音楽にとって一番の大きな変化は、電気と出会ったことだろう。それはエレキギターのことではない。PAシステムのことだ。
原始的な楽器の多くは、少人数で聞く程度の音量しかない。それが改良されて100人程度のお祭りとかでとかで使われるようになる。それでも屋外だ。音量は空へ飛んで行く。もちろん屋内で演奏される場合もあっただろう。それは建物の大きさで制限があった。そんなに音量はいらないものだ。大きな建物ができるようになると、単純に楽器の数を増やして音量をあげればいい。わかりやすい例ではルネッサンス期の教会音楽は、少人数の合唱と少人数の室内楽団がせいぜいだった。もっとも重厚なオルガンもあったわけだがすべての教会にあったわけではない。それがバロックになると男声合唱と少年合唱、室内楽団に建物が大きくなってオルガンも大きくなる。バッハのマタイ受難曲のように巨大すぎて後世の人から演奏不可能と言われるほどに大きな編成の曲が作られるようになる。
クラシックもバロック最後期からしばらく編成が小さくなる。ペストの流行とかイロイロあると思うが富裕層の増大から、王家以外の人たちが音楽を聴くようになってゆく。すると会場が手狭になってゆく。なので巨大劇場が建設されるようになる。これに合わせて楽器も改良されてゆくが、それ以上に編成の大きな曲が好まれるようになる。ホールの隅々まで音を行きわたらせるとなれば、それしかないのだ。最後には舞台上に1000人並ぶことになる。
交響曲というのは、編成が大きくなった分多様な音色を作れるようになった作曲者たちが編み出した手法だ。単純に音を大きくしただけだったら音楽はつまらないものになる。いろいろ試行錯誤した結果、形式が生まれたのだと思う。
ところがさらに聴く人が増えたのだ。以前のオペラハウスのバルコニー席などは社交の場であって音楽はそれなりに聞こえていればいいという場でもあった。だから2000人収容でもなんとかなったのだが、全体に聞かせようとなれば難しくなる。そこで出てきたのがホール後方にスピーカーを設置して補助的に使うというやり方だった。特に現代の一般的なホールのような3階席まである場合では必須だ。
映画というのもある。無声映画時代には音楽の伴奏付きだったが、会場によってはスピーカーが必要だったろう。このころの映画音楽が再演されているのがあるがおしなべて室内楽程度の編成しかない。そしてトーキー時代になるとPAシステムが前提となる。
ホールにPAシステムが完備されるようになると、編成が小さくてもよくなる。カーネギーホールでピアノソロライブとかが行われるようになる。もちろん楽器は改良されているが、それでも後ろの席で使うことになるだろう。
逆説的にPAシステムがあれば会場はいくらでも大きくできるようになった。球場ライブのように3万人収容とかクラシックでも野外コンサートとかが行われるようになる。こうなってくれば音楽を聴く場ではなくなる。体感する場に変わる。
巨大なホールでは、後ろの席のスピーカーにディレイをかませる。電気のスピードと音のスピードが大幅に違うからだ。電気信号を少し遅らせる必要がある。それで音像を一致させるのだ。どんどん生音の意味がなくなってゆく。
こうなると生演奏である必要もなくなってくる。アイドルグループのコンサートなんてその最たるものだろう。ピアニストのグレン・グールドが完璧な演奏を届けるためにレコード録音のみしかしなくなったのは有名だが、当時グールドのソロコンサートを開くとすると3000人のホールとかになる。すると当然、そもそもPAシステムに依存するわけだ。毎回完璧をできるわけでもなく、電気に頼っている状況では最初っから電気にしてしまった方がいい、そういった考えもなかったとは思えない。
今現在ミュージシャンもファンも、それは少しおかしいと感じているのだろう。シークレットライブやあえて小さなホールで公演を行う人たちもいる。コストの問題はあるが、音楽が伝わっているという実感が大きいだろう。
そして一番大きな問題なのだが、人間の耳に耐えられる音圧の問題がある。演奏している人たちが難聴になるほどの音圧になっている。観客は場所によっては当然なるだろう。それは両者にとって不幸そのものだ。
マジメに聞きたければ小さな箱、騒ぎたければ大きな箱という住み分けがあるように思える。
それでも人は音楽を聴く。イヤホンやヘッドホンで聴く。一日中聴く。歩いても聴く。自転車でも聞くし車を運転しても聴く。
音楽には中毒性がある。だからこそ、ここまで発展してきたと思う。ただ現在では電気に変換されたものであって、長い年月を経て慣らされているのが現状だ。
音楽と電気の出会いは画期的であった。