宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

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主人公(無門関)

2006-10-17 23:30:53 | 禅語
『瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(お
うだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、他時異日、人の瞞(まん
)を受くること莫れ、」(『無門関』第十二則)

瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、ま
た自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましている
か」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」とい
って、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
 ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、
会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
 私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、
私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を
奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主
体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。
「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければなら
ない。
 盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。

主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在る
ということではござらんか。

 主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいる
ことをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、
力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、
どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、
心の中に何かがあるからです。
 心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自
分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈
迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公
になられたのですが、それが主体的な自己というものです。


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