ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

大功労者本居宣長先生の続きのつづき

2019年06月17日 | 本居宣長先生
本居宣長先生の名言

「人の情の感ずること、恋にまさるはなし。」

『源氏物語玉の小櫛』に載っている
一節です。人が心に感じることで、恋心より強いものはないと述べています。恋というのは、自分でも想像できないほどの行動をさせてしまう原動力になりえます。

壮大な恋物語である『源氏物語』を研究していた宣長先生らしい言葉です。

「かぎりを行うのが人の道にして、そのことの成ると成らざるとは人の力におよばざるところぞ。」

人は自らのやるべきことに全力を尽くすべきで、それが成功するかしないかは、我々の及ばぬところである、という意味です。

宣長先生は『古事記伝』を35年という長い歳月をかけて完成させました。この執筆作業がうまくいくのかいかないのか、結果がどうなるのか考えるよりも、目の前のやるべきことに自身の生涯を捧げた彼は、まさにこの言葉を体現した人物ではないでしょうか。

「世のなかのよきもあしきもことごとに、神の心のしわざにぞある。」

ここでいう「神」というのは、我々が一般的に思い浮かべる神様というよりは、人を含めた犬や鳥などの動物、草木、さらには海や山などの八百万を指します。

良い神もいれば悪い神もいるし、
強い神もいれば弱い神もいて、ひとりの人間である我々がその考えを
知ることなどできません。
世の中には良いことも悪いことも
さまざま起きますが、その理由を知ることもできないのです。

大功労者本居宣長先生続き

2019年06月17日 | 本居宣長先生
本業は内科医と小児科医だった

宣長先生は28歳の時に郷里の松坂で
医師として開業して以来、71歳で亡くなるまで、内科と小児科が専門の町医者として働き続けました。
有名になり、門弟が増えれば収入も多くなりましたが、その分支出も増えたため、医師として働き続けなければなりませんでした。


ろ 詠んだ和歌は一万首以上

かつて松坂の町では、夕暮れの薄暗くなる時刻のことを「宣長先生の歌詠み時」と呼んでいました。
それほど彼の歌好きは有名で、生涯に詠んだ和歌の数はなんと一万首を数えます。研究ばかりでなく、
自ら創作をおこなう文化人でした。

は 二次創作まで手がけるほど『源氏物語』が好きだった

彼の『源氏物語』への思いは、単に研究対象というだけではなかった。
「紫文要領」という源氏物語に
関する重要な論文を完成させたの
と同じ年に、
光源氏と六条御息所との馴れ初めを描いた二次創作まで執筆しているのです。
このとき宣長は34歳。
前年に11歳年下の奥さんを迎えたばかりでした。

に 独自のの衣装を着こなすおしゃれ

さまざまなことにこだわりがあった宣長は、衣服でも独自性を発揮しています。

通常、医師の正装は十徳とよばれる衣服ですが、宣長は講義や歌会で
独特の居士衣を着用したと記録にあります。
これは後年、宣長の書斎の名前から
「鈴屋衣」と呼ばれるようになり、
現存している肖像画でも
彼はこの「鈴屋衣」を着用しています。

ほ 賀茂真淵先生が師匠だった

本居宣長大功労者の師は
江戸の国学者で国学四大人のひとりにも数えられる
賀茂真淵先生です。
師弟と言っても対面したのは1度きりですが、そのほとんどは書簡による
深い交流でした。

『古事記』の研究にあたるにはまず
その時代の言葉を知らなければならず、それには『万葉集』を知るのが良いというのが、賀茂真淵先生の教えでした。
そこで宣長は、書簡で真淵から主に『万葉集』についての教えを受けます。

また、宣長先生の随筆集『玉勝間』には、「良い考えが出来たら、師の説と違っていてもはばかる必要はないと教えられた。そこがわが師の優れた点のひとつである」という意味のことも書かれています。

へ お土産は鈴が多かった

宣長先生は鈴の収集家としても有名でした。自分の書斎に鈴屋という名前をつけるほど鈴が好きだった彼のために、多くの門人や知人が鈴を贈っています。

石見浜田藩主の松平康定から贈られたものは有名です。
国学を好んでいた康定は、伊勢参宮の際に松坂に立ち寄り、宣長から『源氏物語』の講義を受けました。

その手土産として贈られたのが駅鈴で、隠岐の島に伝わる鈴をもとにしてわざわざ鋳造させたものでした。

我が国の大功労者本居宣長先生の要点

2019年06月17日 | 本居宣長先生
本居宣長大功労者

江戸時代に「国学の四大人(しうし)」



本居宣長
『源氏物語』を研究
『古事記伝』を執筆した大功労者

本居宣長(もとおりのりなが)大功労者

1730年、伊勢国松坂(現在の三重県松坂市)の木綿商・小津家の次男として生まれました。
小津家は江戸に出店を持つ裕福な家でしたが、宣長は商売に関心がなく、
母親のすすめで医師になるため京都に遊学します。

祖先の姓をとり、小津から本居に改名した宣長は、医書を読むために漢学を
学び、荻生徂徠や契沖などの学問に
触れたことから、古典研究に強い関心を抱くようになりました。

28歳で松坂に帰郷した宣長先生は、
地域の知識人を相手に
古典の講義を始めます。
その後は医業のかたわらで、
『源氏物語』や『古事記』を研究し、
松坂の地で数多くの著作を発表することになります。

門人の数も多く、「授業門人姓名録」という記録には、およそ500人におよぶ。
その階層も町人、農民、武士と幅広く、地域も北は青森から南は熊本までと
国内全国に及んでいました。

宣長先生の学問は大きく分けて
三つです。

1つは、『源氏物語』をはじめとする日本文学の研究です。
その要点仏教の教えや儒教の道徳を説くのが文学の目的ではなく、
「もののあはれを知る」、
つまりものごとの繊細な機微を
感じさせることこそが文学であるという主張です。

2つ目に、先生は日本語そのものの研究でも高く評価されています。
「てにをは」の係り結びの法則を発見し、
さらに古代日本語の音韻を分析した成果は、宣長自身の研究に寄与しただけでなく、西洋の比較言語学が
知られるようになってから再発見され、現代の研究にも影響を与えています。

そして3つ目に、本居宣長先生の名をもっとも高め人生をかけてともなったのが
『古事記』の研究と
『古事記伝』の執筆でした。
『古事記伝』は古事記に訓読を施して注釈をつけた研究書で、44巻を35年の歳月をかけて完成させています。

ただ、宣長先生存命中の出版は17巻までで、全巻の発行は没後21年経った1822年まで待たなければなりませんでした。