禅はむずかしい。修行方法とすればこれほどに簡単な物はない。ただ座れ、と言うのですから。けれどもこれが難しい。なかなか大悟するなどということは難しいわけです。それに『不立文字』と言う禅語があります。禅の理屈は文字で表すことは出来ない。どこまでも、修行を通じ、悟っていかなくてはならない。このように禅は修行者に禅の鉄則を説いています。にもかかわらず、書店の仏教書に一番多く見掛けるのが禅宗の本です。それでも、まぁそれで良いのかもしれませんが、それほどに禅は難しいということなのでしょう。
「道具茶」、「お座敷茶」という言葉があります。こうならないようにと皮肉を込めて自らを戒めたものです。茶は禅と同じ境地にあるべきもの。それが、茶道具を集め見せびらかすなどあってはならぬことである。ましてや、座敷にきらびやかな格好をして、着る物を競うが如きは言語道断である。と言うのが茶道のもともとの教えです。ですが、現代の茶道はいかがなものでしょうか。まさに「道具茶」であり「お座敷茶」であるかのようです。
『茶禅一味』即ち禅と一味の茶道が『禅茶道』である訳ですが、それは言い換えれば、『わび』『さび』の茶道です。虚飾を排した簡素な茶が『禅茶道』の茶風でもあります。
一般に『お茶』と言いますと、抹茶を作法よろしく(本当は、かちかちに固くなって)お茶菓子をおいしく頂く事のようですが、『禅茶道』においては、お茶を喫することをしなくても『茶道』です。袱紗を捌くだけでも茶道、礼をするだけでも茶道、柄杓捌きだけでも茶道、茶掛けの禅語を考えるだけでも茶道。勿論、茶を点てる練習(稽古)をするのも茶道です。
茶道の目的とするところは『生命の躍動』です。茶道には色々なシチュエーションがセッティングされていますので容易に禅の異次元空間に入る事ができます。そうして是非生命の躍動感を得て欲しいと願うところです。
●壺月」こげつ
ただ「壷の月」ということだが「壷」は天地を意味することもあれば、禅の道を意味することもある。或いは自らの心のこともある。自らの魂、自らの生命かもしれない。壷の中には水がある。「月」はみ仏を意味する。
「天地或いは自らの生命の壷水に、美しいみ仏の月は映る。」「誰しも壷を胸に抱いている。そして月は、その壷水に宿るのである。禅の道(茶道とか仏道)に精進することによって、自らの生命に、み仏の光が満たされ輝ける生命となり、その光天地を照らすのである。
●「和敬清寂動靜」 わけいせいじゃくどうせい
お茶は、ただ飲むだけの遊びではない。
和・敬・清・寂・動・靜の六字の意義に徹してこそ茶の湯の値打ちがある。
「和」はなごやか(調和-全てがきちんとしている。和悦-和して悦ぶ)、
「敬」は敬い合うこと、慈しむ、
「清」はこざっぱりした気持ち、
「寂」は全てに安定を保つこと(動くものが動かずにいる状態)、
「動」はやりぬく気力、「靜」は大いなる内省即ち省みること。 茶の湯の道は日常欠かせぬ生活の基である。茶の湯は、和・敬・清・寂の実際を日常に溶けこましむるものであります。これに動・靜を加え六字とする。
お湯を沸かし、お茶を点て、喫する事によりて余計な色々の事に心を動かさないで素直な気持ちを養う事です。
道具や場所にこだわらぬこと。調度の心得を忘れぬこと。細かい事を勉強すること。美しいかたち・動作・更に気持ちの良い雰囲気を工夫すること。
その人その人の持ち味を、自由な、とらわれない個性的美の完成等は茶の湯にて常に教えるものであります。
●「八風吹けども動ぜず 天辺の月」
四方八方から風が吹いて、黒雲や白雲などが中天にかかっている月おば、時々に、または全く覆い隠す事があるが月自体はそれによって、少しも汚されることはなく、平然として光を放つのである。それと同じく、世の損・得・悪評・善評・誉め謗り苦楽の風がいかに吹いても動かされてはいけない。
即ち強く生き抜く気力を持ち続けること。
■当流儀の流れ
茶道のルーツを訪ねれば、鎌倉時代の臨済宗の栄西禅師。源実朝の時代にいたる。
当流のルーツを遡れば、それは当然千宗易(利休)であるが、織田信長、古田織部、小堀遠州、三代将軍徳川家光と武家に伝わる茶道である。この流れにある遠州流茶道を、更に、大正の大徳、大僧正渡邊海旭師(号、壺月)、先代家元、知恩院僧正青柳貫孝宗匠が昇華、茶の湯における禅茶道を徹底、余計なものは排して、仏道に合致せしめ、壺月遠州流茶の湯、禅茶道宗家を打ち立てた。東洋初のノーベル賞受賞者タゴールは先代家元、渡印におけるの弟子である。
■当流儀の茶風
深山の渓流の如く、緩急自在に流れる水をもって、当流の茶風となすものである。簡素をもって旨とするが武家の茶道であるから、当流の茶道は、飾らない、気取らない、そのままの姿で行う茶道である。加えて、当流には、点前に男女なく、貴賎なく、茶道具の拝見もない。戦国の世に生まれた武士の茶道ゆえに、現代という乱世に生きる我々に適合する。即ち、人々に癒しと生命力を与える茶道である。
■茶禅一味の禅茶道
当流の茶道は、仏母寺禪法のもう一方の門(入り口)である。ゆえに、大宇宙の具現化が行われ、禪茶道の稽古を通じて、自ずと、大宇宙の生命が宿ることになり、地球の響きに融合する。大自然と一如なることを実感する茶道である。
●お点前の作法において
一、 男点前、女点前といったものはありません。男も女も同じ点前を行います。
二、 貴人の茶もありません。点前に貴賎はありません。茶室にあっては、殿様も足軽も同じ。
三、 点前をしている最中に於ける茶器の拝見はありません。茶を点てる器にも上下をつけない。また、点前をしているときは、精神を集中して、道を求めている修行のときでもありますから、ややもすると、茶器の品定め的となり、優越感的な気持ち、虚栄の心が覗いて、修行の障害になります。作法としては、茶器の拝見は学びますが、点前の中では行いません。
四、 お茶会に於けるは別として、普段の稽古、禅茶道の点前にあっては、お茶菓子は食しません。修行中に口に物を入れる所作は精神の統一を阻害するからです。稽古は道を求める修行ですから、間が狂うのです。むしろ、稽古を終えてから、お茶菓子を歓談しながら、頂くほうがおいしいものです。
五、 正客が茶を頂くときに次客に「お先に…」を述べることはしません。茶を点てた亭主から差し出された茶碗は、礼をして、そのままいただくと言うのが当流の茶道です。左右の客に、いちいち礼をすることは致しません。
六、 お茶を「もう一服いかがでしょうか」とたずねられたら、社交辞令ではありませんから、望みなら、もう一服所望してよいのです。・禅茶道にあっては、薄茶点前本位です。ですから、三度で頂くことになっています。また、数人で、一つの茶碗を回し飲むことは致しません。これは当流儀の大きな特徴です。
七、 お点前の中で茶巾で茶碗の回りを拭くということをしません。茶碗の中を茶巾にて、ひらがなの『ゆ』の字に拭だけです。『茶巾捌き』をするのも当流儀の特徴かもしれません。
■服装は、禅茶道にあっては、あまりくだけ過ぎてはいけませんが、普段の姿で良いのです。作務衣姿などは、当流の精神にかなっているかと思います。
■必ず、始める前に短い禅(師と相対して座す和合禅)をします。
※『本来無一物』これは茶道の精神です。生まれたとき、産声を上げたときは皆誰も同じ姿です。皆等しく平等であるというのが本来無一物です。
「道具茶」、「お座敷茶」という言葉があります。こうならないようにと皮肉を込めて自らを戒めたものです。茶は禅と同じ境地にあるべきもの。それが、茶道具を集め見せびらかすなどあってはならぬことである。ましてや、座敷にきらびやかな格好をして、着る物を競うが如きは言語道断である。と言うのが茶道のもともとの教えです。ですが、現代の茶道はいかがなものでしょうか。まさに「道具茶」であり「お座敷茶」であるかのようです。
『茶禅一味』即ち禅と一味の茶道が『禅茶道』である訳ですが、それは言い換えれば、『わび』『さび』の茶道です。虚飾を排した簡素な茶が『禅茶道』の茶風でもあります。
一般に『お茶』と言いますと、抹茶を作法よろしく(本当は、かちかちに固くなって)お茶菓子をおいしく頂く事のようですが、『禅茶道』においては、お茶を喫することをしなくても『茶道』です。袱紗を捌くだけでも茶道、礼をするだけでも茶道、柄杓捌きだけでも茶道、茶掛けの禅語を考えるだけでも茶道。勿論、茶を点てる練習(稽古)をするのも茶道です。
茶道の目的とするところは『生命の躍動』です。茶道には色々なシチュエーションがセッティングされていますので容易に禅の異次元空間に入る事ができます。そうして是非生命の躍動感を得て欲しいと願うところです。
●壺月」こげつ
ただ「壷の月」ということだが「壷」は天地を意味することもあれば、禅の道を意味することもある。或いは自らの心のこともある。自らの魂、自らの生命かもしれない。壷の中には水がある。「月」はみ仏を意味する。
「天地或いは自らの生命の壷水に、美しいみ仏の月は映る。」「誰しも壷を胸に抱いている。そして月は、その壷水に宿るのである。禅の道(茶道とか仏道)に精進することによって、自らの生命に、み仏の光が満たされ輝ける生命となり、その光天地を照らすのである。
●「和敬清寂動靜」 わけいせいじゃくどうせい
お茶は、ただ飲むだけの遊びではない。
和・敬・清・寂・動・靜の六字の意義に徹してこそ茶の湯の値打ちがある。
「和」はなごやか(調和-全てがきちんとしている。和悦-和して悦ぶ)、
「敬」は敬い合うこと、慈しむ、
「清」はこざっぱりした気持ち、
「寂」は全てに安定を保つこと(動くものが動かずにいる状態)、
「動」はやりぬく気力、「靜」は大いなる内省即ち省みること。 茶の湯の道は日常欠かせぬ生活の基である。茶の湯は、和・敬・清・寂の実際を日常に溶けこましむるものであります。これに動・靜を加え六字とする。
お湯を沸かし、お茶を点て、喫する事によりて余計な色々の事に心を動かさないで素直な気持ちを養う事です。
道具や場所にこだわらぬこと。調度の心得を忘れぬこと。細かい事を勉強すること。美しいかたち・動作・更に気持ちの良い雰囲気を工夫すること。
その人その人の持ち味を、自由な、とらわれない個性的美の完成等は茶の湯にて常に教えるものであります。
●「八風吹けども動ぜず 天辺の月」
四方八方から風が吹いて、黒雲や白雲などが中天にかかっている月おば、時々に、または全く覆い隠す事があるが月自体はそれによって、少しも汚されることはなく、平然として光を放つのである。それと同じく、世の損・得・悪評・善評・誉め謗り苦楽の風がいかに吹いても動かされてはいけない。
即ち強く生き抜く気力を持ち続けること。
■当流儀の流れ
茶道のルーツを訪ねれば、鎌倉時代の臨済宗の栄西禅師。源実朝の時代にいたる。
当流のルーツを遡れば、それは当然千宗易(利休)であるが、織田信長、古田織部、小堀遠州、三代将軍徳川家光と武家に伝わる茶道である。この流れにある遠州流茶道を、更に、大正の大徳、大僧正渡邊海旭師(号、壺月)、先代家元、知恩院僧正青柳貫孝宗匠が昇華、茶の湯における禅茶道を徹底、余計なものは排して、仏道に合致せしめ、壺月遠州流茶の湯、禅茶道宗家を打ち立てた。東洋初のノーベル賞受賞者タゴールは先代家元、渡印におけるの弟子である。
■当流儀の茶風
深山の渓流の如く、緩急自在に流れる水をもって、当流の茶風となすものである。簡素をもって旨とするが武家の茶道であるから、当流の茶道は、飾らない、気取らない、そのままの姿で行う茶道である。加えて、当流には、点前に男女なく、貴賎なく、茶道具の拝見もない。戦国の世に生まれた武士の茶道ゆえに、現代という乱世に生きる我々に適合する。即ち、人々に癒しと生命力を与える茶道である。
■茶禅一味の禅茶道
当流の茶道は、仏母寺禪法のもう一方の門(入り口)である。ゆえに、大宇宙の具現化が行われ、禪茶道の稽古を通じて、自ずと、大宇宙の生命が宿ることになり、地球の響きに融合する。大自然と一如なることを実感する茶道である。
●お点前の作法において
一、 男点前、女点前といったものはありません。男も女も同じ点前を行います。
二、 貴人の茶もありません。点前に貴賎はありません。茶室にあっては、殿様も足軽も同じ。
三、 点前をしている最中に於ける茶器の拝見はありません。茶を点てる器にも上下をつけない。また、点前をしているときは、精神を集中して、道を求めている修行のときでもありますから、ややもすると、茶器の品定め的となり、優越感的な気持ち、虚栄の心が覗いて、修行の障害になります。作法としては、茶器の拝見は学びますが、点前の中では行いません。
四、 お茶会に於けるは別として、普段の稽古、禅茶道の点前にあっては、お茶菓子は食しません。修行中に口に物を入れる所作は精神の統一を阻害するからです。稽古は道を求める修行ですから、間が狂うのです。むしろ、稽古を終えてから、お茶菓子を歓談しながら、頂くほうがおいしいものです。
五、 正客が茶を頂くときに次客に「お先に…」を述べることはしません。茶を点てた亭主から差し出された茶碗は、礼をして、そのままいただくと言うのが当流の茶道です。左右の客に、いちいち礼をすることは致しません。
六、 お茶を「もう一服いかがでしょうか」とたずねられたら、社交辞令ではありませんから、望みなら、もう一服所望してよいのです。・禅茶道にあっては、薄茶点前本位です。ですから、三度で頂くことになっています。また、数人で、一つの茶碗を回し飲むことは致しません。これは当流儀の大きな特徴です。
七、 お点前の中で茶巾で茶碗の回りを拭くということをしません。茶碗の中を茶巾にて、ひらがなの『ゆ』の字に拭だけです。『茶巾捌き』をするのも当流儀の特徴かもしれません。
■服装は、禅茶道にあっては、あまりくだけ過ぎてはいけませんが、普段の姿で良いのです。作務衣姿などは、当流の精神にかなっているかと思います。
■必ず、始める前に短い禅(師と相対して座す和合禅)をします。
※『本来無一物』これは茶道の精神です。生まれたとき、産声を上げたときは皆誰も同じ姿です。皆等しく平等であるというのが本来無一物です。