ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

われら日本には千二百年前の天皇陛下から庶民の歌集の万葉集があるのは素晴らしいですね。

2019年04月19日 | 万葉集
『万葉集』はいま再び脚光を浴びていますね。

今から約1200年前につくられた日本最古の和歌集です。
『万葉集』には、
天皇陛下から一般庶民にいたるまで
様々な階級の人々の歌が4536首が
集められており、
祖先の日本人の心の原点を
垣間見ることができる、

とても貴重な書物です。


『万葉集』は、いつ頃誰によって編集されたのでしょうか?

実は、正確にはわかっていません。

『万葉集』には、書物の
本文の最初に添える文章である序文や、書物の本文の後ろに添える文章である跋文がなく、
また同時代に書かれた他の書物にも『万葉集』について書かれたものがないからです。

しかし、『万葉集』の作歌の中には、誰がいつ読んだのかはっきりと明記されているものも存在するので、いつ頃成立したかが概ねわかります。

最も最新の作歌年月が明記されている歌は、759年1月1日の大伴家持(おおとものやかもち)の作です。
したがって、『万葉集』が759年以降に成立したことは間違いありません。

誰が編集したのか

橘諸兄(たちばなのもろえ)とする説、大伴家持とする説、
橘諸兄と大伴家持二人で
編纂したとする説があります。
しかし、『万葉集』は実に多くの様々な階級の人々の歌が編集されているので、それを一人の手で編集したとは、考えにくいのです。

様々な人の手を借りて、
古代の人々の心を詠んだ歌集は作られたと想定されますが、
巻第十七から巻第二十までは、
大伴家持の歌日記のように編纂されており、巻第十六までにも大伴家持の父・旅人(たびと)や
大伴家持の関係者の歌が多いので、
最後に編集したのは
大伴家持だとする説が現代では有力です。

世界でも王様から庶民の歌集はないです。
われら日本には千二百年前の
天皇陛下から庶民の歌集の万葉集があるのは
素晴らしいですね。

紀貫之(きのつらゆき)我が国の文学に大貢献

2019年04月19日 | 紀貫之公
紀貫之(きのつらゆき) 868年~945年

9世紀後半。

紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。
そのころのわれら日本は独自の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。

歌人としての才能を発揮し、宮中で知れ渡るようになります。

20代のころから宮中の歌合せ会に参加。

藤原氏に指名されて歌を詠んだこともありました。

貫之は歌人としては華やかな存在

『古今和歌集』を編集する

905年(延喜5年)

醍醐天皇陛下の命により「万葉集」以後の歌が集められて、和歌集が作られることになりました。

初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、
編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。

紀貫之は醍醐天皇から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。

約1100首をおさめたこの和歌集は『古今和歌集』と名付けられ、
天皇陛下の命令で作られた最初の和歌集として有名です。

『古今和歌集』には素朴で詠んだ人も分からない歌から、紀貫之のような貴族のこまやかな感情を詠んだ歌まで載せられました。

紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。

やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける

という言葉で書き始められています。

「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。



和歌集20巻を完成させます。

そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。

「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。

『土佐日記』を記す

貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。

『古今和歌集』を作ったあとも、紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。

土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。

都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。

これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したものである。

われら日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文である。
その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立しました。

 貫之の最大の功績は漢詩文、
『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。

『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。
和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。
ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。

この歌の歌意は、
「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。

紀貫之の歌の中ではとくに
有名な一首だ。

伝統的な和歌や
勅撰和歌集で子孫に残した
ひらがなカナカナ仮名の文学
随筆の向上

文学で我が国大貢献の
紀貫之公ありがとうございます。


清少納言の枕草子 四季の移ろい 平安文化華開く

2019年04月15日 | 清少納言

「春はあけぼの」春夏秋冬が始まる…。“枕草子” 清少納言に見る四季の移ろい


「春はあけぼの」。春はやっぱり明け方が最高 !!

「夏は夜」。電気のない真っ暗な闇を照らす月明かり。蛍や雨もまた “をかし”。

「秋は夕暮れ」。真っ赤な空に渡り鳥。日が落ちてから聞こえる虫の声も良い


「冬はつとめて」。キーンと冷えた冬の早朝。でも、炭火の灰が白くなると良くない

国民がおもっていることを千四百年前に表現素晴らしい
我が国の平安文化

功労者本居宣長公国学の父は我が国に大貢献

2019年04月13日 | 本居宣長公
功労者本居宣長公国学の父は我が国にとって業績を三つも残しました。


素晴らしい三つの業績を紹介。

『古事記』研究
『古事記』の研究が有名です。
30代から60代まで、
およそ35年の歳月をかけて大著『古事記伝』も完成させています。
三十五年です。
人生そのものですね。

内容は『古事記』の詳細な注釈です。

この著作の重要な点は、
内容も素晴らしい。
その手法にも素晴らしい。
歴史の研究というのは、史料を重要な基点として行います。
史料を徹底的に読み解くことで、歴史を解き明かしてゆくわけです。
緻密を徹底的におこなったわけです。

『源氏物語』研究
日本古典研究に尽力した宣長は『源氏物語』の研究も行いました。

『源氏物語』研究において宣長は「もののあわれ」という文学における考えを提示します。

『源氏物語』は日本的な心情である「もののあわれ」を表現した作品であり、
文学そのものが「もののあわれ」を表現するという大きな役割を持っていると唱えたのです。
「もののあわれ」という考えは極めて斬新なものでした。
文学の機能や役割というものを一つの言葉ではっきりと打ち出すという考え方自体が新しかったのです。

日本語研究

読解という面で『古事記』の研究とも重なる部分もありますが
日本語の研究においても宣長は大きな業績を残しました。
日本語という言語を体系的に研究したほとんど最初の人物
--品詞の研究、古代の仮名の
研究などを通して日本語のさまざまな法則を明らかにし、日本語を分類しました。その品質は大変に高く、現在の日本語研究にさえ直接的な影響を与えているほどです。

先駆者本居宣長公は国語に我が国に大貢献の素晴らしい方です。

後醍醐天皇陛下南朝のおもいが明治維新で花開く

2019年04月13日 | 後醍醐天皇陛下
後醍醐天皇陛下

「建武の新政」という天皇陛下中心の政治の復権を目指した96代天皇陛下ですね。

1331年、なんとかして天皇中心の政治を取りもどしたかった後醍醐天皇。

鎌倉幕府を倒したが、足利にやられた。

忠臣とよばれる
志の公家貴族や武将がすごい。

楠木正成公

新田義貞公

北畠顕家

北畠親房
神皇正統記
(じんのうしょうとうき)

敗れて南朝になる後醍醐天皇陛下の正当性
天照大御神の素晴らしさをあらためて大事にした
考えをあらわした。

そして水戸黄門の徳川光圀公が大日本史を編纂

そして幕末の有志が

王政復古の明治維新になった

やはり南朝も正当なのはたしかなのだ。

皇紀2679年