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宗葉の、チョイト思う事。言いたい事。

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壺月流禅茶道  『茶禅一味』の禅茶道 宗家/家元 六字庵如栴(にょせん)

2006-10-17 18:37:40 | 茶道豆知識
禅はむずかしい。修行方法とすればこれほどに簡単な物はない。ただ座れ、と言うのですから。けれどもこれが難しい。なかなか大悟するなどということは難しいわけです。それに『不立文字』と言う禅語があります。禅の理屈は文字で表すことは出来ない。どこまでも、修行を通じ、悟っていかなくてはならない。このように禅は修行者に禅の鉄則を説いています。にもかかわらず、書店の仏教書に一番多く見掛けるのが禅宗の本です。それでも、まぁそれで良いのかもしれませんが、それほどに禅は難しいということなのでしょう。

「道具茶」、「お座敷茶」という言葉があります。こうならないようにと皮肉を込めて自らを戒めたものです。茶は禅と同じ境地にあるべきもの。それが、茶道具を集め見せびらかすなどあってはならぬことである。ましてや、座敷にきらびやかな格好をして、着る物を競うが如きは言語道断である。と言うのが茶道のもともとの教えです。ですが、現代の茶道はいかがなものでしょうか。まさに「道具茶」であり「お座敷茶」であるかのようです。
『茶禅一味』即ち禅と一味の茶道が『禅茶道』である訳ですが、それは言い換えれば、『わび』『さび』の茶道です。虚飾を排した簡素な茶が『禅茶道』の茶風でもあります。
一般に『お茶』と言いますと、抹茶を作法よろしく(本当は、かちかちに固くなって)お茶菓子をおいしく頂く事のようですが、『禅茶道』においては、お茶を喫することをしなくても『茶道』です。袱紗を捌くだけでも茶道、礼をするだけでも茶道、柄杓捌きだけでも茶道、茶掛けの禅語を考えるだけでも茶道。勿論、茶を点てる練習(稽古)をするのも茶道です。
茶道の目的とするところは『生命の躍動』です。茶道には色々なシチュエーションがセッティングされていますので容易に禅の異次元空間に入る事ができます。そうして是非生命の躍動感を得て欲しいと願うところです。

●壺月」こげつ
ただ「壷の月」ということだが「壷」は天地を意味することもあれば、禅の道を意味することもある。或いは自らの心のこともある。自らの魂、自らの生命かもしれない。壷の中には水がある。「月」はみ仏を意味する。
「天地或いは自らの生命の壷水に、美しいみ仏の月は映る。」「誰しも壷を胸に抱いている。そして月は、その壷水に宿るのである。禅の道(茶道とか仏道)に精進することによって、自らの生命に、み仏の光が満たされ輝ける生命となり、その光天地を照らすのである。
 
●「和敬清寂動靜」 わけいせいじゃくどうせい
お茶は、ただ飲むだけの遊びではない。
和・敬・清・寂・動・靜の六字の意義に徹してこそ茶の湯の値打ちがある。
「和」はなごやか(調和-全てがきちんとしている。和悦-和して悦ぶ)、
「敬」は敬い合うこと、慈しむ、
「清」はこざっぱりした気持ち、
「寂」は全てに安定を保つこと(動くものが動かずにいる状態)、
「動」はやりぬく気力、「靜」は大いなる内省即ち省みること。 茶の湯の道は日常欠かせぬ生活の基である。茶の湯は、和・敬・清・寂の実際を日常に溶けこましむるものであります。これに動・靜を加え六字とする。
お湯を沸かし、お茶を点て、喫する事によりて余計な色々の事に心を動かさないで素直な気持ちを養う事です。
道具や場所にこだわらぬこと。調度の心得を忘れぬこと。細かい事を勉強すること。美しいかたち・動作・更に気持ちの良い雰囲気を工夫すること。
その人その人の持ち味を、自由な、とらわれない個性的美の完成等は茶の湯にて常に教えるものであります。 

●「八風吹けども動ぜず 天辺の月」
四方八方から風が吹いて、黒雲や白雲などが中天にかかっている月おば、時々に、または全く覆い隠す事があるが月自体はそれによって、少しも汚されることはなく、平然として光を放つのである。それと同じく、世の損・得・悪評・善評・誉め謗り苦楽の風がいかに吹いても動かされてはいけない。
即ち強く生き抜く気力を持ち続けること。

■当流儀の流れ
茶道のルーツを訪ねれば、鎌倉時代の臨済宗の栄西禅師。源実朝の時代にいたる。
当流のルーツを遡れば、それは当然千宗易(利休)であるが、織田信長、古田織部、小堀遠州、三代将軍徳川家光と武家に伝わる茶道である。この流れにある遠州流茶道を、更に、大正の大徳、大僧正渡邊海旭師(号、壺月)、先代家元、知恩院僧正青柳貫孝宗匠が昇華、茶の湯における禅茶道を徹底、余計なものは排して、仏道に合致せしめ、壺月遠州流茶の湯、禅茶道宗家を打ち立てた。東洋初のノーベル賞受賞者タゴールは先代家元、渡印におけるの弟子である。

■当流儀の茶風
深山の渓流の如く、緩急自在に流れる水をもって、当流の茶風となすものである。簡素をもって旨とするが武家の茶道であるから、当流の茶道は、飾らない、気取らない、そのままの姿で行う茶道である。加えて、当流には、点前に男女なく、貴賎なく、茶道具の拝見もない。戦国の世に生まれた武士の茶道ゆえに、現代という乱世に生きる我々に適合する。即ち、人々に癒しと生命力を与える茶道である。

■茶禅一味の禅茶道
当流の茶道は、仏母寺禪法のもう一方の門(入り口)である。ゆえに、大宇宙の具現化が行われ、禪茶道の稽古を通じて、自ずと、大宇宙の生命が宿ることになり、地球の響きに融合する。大自然と一如なることを実感する茶道である。

●お点前の作法において
一、 男点前、女点前といったものはありません。男も女も同じ点前を行います。

二、 貴人の茶もありません。点前に貴賎はありません。茶室にあっては、殿様も足軽も同じ。

三、 点前をしている最中に於ける茶器の拝見はありません。茶を点てる器にも上下をつけない。また、点前をしているときは、精神を集中して、道を求めている修行のときでもありますから、ややもすると、茶器の品定め的となり、優越感的な気持ち、虚栄の心が覗いて、修行の障害になります。作法としては、茶器の拝見は学びますが、点前の中では行いません。

四、 お茶会に於けるは別として、普段の稽古、禅茶道の点前にあっては、お茶菓子は食しません。修行中に口に物を入れる所作は精神の統一を阻害するからです。稽古は道を求める修行ですから、間が狂うのです。むしろ、稽古を終えてから、お茶菓子を歓談しながら、頂くほうがおいしいものです。

五、 正客が茶を頂くときに次客に「お先に…」を述べることはしません。茶を点てた亭主から差し出された茶碗は、礼をして、そのままいただくと言うのが当流の茶道です。左右の客に、いちいち礼をすることは致しません。

六、 お茶を「もう一服いかがでしょうか」とたずねられたら、社交辞令ではありませんから、望みなら、もう一服所望してよいのです。・禅茶道にあっては、薄茶点前本位です。ですから、三度で頂くことになっています。また、数人で、一つの茶碗を回し飲むことは致しません。これは当流儀の大きな特徴です。

七、 お点前の中で茶巾で茶碗の回りを拭くということをしません。茶碗の中を茶巾にて、ひらがなの『ゆ』の字に拭だけです。『茶巾捌き』をするのも当流儀の特徴かもしれません。

■服装は、禅茶道にあっては、あまりくだけ過ぎてはいけませんが、普段の姿で良いのです。作務衣姿などは、当流の精神にかなっているかと思います。

■必ず、始める前に短い禅(師と相対して座す和合禅)をします。

※『本来無一物』これは茶道の精神です。生まれたとき、産声を上げたときは皆誰も同じ姿です。皆等しく平等であるというのが本来無一物です。


茶室を読む 利休・織部・遠州/インテリアデザイナー内田 繁

2006-10-17 18:34:35 | 茶道豆知識
茶室の空間特性を軸に、利休までの茶の湯(侘茶)の系譜を確認していく

●壁の出現
物理的に壁を作り閉鎖空間を形成する茶室は、日本古来の建築と比較すると非常に特殊な空間といえます。
茶室はまた、空間を認識上のものとして考える日本文化と、無常観を持つ仏教文化との寄り合いの結果生まれたのです。

たとえば、千利休は黒い壁で閉ざされた二畳台目の『待庵』を作りました。その小さな空間は、人間の精神を凝縮し、追い込むためのものなのです。
「利休は壁だけで空間を作りたかったはずだから、壁の延長として小さな躙口(にじりぐち)が生まれた」。そうしたことから「躙口は入口の否定の結果だ」と内田氏は言います。

●茶室と無常観
平安時代の僧、栄西が宋より持ち込み始まった茶の湯。当初は薬用として利用されていたものが、次第に貴族や武家、一般庶民の生活にまで入り込んでゆきました。室町時代には、殿中茶湯(でんちゅうちゃのゆ)といった支配者層の儀式にまで発展します。
ここに表れたのが、無常観・隠者の文学に大きな影響を受けた村田珠光。それまでの茶の湯に対して、「足下の文化を見直そう、派手な遊びではなくもっと深い、質素な心の中を見つめよう」という「侘茶」を生み出します。

●会所の成立 ── 北山文化
人々が集まって歌を詠んだり美術品を鑑賞したりするところが、会所(かいしょ)。最初は普通の邸宅を一時的にしつらえて会所としていたのですが、次第に専用の部屋を作るようになります。会所が独立して一つの建築となった例が、金閣寺(鹿苑寺)です。
唐物賞翫(からものしょうがん)、茶の湯の遊芸化の流れの中、儀礼的空間である会所で行われた殿中茶湯が台子の茶(だいすのちゃ)に発展します。

●数寄の展開 ── 東山文化
唐物を飾るにふさわしい会所を追求した結果生まれたのが書院造。足利義政の慈照寺(銀閣寺)東求堂同仁斎は、付け書院と違い棚を持つ書院造でありながら、日本最初の四畳半茶室です。
数寄屋造は、このような書院造の型から逸脱し、西行のような隠者が暮らす草庵(そうあん)や、宮廷文化の装飾性などが融合して生まれたと言われています。

●茶室の変遷
唐物中心の茶の湯に、同時代の文学や禅や能、連歌といった日本の思想を取り込み「和漢の境をまぎらか」して、村田珠光が生んだ侘茶。
利休の師である武野紹鴎が珠光を引き継ぎ、和風化を進めさらに侘茶を深めます。そして、時間や空間にまで侘茶の世界を拡げ、大成したのが千利休です。

利休の茶室の成立過程では、縁や土間、庭が捨てられ、装飾も排除されます。それは、空(ウツ)の空間であり、今の瞬間 ── つまり季節 ── を取り入れ、皆で共有する閉ざされた空間でした。そのために、表の世界が入り込めないような壁を作ったのです。
しかし一方で、利休は台目構(だいめがまえ)を作り、そこで茶室に新たな景色を存在させています。内田氏は「このような(演出を考えた)利休は何者だろうか」と言います。

侘茶を大成した千利休、利休以降の政治・武家の茶の湯を代表する古田織部、小堀遠州という3茶人の比較から、茶室や庭といった空間の特徴を考える
  
●千利休
利休(1522~91)の茶室は、それまでの開放的な日本建築を裏切ったものでした。黒い色調、躙口(にじりぐち)や壁による物理的な閉鎖。これらによって茶室から外部を遮断し、濃密な内部空間を成立させます。(「侍庵」)
空間を小さくすることで心の中に無限を生んだのです。

「利休は茶の湯そのものを草体化した」。
‘自然に従う時代の完成者’である利休。「自然そのものをもう一回作った結果、できたものが自然なものになる、というのが利休の論理です」。
露地は、茶室に行くためだけの存在となり‘渡り六分 景四分’が良しとされます。
延段(のべだん)は自然石だけを漆喰で固めたものでした。

「景色にとらわれすぎると深い茶の湯ができないから、あまり景色を作ってはいけない」と言った利休。利休の茶の湯の根底には‘無作為の作為’という精神があるのです。
「利休は井戸茶碗が大好きで、最後は長次郎の黒楽に至るが、非常に作為のない、すっとした茶碗を好んで使う」。他の茶道具も「利休の茶席ではその中に、すっとあるという感じ」と内田氏は解説します。

●古田織部
利休七哲の一人で利休の高弟であった織部(1544~1615)。しかし、織部は利休とは全く違う茶の湯を始めます。「自分の時代の茶をやったのです」と内田氏。
織部の生きた慶長年間は、街が活気づく一方、幕藩体制が確立し武家政権が安定し始めた時代です。そうした中、武家の茶を作れと言われたのが織部。
「武家の茶を確立しなければならない、一方で自分の心の中にあるアヴァンギャルドな精神をどう抑えようか。この矛盾が、建築など様々なものに出てくる」。

織部は‘自然を造形する時代のパイオニア’といえます。
露地には赤い実を付ける木を一本だけ使うなど、景色が重視され‘渡り四分 景六分’が良しとされます。延段も、切石と自然石を混ぜた作りになりました。
茶室に窓を作ることで、庭との関係は強まり、室内は明るくなります(「燕庵」)。柱の美しさを強調するなど、‘座敷の景’も存在するようになります。また相伴席(しょうばんせき)を設け、茶席に身分の上下関係を導入したのも織部です。
独特な図案、色彩、形の茶碗を好んだ織部。利休と比較して「織部の茶席では道具が堂々としている」と内田氏は言います。

●小堀遠州
遠州(1579~1647)の時代は江戸幕府三代将軍・家光の頃で、社会は固定化していました。利休や織部の時代とは違って、茶の湯は自立した世界を持ち政治と深く関わっていません。
「茶の湯に対してまっすぐに取り組むことができた」遠州。
彼は、平安、室町、安土桃山、町衆などの文化を全部取り入れて、その上で‘きれいさび’という理念で茶の湯を構成してゆきます。

「遠州は、建築的天才だった」と内田氏。草庵の意図を書院的に再編集した遠州の茶室
(「忘筌」)。茶会は、小間・鎖の間・広間を併用して開き、美術品の鑑賞と喫茶が混じり合った新たな茶の湯の形式を作ります。
‘自然を造形する時代の完成者’遠州は、「作為を洗練させた」と内田氏は評します。

秋になると全体が紅葉し、延段は切石だけで構成される遠州の庭。自然のモチーフを編集して使用し、そこに水平感覚など日本的な要素を盛り込んでいます。
また遠州は、名物(めいぶつ)を自ら認定するなど、道具を見せることを重視しました。白色の端正な洗練された茶碗などが、遠州の好みです。


茶道具、取り合わせの基本知識  釜敷き/灰器

2006-10-17 18:30:19 | 茶道豆知識
●釜敷
古来日本での臼は突き臼で回転式の臼は中国からの輸入品で「唐臼」と呼ばれ、この臼の隔てからヒントを得て武野紹鴎が作らせたのが「釜敷」の始まりといわれています。この「唐臼」の代表は「茶臼」です。後に現れる「紙釜敷」に対して籐等で編んだ物が多く「組釜敷」とも呼ばれます。籐を編んだ唐物、または唐物編みにした物が基本形ですが「紐組」や「円座」と呼ばれるちょうど「腰掛待合」に使用する円座を小さくした物のような物などもあります。
先に述べたように、炭斗の中に道具炭を始め多くの道具を仕組で持ち出すのに道具が多くなりすぎた、ということで利休は「吉野紙」を重ねて四つ折りにし懐中して持ち出したのが「紙釜敷」の始まりといわれています。
紙の単位が昔四十八枚を一帖としたところから、紙釜敷も四十八枚を正式としますが、現在の物は三十枚程度の物が多く出廻っています。好によっても枚数が異なる場合もあります「美濃紙」をはじめ「杉原紙」「檀紙」等があり白を基本としますが色彩、文様を取り入れた物など多彩です。他に竹をスライスした物(元伯宗旦好)などもあります。極侘びた道具の一つでしょう。
茶会などで「炭手前の省略」を形式上表すため、香合を載せ床の間に飾ることも多く「点前用」と「床の間用」を区別する場合もあるようです。
別に水屋専用として桐の板を用いた「板釜敷」があります。箱炭斗に組んで持ち出す物です。

●灰匙
炉、または風炉中を整えるため「灰」を撒くのに用いるのが「灰匙」です。利休以前は貝殻に木の柄を付け用いたとも言われますが、利休が炉、風炉の灰匙を好みます。
風炉用は「煮黒目」の柄まで金属製の物で柄の部分は竹皮で撒いてこよりなどで結んであります。
炉用は同じ煮黒目で大振り、熱を防ぐため桑柄に差し込み細い針金で桑柄ごと巻き付けて留めている形で作られています。「少庵」好みは逆に柄を覆うように作り釘で止まっています。抜けにくくする工夫でしょうか。
一般に見かける物はこの三通りが多いかと思いますが、他に「千道安」好の風炉灰匙は柄が利休の物より一,五倍ほど長いのが特徴です。風炉であっても灰を撒く必要上からこのようになったのではないかと考えられます。
この系統は「金森宗和」「桑山宗仙」「片桐石州」「松浦鎮信」「松平不昧」等の好に受け継がれています。
その他、象嵌の入った物、小判などを模した物「七宝」や「砂張」など海外で用いられた「匙」の見立てなどもあり、なかなか多彩です。灰匙、火箸、鐶共に作者には金物師の「浄益」や「大西」「名越」「西村」「宮崎」家等「釜師」作のほか「徳元」「明珍」等がいます。

●灰器
灰匙同様、利休の時代から灰器にも炉風炉の区別があり、「長次郎」による灰器が残っています。「灰焙烙」とも呼ばれ「撒灰」をいれ持ち出すのに用います。
炉用には「素焼」「無釉焼締陶器」の物を、風炉には「施釉陶器」の物を用います。
炉用の代表としては古くは「八田玄哉」「樂家歴代の素焼」「備前、信楽」など国焼き無釉焼締陶器、「南蛮甕の蓋」等があります。
風炉用ではやはり「樂家歴代の施釉物」土風炉の焼き方でもある「雲華焼」では「西村宗全」弟の天下一「宗四郎」「辻井播磨」など土風炉師の系統が挙げられます。

●半田焙烙、底取
炉中を整えるのに用い、火のついた炭を一旦挙げておくのに用いるのが「半田」です。「炭所望」などに流儀を問わず必ず用いられ、「底取」「長火箸」と共に持ち出します。別に「風炉用の底取」も散見するところから古くは風炉に用いられることもあったようです。

茶道具、取り合わせの基本知識  鐶/羽/火箸

2006-10-17 18:28:49 | 茶道豆知識
●鐶
釜を上げ下ろしするのに用いるのが「鐶」です。金偏に丸と書いて「カン」と読ませるのがお茶の世界では一般的です、残念ながらコンピュータの世界では出てこない漢字なので同じ意味を示す「鐶」を使用ています。
元々は釜に付いたままになっていた物のようですが、炭手前の都合上、はずされた物と思われます。ですから掛けはずしの出来るよう、一箇所が切れた形になっています。普通、右側に掛ける方は鐶付に向こうから手前へ、左側はその逆、手前から向こうへ鐶を掛けます。これが本勝手用、逆になった物は「逆勝手用の鐶」です。
材質は「鉄」が主ですが「南鐐」「砂張」などがあり他に「真鍮製」の物は水屋用として釜の持ち出しなどに常用しましょう、これは釜を傷めないための心得です。
形状も丸だけの物のほか「大角豆」「捻」「蜻蛉」「巴」「轡」「常張鐶用の角鐶」等があり「象嵌」の入った物「素張(中空)」など炭手前中の見所として楽しめます。

●羽箒
炭道具の中でもよく目立ち、脚光を浴びる物に「羽箒」があります。
一枚の羽根を使い箒としていた物を利休が三枚まとめ竹皮で根本を包み「こより」で結んだ物を使用したのが道具としての羽箒の始まりです。鳥の羽ですので左右がはっきりしており、炉風炉、本逆の違いで使い分けます。一般には右翼の羽根即ち根本を手前にして右側の広い物を「風炉本勝手用」とし、その逆左翼の羽根は「炉本勝手用」とするのが一般的です。

飛躍力の強い鳥は左右がはっきりとしますが、「孔雀」等長距離を飛ばない鳥は左右の差が穏やかです。左右の幅に差のない羽根は「諸羽(もろは)」といって「真」に扱います。これは尾羽根の中心にある一羽に一対ないし一枚程度しか採れない羽根を三枚あわせた貴重な物です。
「青鸞」を最上とし「朱鷺」「鶴」「鷲」「鷹」「雁」「白鳥」「鴻鳥」「鷺」など今では貴重な大型鳥類の羽根を使用します。古い時代の羽箒を見ますと今の物より小振りな物が多いようです。

「唐君、唐国鳥」と称する諸羽に近い稽古用の羽根は「七面鳥の尾羽根」で作られています。悪いとは言いませんが、「安い物」を求めるが故の所産で、炉風炉の区別が付け難く教材としても不適切かと思います。
多少高価な物でも左右のはっきりした物を選ぶことをおすすめします。「作家物」はほとんどありませんが「一閑」作などの物が若干見受けられます。

(座掃、掃込み、掴み箒)
もう一つの羽箒に「座掃」があります。炭手前の後道具畳を掃清めるための大きめの「羽箒」です。普通は鶴または白鳥の片羽根全部を組んで束ね竹皮で包み芋紐で縛った物です。
組み方によりやはり左右があり本来は本勝手、逆勝手の区別をしていましたが、現在では貴重な物のため、どちらを用いても良いことになっています。
流儀により「三つ羽羽箒」で座掃をする(遠州流、藪内流)もありますが、水屋用の「組羽根」を用いる事もあり、おおよそ大羽根を使うようです。

これとは別に、「中立」の時席中を清めるのに用いる物に「掃込み」があります。これは鴻鳥や鷺などの片羽根を用いちょうど文房具の羽箒を大きくしたような形状の物です。残念な事に客の目に触れることはありません。

水屋専用の羽箒に「掴み羽」があります。鶴または白鳥の羽根を十五枚、束にし竹皮巻いた物です。「箱炭斗」に添え用います。

●火箸
火を直し炭を次ぐのに用いるのが、火箸です。古くは「火筋」とも呼ばれ、「台子飾」の一つでした。炉、風炉のない時代(台子書院の茶)では一般で言う「飾火箸」を杓立に用い使用しており古い形でっあたと想像できます。利休が「炉、風炉」の区別を付け火箸を好んだとされ、袋打ちにした金の火箸を「風炉用」に、桑の柄の付いた物を「炉用」にと好まれました。その後、各流儀、歴代家元により様々な好物が作られますが、杓立を用いる場合に使う炉風炉の区別のない「飾り火箸」すべて金属製の「風炉用」木製の柄の付いた「炉用」に大別されます。
水屋用として「長火箸」があり大小は炉風炉の区別とも言われており、持ち出すこともあり。



茶道具、取り合わせの基本知識  炭/炭斗/灰

2006-10-17 18:26:09 | 茶道豆知識
「茶の湯」という言葉が示す通り、湯を沸かしその加減を調節するという事がもてなしの第一と思います。釜の煮え音を「松風」と称する事はご存知かと思いますがその他にも「茶経」以来、各種の表現で煮え音、沸き具合等を表わした表現があります。それは客をもてなす心がけの最も重要な部位をしめるのですから、疎かにしてはいけないからだと考えます。

●炭
時の移ろいの無情を感じるために、利休が当時、白炭といわれていた軟らか炭である「櫟(くぬぎ)の炭」を用いられたと聞いております。茶の湯で使われる椚(くぬぎ)炭の代表として有名なのは関西の「池田炭」です。その切り口がきれいに放射状になっているところから「菊炭」ともいわれています。
これに対して関東で焼かれて有名な物はその集積地ともいわれる地名からか「サクラ(佐倉)炭」といいます。「菊に対して桜」の洒落でしょうか。何れも「櫟」の若木を用いて造られます。茶の湯ではこれらクヌギ材の炭を最上とし、次いでナラ材の物が用いられます。

「道具炭」とも呼ばれ流儀により決まった寸法に切りそろえ水洗いして使用します。切ったままの炭は切り口に炭の粉がついており、そのまま火を付けるとパチパチと火が跳ねてしまうので必ず洗い流します。切った寸法、太さなどで様々な名称があります。別に「枝炭」はツツジの枝を焼いた物とされ、黒いまま使う流儀と「御粉」で白くして使用する流儀があります。

炭の名称として有名な「備長炭」は堅炭の代表で、炭の傑作といわれますが元々は鉄の精錬や日本刀を鍛えるのに開発された炭で茶の湯では「料理に使用」するのに用います。また「楽焼」を焼成するのにも用いますが、決して「手前」には使用しません。
点前に使う炭の場合「初炭の下火」や「火入の炭」「後炭手前」の具合等、ことさらに気を使うものです。

●灰
こうして使用した炭が燃えて出来るのが「灰」です。
「茶人は火事になると真っ先に灰を持出した」ともいわれる灰ですが、茶の湯で使う灰はきのう、きょう炭から灰になったものではなく「永年茶人が端正込めて手入れ」したものであるからなのです。それが茶人の力量を示すとされ、風炉の時期であれば「灰形」、炉の時期であれば、炉に蒔く「湿灰」に現れます。
「灰」は「茶人の手掛ける唯一の道具」と云ってもよく、人をもてなすために丹精込めて仕上げるものなのです。「炉」でも「風炉」でも毎年手入れを欠かさず、永年使用してきた灰はその灰を見ただけで頭が下がるものです。

●炭斗
炭を入れ亭主が最初に持出す道具と云えば「炭斗(すみとり)」です。利休以前の好物はないようですが、これは紹鴎、利休の頃から、人に見せる「炭手前」が形作られるようになったといったことが主な理由ではないかとも考えられます。
室町時代の「御飾書」などの図面ではただの四角い箱として表現されるに過ぎないのですが、「風炉に菜籠(さいろう)、炉に瓢(ふくべ)」といわれ様々な形状が登場します。
「菜籠」は籠またはざる状の物に、紙や漆で内張りをした物の総称で唐物、和物があります。
「瓢」は「干瓢」を造る「夕顔の実」の中を刳り抜き乾燥させた物です。現在では「菜籠」は四季を通じて使用されますが「瓢」は利休以前から使われていましたが、殊に「開炉」の時に用いられ、その年に採れた「新瓢(しんぴょう)」を用いることが習わしともなっています。「手付の瓢」は老人用という説があります。また水屋用として「桑箱炭斗」などがあります。
「唐物」の多くは細かく裂いた「籐」または「竹」を用い緻密に精巧に編まれます。他に「螺鈿」「蒟醤」などがあります。時代を経た風格は茶人に珍重されます。
「和物」ではざっくりとした編み方が多く、「竹」「籐」の他「藤蔓」や「アケビの蔓」なども用いられ、より侘びた風情を醸し出しています。
籠以外では「一閑張」「蒔絵」「曲物」などもあります。また、「冊屑箱」などの応用も見受けられます。
流儀ごとに好み物も数多く造られ、使用されますが、使用する「炉、風炉」の炭の大きさに見合うもので、風炉用は「小振りで背の高い物」炉用は「大振りで背の低い物」を選ぶようにすると良いでしょう。






茶道具、取り合わせの基本知識  茶杓

2006-10-17 18:24:15 | 茶道豆知識
茶の湯のそういった文化に批判的な人は(茶の湯をやっている人を含め)「茶杓本体」のみを論じようと躍起になり「中身が入れ替わってしまえば判らなくなる」とか「筒や箱だけ一人歩きする」などといった批判をしたりします。長い茶の湯の歴史の中には確かにそういったこともあったことは事実ですが、高度な茶人たちの茶事、茶会での会話の中には、拝見に出した茶杓の作者を隠し客に推理させる、などと言ったことも行われており、杓の特徴から作者や制作年代などを言い当てることも容易なのです。「そんなことはなかなか出来ない」と思われる向きもおありかとは思いますが、例えば裏千家の「淡々斎」「圓能斎」「玄々斎」の茶杓を言い当てるのはさして難しいことではないのではないですか?特徴をつかみさえすれば皆さんにもお出来になることです。
茶杓を論ずるとき多くの場合「茶杓の作者と茶杓」というう観点と「茶杓の真行草の格付けと使用方法」といった少し異なる観点で論じなければなりません。
前述の「象牙の茶杓」は「利休形」「珠徳形」「利休形に真塗りしたもの」のみが「真」の扱いをします。
唐物を原型とするという理由からでしょう「節無茶杓(長茶杓)」も「真」の扱いにします。
「行」にあたる茶杓は「元節」茶杓です。

「中節」の茶杓は「草の茶杓」という扱いですが「伝物」を除くすべての点前に使用する標準的なものとなります。江戸の初期までのものは保護のため「拭き漆」施してありますがそれ以外の「蒔絵」などの「塗りの茶杓」は「茶人」の手から「職人」の手に委ねられた物で「草の草」と言って良いでしょう。同様に「鼈甲」「その他の木製」も同様です。

象牙茶杓の中でも「薬匙」からの転用である「芋の子」茶杓や細工の入った「牙茶杓」は「草の茶杓」というより「茶箱用」として楽しむ意外には使用しません。たとえ「真の茶杓」より古いものであっても、「草の草」以上に番外的な扱いとなります。

「侘茶の道具としての茶杓(花入、蓋置)
 木地の茶道具(水指、建水、等)」
竹で出来た「茶杓」「花入」「蓋置」は掛け軸と同様に「万人」とはいいませんが「尊敬に値する人の作」であることが必要なのです。わきまえた「茶人」なら決して手を出さないものと心得ておかれるべきでしょう。
「青竹の蓋置」と「木地曲の建水」の使い始めのエピソードには今に繋がる侘び茶の原点があります。
侘び茶の道具として珠光は青竹の蓋置を木地曲建水に仕組んで使用し、そのあと蓋置を建水の水に浸し持って帰り「再びこれらを使用しない」印として扱ったとのことです。「木地物の茶道具」の原則は「使いきり」と覚えていてください。侘び茶の道具というのは非常に厳しいものです。一つ間違えると「しぼたらしい」「貧乏臭い」物になりかねず、それと取り合わせる青竹や木地物の茶道具はことさら「使い切り」を求められます。


茶道具、取り合わせの基本知識  杓立て/茶杓

2006-10-17 18:22:39 | 茶道豆知識
●杓立
また、柄杓を立てて置く場所(器)として同時に火相を整える火筋、即ち「火箸」を立てておく場所にもなります「杓立」が出現するのは皆具の成立と共に比較的早い段階です。「唐銅皆具」の中で用いられたものは、先に「皆具」の項でもお話ししたとおり、「花入」からの転用でした。「杓立を用いる点前」が他の「運び点」や「小棚点前」に圧倒される時代になり顧みられる事が少なくなり、唐銅の杓立以外は一部千家の好みにより「楽焼」などの杓立を見るのみです。近世になって立礼等でその必要が現れ、むしろ華やかなものが好まれるようになったようですが「皆具」の中の物が主流です。

水指を除くと建水、蓋置等は席の中ではやや脇役的なイメージが強いように思われますが、それでいて存在を主張するものなので、神経を使って頂きたい物の一つです。
皆具以外は同じ性質、同じ色合いの物を使用せずバランスよく取り合せていく事が取り合せのポイントとなるのですが、茶道史上の時代背景やそれぞれの道具の格付、「真行草」等しっかり日頃の御稽古から気を付けながら身につけていくことが大事かと思います。

「侘茶の道具としての竹製の茶道具(茶杓、花入、蓋置、柄杓、茶筅)、
 木地の茶道具(水指、建水、等)」

●茶杓
「茶杓の歴史」
「茶経」を筆頭とする中国茶の中での抹茶のための匙ではないので、金属製のものや貝殻を使った「計量スプーン」を目的としたものだったようです。わが国に招来した唐物の茶杓の中にも金属製の物も入ってきたようですが遠州が「水屋用」としるし「本席」には一度も使用しなかったことは有名な話です。
わが国では「象牙」を主に使用し、日本での創作のように思われがちな「竹の茶杓」にも「唐物」がありました。象牙の茶杓はどこで削られても唐物の扱いをします。「象牙」自体が輸入品であるからにほかありません。室町時代の茶杓は「茶杓師」の手になるものがほとんどといって過言ではありません。
利休以降は茶杓の作は「茶人」へと移り「茶杓師」の影は極めて薄くなり、やがて茶人の「下削り」を行うようになります。「黒田正玄」などはその代表となります。勿論茶人自ら削った茶杓も多く「人となり」を表す物になります。

「職人」としてもっと素晴らしい茶杓を削られる方もおいででしょう。しかし、それらの技術的には素晴らしい茶杓の価値は限りなく「ゼロ」に等しいのです。即ちどこまでいっても「水屋用」であり「稽古用」のものです。
あまつさえ、自ら「銘」を付けて「筒書」や「箱書」をし茶会に使うなどもってのほかです。これは「私に(作者に)頭を下げよ、尊敬しろ」と暗にいっているのも同じ事で客に対し甚だ不敬な事です。
なぜ、「ゼロ」かといいますと「茶杓」は「掛物」や「竹の花入」と同じでその技術や熟練ではなく「茶人としての技量、人格、禅者としての悟りの深さ」を価値観の基準として表現されるものなのです。即ち「お人」なのです。現代、茶杓の下削りの作者として知られる「千家十職」の一人「黒田正玄」氏の茶杓であって、どんなに立派でも決して、そのまま使用したりすることはありません。必ず「御家元」の「仕上」と「銘」が付いて初めて使える「茶杓」となるのです。お家元などがが「自作」と署名されるのはそのためです。
茶杓にサイン即ち「落款」や「署名(花押)」のある物は極わずかしかなく、入れ物である「筒」や「箱」に記してあるのみです。もともとは利休時代に茶杓の保存や進呈用に竹筒に栓をして、封印とサイン(花押)また、あて先を「何々様まいる」などと記したりした物だったようです。それに箱書きが加わり現在のような形になっていきます。

かてて加えて「伝わり」も大事な要素です。「茶入」の項でもお話ししましたが、何所で誰が何時焼いたかもしれない、さして綺麗でもない(?)壷が一国と取り替えられるほどの価値を持ち得たのは、茶入そのものが備えた「品性」とともに「伝わり」即ち「伝来」「故事来歴」に価値があったからに他なりません。同様に「茶杓」にもまず「誰」が削ったか(誰にやったか)「銘」の文学的、宗教的重要性を兼ね備えた表現、すべてが「茶の湯的」といってよいでしょう。




茶道具、取り合わせの基本知識  蓋置/建水

2006-10-17 18:21:02 | 茶道豆知識
●蓋置
釜の熱い蓋を置く場所が必要となりますから「蓋置」がいります。蓋置は唐物の文房具等から見立てられたものも多く、墨台や筆架、利休好みと伝えられる「七種の蓋置」として上げられる「穂屋(火屋、火舎」「栄螺(さざえ)」「三つ人形」「五徳」「一閑(韓)人」「蟹」「三つ葉」等もそのよい例でしょう。唐銅物は、七種に止まらず「駅鈴(馬鈴)」「印」「笹蟹」「墨台」「輪」「夜学」など多種が見立てられていっています。
様々な形状の物を見立てたため、蓋を置くための「扱い」がある物も多く見受けられます。
竹の蓋置もやはり茶人が青竹を切り、用い出したのが始まりで「引切り」と称しますが、「在判」のあるものは青竹でなくとも用います。
利休ごろから「竹の蓋置」を盛んに用いるようになったと云われており、初期には「節の無いもの」後に「炉用」「風炉用」で節の位置を替え用いるようになった、とされています。
竹以外には「駅鈴(馬鈴)」はこの扱いをする決まりがになっています。

「白竹蓋置で在銘の無いものは稽古用」と考えて下さい。本来新しければ青いものです、白くなったものは「使い古しの印」で客前に用いるものではありません。
「透かし」や「置上」「蒔絵」など細工のある竹の蓋置は陶器の物と同様に扱う方が良いでしょう。また特殊な竹を使用した物があってもそれに準じた方が無難でしょう。但しこれは、どちらかといったら「煎茶趣味」といって「抹茶(こういういい方はあまり好ましく思いませんが、煎茶道と区別するため)」の方では使わないものです。後に述べますが「竹の蓋置」は「侘びに適う」道具の代表といえるでしょう。
「陶器類の蓋置」も見立てから始まり唐銅物(七種蓋置など)の模倣などや「つくね」といった単純な物や、その可塑性により様々な工夫で色々な形があります。

●建水
お点前で湯や水を使ったら捨てる場所が必要になります。即ち水翻であるところの建水です。「建」の意味は「覆す」と言う意味を表し「水翻」「水覆」(いずれも、みずこぼし)とも書き、「水下」「骨吐(ほねはき)」とも著したりします。建水は台子、長板以外は客側から目につかず地味な存在ではありますが、「茶に近い道具の第二位」とも言われ、いざ取り合せとなるとなかなかこれといったものがなく以外と難しくもあります。

よく巷説に「七種建水」といわれる「餌畚(えふご)」「大脇差」「差替」「瓢箪」「棒の先」「槍鞘(やりのさや)」「金盥(かなだらい、合子にあたるか?)」が茶人に膾炙されることもよくありましたが、例によって近世茶人の語呂合わせの感は否めなくなっているのが一般的です。個々の材質も成り立ちも異なる点からいささか無理があります。ただ、建水の形状などを知るためには一つのきっかけになるという意味では意義がもあると思われます。
材質としては第一に「砂張」「唐銅」「モウル」など金属製の物、これらは勿論皆具の中の物ですが、最初は転用品、利休以後好み物が出てきます。広く「小間」「広間」「薄茶」「濃茶」を問わず使用されます。
殊に先ほどの逸話にも登場する「砂張」は取り合わせには非常に「気の利いた」建水ですが、扱いには材質としてデリケートなものですので畳にすらせたり、清めるときにもタオルでこすったりして 付けないよう気をつけたいものです。こすれた砂張物は価値が半減してしまいますし、同様に常に身近な「唐銅」物にしても気を付けたいものです。

次に陶磁器製の物では、古く焼締の「備前」「信楽」「丹波」「伊賀」に代表される「無釉陶器」が好まれます。また、海外の見立ての代表ですが、水指同様「ハンネラ」「南蛮」等も小振りの物を建水に見立てます。殊に「南蛮甕の蓋(なんばんかめのふた)」は古くからの記述があり茶席でのご馳走の一つです。
「施釉陶器」の中にも千家伝来、黄瀬戸の「大脇差」瀬戸黒の「差替」や「高取焼」等一部みられますが、「青磁」や「染付」等を除き一般には少ないようです。
武野紹鴎が砂張(合子、骨吐)や南蛮甕の蓋などはなかなか手に入りにくい物なので「木地曲建水(面桶めんつう)」を「使い切り」を条件に「竹の蓋置」と共に使用され始められたとのことです。「青竹の引切に木地曲の建水」は近世濃茶席の定番のようになっているのはこの故事に基づいた物と思われます。また「濃茶が木地曲、塗りは薄茶が常識」と言う方もおられます。
塗り物の建水には「春慶塗」や近世になって「鮨桶」「漆桶」などの他「竹」を塗った物も登場していきます。






茶道具、取り合わせの基本知識  風炉先/煙草盆

2006-10-17 18:17:40 | 茶道豆知識
●風炉先屏風、結界
広間の一部を「屏風」で囲った場所で台子を据え「茶点て所」として始まったとされています。後に茶室を「囲い」とも言うのはここから始まっています。
茶室の原点である「囲い」の名残として広間、ことに周囲に「襖」「障子」に隣接する「点前座」には必ず「風炉先屏風」を据える決まりとなっています。
狭義でいうと「点前座」の道具側畳半分を「道具畳」と称しますが、その「道具」を保護する目的を残した屏風が「風炉先屏風」です。
一方、小間では点前座が壁で囲われてあったり、「風炉先窓」や「色紙窓」といわれる点前座を囲うように装飾性の高い窓なども取り付けられており、風炉先屏風は使用しません。

一般には「風炉先屏風」と同じよう使い方がされ、用途が同じと「勘違い」されている物に「結界」があります。
これは「座頂(ざちょう)」とも呼ばれるもので、二つ折りする風炉先屏風と違い一面だけ足をつけ単独で立ちます。「結界」は風炉先屏風の代用のように考えられることが多いようですが、「客座」と「点前座」を区切ったり「広間」を「小間」に区切ったりするために用いる物ですので「点前座先の部屋の隅」には置きません。

●道具としての畳
茶道具の話をしているのに「畳」の話題とはとご不審と思いますが、茶の湯は畳の上で点前をするのが原則であり「茶室は最大の茶道具」といってもよいでしょう。
ここで話をしている「畳」とはいわゆる「京間」のことを指します。

●煙草盆、喫煙具
天正年間にはすでにかなり普及していたと見られる喫煙習慣は利休時代から茶室にも浸透していったと考えられますが、利休、織部時代の好物の喫煙具は見当たりません。「お気楽に」との意味合いで出される「煙草盆」は江戸に入り「元伯宗旦」「小堀遠州」「金森宗和」あたりから「好物」の煙草盆が数多く登場します。

おそらく当時から濃茶の席での使用は考えにくく、「寄付待合」「腰掛待合」「薄茶席」に用いられるのが一派的であったようです。「片桐石州」や「山田宗偏」の煙草好きは殊に有名で宗偏流では懐石の最中にも「煙草盆」を持ち出す場合もあります。

「茶の湯で用いられた最初の煙草盆」ではないかと思っている「松の木行李蓋煙草盆」は、おそらくすべての流儀に共通して使用されているますし、煙草盆中の白眉であり、見込みの「節」の大きさと「時代」を鑑賞する物として流儀を問わず広く使われています。

「煙草盆」には必ず「火入」と「灰吹」が添えられます。「灰吹」は「吐月峰」とも呼ばれますがこれは静岡市にある山の名前で連歌師「宗長」がここに「柴屋寺」を開きここの竹を「灰吹」に用いたところからの名称です。
「火入」は煙草に火を付けるライターの役目を果たしますが、元々火入であった物は少なく「香炉」の小振りな物や「深向付」を見立てで使用したのが始まりです。
いずれにしても入念に手入れした「灰」を用いますが「菱灰」が決まりではなく「風炉灰」の上手を用いる法が巧者と考えられます。灰形は放射状に筋を付けた形を多く用いますが流儀、火入により「屋根形」の灰形をする処もあります。中に入れる「火入炭」も吟味してよく熾した物を用います。「菊炭」とおっしゃる方も居られるようですが茶の湯で用いるすべの炭は「菊炭」ですので悪しからず。
他に「煙管」「煙草入」を添わせる場合があります。「煙管」も後に多くの好物などが登場しますし、「煙草入」も唐物の見立てや檀紙の 畳紙など様々です。「煙草盆」のセットの中身を奇数で揃えるため「煙管」を用いた場合必ず「煙草入」を添えます。引出など「煙草入の付いた煙草盆」を用いる場合も同様に「煙管」を用います。

茶事では三ヶ所ないし四ヶ所、四回乃至五回登場する煙草盆ですので形状、材質、技法など異なったものを用い客を楽しませ、亭主としても大いに楽しんで下さい。


茶道具、取り合わせの基本知識  台子/長板/棚もの

2006-10-17 18:15:29 | 茶道豆知識
●台子
室町時代を通して「書院」での茶の湯は、まず棚物の原型として第一に考えられる「台子」を中心とした流れがあることは否めない事実としてあります。
「真台子」をその原点として考えられていますが、室町初期の台子棚は現在の研究では幅一間ほどもあり現時点で考えられる「台子」とは少し趣を異にします。その後、さまざまなサイズの中から現在伝えられているような大きさに集約されていったことが考えられます。いずれにしても「真塗四本柱」の台子のみがこの当時使用されたと見て間違いないでしょう。いわゆる「眞台子」の始まりです。
この「眞台子」を基本として「珠光」が上下の板を桐木地とし竹の柱を立てることを創案したとされる「竹台子」が作られます。ここまではある程度の大きさの規定はあったと思われますが、おそらく「紹鴎」「利休」時代に現在見られるサイズになっていったものと考えられ、代表は「不審庵伝来盛阿弥塗」の眞台子が一つの基準となります。

また利休好で「唐物から」ともいわれる「及台子」がありますが、ほぼ「真台子」と同寸です。
「竹台子」といえば皆さんよくご存じなのは「利休好」で台子地板から「風炉の部分」を除いて「炉用」に好んだものであり「元伯宗旦好及台子」も同様に「利休好」を小さくし炉に向くサイズになっています。また元伯宗旦の好みといわれる「高麗台子」は炉用だけです。
その後様々な「好」や「蒔絵」を施した物などが登場します。

●長板
「台子の地板を長板という」という風に長板の発生に関してはいわれ続けてきましたが、近年異説も登場しています。「茶を点てる道具を置き合わせた物」を原点とするという説です。
長板の基本的なものは「真塗」他に「柿合塗」「木地」などがあり、炉風炉で大小があります。また「流儀の好物」も数種類あります。

●棚物
(大棚)
台子以外の棚物として登場するのが大棚と呼ばれる物で嚆矢として「紹鴎袋棚」が上げられます。紹鴎の狂歌に「我が名をば、大黒庵といふなれば袋棚にぞ秘事は込めけり」と詠んでいます。
「利休袋棚(志野棚)」は香道で使用していた「飾り棚」を利用する事が考えられたものでした。これらは風炉釜を置く事が出来ない棚なので当初から炉に使用された物と考えられます、逆に炉に使用するための書院飾りの棚として用いられた可能性もあります。いずれが先であったかは判然としませんが台子、長板以外の棚物が使用された始めではないでしょうか。ですからそれ以外の侘び数寄の茶は全て運び点てだったとも考えられるのです。
これら書院飾りから分離したとも考えられる「紹鴎棚」や「利休袋棚(志野棚)」などの「袋棚系(遠州の袋棚や石州の猿曳棚、車棚など武家茶道に多い)」の他に風炉を置く場所のある「風炉用の大棚の系列(表千家小袋棚、玄々斎好寒雲棚など)」などがあります。

(小棚)
最も種類も多く一般になじみのあるのが「小棚」です。本来は床の間等に香炉や花入を飾る棚として用いられた唐物の棚を点前座に置き水指を据える棚として用いられるようになります。「中央卓」「城楼棚(せいろうだな)」等がそれにあたり、のちに様々な工夫が取り入れられ多くの好物が作られるようになます。
和物では紹鴎の「水指棚」「今井宗及」の「洞棚」などが使用され始めるようになります。
さらに利休の登場により様々な小棚が創造されるようになります。「丸卓」「四方棚」「角棚」「山里棚」「三重棚」「烏帽子棚」などその多くは利休の侘茶を反映してか、桐を使用した木地の棚です。その後の好物の多くはこれら「小棚」のバリエーションです。
また収納と移動が可能な「旅箪笥」を代表とする「箪笥」(利休好、旅箪笥とそのバリエーション、宗和好、短冊箱など)その原点は朝鮮半島にあったようです。

(仕付棚)
また小間には「仕付棚」と呼ばれる道具棚が取り付けられている事があります。その名の通り壁などに直接取り付けられている事が普通なので取り外しは出来ません。台目の席の「台目棚」や「雲雀棚(遠州好)」などは代表でしょう。











茶道具、取り合わせの基本知識  水指

2006-10-17 18:12:50 | 茶道豆知識
●「真」としての扱いをする水指。
「真」の扱いをする「水指」は台子、長板、棚物から降りるものではなく、小間や運び点てには向かない物ではないでしょうか。
唐銅皆具とほぼ、同時期から使われ出した「青磁の水指」も台子、長板、棚物から降りるものではなく、やや遅れて入った「染付、祥瑞、赤絵」の類などの水指にしても小棚などに取合わされて使用されています。
これらの物は、たとえ国産でも「真」の扱いをする方がよいでしょう。また同じ理由で、「交趾」物もその出生原点から「真」の扱いをする水指に含めます、近年では何れの焼き物も「皆具」に用いられる技法という点でも分かるのではないでしょうか。
「安南」物は染付の亜流「和蘭」は赤絵の亜流と言える物ですが些か侘びた趣もあり「真の草」ぐらいの扱いがよいでしょう。「和物での写し」であれば「行の真」程度の扱いにする方が相応しいでしょう。やや特殊な例ですが「高麗青磁」などの見立て品等も決して畳に直に置くべきではなく小間に用いる道具ではないと心得ておく方が無難かと思います。

●「行」としての扱いをする水指。
「行」の扱いをする「水指」は「台子」「長板」「棚物」にも載せられる可能性もあり一方で「小間」や「運び点」にも使える物となります。
唐物が原点である「金物」の水指でも「紹鴎棚」に用いる「砂張の平水指」や現在では夏場「涼を演出する」事でも知られる「毛織(モール)の抱桶」などは少し特殊な例で、形状がやや格式を離れる物として「行の草」に近い扱いもふさわしいでしょう。
これらやや「軽め」の唐物また「準唐物」として「高麗物」「三島」「粉引」の高麗系粉青砂器や「御本手」などの水指もこの範疇に入れられます。
国焼の施釉水指を「行」の格付として扱います。その中でも最も格の高いものとして唐物写しから始まったとされる「瀬戸一重口水指」を最上としてその他「国焼の一重口水指」代表としては「朝鮮唐津一重口水指」「高取一重口水指」などが続きます。これらは場合によっては台子にも使用されその品位を誇っています。「行の真」とも言える物でしょうか。
続く「行の格の水指」は代表は「瀬戸(一重口水指以外)」をはじめ「高取」「唐津」「遠州七窯(朝日、上野、志戸呂、赤膚、膳所」「薩摩」:など施釉国焼陶器です。
「萩焼」などもこの範疇に含まれますが萩は茶碗が主体であり水指の伝世品は少ないでしょう。
「志野」「織部」も施釉陶器の代表の一つといえ「楽焼」は茶碗中心ですが脇窯である「大樋焼」には水指の「好物」をはじめ名品が多く存在します。これらは棚にも載せられますが運び点こそ相応しい気がしますので「行の草」くらいにあたるでしょうか。
江戸時代には「仁清」の登場により施釉陶器の中でも、とても華やかな焼き物が現れ茶の湯を彩る事になりますが、これら京焼と称される一群は「薄茶」にこそ相応しいものではないかと思います。

●「草」としての扱いをする水指。
「草」の格にあたる水指は登場が早いにもかかわらずこの性格上、棚に上げるべき水指とはされていません。
例外的に利休好の「山里棚の地板を濡らし」焼締の水指を用いる事があるともされていますが「焼締陶器水指を棚に載せる唯一の例」とされているはずです。
釣瓶の水指をはじめ木地の水指類の様にその清浄感や潔さ、すがすがしさをもった物や塗の「手桶水指」など古い時代には長板や台子に載った例もありますが、木地物の水指、殊に「木地曲」は「使い切り(一度使ったらもう使用しない「割り箸」と同じ)」が条件ですので、扱いとしては棚に載らない「草」の物ですか品格は決して卑しい物ではありません。「利休好菊置上曲水指」という物があります。これは利休が禁中に茶を献じる際に好んだとされ、侘茶を体現する「木地曲水指」ではありますが、そのままではあまりに粗末、ということで木地物に最も相応しい、加飾「置上」を施した物と思われます。故に「使い切り」であり、げに「侘茶」とは凄まじい物なのです。(決して貧乏たらしい物ではないということです。)

「備前」「信楽」「丹波」「伊賀」に代表される焼締陶器施釉陶器ですがこれに準ずる「美濃伊賀」輸入品でですが「島物」である「ハンネラ」「南蛮」など小間の登場と侘茶の流行で見出されたこれらの水指は正に小間空間にこそ相応しい道具ではないでしょうか。「動座」を伴う茶の湯ではこれら焼締陶器の水指こそ「濃茶席」に相応しく思えてなりません。


茶道具、取り合わせの基本知識  皆具/水指

2006-10-17 18:11:24 | 茶道豆知識
●台子用の(皆具)
「唐銅皆具」は「唐物荘厳の茶」であるところの「台子、書院の茶」を代表する道具であり、唐物名物茶入、天目茶碗などと取り合わせる道具になります。先に触れたように、利休時代までに「草庵の茶の湯」が全盛を迎えたことにより、その今日的意義は「台子点前」の稽古に使用することと「献茶、供茶」といった「儀式」に使用することを主たる目的と化しています。
「天目茶碗」や「天目台」を一般の茶会、茶事に使用しないと同様「唐銅皆具」もまた一般の茶の湯には適さない物となったのです。

近世になって現れる、「陶器製の皆具」は些か異なる目的のため登場します。これらの物はあまり時代を遡ることはできず、せいぜい江戸末期幕末に登場し、武家茶道や一種飾り物の感を呈します。明治以降、各流儀、家元の「好み物」が創作され、殊に裏千家十一世玄々斎が「長板点前」を基本に作った「立礼式」は「陶器皆具」を原則としていたり近世の茶の湯には欠かせない物となり、最近の傾向としては、茶会、広間に似合う華やかな「皆具」が好まれています。

「皆具」全般は「台子」並びに「長板」のみで使用しますが、「立礼の点茶盤」に使用することもあります。ただし「唐銅皆具」の多くは国産の様ですが、唐物、国産を問わず唐銅物は皆具としてのみ扱う事としています。たとえ国産であったとしても唐銅の水指はその成り立ちから単独で用いる事はなく皆具として使用します。いわば「真中の真」の扱いをします。なおかつ伝物の台子または、「献茶、供茶」以外で使用することはないと言ってよいでしょう。時代が下がり茶匠や陶工の作意、発案により染付や、交趾また仁清物等の皆具も作られていきます。これらはいわゆる「伝物」「献茶、供茶」に用いるというより近世の広間、大寄せの茶会に華やかさを添えるために用いる方が良いでしよう。
ただし、「陶器皆具」に用いられる焼き物は「青磁」「染付」「祥瑞写」「赤絵写」「金襴手写」「交趾写」「仁清写」「和蘭写」ぐらいまでが基本で「萩」「唐津」など国焼系や「高麗物、御本写」は存在自体不思議なことで、用いることは避けるべきですし、「備前」など「無釉焼締陶器」を「皆具」に用いるのはもってのほかです。

●水指
流儀によっては「水壷(すいこ)」とも呼ぶことがあります。
「水指」は室町時代、台子書院の茶の湯では「唐物」に代表される「唐銅皆具」やインドから伝わったとも言われる「モール抱桶(だきおけ)水指」東アジアの「砂張水指」などから始まり、一部では「青磁」等も使用されており、伝説の「雲龍水指」や今に残る「青磁太鼓胴水指」あるいはこれがもっとも多い形ともいえますが「酒会壺」など、多くの唐物が使われたと考えられます。

別に室町中期、後期の風俗画にもみられる、木地や塗り物の水指も多く使用されていたようです。これは「式正」の茶の湯ではなく、茶を喫するために必要な容器としての水指のようです。たとえば汲み立ての水を使用した、といった趣で好んで使用された「釣瓶」や「木地曲の水指」「手桶水指」等が登場してきます。一旦は後に述べる焼き物の水指が全盛を迎えますが再び利休により見直されることとなり、利休好として復権します。
また、侘茶流行は国内の陶器に目を向けられることになり、「見立て」によって見出された備前や信楽といった物の日用雑器から水指として使用される「信楽鬼桶」や「備前種壷」などが取り上げられ草庵の小間の茶の湯で用いられるようになっていきます。
瀬戸系統では美濃窯で焼かれ、桃山から江戸時代を迎える頃となると織部の影響を受けたともされる「志野」「美濃伊賀」「伊賀」「織部」や、備前焼なども同じく影響が見られます。
「楽焼」の中からも水指が登場しています。
朝鮮半島系の焼き物をルーツとする「唐津焼」「高取焼」などが加わります。後に「遠州」の指導とされる俗に「遠州七窯」等国内で「施釉陶器」が焼かれ茶の湯用として生産されていきます。
唐物では桃山期前後から江戸時代にかけおそらく日本からの注文に応じたであろうと考えられる「古染付」「祥瑞」の水指も入って来るようになり、同時期、ヨーロッパ陶磁器の総称である「和蘭(オランダ)」等も入ってきてその範疇に含めることができるでしょう。
江戸時代に入り「仁清」造形を駆使したり色絵の見事な作品を残しています。また京都では「乾山」が登場し実際の水指は寡作にして伝世は多くはないのですがその後の作家に大きな影響を残します。


茶道具、取り合わせの基本知識  薄茶器

2006-10-17 18:08:41 | 茶道豆知識
●「棗」「替茶器」あるいは「薄茶器」
「棗」の登場
「羽田五郎」は室町初期の伝説の塗師で「五郎棗」の名を残し「棗」の創始者とされます。
棗はその形状がナツメ科の植物の実に似ているところから取られた名称とされています。直線的な従来の茶器に比べやや和風化したとも言える撫肩の形状は紹鴎、利休の登場により一層深化し、「棗」重視の傾向が高まります。
武野紹鴎は唐物茶器を使うべき所へ自ら創作した「切形」で棗を作らせ使用するといった画期的なことをしました。
紹鴎時代には「余三」「記三」「秀次」利休時代には「盛阿弥」等のほか在京の無名塗師の作である「町棗」などを多用し、一層侘茶への傾倒を深めていきます。
利休晩年には他の侘び道具(木地曲水指、長次郎茶碗、竹の花入など)と共に数多くの会を催しています。
やがて、その孫「元伯宗旦」に引き継がれ「一閑」の棗という究極の侘び道具に発展します。またその弟子「藤村庸軒」は利休に傾倒し「凡鳥棗」を初代「中村宗哲」で好んでいます。
一方、江戸時代に入り一旦急速に茶の湯人口も増えだした頃に登場する「小堀遠州」を頂点とする「武家茶道」の中ではやはり「茶入重視」の傾向があり「中興名物」の勃興にともない、「棗、塗茶器」の類は「薄茶器」としての役割を担うことになり、蒔絵物、好物など盛んに作られるようになります。
武家でありながらむしろ利休の茶を目指した「片桐石州」は自ら記した侘茶の伝書「一畳半の伝」には「墨跡に赤樂の次いだ物、黒棗」こそが究極の侘茶の理想と説きながら、記録に残る茶会では行ってはいないようです。江戸前期には濃茶、薄茶の形式が整い、千家、武家に関わらず「塗茶器」は薄茶の物となっていきます。

薄茶器の世界「塗師」と「蒔絵師」
江戸時代に入り、小堀遠州、金森宗和、片桐石州等、武家茶道の台頭により、これら塗り物茶器は濃茶器としての使われ方から、やがて多くの形が薄茶器として作られるようになっていきました。
蒔絵の技術は遠く鎌倉時代には完成を見、茶の湯では化粧道具から見立てられた香合などを見ることはありますが、茶器に施される物は武野紹鴎所持と伝えられる「亀甲蒔絵大棗」あたりが早い例でしょう。不審菴伝来の利休所持「蒟醤茶箱(きんまちゃばこ)」に入った「笹露蒔絵棗」は利休時代の蒔絵を伝える物でしょう。江戸時代初期には「嵯峨棗」と呼ばれる「町棗」の系統にあたる「平蒔絵」を施した物が現れます。
「柳」「桜」「藤」等を題材とし侘びた風情はやや粗野とも言える作風です。勿論はっきりした作者は分かりません。
「蒔絵師」の手になる茶器が登場するのもこのころです。
やがて時代が下り様々形状が用いられ出した為、形状を分類し、宝暦時代に荒木盛宣が宗哲と相談の上選定したものに次の様なものが有ります。「薄器六器」と称して「雪吹(ふぶき。吹雪でなく上下が判らないとの意からとも御所で用いる雪桶の形とも伝えられる。)」「茶桶(さつう。中次形だが蓋が浅く面が取ってある。数種有り。)」「寸切(すんぎり、ずんぎり。茶桶より一層蓋が薄く殆ど一文字。「頭切」とも書く。)」「面中次(めんなかつぎ。蓋に面を取った中次。)「白粉解(おしろいとき。中棗と平棗の中間。香合にも使用。)」「薬器(やっき。薬入れの形)」の六種類。その後も様々に変化し、現在も際限無く増え続けています。
産地も京都を中心関西一円や石川県山中地方など各地に技術が伝えられています。その一つでもある輪島塗は塗物の代表のように宣伝をしていますし、堅牢な堅地呂色塗は確かに素晴らしい物です。しかしながら茶道具の制作に関しては、戦後茶道ブームの起こった昭和三十年代から生産を始めたといわれています。いつ始めようがよいのですが、今まで見た来たように、茶道具は茶人の指導があって成立するものです。茶人が職人に乗せられていたのでは本末転倒ではないでしょうか。その意味で些か茶の湯から遠い塗の一つと言ってよいでしょう。御家元が書付をなさらないことでもそれがうかかがえないでしょうか。

「その他の塗物茶器」
その他に本来茶器として作られていない適当な大きさの容器を「見立て」によって使用する場合があります。例えば唐物の茶器がそうです。「独楽」「蒟醤」「螺鈿」「屈輪」「堆朱、堆黒」「籠地」「天川」などは本来何を入れた物かは分かりませんが、それ自体貴重な輸入品でしたので茶の湯に使われた物と思われます。



茶道具、取り合わせの基本知識  茶入

2006-10-17 18:06:51 | 茶道豆知識
●茶入
点前の道具でやはり第一に上げなければならないのは「茶入」でありましょう。
そもそも室町時代においては抹茶になる前の葉茶「碾茶」を入れる「茶壷」の方を第一の道具と考え「大壷」と称し、対する「茶入」は「小壷」といって区別していました。時代によりこちらの方が重要に扱われるようになります。
ところで「唐物茶入」とは何物?という疑いを(疑問でなく)持たったことはないでしょうか。実際、一口に「唐物茶入」といってもいろいろある上に現在に至るまで支那大陸の何処で焼かれた物なのかは未だに不明だということですし、(最近一部が発掘され徐々に唐物茶入の研究は進みつつありますが)此で、ハテ?とお考えになってみて下さい。

しかし、未だにはっきりした証明がなされていないにも関わらず、「どうして」一体「誰」が「この茶入は唐物である。」と認め始めその証明を何ゆえに「信憑性」があると認めてきたのでしょうか。

茶道具の「手分け(道具分類の事を茶道ではこう呼ぶ)」の中に「大名物」「名物」「中興名物」といったものがあるのをご存じのことだろうと思います。

※「大名物」は利休以前、ほとんどが「東山御物」と呼ばれる足利義政ごろの道具であり盛んに「対明貿易」をしていた時代ですので比較的はっきりと「唐物」と定義できましょう。

※「名物」となると時代も下がり、たとえ「唐物」であろうと市井に埋もれていたほどの「道具」が後に、例えば「利休」の「目利(めきき)」により「唐物」とされ見いだされた物が多いはずです。仮りに利休の鑑定眼を信じるとしても、その「利休による証明なし」にどうやって「唐物」であるかを判断することが一般人に可能でありましょうか。

※ましてや数も多く時代も下がる「中興名物」に至ってはたとえ遠州が見いだしたとして、なにをかいわんやでありましょう。また「中興名物」の多くが唐物全盛時代には省みられることの無かった、瀬戸茶入をはじめとする「和物茶入」の方が多く取り入れられています。

多くの茶入がそれぞれ所持した人々が、「仕覆」を添え「蓋」を替え「挽屋」を造り「箱」を重ね、
「盆」を添わせ大切にされながらも時に災いに逢い、粉砕をされても焼け跡からそれを取り出し「修復」し再び世に伝え人から人へ伝えられてきた重要な道具なのでした。その物語、その歴史、即ち「故事来歴」こそが茶道具の命なのです。要するにそれぐらい茶入に限らず茶道具とは時代と伝来を重要視され今日に至っています。それが「箱書」であり「添え状」なのです。

お茶道具の見方は純粋な美術品の見方とは異なり、伝わり形を重視し付属品の「仕立て」がそれを表す物の一つです。茶入は茶道具の中では「重い道具」でありより「古さ」「伝わりの良さ」が必要な物と考えて下さい。
そこには、茶道具独特の「箱書文化」とも呼んでいい「伝来証明文化」ともいえる物があるかと思います。

「蓋」も出来るだけ「象牙」の物をお薦めします。永年の間に変色して風格が加わるのが特徴です。
土物の茶入など使い終わったら必ず湯通しして洗いお茶を残さないようにしましょう。古いお茶が残っていてはせっかくのお濃茶も台無しです。中に釉ある茶入は日頃ティッシュで拭く程度で充分ですが数箇月使ったら良く搾った付近で丁寧に外を拭いて下さい。綺麗になる上、思いのほか茶入のすべりが良くなります。

和物の始めである瀬戸の手分けを重々理解した上で名物は別にして「後窯」の「利休」「織部」「宗伯」「鳴海」「正意」や「瀬戸十作」「瀬戸六作」なら理想ですが、たとえ近世の物だろうと、或は現代作家であろうとまずは、第一に「瀬戸茶入」を求めるのはお勧めできます。
但し、現代作家の中では目立った人がいないのですが。

次ぎにお勧めできるのは遠州の指導した窯である「遠州七窯(高取焼、膳所焼、上野焼、志土呂焼、朝日焼、古曾部焼、赤膚焼ぐらいの順で)」の物を探す事です。


茶道具、取り合わせの基本知識 五徳/炉縁/灰

2006-10-17 18:04:47 | 茶道豆知識
(五徳)
透木や釣釜、切り合わせの風炉を使用する場合を除き釜を掛けるためには五徳が必要です。もともとは今下にして使用している輪の部分を上にして使用していましたがお茶で使用されるようになってから爪を上にして用いるようになりました。
風炉に用いる際は風炉の大きさ、釜の形状などに合せ五徳の直径や爪の高さを合せ選択し、炉の内部の大きさが若干広くなっていますので炉の五徳も従来良く出回っている物より少し大きめなサイズ(昔のサイズ)の方が良いでしょう。
形としては「笹爪」の他「猫足」「鴨足」「万代屋(もづや)」「法蓮寺」などのほか寺社などの「古釘」を用い作られたものなどがあります。

(前土器、底瓦)
風炉の場合、火避けの為に用いる「前土器(まえがわら)」はその名の示す通り御神酒を頂く土器(かわらけ)を少し欠きもちいたところから始まります。
鉄風炉には「赤の前土器」を用いその他には「白または雲華焼」を用います。これも風炉のサイズに合せ大きさも変えます。また灰形により丸みの異なるものを用いられるのが理想です。
風炉には底の部分に「底土器」を用いることが多くなっています。これも風炉のサイズで大きさを使い分けます。
五徳の高さを合せるための「五徳瓦」と言ったものもあります。

(炉壇)
五行で現わされる事象から中央は木火土金水でいう「土」であり色は五色の内「黄色」という事になります。そして炉壇は殊に茶室の基本である四畳半では部屋の中央にあります。この事から黄土で塗られた土の「炉壇」が用いられる事になります。

勿論数百年に亘り使用されたのですから防火上も最も安全なものでもあります。
炉壇師として著名な「片田義斎」さんの所で京都市の消防署が調べたところ炭を焚いた状態で数時間が経過した段階で内部の温度が七百度ほどでも炉櫃の外の表面温度は三十八度ほどであったそうです。土で塗っただけですから釜にも優しくもし当たっても釜を痛める事がありません。また炉の開口部よりそこに向かって広がっており火の起こりも一段と良くなるよう工夫されています。またどんな炉縁を載せてもその色合いが非常に映えるといった点も大きな特長でしょう。
一方、最も良く見掛けるものに「銅板」で出来たものがあります。これは、加工がしやすく比較的安価で塗り替えも必要が無いため普及したもので「炉壇は銅製」の物と思い込んでいらっしゃる方も多くいらっしゃいますが勿論、銅ですから緑錆(ろくしょう、銅の錆び)が出たり変色したりして見た目は余り良くありません。
「石炉」と言うものもあり、これを正式とする流儀もあるようですが重い、高価であると言った点であまり見掛けないようです。
正式なサイズ色合いではない「銅製、鉄製、陶器製炉壇」は「代用品」と考えた方がよいでしょう。

(炉縁)
炉には「炉縁」を載せ使用しますね。これも室町時代に発生を見、大きさも様々だった物を大きさを利休と紹鴎との相談によって現在の一尺四寸四方の形になったとされています。高さも二寸二分となっており、流儀によって異なることはありません。広間には「塗、蒔絵の炉縁」を小間には「木地の炉縁」「四畳半」ではどちらかを「部屋の用い方」に合わせ用いるのが一般的です。その違いは、どちらが「侘びに近い」かで決定すると考えてはいかがでしょうか。

(灰)
灰はそれを見ればその人の茶に対する心入れが判るとまでいわれるほどの道具です。炉に用いる灰と風炉に用いる灰はおのづと異なってきますが、いづれの流儀も「風炉」に用いる灰は肌理(きめ)が細かく柔らかな「帛紗灰」などを用い「炉」には「霰灰」「粒灰」を「湿し灰」にして用います。
炉、風炉とも手入れを良くし長年たった灰は見事なもので侘び茶人の求める理想はそこに現れるといっても過言ではないでしょう。