どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

秋田県での自殺予告

2012-05-03 23:36:26 | インポート
まずはここのニュースを


http://news.goo.ne.jp/photo/jiji/nation/jiji-0012515045.html


いろいろ言いたい事はある。ただもう少し違う事を考えている。
中国のチベット弾圧だ。最近の日本ではこれに関する報道はかなり少なくなっている。しかしまだまだ苛烈に続いている。
チベットではないが、反体制運動と言おうか法を守れと運動していた陳光誠氏に対する弾圧の凄まじさが最近知られている。ニューズウイークのブログが良い。


http://www.newsweekjapan.jp/column/furumai/2012/04/post-493.php


なんとなく中国人の考えている事がよくわかる。チベットの件では、自分たちの領土だと彼らの歴史観に従って進行したのだろう。しかし住民の反対が凄まじく、僧の焼身自殺が続いている。
実は今回の件で、なぜかその恐怖感を分かったのだ。
陳光誠氏への弾圧では、法という本質を突かれた恐怖があった。それが末端の行政府から中央に近い所まで届いている。
死という人生の本質を突きつけたこの自殺予告を、すぐに卑怯だと思った。
確かにガレキ問題で自殺した人がいれば、私らは殺人者になってしまう。しかもそこで焼却して発生したガスから、確実にガンで死亡するレベルでない。放射線量のしきい値が無いとするベラルーシの論文もある。この論文全文を読んではいないが、確実に言えるのはその程度のセシウムは現在日本全般に広がっているという事だ。ガレキ移設以前に。
中国では恐怖は弾圧に繋がるだろう。日本では回避する方向で進むだろう。
しかしだ。本当に自殺するなら被災者だろう。
そしてチベットと違って自殺以外の手段は、この日本ではいくらでもある。卑怯だと思ったのは、私らを完璧に勝手に人殺しにしてしまう事だ。
行政府に対する脅迫なのだろうが、そこを間違えないで欲しい。
正しい答えは、被災地のガレキは被災地で処理。そしてそれに見合ったプラントを作らせる運動を起こす事ですよ。


ゆとり教育

2012-05-03 03:29:43 | インポート
ゆとり教育の弊害が叫ばれてついに教科書が厚くなり、方向転換が計られた。
仕事柄若い人との接触が多いので、ゆとり教育については考える所がある。やはり知識が薄いとか数学がよわいとか問題はある。
ただゆとり教育は当初の目標は達成しているのではないのかと思う。考える力と発言する力の強化だ。特に発言力は高まったと思う。ゆとり教育が完璧に始まった平成元年生まれから顕著になっている。
こういった見方をする人は他にも多いと思うが、道具としての知識のたらなさが目立つから問題になったのであって、実際の所はどうなのかといえば、知識がついてくれば役に立っているのではないのかと思う。
現実のところ、彼らが60歳になった時にゆとり教育が失敗だったかどうか分かる事で、実は今現在では本当の所は評価しては行けないと思う。
理科離れが言われている。これもゆとりとリンクして話される事だ。このままでは日本の工業分野の発展が怪しいというのだがどうだろうか。
日本の戦後の経済発展の中には、少なからず軍事国家だった時期の遺産が貢献している。例えば造船技術や加工技術などがそうだ。カメラのレンズに使われているマルチコート技術は、戦争の遺産が発展した物だ。生化学でもワクチン製造には戦前の炭疽菌ワクチンの研究が役に立っている。
更に科学技術で戦争に勝つという考えもある。体力のない若者でも国家に貢献できる可能性が、この分野であった。科学朝日が売れていた時代でもある。政府もギリギリまで発行を支援していた物だ。この雑誌から科学技術が若者に伝播し、その知識が戦後に花開く事になる。ソニーなんかがその最たる物だろう。
逆に高度にブラックボックス化した工業製品に囲まれている現代では、一発逆転の技術なんてそうそうにない。オマケに高度化しすぎて、オイソレとチャレンジできるものではない。ちょっと考えただけでもめんどくさいと分かる時代でもある。おまけに理系はモテ無いというのが定説だ。
実はこっちの方が問題で、これが原因で理系離れしている。
更に学校文化の深化もある。明るく楽しい学び舎での高校生活、これを彼らは実現しようとしている。これはどの年代でもそうだと思う。どんなに自分と遠くはなれた存在でも、生徒会が学校に文句を言える唯一の組織だ。この生徒会が学校側から降りてきたのだ。かなり高度な戦略だと思う。学校が文句を言わない範囲で自分たちの理想を実現し既成事実化を計ってきたのだ。ゆとり教育はこれに後押しをした。学生が考え、企画した物を無碍には否定できなくなってしまったからだ。
しかし、楽しい学生生活の中にモテることは重要ではないのか?モテない理系にわざわざ進むだろうか。
理系離れの最大の原因はこれだろう。しかしやはり少数はいる。それがオタク、特に電脳系オタとして存在している。
さてゆとり教育が始まった理由はなんだろう。詰め込み教育が悪いという事だった。まあそれではアメリカやヨーロッパのエリートコースの詰め込んだ上に考えろというのはどうかとなる。それは難しい。
理由の一番は、詰め込み教育は使えない道具を与えているという批判だと思う。ただこの裏側には、日本的な人物主義的な、学問はイラナイという考えがあったのではないのかと思う。数学の微分積分って生活にいらないでしょ?ブラックボックス化した機械製品に囲まれた時代では、科学も必要ないでしょ?古典なんて使っていない言葉を勉強して何の意味があるの?考える力や生きる力が大切でしょ?
自分で書いていてイヤになった。
本質的には多元化する時代だからこそ、基礎的な知識を与え、考える力を育成し、発言する能力を高める。これが理想のゆとり教育だった。しかしこれはかなり難しい。教育の現場では答えが無いとなかなか難しいからだ。授業が崩壊する可能性も無い訳ではない。なので2元論的な世界に陥りがちだ。
高校世界そのものが2元論的だ。快か不快、その中でゆとり教育は多元性を目指していたはずなのだが、小学校あたりでは教員による誘導とか、子供が考えないですませれるようにもなっている。
さて混乱してきた。
ゆとり教育の最大の失敗は、成功する事だった。
中間点が無かったのだ。これは組織的な問題だった。教育には失敗は許されない、全く許されない。ここに問題がある。基本的に2原論なのだ。詰め込み型は測定できる。だから改善も出来る。成功したかどうかも測定できる。しかしゆとり教育は成功を測定できない。失敗だけは分かるのだが、数字化は難しい。
実際は多様な生徒がいる。親も多様だ。失敗する事が当たり前なのだ。
その中の教員と言えば残業代のでない職業でもある。それでいながら未だ持って戦前の熱血先生と比較される。
さて教育の本質ってなに?と考えたいが、その前に社会ってナニ?
こちらを考えるのが近道だと思う。


PS
最近アメリカのカレッジでのリベラルアーツを賞賛している記事が多い。実際ゆとり教育の目指している方向はそれだと思う。ただ今後基礎を増やしたとしても一般化は出来ないだろう。なぜなら日本ではリベラルアーツそのものが今時点では軽視されたいるからだ。
コミュニケーション能力の為にあるのが欧米でのリベラルアーツだと認識している。これらは言語化されたコミュニケーションであって「空気」のコミュニケーションスタイルをとる日本では、リベラルアーツは存在していない可能性がある。江戸時代がまだマシだった可能性すらある。


5/4
文章の一部を補筆しました。人の事を批判してなんですが、自分の文章には空気が多すぎてチト分かりにくいと反省しています。
理系離れですが、まあ逆もあります。先日学生と話していて、粉末冶金(金属の粉を超高圧で押し固めてしまう技術)の実験から、日本食研のカラアゲ粉は高い所から落として均一に混合していると教えたのですが、次の日あの話し感動しましたと言われて面食らいました。
そんな理系の子がまだまだいます。