ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

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神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した

2019年07月05日 | 北畠親房公
神皇正統紀の北畠親房公は武家政権も良いところは認めたうえで天皇親政政治を主張した。

 14世紀南北朝時代の南朝の中心的存在であった公卿・北畠親房公
です。
『神皇正統紀』の著者で有名ですね。
親房公はきちんとした公正な批評眼を持っていました。

『神皇正統紀』は南朝方の正統性を説くべく著された歴史書であり、
しかも、後醍醐天皇陛下の後継である幼帝・後村上天皇陛下のために書かれたもです。

そうならば南朝の正統性、歴代の天皇陛下の御代のすばらしさ一色となり、
武家政権の弱点をつくものとなってもよいはずです。

 しかし、親房はまず、武家政治、武家方の良さをきちんと認めました。
とりわけ後醍醐天皇陛下が倒した鎌倉幕府の第三代執権、北条泰時を公正に評価しています。
泰時が朝廷の意思を尊重することを忘れず、また御成敗式目制定により、法による安定した治世を行ったことを
認めているのです。
そして、北条政権は泰時の「余徳」があってこそ、七代にもわたる徳宗家を維持できたと認めている。

 南朝が倒した武家政権の優れた点を
明確に評価した上で、
北畠親房公は南朝の中心人物でありながら、
天皇陛下方を冷静な目で観察することも怠りませんでした。
それは、後鳥羽上皇が泰時の父・北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱(1221年)に疑問を呈しています。
親房公は、
「頼朝以降の鎌倉幕府には取り立てて失点もなく、人民の暮らしも安定していた。天皇陛下・朝廷方は鎌倉幕府以上の徳政をしくための用意が必要だった」と述べているのです。

 さらに、後醍醐天皇陛下による建武の新政が、わずか二年半で挫折した要因も客観的に分析しています。
新政に貢献した人々も含め、恩賞や人事に関する不公平や不公正を顧みなかった、
そのような天皇政治に対する不満が要因である。
親房は『神皇正統紀』に記しました。つまり、南朝側の不手際の記録さえ書き残し、後の世の教訓としたのです。

 対立者の優れた点は公正に評価し、自身が身を置く側に対しても改めるべきところは、冷静に観察、分析した上ではっきりと指摘していた。

神皇正統紀の北畠親房公は
国民のために考えていた
素晴らしい愛国功労者だったのだ。