『瑞巌(ずいがん)和尚、毎日自ら主人公と喚(よ)び、復(ま)た自ら応諾(お
うだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、他時異日、人の瞞(まん
)を受くること莫れ、」(『無門関』第十二則)
瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、ま
た自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましている
か」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」とい
って、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、
会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、
私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を
奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主
体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。
「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければなら
ない。
盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。
主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在る
ということではござらんか。
主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいる
ことをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、
力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、
どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、
心の中に何かがあるからです。
心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自
分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈
迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公
になられたのですが、それが主体的な自己というものです。
うだく)す。及ち云く「惺惺着(せいせいじゃく)や、他時異日、人の瞞(まん
)を受くること莫れ、」(『無門関』第十二則)
瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、ま
た自分で「ハイ」と返事をしていました。「はっきりと目を醒ましている
か」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」とい
って、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
ここでいう主人公とは、家庭の主人のことではありません。もちろん、
会社の社長でもない。人間一人ひとりの主体的な人格のことです。
私たちは、本当の自分というものをとかく見失いがちです。とくに今日、
私たちをとりまく環境からくる刺戟はたいへんなもので、外のものに目を
奪われている間に、自己を喪失しやすくなっています。そこで、いつも主
体的な自分というものを、はっきりと自覚していなければなりません。
「おい、主人公、目を覚ましているか」とみずからを覚醒しなければなら
ない。
盤珪(ばんけい)禅師はこういわれています。
主(ぬし)と申さば一切に自在なるところの名じゃ。自在とは自ずから在る
ということではござらんか。
主体的な自己である主とは、すべてのものに束縛されず自由自在でいる
ことをいいます。また、自在ということは、自ずから在るということで、
力まず、自然に無心な己れ自身であることです。心に何もなければ、いつ、
どこででも固くならずにいることができます。どうしても固くなるのは、
心の中に何かがあるからです。
心の中に何の思いもないときは、自由自在ですから、どこへ行っても自
分の家にいるのと同じです。どこへ行っても遠慮せずにおられます。お釈
迦さまは「この世界はわが家だ」と悟られました。そして、世界の主人公
になられたのですが、それが主体的な自己というものです。