め、一切万物の成佛を見届けたのである。」(1)

宮崎師は、見性した。原始仏教経典で、「涅槃」「寂静」と
いう言葉で表現している人間の原事実を証する体験でああろ
う。釈尊が初めて体験したものであるとされる。大乗唯識説
では「真見道、無分別智」といい、禅では「自己を忘るるな
り」(道元禅師)という。自分一人の成仏ではなく(2)て、す
べての人が、そのように成仏しているという自覚。

師との出合いということから言えば、何処に縁が転がってい
るか判らないものだ。ただ自分から求めて歩かなければ、
「正師」の方はむしろ日日遠ざかって行くとも言えるー生死
無常という意味で。私が敬宗老師に晩年において相見できた
のは、得難い勝縁であったものと、今にして思うのである。

「仏道の行程」は、通常は、「師との相見ー修行ー見性体験
ー見性後の修行ー大悟ー慈悲行」という行程をたどる
指導を受けない人が、自然に見性体験を得ることがあるのだ
ろう。日本では、芸術家にそれがあり、ドイツのエックハル
トもそうであろう。禅や仏教は、縁起説を思惟、理解するだ
けでもなく、坐禅をして終わりでもない。それでは、みな自
我(自他を苦しめるエゴ)を残している。解脱、悟道は、釈
尊以来、多くの禅僧が証言している。

オウム真理教など新興宗教の教祖などで、解脱したとか、釈
尊の生まれかわりだ、とかいうものを見ればわかる。違うも
のを描いて(見取見)悟りだと錯覚して、確信してゆるがな
い。しかし、仏教の悟りではないから、醒めた者から見れば、
こっけいである。自分の我見(見取見)で描いた悟りは、自
分にも他人にも誠実ではない。本来誠実で、自由を得られる
はずの人を、浅いところに抑圧して、矮小な人間につくりあ
げる。

悟ったという体験をかえりみることもなく(仏法を知りたい
人にやむをえず慈悲心から語る場合を除いて)、悟ったとい
う慢心、執著などはないが、その後の、生活の根底に、悟っ
たことによる落ち着いた生活がある。求める必要もなく、慢
心する必要もなく、苦悩する人に会えば教えることができる、
そういう生活に自然に活かされていく、というのであろう。

自分にもある貪・瞋・癡・慢・悪見を深く洞察もせず、好き
嫌い、感情に影響された頭でつくりあげた説では、自分とは
何か、成仏とは何か、死んだらどうなるのか、心の病気で深
く苦悩する人の問題を解決できない。だから、心を病む人、
自殺する人、いかがわしい教祖崇拝のカルト宗教(1)などに
向かう人が跡をたたない。多くの仏教学、禅学、禅僧の説が、
魂の宗教ではなく、頭で学習する思想になっている。仏教の
真意が曲げて説かれているのであろう。

中国では、禅が盛んだったのに、やはり、叢林という大規模
な寺院の中での僧侶だけの禅(悩みのない僧侶たちが機鋒す
るどく自己の向上をめざす)が中心であったから、禅や宗教
が断圧されると、大衆に根づいていない禅も滅亡した。
一般在家大衆を忘れて、学問好きな者、僧侶中心の叢林の中
でしか通用しない仏教の末路は、みな滅亡の道をたどった。
今の日本も学問研究と宗門の中でしか通用しない思想づけの
宗教行為(加持・祈祷・坐禅など)の二つが隆盛を極める仏
教であり、一般在家大衆の現実の苦悩を軽視している点で、
インドや中国の仏教、禅の滅亡前の状況に似ているであろう。

井上義衍老師いのうえぎえん 只管打坐とは

2006-10-17 10:22:57 | 禅とは
只管打坐」(しかんたざ)で悟るという。
「只管打坐」はどういうことか、次のように説明している。「これ(身)
」という言葉が出てくるが、この文は、説法そのままを録音したものを文
字にしたもののようだ。自分の身体を指差して「これ」と言っているので
ある。そういうふうに、老師が目の前で、身振り手振りで説法している姿
を思いうかべて読むべきである。「これ」とは概念ではなくて、身体を指
差している。)

「只管打坐という事は今のように、これ「ポン」(掌を打って)
があるのは、どうしたんでもないでしょう、皆。皆そうです。
それと同様に、何もかも向かえば皆、在るんです。向かう前か
ら在るんです。万事そうです。
そういう風にこれ(身)は、人間の見解じゃなくて、すべてち
ゃんとあるんです。それがこれ(身)の本性です。だから非思
量の真相をそのまんまに言う時に、只管打坐と言ったんです、
ただ坐禅をする。
 それを間違えるというと、「ただ坐って居ればいいのだ」と
いって、その概念でこうやって、「ただであればいいのだ」と
いって、そういった概念で行くと違うんです。
 そうすると不思量じゃないでしょう。思量をもって非思量、
不思量という概念を作ったんですよ。本当の非思量じゃないで
しょう。不思量じゃないでしょう。
 それだから不思量としての真相をただこうやって、見えたり
、聞こえたり、あらゆるこうした動き方が必然にあるんですか
ら、それだから自分を用いてはいけないのです。
 自分を用いさえしなければ、皆どうもしなくても初めからそ
ういう風に出来ているから、手当たり次第、在ったり無かった
り、もう何もかも皆、これ(身)の今の動きである事を知って
いくと、どうするのこうするのといったって、向かえば皆、在
る。聞こえても、声がしても、皆そうです。何もかも皆それで
実現しているのです。
 実現しているから、手付かずにただそのまんま、その事実で
ゴロン、ゴロンと動かされてゆく。それが只管打坐なんです。
 だからどうしなくてはならない、こうしなくてはならない、
という事が無くなるんです。方法論も何も素(す)っ飛んでし
まうんです。」

目的のない坐禅をしていると、坐禅していない時に、どちら
に向かうかわからない、種々の様相を帯びて苦悩させる問題
にも対処できない。従って、ゆくべき方向を心得(「慧」で
ある)て坐禅(「定」である)をすることが重要になる。そ
の一つが、自我の見方を捨てることである。「只管打坐」に
は、重要な心得(「慧」)がある。

「人間関係や進路の選択、また理想と現実とのくい違いなど
で、自分の思い通りに行かなくて悩む事がありますが、どう
したらよいでしょうか。」という質問に対して、次のように
言う。
「だからそのような悩みを起こしたという原因はどこにある
かというと、自我の要求だからです。それだから自我観の要
求を全部捨ててごらんなさいという事です。そうすると、皆
が嫌になるのです、仏法をね。自分で一番可愛がっている自
分を捨てよというから、そんな事をしたら、これ(身)が役
に立たないじゃないかと言いたくなるんです。そこにやはり
間違いを起こしている。
 先にもありましたように本当にこの自我観を捨ててですね、
自我観というものが本当にこれ(身)に底抜けに無い事をい
っぺん知ってもらうんです。」
「自分なりに努力していろいろやっているのに次々に問題が
出てきて、悩み、苦しむのはいったいどうしてなのでしょう
か」という質問に答えた中でこういう。
「それはそうです。自分で自分を立てておいて、そして自分
に出来るだけ都合よくゆきたいので、摩擦の無いように努力
はするのだけれども、いくら努力をしてみても、どうしても
何処かに摩擦が起こるんです。そうでしょう、自分中心なん
だから、自分の都合なんだから何処かに摩擦が起こるんです。
その摩擦のために困るだけなんでしょう。その苦しみなんか
でも、努力してもできないというけれども、もっと努力する
のに、自我観を尊ぶという事に重点をおくという事を出来る
だけ止めればいいんです。」
また、「坐禅はそうした悩みや苦しみを解決するものである
と聞いていますが、本当にそうなのでしょうか。」という質
問に対して、次のように答えている。
坐禅は、現代人の苦悩を解決できるのかという質問である。

「本当にそういうものであるという事は、坐禅というものは、
それ自体がそれ自体としての真相のまんまでいくのが坐禅な
んです。だから只管打坐というのです。誰もどうもするのじ
ゃないんです。どうも思うのじゃないんです。この(身)機
能の作用を見ても今まで自分の都合で使っていた諸機能の動
きをその動きのまんまに放置して、そしてそれの動きだけで
ゆく。そうすると徹するのです。そこに自我観がちょっとで
も残っていると、これ(身)を見る自分が居るから、昔の自
分を見て、「何を言っても、やっても、己が見たり聞いたり、
やったりしているんじゃないか」と、己が出てくるから。だ
から観念だって、「己の観念じゃないか」という、「己の頭
でいろいろやってるんじゃないか」こういうような事まで皆、
出てくるのです。そんな複雑な世界をはっきりケリを付ける
道がある。それだから釈尊が人類始まって初めて悟りを開か
れた。他にそんな事を解決付ける道を説いた人は無い。それ
は釈尊が今のように本当に何にもかも捨てきって、人の発生
時点まですべて放棄したんです。そして放棄してその生活を
している、その時にですね、一見明星ただ一念、「ボッ」と
起きた時に初めて、「アラッ、これ自体(身)が人間の存在
ではないのだ」という事が分かるのです。それがはっきりし
ないと、何としても救われないのです。それだから大切なん
ですよ。(中略)
 仏法の教え、そしてそれを本当に解決を付ける道というも
のは、決定的なものです。悩みがもう底抜けに除れる。自分
で「除れたッ」という事が分かるんです、これ(頭を指して)
がやっていたという事が分かるのです。自分自身の考え方で。
それだけにこれ(身)がやっていない自分を見付けたんです。
だから絶対に手を付けられないのです。どうのこうのいうけ
れども、どうしようもないのです。それほどはっきりしてい
るという事です。それが坐禅によって必ず悩みというものが
除れるものであるという事ですね。」(3)

「自我観をもちいないこと」「自分自身の考え方で扱うこと
をやめること」

成功しているかのように見えた人々が、心の病気になり、
自殺しているのである。教団や大学の外は、偏見ある説が通
用するような生ぬるい世界ではない。そういう厳しいところ
で、苦悩する人が、本当に解決できるものを求めるのである。

坐禅中、例えば正身端坐になりきろうとか、無心になりきろ
うとかして、何かになりきろうとしますが、そういう態度に
よる坐禅はよろしいのでしょうか。」という質問に対して、
次のように答えている。

「最初の人はね、この自分を捨てるというと、捨てなければ
ならない、それを用いてはいけないのだという事になると、
それをどうしようかという事が起こる人がある。
そんなこと言ったってと力こぶ入れるような人には、それで
共死させればよいんです。思いを持って、思いと共死すりゃ
いいんです。思いによって心中させる、それが「趙州の無字」
の公案でしょう。「白隠の隻手の音声」というのもそうです。
「考え方でどうしろといったって」、「そんな事していて駄
目じゃないか」という考えを持っている人があるから、力こ
ぶを一所懸命入れたい人には、それを与えて、それによって
相撲をとって、自分で力を失って倒れるまでやらせるのです。
そうすると必然に只管(しかん)という事に落ちてくるので
す。要らない所で力を費やして苦労すると、間違うと発狂す
るのです。それを真剣になってやってですね、やってやって
やりきっているのに、なおそれを、「何してる、そんなつま
らない事を」とやられると、場合によると発狂してしまう。
それは責めるからです。
気の強い人なら(公案でも)いいです。叩けば蹴り返すよう
な気の強い人ならいいですが、気の弱い人ならいっぺんに発
狂する。それも注意しなければいけないのです。」

理由を皆、知らせて、それで理由が理解できていて、やる方
法もその通りにはっきりしていて、ーー」

ここに老師が注意しているように、公案による指導では「見
解」を持っていく、そして「だめ」と突き放される厳しい場
面が多いので、うつ病、神経症などの心を病む人には、向い
ていない。そういう人は、只管打坐で、しかも、その問題の
解決の可能性があることを説明(「慧」の現代化、新しい
「慧」の説明である)してくれる坐禅(何も目標なく坐禅す
るというのでは、どうなるか保証がないから、心を病む人に
はすすめられない)がよい。

良寛  誤解される良寛

2006-10-17 10:19:23 | 禅とは
花無心にして蝶を招き
蝶無心にして花に至る
花亦 知らず、蝶亦知らず
不知、不知にして
帝則に叶う

「自分の低い背丈で計る」
「分析する人や批判する人というものは、自分が正常人であ
るという錯覚に陥り易い。そして、相手が自分より桁違いに
高いレベルの人物でも、まるで自分の方が高いかのように錯
覚し、見下すように裁断する。ましてや、情報化時代と言わ
れる現代では、我々は安易なあるいは誤った情報やデータに
踊らされて、本当の探求からますます遠ざかっていないだろ
うか。」

良寛が文政十一年三条の大地震の際に、与板の山田杜皐あて
書いた手紙である。
「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人
もなく、めでたく存じ候。
うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見る
がわびしさ
しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節
には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。
かしこ」

良寛を批判する人もいるが、良寛の言葉は、他の人には高く
評価されている。人生には、災難や試練らしきことが多い。
災難らしき事にであった時に、その現実を嫌うとかえって、
なすべき力を失って、苦悩がますます深まる。災難の中にあ
っても、現実を直視し、なすべきことをなしていくことが、
災難を乗り越えていくすべである。それを良寛は教えた。
特に、死ぬ時節の問題は、子や親の死ではなく、自己自身の
死であろう。

生(災難もある)や死を嫌って、逃げようとすると、それに
心が奪われて、その苦難の中にあってもできることに気がつ
かず、行動できず、かえって生命を失う。あまりに現実を嫌
うと、「うつ病」になって自殺するのは、最近の精神医学で
確認された。死も現実である。死(たとえばガンの告知を受
けて、死ばかり、見て嫌がる)を嫌うとかえって、うつ病に
なり、なすべきことをせず、自殺になることが、現代の精神
医学でもいえる。災難でも死でも、それが避けられないもの
ならば受け入れて、その中で、できることを精一杯つくすこ
とこそ、生命を生かすのである。苦中に活路を開くのである。

ガンを病んでいても、心は病まない。

「災難はあってもよい、その都度最善を尽くすまでだ。」と
何でも受けていく覚悟を持っておきたい。

キリスト教徒の方は、災難でも「神の御こころのままに」と
受け入れるところが、良寛さまの言葉と似ている。

場所、人によって、言葉や行為を使い分けるのは、日常生活
にも多い。モルヒネは麻薬である。「モルヒネを絶対注射し
てはならない。」ということが、真理ではない場面もある。
「あの人に、モルヒネを注射しなさい。してよろしい。」実
際、病院で、よく行なわれているらしい。これは、末期がん
の患者の痛みを取るためである。仏教や禅において、対機説
法ということを、よくよく、理解するべきである。

激怒する良寛
子供と遊ぶやさしい良寛である。その良寛も、堕落した僧侶
には、激怒している。貧しく厳しい生活にあえぐ農民。そう
いう農民を精神的に救おうとすればできるはずの仏道の修行
もせず、貧しい農民から、さらにお布施をむさぼる僧侶を見
て、怒りに耐えず、良寛は僧侶を「犬」と呼んだ。

口ばかりうまい僧侶
 次の詩も、僧侶が説法はするが、本当の仏法を悟っていな
いことの批判である。
◆ 我見講経の人を見るに
 雄弁流水のごとく
 五時と八教と
 説き得てはなはだ比なし。
 自ら称して有識となし
 諸人みな是となせども
 かえって本来の事を問えば
 一箇も使うあたわず  

 私が見るところでは、経典の話がうまい人
 話は立て板に水のごとく雄弁にしゃべる
 釈尊一代の教説である五時八教も
 見事に説くことができて比類がない
 自分でも知識者だと認め
 世の人も見事だと評判
 だがひとたび仏法の本来の大事を問えば
 ただの一つも使えない

禅は派手な宣伝をしない。強制もしない。強く請われもしな
い場で、強いて説法するような強引さもない。信者などを布
教活動に従事させない。良寛が書いた『戒語』がある。

徹底して「無我」の実践に励む。仏教や禅については、無知
でよい。馬鹿と思われてよい。知識ではなく、無知の本質を
自覚する禅であるから、害となる知識を他の人に教えてはな
らない。こういうところが禅者にあるから、すぐれた禅者は、
周囲の人に知られないことがよくある。こういうのが禅者で
ある。

★「いさかい話」
「いさかい話」は、宗教者にも起こる。もし、どこかにでか
けた場で、不本意ながら仏教の論争に巻き込まれようとした
場合(禅者は自分からそうするはずはなく、禅をやっている
と知って向こうから論戦をいどんで来る場合がある)、面と
向かって答えず、静かに去る。論争は無駄である。我見のぶ
つかりあいであるから。初期(原始)経典でも、論争をする
なと言っている。
 しかし、これは、自己の苦悩を解消できるかという宗教上
の論議である。仕事上の論議は別であり、仕事上の論議は大
いに(しかし、私利私心なく)すべきであることはいうまで
もない。

★「いさかい話」
「いさかい話」は、家庭でもよく起こる。夫婦や嫁や姑など
の間では、これといって正義や品質や生命など致命的な問題
ではないのであるから、自分の考えにかたくなである必要は
ない。目上の者は、下の者のやることが気にくわなくても、
それは己のやりかたが古風でかたくななせいもあると自覚し
て、下の者のすることが気にくわなくても、小言を言わず、
許してやる、そのまま受け入れてやるのがよい。目下の者は、
目上の人の言うことを先輩として受け入れて、作法、慣習は
目上の人の言うことを尊重して反発しないのがよい。家族同
志で我をはって、何の益があろうか。嫁や姑は、愛する夫に
つながりのある人である。縁あって近い関係のできた人であ
る。なぜ、憎みあうか。姑は、わが子が愛する嫁をなぜ、い
じめるか。嫁は、愛する夫を育ててくれた母(姑)をなぜ憎
むか。注意されたら、どこまでも、何度注意されても、反発
せず、受け入れていれば、いつか姑も変わる。我執には我執
の反発がある。無我には無我の慈悲が待つ。「いさかい話」
になった時には、「あっ、自分の我のせいだ」と、さっと坐
禅の心に切り替えたい。


臨済禅師  経典の理解だけでは仏教でも禅でもない

2006-10-17 10:16:19 | 禅とは
本来の仏教も禅も、思想を理解するのではなくて、エゴイズ
ムを捨棄し、心の安定を得て、さらに修行して、悟りを得る
という実践的、動的な宗教であるから、臨済も、その、最も
大切な実践面をおさえている。
経典の文字の理解にとどまり、執着することを否定する。無
事でいる実践、無我の実践を強調する。

何もしないというのは、非常にむつかしい行である。多くの
者は、人を恨む、後悔する、軽蔑するなど、種々の業つくり
をする。何もしない坐禅の行は、結構難しい。臨済が、修行
を否定したかのように解釈する研究があるが、誤解である。
別に、一見坐禅を否定したかのような言葉もあるが、対機説
法である。坐のみに執着する者に対する執着を取るためであ
る。日常生活の動きの中も仏道であることをいうためである。

文字は、事実ではない。たとえ、学者が「慢心、我見を除け」
という仏教の実践を説明できても、彼自身の慢心、我見が見
えていて、除いているわけではない。実践者を学がない、と
軽蔑している、その軽蔑の心が、煩悩障であることに自覚が
ない。

実践しないと、現実の苦悩は解消しない。実践しないと自分
のエゴイズムが見えない。見えても捨てることができない。
仏教の本を読んだだけで解決した苦悩は、浅い、しあわせな
苦である。もっと深刻な苦は、仏教の勉強では解消しない。
読むだけ、研究するだけでは、エゴイズムは捨てられない。

行動医学や精神医学などで、知識だけでは、心の病気や苦悩
が解消せず、実践によって解消することがあきらかになって
きた。

経典や語録を読んで理解するだけでは、エゴイズムも捨てら
れず、悟ることもできないので、そういう意味で、経典を否
定する言葉があります。仏教学者や禅学者が、どんなに経典
類に詳しくとも、人格的側面、人の苦悩を救う力があるかど
うか、など別問題だと考えれば、この意味が納得できるでし
ょう。学問では救われない苦悩が、禅という実践で救われる。
こういうものがまだ、存在しているのは、日本だけでしょう。

日本でも、学問仏教の陰になって目立ちませんが、まだ、生
きています。これを後世に伝えるのは、研究者ではなくて、
実践者です。絵の研究者(仏教の研究者、剣術の歴史研究者
など)は、人を感動させる絵を描くこと(エゴイズムを捨て
苦を解消し人間の真実を悟ること、剣道の達人になること)
を教えることはできません。画家(悟道の実践者、剣道の師
範など)しか人を感動させる絵(苦の解消・エゴイズムの捨
棄など、剣道)の技術、才覚は他者に伝えることができない
のと似ています。人間の心、行為は、微妙であり、その微妙
な違いで、天地の差が生じます。

結局、文字を読む時、体験しない者は自分の知っている限り、
予想できる限りの狭い了見で読むから、文字を正確に読みと
ることはできないし、理解することと、現実のその人の人格
とは別です。自覚されないエゴイズムがあって、指導者から
点検してもらわないと気がつきません。己れを知らない「無
明」。 それがあれば、自分も他人も救うことはできません。
「無明」によって苦やエゴイズムが生じるのですから。

すべて、因果の法則どおりである。ある苦悩のような事実
(たとえば、金がない、ガンになったというような)が起こ
っても、次にそれに加えて、何かの縁(たとえば、他者と比
較する、無いことを苦に考える、死の恐怖まで思考するなど)
を加えなければ、苦悩にならないのです。坐禅の実践と、指
導者による自己というもののありようなどを正しく(種々の
エゴイズムで汚染されない見方で)観察することによって、
従来は、あること(因縁)が、おこると、次の因縁を自分で
起こして、苦悩やエゴイズムの行為をおこしていた者が、止
むのです。

読むばかりで、実践しない学者のような人は、読んで慢心を
起こし、知らない人を軽蔑する心があります。自覚していな
いが、必ずあります。慢心しているのに、人の苦悩を救うこ
とができません。読むことによって、新しい煩悩障が加わる
ことが多い(見取見、慢心、軽蔑、修行の怠る、など)から
臨済は「業つくり」だと言うのです。
 苦悩する人や、禅に興味を持つ人は、たいていまず、経典
や本を読みます。しかし、読むだけでは、慢心などを生じ、
修行を怠り、仏道を悟ることはできないから、こういうこと
を言うのです。

学者はそこがわからず、自分の仏教知識、思想の知識が多い
ことによって、知性におごります。実践し体得の結果、最も
大切なものを身体で知っている人を軽蔑します。それが文字
を研究する者の傲慢、慢心です。
文字の研究者は、よく知識があります。「この経典ではこう
いう、あの経典ではこういう。この禅僧はこういう、あの禅
僧はこういう。」とほこらしげに語ります。それで、体得し
た人が、そういう学をほこる人に「あなたが人を救い、自分
のエゴイズムを自覚し捨てられる教えは、そのうちのどれだ。
というと答えられない。答えても、自分の物は何一つありま
せん。みな、昔の人の言ったこと、書いたことを知っている
だけです。

これは学問知識にすぎませんから、体得した実践者の指導を
受けてください。」と書いたり、言うような謙虚な言葉がほ
とんどみられません。現代日本の政治、官庁、財界を見れば
わかるでしょう。人を傷つけ、己のみの利益をはかる人々、
彼らも頭のよい人たちです。仏教を学問する人も、頭のよい
人です。しかし、頭のよい人が、他者を傷つけ、己れのみの
利益をはかる。知性と情動、人格などは、全く別です。情動、
エゴイズムがあれば、自分の真実を見て知る叡智がくらまさ
れます。エゴイズムを捨てて、如実知見する禅の実践(静中、
動中、一切処一切時)でないと人間の真実を悟ることはでき
ません。

今の修行者が悟ることができないか。その間違いはどこにあ
るのか。 間違いは、自分を信じないからだという。道元禅師
も信を強調した。自分が釈尊と同じように悟れるのだと信じ
て、修行しないから、悟れないのである。正師にあえば、自
分もできると信じられる。大善知識(正師)にあって、信を
確立して、その信のとおり、修行すれば、信のとおり、悟る
ことができる。




盤珪永啄禅師  平 話 で 説 い た 禅 僧

2006-10-17 10:13:05 | 禅とは
臨済宗の禅僧でありながら、公案を用いないで、やさしい日
常語で禅を説 いた著名な禅僧である。盤珪の禅のこころは、
「不生禅」(ふしょうぜん)というのが、その特徴である。
すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、不生
の仏心でいよ、とだけ説法したからである。「不生でいなさ
い。」と繰り返し説いたので、「不生禅」として名高い。

塗り込めた庵の中で坐禅するうちに、結核となって、固まっ
た血たんをはくほどであった。
普通の食事はできなくなり、おもゆを食べるだけとなった。
ある朝、顔を洗っていると、ふっと梅の香りが鼻を打った時、
悟った。嬉しくて気分がよくなり、下僕に粥を作ってもらっ
て、食べた。それから病気は快方に向かった。

仏心は不生にして霊明なものに極まりました。」「不生でご
ざれ。」これが、盤珪の説法の要点であり、いつも繰り返さ
れる。「不生」とはどういうことか、次の説法で説明される。

不 生 の 証 拠
「その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちら
向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて
烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずに
おるに、烏の声雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆ
るは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くに
みな一切事が、不生でととのいまする。これが不生の証拠で
ござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決
定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来
永劫の活如来でござるわいの。今日より仏心でいるゆえに、
我が宗を仏心宗といいますわいの。」

知ろうという分別をしないでも、よく知りわける智恵を不生
の仏心の「霊明」なわけという。「無分別の分別」をさして
いる。何の準備、はからいをせずとも、たしかに働く智恵、
般若である。只管打坐の場合も似ている。

<見ても、聞いても、念がわいても、身体の状況が気になっ
ても、不安や憎しみなどがわいても、つかまえずにいて下さ
い。心はつかまえると、見えなくなり、聞かなくなり、する
べきことをできなくなります。つかまえずにいると、即座に
働くようになってます。>
 「無分別の分別」が備わっていることを信じ、自覚し、そ
れにまかせて、生きていくと、自由で楽な生き方ができるで
あろう。

一足一足に念を生じて歩きはしませぬ。されども自然に歩く
は、不生で歩くというものでござるわいの。」

一切の根源、一切の始め、という。無心、自性清浄心、仏心、
仏性である。鈴木大拙は「宇宙的無意識」という。聞こうと
いう念なくして、間違いなく働くもの。そのように無心でい
れば、仏である。仏心を毒に変えないようにしなければなら
ない。

「不生」とだけはいわずに、「不生の仏心」とひとつに言う。
「不生」だけでは、清浄、迷いなし、という静態的状態とと
らえられがちであるが、「仏心」ではっきりと動的に「はた
らくもの」となる。
「不生」は、色即是空、脱落、無位、無我、去私、
「仏心」は、空即是色、現成、真人、成仏、則天、

「直下無心、本体自(おのず)から現ずる」
無私の時、個の力が最高に発揮される。「無作、全機」
「無作、生仏心」である。
それは、無私で、働くこと。
「捨ててこそ、活きる。」も同じである。
とらわれない時、自分のなすべきことができる。
はからいを捨てる時、自然に生かされる
はからいなき時、仏の眼にてある。
はからわずして、正しく動かされる。

多くの人が、憎み、怒り、先を愚痴り、過去を悔いる、迷い
を起こし、はては「心の病気」になったり、自殺したりする。
それは、我が身かわいさ、他人をけおとしても自分をよくし
ようという欲のために、親にもらった仏心を、変えているの
である。仏心を三毒にしかえる
* 貪欲(とんよく=むさぼり)
* 瞋恚(しんい=いかり)
* 愚癡(ぐち=仏教の教えを知らないこと、無知)

盤珪は、過去と将来を思うのを愚痴という。過去と将来に関
する念をつかまえて、ふりまわされて、迷い、苦しみが起こ
るという心についての真相を知らないのが、愚痴であり、畜
生の身になる縁である。人の心はみな、仏のように清浄であ
るが、身びいき、我欲のために、自分で仏心を毒に変えてい
るのである。
迷いや苦しみは、環境や他人がひきおこすのではなく、自分
が我が身のひいき、自分かわいさ、から起こすのである。

我執、我愛、我利、のゆえに、迷いや苦悩が生じるというこ
とである。自分をかわいがるゆえ、人から馬鹿にされると怒
る。怒ることが、自分の心の平和を失い、自分を傷つける。
現代では、それによって、自分の免疫力を弱めることもわか
っている。自分をほめる人があれば、喜ぶ。これは、自分を
ひいきするからである。ほめられたとしても、自分の価値が
あがるわけでもない。とにかく、我が身かわいや、の心が迷
い、苦しみのもとである。それにとらわれるから、正しい姿が
見えず、ややこしい葛藤に落ち込んでいくのである。

我がおもわくを立てるからである。無意識に、自分の価値、基
準を絶対正しいとして、勝手に押し付け、怒るなど、さわぐ。自
分の身勝手な、独断の基準、条件で、誠実な人を裁く、おと
しいれる。
迷いは、自分がしでかすのである。他人のせいにするが、実
は自分勝手である。
心は過去も写すというすばらしい性能を持つが、それに、と
らわれたら、迷いがおこる。

現代でも、多くの人が坐禅しているが、なぜ、悟らないのだ
ろうか。これについて盤珪禅師は明解にこたえている。
「悟り」には、およそ、三つくらいの全く違う定義がある。
「坐禅が悟り」というのは、汚い心(煩悩障)を現行させて
いない時間(これが、第二の悟り)であるというだけである。
本来人間の本質(仏性、これが、第一の悟り=本証)は、不
生不滅、清浄である。それを修行の末に現実に観る(これが、
第三の悟り=始覚)というわけではない。真の悟りとは、第
三の悟りである。 正師についていない場合、師匠が仏法を
得ていないので、第二の悟りだけしかないと思いこんでいる
ので、弟子も望みを持たないから悟らないのは当然である。
師匠が正師であっても、その弟子が悟りを得ないのは、「結
局、大法の望みがうすいからである」。

スポーツでも、芸事でも、習う人が熱心でないと頂点を究め
ない。 禅も同じである。熱心であれば必ず悟る。「大法の望
みを持て、しかし、求める坐禅をするな。越えようとするな、
もう、すでに、自分のもとに得ている。ただ、気がつくだけ
である。よそに、求めるな、越えようとするな。必ず自覚し
たいという望みを持て。」
「越えようとする」「求める」のは、はからいであり、思考で
ある。「それ」から離れる。「望み」は、志しであり、実践へ
の原動力である。志、望みを持て。

迷いは、自分がしでかすのだ。
「しかるに一切迷いは我が身のひいきゆえに、我が出かして
それを生まれつきと思うは、愚かな事でござるわいの。」

迷いや苦悩に陥ってしまうのは、仏心を自覚しないゆえである。
すなわち、このような自分のこころと苦悩が起こる仕組みを
自覚しないからである。無知、愚痴である。
それを教えようというのが、仏教である。教えるだけでなく、
その迷う癖までなくさせるのが禅である。

後悔、不安、憎悪、嫌悪などの念は、実体のないものである
から、出てきてもとりあわないでいて、自分のなすべきこと
に行動を起こすと、気がついた時には自然に消えている。
あるいは感じないものである。
だから、いくら「雑念」(「雑」というと価値判断が含まれ
ているが、そういう差別判断をしないほうがよい)が出てき
てもかまわないというふうになる。
坐禅の要領も同じであり、坐禅していない時に、念や感情が
おこっても、同じようにつかまえない。たとえば、人と話し
ていて、怒りの念や感情がわいても、それにとりあわないで、
さらに、相手の言葉を聞くなり、行動を見るなりして、「怒
りの念」にとんじゃくしないのである。
神経質の人は、「不安の念」がわいても、それにとりあわず
に、行動を起こす。歩きだす。さらに不安があっても、歩き
続ける。歩みをとめては、神経症は、なおらない。
妄想、幻聴、幻覚を感じる人は、それにとりあわず、やはり、
現実の行動を起こして、幻聴などに振り回されないようにす
る。とんじゃくしなければ、いくら、念がおこっても平気な
ようになる。

坐禅を初めてしばらくして、間違うのが、念が起こるのを止
めようと努めるのだが、これは誤りである。盤珪の元に参禅
した人も間違えやすいので、このことは何度も話している。
「しかし不生になりたいと思しめして、怒り、腹立ちや、惜
しや、貪(ほ)しやのおこるを、止めうと思わっしゃっても、
それを留めますれば、一心が二つになります。走る者を追う
がごとくでござる。起こる念を止めうとたしなみましたぶん
では、永代おこる念と、止める念が、たたかいまして、止ま
ぬ物でござる。」

「向こうのものはいかようにありとままよ、向かうて貪着せ
ず、我が身のひいきをせずして、ただ仏心のままでいて、余
のものにしかえさえせねば、迷いはいつとても出来ませぬ。」

神経症は、自分の命をあまりに大切に思う気持ちから、不安
が起きた時に、それにとらわれることから起こります。うつ
病は、自分の病状、仕事、家庭の事情などをとらえて不満に
思う念を重ねていると起こります。精神分裂病は、通常あり
もしない空想を重ねたり、通常では起こりにくい妄想(命を
ねらわれているだの、自分は偉人だとか)をつかまえて、そ
れを繰り返していることが多いようです。
何を見ようと、聞こうと、感じようと、自分が今なすべきこ
とは何かを忘れず、念、妄想に変えないよう、考えを重ねて
いかない心構えが必要です。
そのためにも、自分の仏心がそなわっていることを本当に信
じることです。

他人を害し苦しめ、自分に苦悩が生じるのは、わが身にひい
きするからである。そこで、他人も自分も苦しめないように
するには、「我が身のひいきをせずして」暮らすことが必要
である。エゴイズムを捨てろということである。

「いずれもこの仏心に成ろう事を、よくよく合点なされて、
親のうみつけざる身のひいきなる心を、もたぬようにたしな
まっしゃれ。奉公つとめらるる衆は、男女とも主人へ、一身
なげて勤められ、我が身に少しもひいきなく、奉公さるるが、
第一のつとめでござる。」

仏になろうとするより、仏でいるほうがやさしい。すでに仏
であると信じて、仏として暮らす方がやさしい。仏としての
ふるまいをしていれば、もう仏である。これは道元禅師と同
じである。
これが、道元禅のコツであるが、間違われやすい。エゴイズ
ムを出して消すことに努力して仏になろうとするのではなく
て、エゴイズムを出さないのである。道元禅師が「本証妙修」
というのも、これと同じことを言うのである。すでに仏でい
て、坐禅しなさい、すでに仏として、エゴイズムを出さない
で生活しなさい。そうすれば、生活中に三昧に入り、自然に
身心脱落(見性体験のこと)の状態に入って悟る、というの
である。

本当の苦悩は、頭での理解だけでは、解消しないので、頭で
の理解ですまさないようにしなければならない。禅の指導者
もしゃべることはしゃべるが、悟りは、実践しなければ得ら
れません、と語っている。 芸術、スポーツを究めた人は、自
分の得たものを語る。その語るのは、本で読んだものではな
い、身体で得たものだ。それと似ている。

「常住不生の仏心で日を送る」
坐禅の形をしている時だけが禅ではない。「常に仏心で」す
ごせという。形どおり座っているのが坐禅ではない。無心、
無我で仕事をして、話をして、常に油断せずに、仏心のまま
ですごすのが禅である。

坐禅して悟れば、「思想」「悟りの智慧」は、自然に出てく
る。それならば、「思想」「悟りの智慧」は話す必要がない。
悟りを得なくても、私(我、自己、エゴ)を捨てれば、捨て
るほど、自分の心の中の仏の眼が働きだす。だから、坐禅に
よって、自ら開発される智慧は、説法される必要はない。エ
ックハルトも言う。「人が己れを捨てれば、神が来てそこを
満たす」と。禅の実践に何がなくてはならぬことか、それが
わかるから、それだけを説く。

皆さんも、今はわからなくても、仏心でいれば(正しい禅の
心で生活しておれば)、ある時、人の心がわかるようになる
時が来ます。その日のために、今、こうしてお話しているの
です。
悟った人の言うことを今は信じられなくても、後に、「あの
人の言ったことは本当だった。」と思う日が来る。その時が、
「法成就」である。
これを信じない僧侶、学者が多くて、禅も仏教も現代日本で
は、社会への影響力を失っている。もったいないことである。
心の病気、自殺、いじめ、不詳事、種々の社会問題の解決に、
「人の心が見える智慧」を開発する禅・仏教の潜在的必要性
はいよいよ高まっているのだが、はばむものがある。自覚さ
れないエゴイズムーー。
 

盤珪永啄禅師  平 話 で 説 い た 禅 僧

2006-10-17 10:11:20 | 禅とは
臨済宗の禅僧でありながら、公案を用いないで、やさしい日
常語で禅を説 いた著名な禅僧である。盤珪の禅のこころは、
「不生禅」(ふしょうぜん)というのが、その特徴である。
すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、不生
の仏心でいよ、とだけ説法したからである。「不生でいなさ
い。」と繰り返し説いたので、「不生禅」として名高い。

塗り込めた庵の中で坐禅するうちに、結核となって、固まっ
た血たんをはくほどであった。
普通の食事はできなくなり、おもゆを食べるだけとなった。
ある朝、顔を洗っていると、ふっと梅の香りが鼻を打った時、
悟った。嬉しくて気分がよくなり、下僕に粥を作ってもらっ
て、食べた。それから病気は快方に向かった。

仏心は不生にして霊明なものに極まりました。」「不生でご
ざれ。」これが、盤珪の説法の要点であり、いつも繰り返さ
れる。「不生」とはどういうことか、次の説法で説明される。

不 生 の 証 拠
「その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちら
向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて
烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずに
おるに、烏の声雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆ
るは、不生で聞くというものでござるわいの。かくの如くに
みな一切事が、不生でととのいまする。これが不生の証拠で
ござるわいの。その不生にして霊明な仏心に、極まったと決
定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来
永劫の活如来でござるわいの。今日より仏心でいるゆえに、
我が宗を仏心宗といいますわいの。」

知ろうという分別をしないでも、よく知りわける智恵を不生
の仏心の「霊明」なわけという。「無分別の分別」をさして
いる。何の準備、はからいをせずとも、たしかに働く智恵、
般若である。只管打坐の場合も似ている。

<見ても、聞いても、念がわいても、身体の状況が気になっ
ても、不安や憎しみなどがわいても、つかまえずにいて下さ
い。心はつかまえると、見えなくなり、聞かなくなり、する
べきことをできなくなります。つかまえずにいると、即座に
働くようになってます。>
 「無分別の分別」が備わっていることを信じ、自覚し、そ
れにまかせて、生きていくと、自由で楽な生き方ができるで
あろう。

一足一足に念を生じて歩きはしませぬ。されども自然に歩く
は、不生で歩くというものでござるわいの。」

一切の根源、一切の始め、という。無心、自性清浄心、仏心、
仏性である。鈴木大拙は「宇宙的無意識」という。聞こうと
いう念なくして、間違いなく働くもの。そのように無心でい
れば、仏である。仏心を毒に変えないようにしなければなら
ない。

「不生」とだけはいわずに、「不生の仏心」とひとつに言う。
「不生」だけでは、清浄、迷いなし、という静態的状態とと
らえられがちであるが、「仏心」ではっきりと動的に「はた
らくもの」となる。
「不生」は、色即是空、脱落、無位、無我、去私、
「仏心」は、空即是色、現成、真人、成仏、則天、

「直下無心、本体自(おのず)から現ずる」
無私の時、個の力が最高に発揮される。「無作、全機」
「無作、生仏心」である。
それは、無私で、働くこと。
「捨ててこそ、活きる。」も同じである。
とらわれない時、自分のなすべきことができる。
はからいを捨てる時、自然に生かされる
はからいなき時、仏の眼にてある。
はからわずして、正しく動かされる。

多くの人が、憎み、怒り、先を愚痴り、過去を悔いる、迷い
を起こし、はては「心の病気」になったり、自殺したりする。
それは、我が身かわいさ、他人をけおとしても自分をよくし
ようという欲のために、親にもらった仏心を、変えているの
である。仏心を三毒にしかえる
* 貪欲(とんよく=むさぼり)
* 瞋恚(しんい=いかり)
* 愚癡(ぐち=仏教の教えを知らないこと、無知)

盤珪は、過去と将来を思うのを愚痴という。過去と将来に関
する念をつかまえて、ふりまわされて、迷い、苦しみが起こ
るという心についての真相を知らないのが、愚痴であり、畜
生の身になる縁である。人の心はみな、仏のように清浄であ
るが、身びいき、我欲のために、自分で仏心を毒に変えてい
るのである。
迷いや苦しみは、環境や他人がひきおこすのではなく、自分
が我が身のひいき、自分かわいさ、から起こすのである。

我執、我愛、我利、のゆえに、迷いや苦悩が生じるというこ
とである。自分をかわいがるゆえ、人から馬鹿にされると怒
る。怒ることが、自分の心の平和を失い、自分を傷つける。
現代では、それによって、自分の免疫力を弱めることもわか
っている。自分をほめる人があれば、喜ぶ。これは、自分を
ひいきするからである。ほめられたとしても、自分の価値が
あがるわけでもない。とにかく、我が身かわいや、の心が迷
い、苦しみのもとである。それにとらわれるから、正しい姿が
見えず、ややこしい葛藤に落ち込んでいくのである。

我がおもわくを立てるからである。無意識に、自分の価値、基
準を絶対正しいとして、勝手に押し付け、怒るなど、さわぐ。自
分の身勝手な、独断の基準、条件で、誠実な人を裁く、おと
しいれる。
迷いは、自分がしでかすのである。他人のせいにするが、実
は自分勝手である。
心は過去も写すというすばらしい性能を持つが、それに、と
らわれたら、迷いがおこる。

現代でも、多くの人が坐禅しているが、なぜ、悟らないのだ
ろうか。これについて盤珪禅師は明解にこたえている。
「悟り」には、およそ、三つくらいの全く違う定義がある。
「坐禅が悟り」というのは、汚い心(煩悩障)を現行させて
いない時間(これが、第二の悟り)であるというだけである。
本来人間の本質(仏性、これが、第一の悟り=本証)は、不
生不滅、清浄である。それを修行の末に現実に観る(これが、
第三の悟り=始覚)というわけではない。真の悟りとは、第
三の悟りである。 正師についていない場合、師匠が仏法を
得ていないので、第二の悟りだけしかないと思いこんでいる
ので、弟子も望みを持たないから悟らないのは当然である。
師匠が正師であっても、その弟子が悟りを得ないのは、「結
局、大法の望みがうすいからである」。

スポーツでも、芸事でも、習う人が熱心でないと頂点を究め
ない。 禅も同じである。熱心であれば必ず悟る。「大法の望
みを持て、しかし、求める坐禅をするな。越えようとするな、
もう、すでに、自分のもとに得ている。ただ、気がつくだけ
である。よそに、求めるな、越えようとするな。必ず自覚し
たいという望みを持て。」
「越えようとする」「求める」のは、はからいであり、思考で
ある。「それ」から離れる。「望み」は、志しであり、実践へ
の原動力である。志、望みを持て。

迷いは、自分がしでかすのだ。
「しかるに一切迷いは我が身のひいきゆえに、我が出かして
それを生まれつきと思うは、愚かな事でござるわいの。」

迷いや苦悩に陥ってしまうのは、仏心を自覚しないゆえである。
すなわち、このような自分のこころと苦悩が起こる仕組みを
自覚しないからである。無知、愚痴である。
それを教えようというのが、仏教である。教えるだけでなく、
その迷う癖までなくさせるのが禅である。

後悔、不安、憎悪、嫌悪などの念は、実体のないものである
から、出てきてもとりあわないでいて、自分のなすべきこと
に行動を起こすと、気がついた時には自然に消えている。
あるいは感じないものである。
だから、いくら「雑念」(「雑」というと価値判断が含まれ
ているが、そういう差別判断をしないほうがよい)が出てき
てもかまわないというふうになる。
坐禅の要領も同じであり、坐禅していない時に、念や感情が
おこっても、同じようにつかまえない。たとえば、人と話し
ていて、怒りの念や感情がわいても、それにとりあわないで、
さらに、相手の言葉を聞くなり、行動を見るなりして、「怒
りの念」にとんじゃくしないのである。
神経質の人は、「不安の念」がわいても、それにとりあわず
に、行動を起こす。歩きだす。さらに不安があっても、歩き
続ける。歩みをとめては、神経症は、なおらない。
妄想、幻聴、幻覚を感じる人は、それにとりあわず、やはり、
現実の行動を起こして、幻聴などに振り回されないようにす
る。とんじゃくしなければ、いくら、念がおこっても平気な
ようになる。

坐禅を初めてしばらくして、間違うのが、念が起こるのを止
めようと努めるのだが、これは誤りである。盤珪の元に参禅
した人も間違えやすいので、このことは何度も話している。
「しかし不生になりたいと思しめして、怒り、腹立ちや、惜
しや、貪(ほ)しやのおこるを、止めうと思わっしゃっても、
それを留めますれば、一心が二つになります。走る者を追う
がごとくでござる。起こる念を止めうとたしなみましたぶん
では、永代おこる念と、止める念が、たたかいまして、止ま
ぬ物でござる。」

「向こうのものはいかようにありとままよ、向かうて貪着せ
ず、我が身のひいきをせずして、ただ仏心のままでいて、余
のものにしかえさえせねば、迷いはいつとても出来ませぬ。」

神経症は、自分の命をあまりに大切に思う気持ちから、不安
が起きた時に、それにとらわれることから起こります。うつ
病は、自分の病状、仕事、家庭の事情などをとらえて不満に
思う念を重ねていると起こります。精神分裂病は、通常あり
もしない空想を重ねたり、通常では起こりにくい妄想(命を
ねらわれているだの、自分は偉人だとか)をつかまえて、そ
れを繰り返していることが多いようです。
何を見ようと、聞こうと、感じようと、自分が今なすべきこ
とは何かを忘れず、念、妄想に変えないよう、考えを重ねて
いかない心構えが必要です。
そのためにも、自分の仏心がそなわっていることを本当に信
じることです。

他人を害し苦しめ、自分に苦悩が生じるのは、わが身にひい
きするからである。そこで、他人も自分も苦しめないように
するには、「我が身のひいきをせずして」暮らすことが必要
である。エゴイズムを捨てろということである。

「いずれもこの仏心に成ろう事を、よくよく合点なされて、
親のうみつけざる身のひいきなる心を、もたぬようにたしな
まっしゃれ。奉公つとめらるる衆は、男女とも主人へ、一身
なげて勤められ、我が身に少しもひいきなく、奉公さるるが、
第一のつとめでござる。」

仏になろうとするより、仏でいるほうがやさしい。すでに仏
であると信じて、仏として暮らす方がやさしい。仏としての
ふるまいをしていれば、もう仏である。これは道元禅師と同
じである。
これが、道元禅のコツであるが、間違われやすい。エゴイズ
ムを出して消すことに努力して仏になろうとするのではなく
て、エゴイズムを出さないのである。道元禅師が「本証妙修」
というのも、これと同じことを言うのである。すでに仏でい
て、坐禅しなさい、すでに仏として、エゴイズムを出さない
で生活しなさい。そうすれば、生活中に三昧に入り、自然に
身心脱落(見性体験のこと)の状態に入って悟る、というの
である。

本当の苦悩は、頭での理解だけでは、解消しないので、頭で
の理解ですまさないようにしなければならない。禅の指導者
もしゃべることはしゃべるが、悟りは、実践しなければ得ら
れません、と語っている。 芸術、スポーツを究めた人は、自
分の得たものを語る。その語るのは、本で読んだものではな
い、身体で得たものだ。それと似ている。

「常住不生の仏心で日を送る」
坐禅の形をしている時だけが禅ではない。「常に仏心で」す
ごせという。形どおり座っているのが坐禅ではない。無心、
無我で仕事をして、話をして、常に油断せずに、仏心のまま
ですごすのが禅である。

坐禅して悟れば、「思想」「悟りの智慧」は、自然に出てく
る。それならば、「思想」「悟りの智慧」は話す必要がない。
悟りを得なくても、私(我、自己、エゴ)を捨てれば、捨て
るほど、自分の心の中の仏の眼が働きだす。だから、坐禅に
よって、自ら開発される智慧は、説法される必要はない。エ
ックハルトも言う。「人が己れを捨てれば、神が来てそこを
満たす」と。禅の実践に何がなくてはならぬことか、それが
わかるから、それだけを説く。

皆さんも、今はわからなくても、仏心でいれば(正しい禅の
心で生活しておれば)、ある時、人の心がわかるようになる
時が来ます。その日のために、今、こうしてお話しているの
です。
悟った人の言うことを今は信じられなくても、後に、「あの
人の言ったことは本当だった。」と思う日が来る。その時が、
「法成就」である。
これを信じない僧侶、学者が多くて、禅も仏教も現代日本で
は、社会への影響力を失っている。もったいないことである。
心の病気、自殺、いじめ、不詳事、種々の社会問題の解決に、
「人の心が見える智慧」を開発する禅・仏教の潜在的必要性
はいよいよ高まっているのだが、はばむものがある。自覚さ
れないエゴイズムーー。
 

道元禅師 悟道を重視

2006-10-17 09:59:31 | 禅とは
人が我見、我執により種々の汚い心を起こして、自分や他人
を害することの根元に、真の自己を知らないことがある。
悟るということは、その真の自己の様相を確認し、我見、我
執の様子を知り、他者の苦悩の解決の支援をできるようにな
るからである。なぜかというと、苦しむ人、偏見や慢心、我
執などにより、自分で苦しみ、他人を傷つける人の心を読め
る(初期仏教では「他心通」という)から、その問題点を指
摘でき、矯正する方法(初期仏教では「八正道」という)を
指導できる(「自受用三昧」の一つの働き)からである。
よくあることだが、人と人の交際において、自分にないよい
ことをしていて自分がしない、できないというひけめから、
少しの違いや、ちょっとした言葉から、相手を嫌悪して、全
面的に否定したり敵対するということがある。これも、エゴ
イズムの根源を知らないからである。自分の好き嫌いをあま
りに重視し、他者のよい点を肯定しない我利、我執である。
悟ることは、そういう我利、我執の根源を知ることでもある。
「悟道」は、そういう重要な意味を持つから、道元禅師が悟
道を重視したのであろう。

煩悩障(ぼんのうしょう)を批判し、これを捨てよといって
いる証拠である。煩悩というのは、実体があるのではないが、
強く固執して自分を縛り、他者を害する心理作用をします。
こういうあぶない、汚い(他者を傷つける)心理作用を起こ
さないようにするのである。そのために、その出てくる根元
をつきとめる。こういう目標も坐禅修行の一つである。坐禅
するのは、目のつけどころがなくてはならない。これが、道
元禅師の仏教である、今、現代の心を病みがち、他者を傷つ
けがち(いじめ、虐待、差別など)な私たちが行うべき禅修
行であろう。
煩悩障は我執(がしゅう)によって起こる煩悩である。「こ
ういうのが自分である」と自己を認めて、それに執着するこ
とが我執である。我執によって、種々の醜い心の作用を現出
する。煩悩障を除くと涅槃(ねはん)である。「退亦佳矣」
は、増上慢のことである。「慢」は、六つの煩悩(貪、瞋、
癡、慢、疑、悪見)の一つ。名利は貪(むさぼり)の対象の
一つで、仏教を妨げる強い悪影響を持つので、道元禅師は、
慢と名利を除くことをいう。縁起説を考え、理解しても、坐
禅しても、慢や貪欲、悪見などを修正、捨てなければ、涅槃
・菩提を得ないということである。こういう醜い心を変えて
いくこころの鍛錬は、学問研究とは別ものであるから、学問
研究だけでは、涅槃を得ることはできない。苦悩する人は、
涅槃を得ていないし、涅槃を得ることを実践(現代の精神療
法家などが行うカウンセリングである)によって知らない学
問研究者は人の苦悩を救うこともできない。

所知障
縁起を理解しても、菩提を菩提と理解しても、坐禅をしても、
無明から脱したわけではない。知見で理解したものを、菩提
だと思うことは、法執(法縛)である。それを所知障(しょ
ちしょう)という。所知障を除くと菩提、悟り、である。
煩悩障とは種々の醜い心の作用、エゴイズムが中心と思えば
よいだろう。所知障とは、自己や法について知らない無明で
ある。真の自己を知らないことである。無明によって、煩悩
障が出てくる。こころの病気になったり、他者を傷つけたり
する。
真に自己を知らないために、自己をいつわり縛り、他者に誤
った仏教を説き、失望させ、苦悩にとどめるという「無明」
の縛から離れるために行が必要である。

自分は才能がない」 「あいつのせいで私はこんなに苦しむ」
「あの人の言葉で私は傷ついた」
「私のせいで、人を傷つけた」
これには、みな「自他の見」が含まれている。そういうふう
に、自分、他者のせい、という追求のしかたをしてはならな
いというのである。認知療法でも同じことを助言する。「自
他の見をやめて學するなり」である。
これは重要である。「何もならない坐禅をするのが道元禅で
ある。それが尊いのだ。」ということをいう人がいるが、仏
教や道元禅師の真意を読みそこなっている可能性がある。特
定グループの利害関係のない学者があきらかにすべきである。

(現代の在家)
自分で本や経典を読んで修行するという人は成長しにくい。
読む時に、自分の都合のよいように解釈し、自分の理解の範
囲で解釈するから、自分の固定観念に気がつかず、飛躍のた
めの行動(実践)をしない。自分の呪縛の枠内で、思考・分
別を動かすだけである。学識がすぐれ知性あるような多くの
人々が、心を病み、自殺していった。人の心をあらわす作家
でさえも、数多く自殺した。小説ではあらわせないものが、
ほかにまだあるのであろう。
 思考だけでは得られないものを実践的に学ぶ方法がある。
仏教や道元禅師は「定慧等学」という。実践(腹式呼吸法、
坐禅など)には、人の真相の智慧(病因論、治癒の原理など)
という道しるべが必要である。それは知性を用いる。二つが
バランスよく修習されて、よく方向をあやまたず、得るべき
ものを得るのであろう。このことは、こころの病気を治癒さ
せる認知療法でも、行動的手法と認知的手法というように、
同様の2本立てのことが言われて、よく、効果をあげている。

「正法眼蔵随聞記」では、我見、本の我見、己見、旧見、
古見、本執、我執、私、私曲、私を用いる、法門の異見、
従来の身心、自解、信ずまじき事、先人の言、身、此の身、
我が身、我本知り思ふ心、日比の智恵、情見、情見本執、
自らが情見、我存ずる様、自が情量、吾我、心、我心、
おのれが心、我、身心、我が身心、世情の見、私の意楽、
を捨てることを推奨している。


怒り、自己嫌悪、おごりなど、自他を苦しめるが、個別の煩
悩にも注目するが、最も深い部分、根本(固定観念)から根
を絶つ、それが、仏教の方針である。
このようなわけで、道元禅師が、我見、我執を捨てよ、とい
うのである。固定観念を修正しないと、こころの病気も治癒
しない。もちろん、自他を苦悩させることもやまない。やみ
くもに、坐禅しては、無駄になる。
我見、我執は、いちおう説明によって理解はできるが、坐禅
をして日常生活で自分の心の上で起きるのを注意していない
と、現実に我見、我執がどのように発動しているか、自己洞
察(セルフ・モニタリング)できないものである。

現代在家の捨てるべき煩悩
我見、我執とは何かをよく自覚できるようになれば、自分の
生活の場で、気がつくはずである。たとえば、学校では、ど
のような我見、我執が起こるか。病院では、どのような我見、
我執が起こるか。自分の職場、自分の組織、自分の趣味のサ
ークルでは、どのような我見、我執が起こるか。こういうこ
とを日常生活で、留意して坐禅(自己洞察(セルフ・モニタ
リング))していると、おのずと、深い部分の我見、我執を
自覚できるようになってくる。
こうして、実際、自分の生活の場での我見、我執に気がつき、
それを捨てていくことが、坐禅がすすんでいくことになる。
なぜなら、そういう我見、我執に気がつき、捨てることがで
きれば、自分も他者も苦しめる自動思考が少なくなって、仕
事や遊びを楽しめるからである。そして、自他を苦しめる
「我見」「我執」をよく観察してきたので、そういうものか
ら、心の病気になったり、自己嫌悪におちたり、自殺しかね
ないような種々の苦悩の仕組みがわかるので、そういうこと
で悩む人に助言できるのである。

禅の極意 「不立文字」の世界

2006-10-17 09:55:06 | 禅とは
禅の極意を簡単に申せば誤解を生みます。というより簡単に示すことができれば極意でも何でもありません。
しかし、あえていえば「只管打坐」であり、その心は『威儀即仏法・作法是宗旨』(いいぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)です。
 
世間では「形よりも心が大事!」という風潮がありますが、人間の形というものは微妙です。「このやろう!」と言えば怒りの気持ち、手を合わせて「南無釈迦牟尼仏」と唱えれば仏の心になるものです。仏道の作法というものは、坐禅の時には坐禅堂に入るにはどちらの足から入れ、坐り方はどう、息の整え方はどう、目線はどう、手の置き所はどうというキッチリとした決まりがあります。食事の時にも厳しい作法があります。頭で納得のいく仏法を習おうと思ってきたのに作法ばかりをたたきこまれる、と考えがちですが、
実はこの威儀や作法が実行できるようになって、自己の身の扱い方に迷いがなくなるのです。即ち「禅の修行」とは挨拶や、口の利き方、箸の上げ下ろしまで徹底して叱られる。これは我執やこだわりなどの心の角をとる為に叱られるのです。しかし、しかられ通して、そこをつきぬけると本当に力のこもった心、アクの抜けた心を持つことができる。つまり、作務(仕事)や食事や洗面などの普段の生活も含めて、自分が自分らしく生きるということの修行なのです。
 
坐禅でも、思想的な行き詰まりを打開するためとか、スポ-ツでの記録を伸ばすためとか、心の病を直すため、健康になるためとかいう御利益を求めての坐禅では有所得の禅となります。禅の教えというものは、外にまなざしを向けてがんばるものではありません。仏の教えを自己の生活の上に実践を通して証するものなのです。

 仏法の極意というものは、師子相承で師が弟子に直々に伝授していく。相伝するといっても「もの」ではないのです。あえて申せば、仏祖の宗教経験の真実世界、その自己の深い自己に対する「きずき」というようなものを伝える。これを単伝といいます。 正法眼蔵嗣書の中に「佛佛かならず佛佛に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する。これ証契なり、これ単伝なり。このゆえに無上菩提なり。佛にあらざれば佛を印証するにあたわず、佛の印証をえざれば佛となることなし」と示されます。師と弟子がぴったり一つとなって、師がそれを認めたとき弟子となるのです。道元禅師は「辨道話」でも「宗門の正伝にいはく、この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり」と示されます。この「単伝」を禅では「不立文字」(ふりゅうもんじ)ともいいます。本来、禅というのは文字を弄するものではなく、最後の最後のところは体験しかありません。あくまでも、文字とは禅に対する「手引き、説明」ということです。
 
たとえば、「甘い」ということを伝えるときに、いくら口で表現してもわからない。同じ砂糖の甘さでも白砂糖の甘さと黒砂糖の甘さは違うし、果物でもイチゴの甘さと柿の甘さは違います。この甘さを本当に知るには自分が味わってみる以外には分かりようがないのです。これを「冷煖自知」とか「言詮不及、意路不到」ともいうのです。
 
修行といえば、世の中の人はすぐ難行苦行というように考えがちですが、釈尊は難行苦行を否定された上で「修行」を説かれます。釈尊は厳しい苦行を6年間も積んだのに結局それが無駄であると知ります。苦行の否定とは、人間の欲望には際限がないからです。その欲望を消すための修行であれば、苦行もまた際限のないものになって意味をなさないのです。修行とは、戒(きまり)・定(坐禅)・慧(智慧)の実践ということであり、八正道や六波羅蜜などの実践となります。宗門の『威儀即仏法・作法是宗旨』の修行とは、頭で理解するのではなく、ひとつひとつの至心の行持によって仏法を体得するのです。

さて、本題になりますが、禅の根本思想は「不立文字 教外別伝 直指人心 見性成仏(ふりゅうもんじ、きょうげべつでん、じきしにんしん、けんしょうじょうぶつ)」の四つの言葉に示されます。その大意は、「善悪、美醜、幸不幸、真偽、有無等の二元的価値判断にとらわれずに、経典などによって説かれた言葉以外に真理が存在し、悉有仏性の真実の自分に気がつくこと、それが悟りというものである」というようなところでしょうか。つまり、真理というものは、文字や言葉だけでは、どうにも伝えきれないものがあるのです。
 
野球の打撃で例えれば、長島さんは「要はバットのシンでボ-ルを当て、遠くへ飛ばせばいい。その為にはボ-ルをよく見て強く振ればいい、それだけ!」。盗塁のコツを聞かれた広瀬選手は「盗塁ちゅうのはなあ、こうリ-ドをとるやろ。ピッチャ-がセットに入るやろ。投げたと思ったら、ぱ-と行けばいいんや」です。突き詰めると単純になるものです。しかし、走る決断と脚力などの要は努力精進がなければどうにもなりません。禅も同じです。経典や祖師の著書を読めば、何となくつかめたような感じになるかもしれませんが、そんなものでは本当のところは真実と隔たります。坐禅とは自分の思いを投げ出した「行」です。坐禅をしない禅の評論家の本などをいくら読んでも「冷暖自知」の世界は分かるものではありません。
「教外別伝」の「伝」と言うことは「伝とは覚なり」の世界ですから、文字や言葉を越えた「覚」を師から弟子に以心伝心で伝えられるものなのです。
 
中国唐の時代、雲厳という僧が百丈禅師を訪ねた時、雲厳は「老師は毎日、せっせといったい誰のために働かれるのですか」と問いました。百丈は「一人それが必要な者があってね」と答えたので、雲厳が「どうしてその人にさせないのですか」と聞くと、百丈は「それ自身では人生修行がたてられないのだ」と答えたと言います。百丈のいう「一人」とはだれのことでしょうか? 

その言葉の世界ではない「不立文字」の世界にあえて少し足を踏み入れてみましょう。

古代の中国禅宗において尊重されたお経の一つに「維摩経」(ゆいまぎょう)があります。このお経は「不二の法門」(二つのものの区別や対立のない教え)を説いています。
 
おおまかな内容を説明します --
維摩は在家の仏教信者でしたが深く禅の真理に通じていました。
ある時、この維摩が病気になります。これを聞いたお釈迦さまは弟子達をお見舞いに行かせようとしました。そこで、智慧第一の舎利弗(しゃりほつ)を呼んで、そのことを頼みますが舎利弗は次のようなことをいいます。
「私(舎利弗)は維摩を見舞いにいくことは辞退したい。というのは、私が坐禅しているある時に維摩居士がやってきてこう言ったのです。『あなたは一生懸命坐禅していてたいへん結構なことですが、あなたの坐禅の仕方はまちがっていませんか坐禅というのは、煩悩を断ずることなく涅槃に入ることをいうのです。心の落ち着きを得たままで、しかも実際に立ったり坐ったり歩いたりする行動をいうのです。さまざまな煩悩をいだいたままで、悟りを得ることをいうのです。坐禅とはこのような仕方で行うべきものです』 維摩にこういわれて、私はその意味が理解できず何とも答えられませんでした。ですから、深い知慧を持つ維摩が恐ろしくて彼の見舞いに行くことはできないのです」と答えた。

ところで、舎利弗のご紹介をしておきましょう。お釈迦さまの率いる仏教教団には聖者の最高位(阿羅漢)の悟りを開いた弟子が500人いました。その中でも「10大弟子」と呼ばれる人達が中核となって教団を支えますが、10大弟子の中でも特にお釈迦さまの信頼の高かったのがこの舎利弗(シャーリープトラ)です。舎利弗はお釈迦さまに代わって教えを説くほどでした。ついでに、舎利弗が釈尊の弟子となった経緯を説明したいと思います。

真理を求めて、さまざまな師を尋ね歩いた舎利弗は、あるとき立派な僧に出会います。その姿から悟りを開かれた僧であろうと、彼は懇願してその教えを尋ねました。

この僧こそ、お釈迦さまが最初に教えを説いた五人の比丘のひとり、アッサジであった。アッサジは弟子入りして間もないが・・と断って、次のような詩を聞かせた。「諸法は因より生ず 如来は其の因を説きたまう 諸法の滅も亦畢竟空なり 大沙門は此の如く説きたまふ」 縁起の教えを偈にしたこの四句を聞いただけで、舎利弗はたちまちお釈迦さまの教えを理解し、悟りの最初の段階に達することができたという。智慧第一といわれる所以です。
 ‥‥ 維摩の云う「煩悩を断ずることなく涅槃に入る」とは「煩悩即菩提」とか「生死即涅槃」といわれる禅の真理にあたります。菩提とか涅槃は悟りの世界です。

しかし、煩悩を捨てて菩提を得ようとするのは二つを区別し、分別する執着にとらわれていると禅では示すのです。禅の真理は、二つのものの区別や対立のないところにあり、それを維摩経では「不二」として示しているのです。

 お釈迦さまは次に神通力第一といわれた目蓮(もくれん)に依頼しますが目蓮も次のように言ってこれを辞退するのです。「あるとき私が在家の人々に説法をしていると維摩がやってきてこう言ったのです。『目蓮さん、あなたの説法は間違っていませんか。法というものは一切の相(すがた)を離れたものです。一切のすがたを離れているからこそ、法は説くことも、示すこともできません。つまり、法は一切の言葉を離れ言語を絶しているのです。もしも説法するなら、法は説くことができないということを理解してから法を説かなければならないのです。』 維摩にこう言われて、私は理解できず何とも答えられませんでした。ですから、深い智慧を持つ維摩がこわくて彼の見舞いに行くことはできないのです」と答えました。

 ‥‥ ここでも、維摩の深い説法があらわれています。禅でいう「法」とは真理のことです。真理というのは一つです。故に唯一無二であるとすれば、それは言葉で表現することはできないのです。なぜならば、言葉というものは「大小」「善悪」「苦楽」「生死」というように分別の世界の表現です。したがって真理を言葉で表現することはできないというのです。そして、この言葉で表現できない真理をどうしたら説くことができるかというのが「維摩経」のテーマなのです。
さて舎利弗と目蓮の二大弟子に断られたお釈迦さまは他の仏弟子にも頼みますが、かれらもすべて維摩にやりこめられたことがあり誰しもが行くことを断ります。しかし、最後に、文殊菩薩さまが仏陀の頼みを聞き入れ、維摩を見舞うことになります。

文殊菩薩が維摩の邸宅を訪ね居室に入るとベッド以外は何もありません。文殊菩薩が「どうしてお部屋に何もないのですか」と尋ねますと、維摩は「一切は空だからです」と答えます。さらに文殊菩薩は維摩になぜ病気になったのかを聞きます。それに対して「一切衆生病むをもって、この故に我れ病む」と答えるのですがこの句は大変に有名です。維摩経には「空」の教えと、大乗仏教の慈悲の考え、利他行の精神がみごとに表現されています。
 その後経典は多くの菩薩が「不二の法門」についていろいろと説かれる所に至ってクライマックスに達します。そこでは「煩悩即菩提」とか或いは「生死即涅槃」とかいうことを明らかにしたものです。そして、最後に「不二の法門」について文殊菩薩が次のように言います。

「皆さんの語ったところは、確かに一応は正しいが、しかし、やはり二つのものの範囲、分別や戯論の世界に属するもので充分とはいえません。いかなる言葉も説かず、語らず、示さないならば、これこそが本当に不二の法門に入るということなのです」最後に文殊菩薩は維摩にも「不二の法門」について説いてもらいたいと頼みます。これに対して維摩はどのように説いたのでしょうか・・。

この時維摩は口をとざして一言も語らなかったのです。これを『維摩の一黙』というのです。この維摩の一黙ということは、真理は言葉で表現できず、教えに依らずして心から心に直接伝えられるという「不立文字教外別伝」「以心伝心」という禅の基本的な考え方に連なっていきます。
 
余談ですが、宗教学者には、この維摩居士信奉者がおおいですね・・ 。その理由は「仏教では釈迦が、こういう修行をすれば確実に悟りが開けるという教えを垂れてはいるが、それは正確には十分条件であって、必要条件ではない。というのは、独覚といって、何の修行もしなくてもあっという間に悟りを開く人もいる。その一番いい例が維摩居士である」という論法です。「きびしい修行を積み最高の段階に達した十大弟子も頭の良い維摩居士には遠く及ばない」、「きびしい修行をしなければ悟りに至れないというわけでは決してない」と言いたいのでしょう。

けれども、釈尊が12月8日早暁、明星の輝くのを見て大悟されたとき、「有情非情、同時成道、草木国土、悉皆成仏」(うじょうひじょう、どうじじょうどう、そうもくこくど、しっかいじょうぶつ)と示されたと伝えられます。あるいは、「天上天下、唯我独尊」という釈尊誕生偈といわれるものの示すところの悟り(真理)とは、声聞や縁覚の開悟の及ぶところではないと思うのです。
 
さて、『維摩の一黙』の話を続けます。
「維摩の一黙」つまり「維摩」の考えが絶対的に正しい見解といえるかどうかということです。どういうことなのかというと、道元禅師の「正法眼蔵」三十七品菩提分法の巻に維摩の一黙に対する指摘箇所があるのです。そこでは『如来の一黙と維摩の一黙と、相似の比論にすらおよぶべからず』と示されます。そして「言語動容(ごんごどうよう)はこれ仮法(けほう)なり、寂黙凝念(じゃくもくぎょうねん)はこれ真実なり」(言葉で表現されるものは仮の姿で、真実は不可説であり、沈黙である)という考え方に対して、道元禅師は「仏法にあらず」としりぞけられるのです。「維摩経」にもとづく中国禅宗の考え方と道元禅師の禅とは相違があると考えなければならないでしょう。

言葉で表現されるものは仮の姿というのは一面を表してはいますが、「仮の姿」と断言してしまうところにまた落とし穴があります。お釈迦さま以来多くの祖師方が法を伝え、正しい人生のありかたを伝えてきたものは言葉でもあります。
《修証義》には「怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝(きも)に銘じ魂(たましい)に銘ず」 とたった一言が人を救い、たった一言で迷いがはれるということも言葉であり、念仏も経典読誦も言葉でありながら「言葉は仮の姿」を超えるのです。肝に銘ずるとは「心に深くきざみつけるように記憶して忘れない」、別の言葉で言えば言霊(ことだま)です。言葉には威力があります。あたたかい言葉に励まされて絶望の淵からはい上がることもできます。大衆に歌が愛され、詩人が敬慕される所以です。それと反対に、心悪しき言葉には、人を傷つけ、落胆させ、命さえも奪うこともあります。仏教では「真実の霊力のある言葉」を「真言」あるいは「陀羅尼」と呼んでいるのです。

道元禅師は真理のお示しとして『正法眼蔵』を著されました。曹洞宗経典には「正法眼蔵」からの編纂である修証義という主経典があり、真理の具現として「只管打坐」を示され、日常の具現として「威儀即仏法・作法是宗旨」として相承されているのです。

・・・わかりましたか?

  わからない! ・・・。 

ですから ・・・ 「只管打坐」とは「不立文字教外別伝」、つまり、真理の具現なのです。
つまり、仏を礼拝し、法である経典を信じ、僧を敬う、この三宝に帰依することを通じて、人は信じることから尊敬の念や愛情が育ち、自分の我をおさえて人につくす真心が育つのです。
大本山永平寺貫首、宮崎奕保禅師は「お仏壇の前に座り合掌して心を静め、お線香を本尊様と自分とが一直線になるようにまっすぐにたてて、心を込めてご先祖を拝みなさい。これが坐禅に通ずるのだ」と常々示されているところのものです。
 『威儀即仏法・作法是宗旨』の威とは、威力・威光・威徳を養うこと。儀とは儀式・儀事のこと、儀とは態なりともいい、態度のこと。つまり、仏法の威儀のそなわった態度を修するということになります。

・・・ わかりましたか?  
 
・・・ わからない人は、はじめに戻って研鑽し直してください。

でも、わからなくても普通です。(安心してもらっても困るのですが・・・)
ところで、わかったぞ-!というメ-ルも不必要なことです。

わかったとか、わからないとかは自分自身の問題です。
「わかる」と「できる」とは違います。「わかっている」が「実行はできない」というのでは「わかっていない」ということです。



禅について2 不立文字 以心伝心

2006-10-17 09:48:57 | 禅とは
「教外別伝 不立文字 以心伝心」とは、「教えのほかに別に伝え、文字を立てず、心をもって心に伝う」 -- 「教外別伝」とは、教えの外に伝えるものがあるということです。

古人もお経をよんだり、語録を拝読研究しつくして、のちに学問では解決ができずに禅に入っていったのです。法句ひとつわからないようでは何十年坐っても本来の坐禅にならないでしょう。経典・語録は大切です。しかし、経典・語録だけでは仏心を伝えることはできません。

私どもは日常生活でも指をさして物を示します。たとえば、月(真理)を指さして「あれが月だよ」というようなものです。この場合、月とはあくまで指の示す方向にあるのであって、指が月(真理)なのではありません。しかし、生死不二の立場からすれば、天空の月が実月で池の水に映った月影は陰で・・ということでもない。「水中に月を捉ういかでか拈得せん」という禅語がありますが、水の中に映った月、これをどう捉えるか -- そこが「教外別伝」です。

 ある和尚曰く「禅師の話はまわりくどい、法華経もそうなんだが・・」。たしかに「法華経」はくり返しくり返しのたとえ話ではありますが、推理小説を読むような気持ちで読んだのでは、法華経の本旨はわからないでしょう。説法とは難しいものです。何も言わなければ「さっぱりわからない」と言われる。説法をすれば「説明がたりない」と言われる。しかし、説明を余計に足せば「説明が多すぎてくどい」ということになる。
 白隠禅師も少年の頃「法華経」を読んで、このようなものが経中の王というならば、世間の小説、講談、浄瑠璃本に至るまで経中の王であろうと言って「法華経」を笑って捨ててしまったという。後世、寺持ちになってから「法華経」を読み直して夜更けまで読んでおったところ、忽然として法華の妙体を悟ったという。こんなありがたいお経を、なんで今まであなどって捨ててしまったのであろう、と声をはなって号泣したと伝えられています。 -- 法華経も禅師のお話も、譬喩を説くということは、それを媒介として「深い道理」をしらしめ、法華一乗の高い立場に誘引しようというものであるはず。妙法の世界や真如の世界とは具体的には書けないものでしょうし、何か具体的なことが書いてあれば、結局それだけかということになってしまう。

仏法の大意や極意とは、理屈や説明でもなく哲学でもない。仏法の肝心要めのところを具体的な言葉で述べられるはずもない。その具体的でないところにおもしろさや有り難さがある。仏法の話を聞くという場では、自分の都合ばかりで聞いてしまう「自己」そのものを問うことが大切なところでしょう。人間の相対的な感情にもとづいて判断するかぎりは「法華」の世界からは遠くかけ離れてしまうのです。

仏教の教えでは「心」の分析が非常に緻密で、あくまでも学問的に「心」を分析しようとする学派もありますが、禅宗では学問的な「心」の分析は二の次にします。いわゆる、「不立文字」の仏法とは文字や言葉による知識ではなく体感的な学びの「以心伝心」です。「公案」にも本来は模範解答というものはないのです。かりに模範解答のようなものがあったとして、それをいくら諳んじてもそれは猿まねです。公案とはいうのは、結局非合理な問題なのです。言葉の世界の外に行くしかない。つまり、「生き甲斐」や「悟り」とは言葉で考えるものではないのです。
 禅宗では「嫡嫡相承」(てきてきそうじょう)といって、一器の水を一器に移すが如く法を伝えていく、それが基本的な考え方ですから、師匠がカラスは白いと言えば弟子はそのまま受け止めるようでなければ師匠に忠実とはいえないし、カラスは黒いととらわれているようでは修行に身が入らないのです。そこで、禅宗では必ず師匠のところへ行って朝から晩まで随時して、一々お小言を言われながら修行させていただくということになっているのです。

 道元禅師は、真の体験的修行によって得られた悟りの世界を『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)として示されました。
 上記、曹洞宗宗歌の《荒磯の浪(なみ)もえよせぬ 高巌にかきもつくべき 法(のり)ならばこそ》 という御歌は、道元禅師様が鎌倉行化のとき、北条時頼が「不立文字 教外別伝」の意を拝問したのに対し、この和歌を示して答えられたといいます。
 その意は「激しい荒波も寄せつけぬほど高い岩に牡蠣貝がついている、仏の教えというのも高くけわしく道を学ぶのに困難はともなうであろうけれども、精進弁道することによって不思議な力が働き、仏性を現前することができる」というような御歌であります。