どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

強烈なCDボックスセット

2015-09-30 00:52:10 | 日記

 

10CD COLLECTIONというCDボックスのシリーズがある。THE INTENSE MEDIAという会社が企画したものだ。以前ブレヒトとクルトワイルのコンビの曲が全部入っているという触れ込みのを買ったが、録音が古くても全部歴史的名盤だった。どうすればこういった企画を成立させられるのか、著作権切れと埋もれていた放送用音源とかを狙っているのだろうか。紛らわしいのに10CDーSETという、箱がまったく同じだけど企画会社が別というのもある。ルガーノ音楽祭の過去の録音を集めて、その中の名演と呼べるものばかり並べていて、これはこれで楽しい。

 

 

今聞いているのが、その中でも多分一番のクセ玉、ショスタコーヴィッチのセットだ。だいたいこれを聞いておけばショスタコーヴィッチを聞いたことになるよ、という曲のラインナップになっている。

交響曲は5・7・9・10番が揃っている。5番がミトロプーロスとニューヨークフィル。7・9がチェリビダッケとベルリンフィルだ。

蛇足だが、19世紀の指揮者は作曲者のスコアに勝手に手を入れるので有名だった。楽譜のスピードなどの指示に従わないのは当たり前。ポルタメントやルバートの多用、挙句のはてに楽譜を改ざんするのだ。だから指揮者によって、それこそまったく違う音楽になるわけで、それでいいのかという議論が起きた。そこからスコアを読み解き、忠実に演奏するというスタイルに移行した。代表的なのがストコフスキーやトスカニーニとなるのだが、実はメンゲルベルクもフルトヴェングラーもこの系列になる。ハァ?と言われそうだが、彼らから見れば前がひどすぎたのだ。解釈にはまだ自由があった。だがそれすらも排除して行こうとする人たちがいた。代表がミトロプーロスやデ・サーバタだ。アンセルメもその中に入るだろう。スコアを忠実に、作曲者の考えた音を再現するということに全力を傾けた人たちだ。こういった人たちは現代音楽に強い。

なのでショスタコヴィッチの古い演奏でミトロプーロスが選ばれるのにはわけがある。

それではチェリビダッケはどうしてなのかだが、実は彼もスコア忠実派なのだ。それはカラヤンも変わらない。だが音に対する解釈が違いすぎるわけで、1946年では多分さほど違わない。ここではチェリビダッケは後年の遅ぶりではなく、割と速い指揮をしている。

 

 

ところがだ、交響曲に関してはフランク・シップウェイがロイヤルフィルで録音した1995年は当然音がいいとしても、ミトロプーロスとニューヨークフィルの5番は、1952年を差し置いても録音が悪い。なんでこうなったのかはわからない。ラジオ用にダイナミックレンジを補正したものなのだろうか。冒頭の音がデカすぎる。ありえないほど大きい。その後少しづつ修正されてゆくが、第4楽章あたりで、多分テープ剥がれがあるのだろう、そこのわけのわからない音が変になる。それをそのままデジタルにしてしまったせいか変な金属音に変化してしまって、わけがわからない。

これはまだいい。

1946年のベルリンフィル・チェリビダッケの録音だ。7番の最初の7分間の間にテープ切れが5箇所はあるようだ。テープの保存状態もいいとは言えない状態だ。幸いにして47年録音の9番はそんなことはないが、録音もいいとは言えない。

 

 

多分なのだが、この二人の指揮者のこの演奏を選んだのは、あくまでも歴史的背景ということだ。西側の演奏で有名指揮者の古い録音を用意したということだろう。当時の演奏解釈というのはこうだったというものだ。実際その後ショスタコーヴィッチの解釈は二転三転した。堂々としたソ連型の解釈、「証言」以降の解釈、そして「自伝」での混乱。その上息子のマクシムの発言もあり、どんなに楽譜に忠実になりたくとも、そういった文献からの雑音が大きいというのがショスタコーヴィッチ解釈のめんどくささだ。

現代音楽なのに古典的手法で書かれた譜読みがいかに難しいのかということだ。

それではイギリス人のシップウェイがなぜ入っているのかといえば、多分このシリーズの特徴なのだが、音がいい録音も入れなければいけない中で、安く買えたのがこの録音だったとも言える。ただそれではシップウェイさんに悪い。多分デジタル録音の中で一番中庸だったということだろう。ねじくれたショスタコーヴィッチ解釈の中で、すべてを取り入れ、すべてまとめあげたという気がする。

そうイギリス人指揮者の一番悪いところが、一番上手い方向に出ているのだ。

 

 

選りすぐりのものばかりだと言える。つまりショスタコービッチを聞く前にやたらめんどくさいことがいっぱいあるのだ。そこを象徴するのが、1946年のチェリビダッケのショスタコービッチ7番だ。多分首席指揮者に就任した頃の録音だ。

当時のベルリンは、壁はできていないが、後年の西ベルリンはソ連に包囲されていた状況だった。ユダヤ人の音楽家は全くいなくなり、ドイツ人でも有名な人は戦犯疑惑で出演できなくなった。フルトヴェングラーが代表か。クーレンカンプもそうだ。おまけに優秀な演奏者ほど海外に移ってしまう。その上フルトヴェングラーの後を継いだ指揮者は、3ヶ月後に連合軍の誤射で死亡する。

そこにコンクールで1番で優勝したチェリビダッケが首席指揮者になった頃とすれば、この曲を演奏する意味が3重にもあるわけだ。

一つは、ロシアへの贖罪だ。レニングラード攻防戦を描いたと言われるこの曲を演奏する意味はある。

二つ目は、レニングラード攻防戦より厳しい状況になったベルリンと合わせている。この頃は平和だったと言われているが、実際この後壁ができた。

3つ目は、当時のベルリンフィルがグズグズだったからだ。録音の悪さを引いても、演奏が悪い。で、チェリビダッケのせいでもなさそうだ。ベルリンフィルも生きるのが精一杯だったのだろう。楽器も少し怪しい気がする。特にフルートが怪しい。わざとブロックフロデを使ったのかと思うところはある。

確実にベルリンフィルの黒歴史だと思う。録音も悪いが、楽団が腹減っているという気がする演奏だ。

なお9番に関しては、チェリビダッケが叩き直したというのは確かなベルリンフィルの音がしているが、やっぱり歴史的通過点の演奏だと思う。

でもこのセットの目玉はやっぱりチェリビダッケとミトロプーロスなのですよ。とにかくこの二人を揃えた時点でマニアック。どんなマニアもグウの音出せないところはある。しかも完璧に不完全。で、どこも出していないだろう?ここしかないよというのがある。

 

 

そう、ショスタコーヴィチ解釈から逃れるために、超マニアックなセレクトになっている。そのマニアックさが交響曲に集中したというのがなんとも言えないが、後は中庸でいい演奏ばかりになりそうだ。

意欲的なセレクションだと思う。次にかけるCDが怖くなるほどに。

彼らのしかけた罠にまんまとはまっているような気もするが、ショスタコーヴィッチ解釈の一つの形だ。