ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

皇位の象徴の三種の神器

2019年04月26日 | 清少納言
三種の神器とは皇位の象徴とされる

「玉」、「鏡」、「剣」のことです。

これらは
「ヤサカニノ勾玉(八尺瓊勾玉/まがたま)」、
「ヤタノ鏡(八咫鏡)」、
「クサナギの太刀(剣/つるぎ)」と言われています。

この三種の神器はほんとに皇室とわが国にとって大切なものですね。


後鳥羽天皇陛下第八十二代

2019年04月26日 | 後鳥羽天皇陛下
第八十二代である
後鳥羽天皇陛下が即位したのは、
幼少わずか3歳のときでした。

平安末期から鎌倉初期である。

当時は平家が安徳天皇陛下と
三種の神器
を西国へ持ち去っており、
後白河法皇と公家の間では、力ずくで天皇と神器を取り戻すか、それとも平和的に交渉するかで意見が割れていた頃です。

その中で、「安徳天皇陛下に代わる新しい天皇を即位させてはどうか」
という案が出ました。
となると神器なしの即位となるため、さすがの後白河法皇も慎重になります。

占いをしてみたり、
公家・学者への下問を重ねて検討した結果、「神器なき即位」が
朝廷で公認され、後鳥羽天皇は即位します。

しかし、その後もこの”神器なき即位”は、後鳥羽天皇自身と
公家たちの間で精神的に尾を引くことになりました。

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣などの名前あり)だけは
何度捜索しても見つかりませんでした。

後に、後鳥羽天皇陛下の息子である
順徳天皇陛下が承元四年(1210年)に践祚したときは、
かつて平家が三種の神器を持ち出す前に、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を代わりにしています。
現在もこの剣が熱田神宮に収められているといわれていますね。

その2年後にも剣の探索をさせているあたり、
後鳥羽天皇陛下は諦めきれなかったようです。

また、天叢雲剣は「天皇の武力の象徴」とされているものです。

正式な武力の象徴を持たなかった
後鳥羽天皇陛下が楠木正成や新田義貞のがんばりがありましたが、後々武家のまとまりである鎌倉幕府に政権をとられたのはこのせいもありますね。

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神武天皇陛下と聖武天皇陛下の素晴らしさ

2019年04月21日 | 神武天皇陛下と聖武天皇陛下
初代の神武天皇陛下(神武帝)は東征により国内を荒らし回っていた
外来・私利私欲に走る勢力を帰順させ
利便の良い高地に住まず、自らあの沼地橿原に住み
土地改良にも携われて常に民に奉仕され、聖人と称された方でした。

聖武天皇陛下(聖武帝)も国内の外地であった当地にも良く忍んで参られ
街道を行く人たちや民との交流から見聞を広められていたといいます。

決して自らのためでなく、
大和国内や国民のために
政治をおこなっていました。

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皇紀2679年(わが国建国2679年)


勇敢なる神功皇后陛下凄い

2019年04月21日 | 神功皇后陛下
勇敢なる女帝である。

第14代仲哀天皇陛下の后である。

第15代応神天皇陛下の母親。

朝鮮半島の制圧を神より命じられたのにも関わらず亡くなった死んだ夫の
仲哀天皇陛下
に変わり、
妊娠したままで朝鮮へ出兵した。
その後出産したことから、
聖母であり武芸の神として祀られる。


応神天皇陛下が八幡様と同一視されることから全国の八幡神社で、一緒に祀られていることが多い。

また朝鮮への出兵の際に関わった
住吉三神、
宗像三女神
と一緒に祀られることも多い。

神功皇后陛下の凄さは伝えていきましょう。

皇紀2679年(我が国建国2679年)

われら祖国の国学まとめ

2019年04月20日 | 国学
われら祖国の国学まとめ

江戸時代中期(18世紀中頃)、
儒教や仏教を退けて
われら日本固有の精神を深く研究しようとする国学が生まれました。
わかりやすくは「本来の日本を取り戻そう」という研究です。

われら日本に固有のものとして
神道があります。
一方、仏教や儒教はもともと日本になかったものです。

国学者の多くは
この仏教と儒教を排除しようと試み、代表的な国学者である
本居宣長も仏教と儒教を厳しく批判しました。
神道と仏教・儒教の対立を理解することが大切です。

国学者

人物業績・思想著作契沖

(けいちゅう)万葉集の研究万葉代匠記
(まんようだいしょうき)


荷田春満
(かだのあずままろ)万葉集の研究---


賀茂真淵
(かものまぶち)万葉集の研究
ますらおぶり
高く直き心万葉考


本居宣長
(もとおりのりなが)
古事記と源氏物語の研究
たをやめぶり
惟神の道
漢意と真心古事記伝
源氏物語玉の小櫛


平田篤胤
(ひらたあつたね)復古神道---

この五人はこの順番に時代が下っており、この順番に思想を引き継いでいます。

国学者の端である契沖と次の荷田春満は万葉集の研究にとどまりましたが、

賀茂真淵と本居宣長は万葉集と古事記の研究を通して外来の仏教と儒教を排除し、
最後の平田篤胤は仏教と儒教を徹底的に排除しました。

平田篤胤の思想である
復古神道は幕末の尊王攘夷と新時代の大きな原動力に
つながっていきました。



賀茂真淵と本居宣長


賀茂真淵は万葉集の研究した結果を『万葉考』に残し、男性的でおおらかな様(ますらおぶり)を良しとしました。



一方、本居宣長は古事記と源氏物語を研究し、その結果を『古事記伝』と『源氏物語玉の小櫛』に残しました。本居宣長は女性的で優雅な様(たをやめぶり)を良しとしました。

人物思想賀茂真淵ますらおぶり本居宣長たをやめぶり



万葉集と源氏物語の中身を見てみます。

万葉集(作:舒明天皇)
大和には 郡山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立つ立つ 海原は ?立つ立つ
うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は

源氏物語(桐壷)
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

舒明天皇陛下の詩は男性的に感じられますが、源氏物語の文は女性的に
感じられます。
賀茂真淵は男性的な様を、本居宣長は女性的な様を好みました。

国学に貢献者した五人は
素晴らしい先人大功労者です。