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最近のわたしのブログ「マッキーの随想:遺影が花一杯に飾られる前に」に、koderaさんからコメントを頂きました。このコメントを読んで、考えたことを今日は綴ります。
「私に管理人様の言っている物理的な花は要りません。あってほしいのは人生の花です。抽象的な花です。人はそれぞれの異なる花を求めて成長し、旅立つのだと私は考えています。花は、私は要りません。人は一人一人の個性の花の種か蕾があり、咲かせてあげるのが大人であり、親であり、先生なのでしょう。咲くまでその花がどんな姿になるか分かりません。泥田に蓮の花が咲くように。」・・・コメントの一部抜粋
koderaさんのコメントを拝見して、失礼ですがSMAP「世界に一つだけの花」を連想してしまいました。この歌のように、人生やその人の個性や多様性を花に例えることがあります。また、人生の目的なり目標を花に例えたり、人生の目標を達成したことを開花に例えることもあるでしょう。花あるいは開花は、人生を肯定的に見た時に使う比喩の語彙となっています。
かつて、私のブログで取り上げた、童謡「おはながわらった」のわらうは、花が開く意味で使われています。この童謡を例に、笑と咲の漢字について説明しました。無論のこと、この歌を幼児は、花が笑いかけるという擬人法の意味合いで歌っているはずですが。
笑という字の本字は咲で、咲と笑はもともと同じ字でした。「笑」が竹かんむりが付いているように、植物の花がさく意味で使われ、また「咲」は口へんが付いているように、本来は人がほほとわらう意味で使われました。
このように、花や開花が、人生と密接な関係で語られてきました。それは、多くの人の実生活上で、花や開花に対する共通した認識があることを前提としています。さまざまな花が、その美しさで人々を魅了してきたのです。そのことが、人生に対する比喩的表現に、花を用いる所以だと思われます。また、現在見かける花の多くが、その美しさに魅せられた人々の多大な努力と追求心で、品種改良された園芸品種なのです。
ところで、こうした花に対する印象は、植物の巧妙なる策略だと、私は以前から考えています。
生物が雌雄による繁殖を選択したのは、とても古いことです。そして植物が地上に進出した時は、胞子植物だったことでしょう。その後に種子植物に進化し、風を利用して花粉を運んでもらう風媒花が誕生しました。地上に動物が進出し、昆虫も空を飛ぶようになると、植物はその昆虫に花粉を運んでもらうことを考えました。虫媒花の誕生です。
昆虫を惹きつけるために、目立たない風媒花から大きく飛躍して、色とりどりの目立つ花を咲かせ、匂いや蜜で虫を惹きつけるシステムを、植物は開発しました。こうした変革は、植物の思惑通り、花とその開花に動物を惹きつけることに成功しました。私たちが花を美しく感じ魅せられるのは、後天的な体験で得られたものではなく、太古の昔から営々と引き継がれてきた、DNAに組み込まれた本能だったのです。
だからこそ、充実した人生、自己目的を達成した人生、他人が羨む成功した人生に対して、人を惹きつける花の属性を、比喩として使ってきたのだと思われます。ですから花を比喩として使った、koderaさんが語る人生の目標・目的や生き方は、私を含め同感する方は多いと思われます。
ただし、四季折々に咲く花々を、koderaさんは不要と述べていますが、私は大切なものの一つと思っています。先ほど述べた動物の本能に従えば、花は人々が魅了される対象となっています。もしも、この世に魅惑的な花が存在しなければ、なんと味気ない世界となったことでしょう。けれども一歩譲れば、動物の本能を超越した知能・理性・信仰で判断すると、「日常生活に花は不要」という認識も、成立するかもしれません。
このブログでも繰り返し取り上げてきた西行の一首に、「願わくば花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」という和歌があります。この歌の花は桜で、西行は満開の桜の下で死ぬことを願ったわけです。驚くべきは、西行は如月の望月・2月15日に亡くなっています。新暦に直せば3月下旬の、桜が満開の望月の日だったのです。このように、花そのものを私たちは愛で、それぞれの人生の中で、花は重要な役割を果たして来たのだと考えています。
母の日にカーネーションを贈り、恋人にバラの花束を贈って気持ちを表現し、真っ赤なバラの花飾りを付けて踊るフラメンコのダンサーに情熱を感じ・・・、明らかに花は私たちの心を揺り動かします。
西行法師を持ち出すまでもなく、私にとって、人生と四季折々の花は、糾える縄の如く切っても切れない関係に思えてなりません。koderaさんのコメントは、私にさまざまなことを考える契機となりました。ブログのコメントは、「よいしょ」的な内容よりも、自分と違った見方の方が考えを深めることに役立ちます。
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まず桜ですが私は見ると涙が出てきます。不思議かもしれませんが、不思議ではありません。私にとっての桜とは、春のうららの隅田川ではなく、特攻隊の若い隊員の笑顔やそれを見送った上官たちの笑顔です。もちろん、涙付でしょう。心は泣いていたはずです。母を慕っていたはずです。勇猛なあの歌も、旗の波ではなく、母の顔が元歌だったのです。
桜花と言われた特攻兵器を知っていますか。こんなもの人の乗り物ではありません。それに乗せたのです。骸骨が試験飛行をしたのです。幽霊ではありません。骨になるまで操縦していた熟達の飛行兵がいたのでしょう。菊花も同じようなものです。だから綺麗な花の名前がついていました。
私は綺麗な菊の花を見ると菊花を思い出してしまいます。その図面を持ち帰ろうとしてたくさんの潜水艦が浮上できなかったのでしょう。どうやって若い潜水艦の人が達観できたか、不思議でした。私は小学生の時死ぬのが怖かった。何度も水爆が爆発した夢を見ました。
花は一代限りで咲きますが、年年歳歳後に続く。国破れて山河有、城春にして草木深し。でも人は個人です。死んだら終わりなのです。後に続くを信じると言うのは私の営業文句です。
死んだら人間は終わりなのです。個人の個性を最優先に考える私には花の名前も嫌いです。花を愛でる人も疑ってみてしまうのです。仕方ないです。
大東京火災の話は見たわけではないですが、毎日のように聞かされていました。広島の幽霊の行進や影は写真にもあったはず、見たはずです。
私は後1週間終戦が遅かったら生まれなかった人間です。生まれたのは本当に親たちの幸運が重なっただけです。その親から理論家を信じるな、お上をあてにするなと学んだのでしょう。
花で好きなのは立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花だけです。女性の例えだからです。戦とは無関係な世界でしょう。でも、今は男女同権で女性も男性と一緒に働いて戦になれば戦う時代なのでしょう。
桜を愛でる心も菊の花を愛でる心も日本人ですから分かります。でも、私は被災地の写真を見て育った世界の男なのです。それを見て思い出すのは生き地獄。日本中にあったのです。生き地獄は見たくない、でも見るときはあきらめます。清くおさらばして見せましょう。
嫌いなのは仕向けた理論家の空理空論なのです。先頭に立つ馬鹿はまだ可愛いのです。でも大塩平八郎には考えられないような馬鹿な私です。一人陽明学で良いのです。
繰り返します。花は嫌いです。涙が出てきます。建前でも一生言い続けます。すみません。
何回か読み返しました。
「繰り返します。花は嫌いです。涙が出てきます。建前でも一生言い続けます。」
koderaさんの想いの一端が、分かったような気がします。
どうぞ、これからも辛口のコメントを!
植物には思っている以上に大きな力があるのだと思います。
人間に想像力をもたせるとか考える力を補強するとか。
上に書かれたkoderaさんのコメントがそれをよく表しているように思うのですがいかがでしょうか。
なにぶん、今の私は植物の支援のおかげであれこれの記事を書いている気がしておりますので、植物の弁護をしたいと思います。
植物は明らかに戦争反対の立場であると思います。