月曜日はゆぴあすに泳ぎに行った。1800メートル泳いだ。比較的速度は抑えたのだがえらくきつかった。きつかった理由にはもう一つ別なことがあったからだ。20代半ばと思われる女性3人が、25メータープールの方に泳ぎに来たからだ。紐ビキニで。そのうち二人はショルダーレスのビキニ、あの首からの紐とカップだけでかろうじて抑えているアレ。3人ともなかなかのバディでした。
帰りに寄った響では、そりゃいいもの見ましたな、と言われる。
どうもウオータースライダーだけで遊んでいたのが、こっちに来たらしい。なのでウオーキングプールにいたおじいさんがこちらをガン見している。そしてこちらに来たが、やっぱり戻った。恥ずかしくなったのでしょうか。
響では、寿命が10年伸びたでしょう。お嬢様方は功徳を積まれましたな。
私はハラハラして寿命が縮まりました。
ただエロいんだけど、綺麗に見えないのはなぜかなと不思議に思っています。女子競泳選手は綺麗なんだけどエロくない。少し不健康さを感じるエロというのは、どうも気持ちが悪い。
真夏だったらともかくとして、ゆぴあすではめったに見られないものでした。心拍数のトレーニングになってしまいました。
金曜あたりからキナ臭くなっていた広域暴力団山口組の一部離脱がネットを駆け巡りました。それが月曜ではほぼ確定状態。本家と主流派の争いのようですが、暴対法下で争うというのはなんとも言えません。鉄の規則で守ってきた牙城が崩れる可能性すらあります。
個人的に、ヤクザというのは本来は日本の裏社会であって実は表と不可分なものだったと思います。社会的弱者やはみ出しものをとりいれる存在でもあったと思います。任侠道というのはその中でできた筋目であって、その当時の経済状況の合わせたものだったと考えています。ただ戦後のどさくさで利権の幅が広がって、当然筋目も幅が広がるわけです。恐喝というのは筋目からはあり得ないはずです。もちろん彼らから見たら人としておかしなことをしているのを懲らしめているという意義もないわけではありませんが、堅気の弱みに付け込むというのはいいことではありません。ただそれが経済成長に伴って、巨大化してしまったというのが問題です。
武器もドスから拳銃に変わりました。市民の巻き添えを生む原因になっています。
山口組6代目の司忍へのインタビュー記事があった。それを読めば読むほど、世の中がわからなくなってゆく。彼らは任侠道を守るのみと言っている。麻薬や人身売買に関わったものは絶縁にしているという。それは任侠道に反するからだ。弱者救済も彼らの仕事だ。行政ができないことを我々がやっているという自負を感じた。
それでは暴対法の「反社会」という概念はどうなのか。伝統ある問題のある救済法だが、それでは今の社会は正しいのだろうか。というか正しい時代はあったのだろうか。江戸時代の身分制度と儒教があってこその裏社会だった。それは正しいのか。
大変疑問があるが山口組が麻薬に手をつけていないとすれば、「反社会」というのは警察権の一点に集約される。警察権を持つ団体は国家としてみれば「反社会」だ。みかじめ料の問題はあるが、江戸時代には司法権を持つ武士階級がぜんぜんうごかなかったから、ヤクザが生まれたというところはある。つまり国家の警察権が健全であったらヤクザなんてなかったわけだ。だから昭和の時代のはヤクザと警察がズブズブだと言われていたのだ。互いの情報を交換し合うのが健全だったのだ。
それが暴対法以降、山口組を筆頭にヤクザは警察との関わりを絶った。関われなくなったからだ。たぶんこれ以降が「反社会」なのだろう。
全く同時期に維新の会が分裂した。コメントする気も起きない。政治家になれるのと、政治家であることの差をわからない人が多いというのがよくわかる話だ。
筋目だけは守っていただきたかったのですが、それもなさそうです。
最近中国の新聞が、天皇に謝罪しろという記事を載せて、それを日本政府が抗議したのがあった。どうも日本政府が、抗日戦勝記念式典に駐在大使館まで参加させないというのが気に障ったと言われている。
これには大体のところトップの感情以外の問題はない。だが逆に抗日戦勝記念式典を挙行する正当性が共産党にあるのかという問題が出てしまった。国民党が日本と戦ったのであって、共産党はゲリラ戦に徹底していただろう、そういった問題が欧米で出てきている。毛沢東もやらなかった式典をどうして最大にしたいのかは、全くの国内問題なのだろう。そのためには日本からの参加が必要だったのだ。
以前韓国の李明博大統領が同様の発言をしたことがあった。その手法を中国が真似したのかとも思う。
ただおかしいのは、今の天皇は両国に謝っているはずなのだが。習近平国家主席にあって中国国民に謝っているはずなのだが。
クルト・ワイルが丁度いい。