ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

継体天皇陛下の大抜擢でわが大和を救う

2019年04月05日 | 継体天皇陛下
継体天皇陛下の大抜擢でわが大和を救う

「継体天皇陛下の大抜擢」です。
天皇家の血筋は、25代武烈天皇陛下
と26代継体天皇陛下で
大きく変わりました。
武烈天皇が跡取りの無いまま亡くなったため、さかのぼって15代応神天皇の五世の孫である継体天皇が即位しました。

わかりやすくいえば
徳川幕府の八代目吉宗公が本流ではないところから抜擢されて将軍についたのと似ていますね。

臣下の大伴金村(おおとものかなむら)は役人たちを前に言います。

「まさに今、皇統が途絶えてしまった。天下万民はどこに心をつなげばよいのか。災いのもとはここから起こる。今、仲哀天皇の五世の孫であらせられる倭彦王(やまとひこのおおきみ)が、丹波国(たにはのくに)にまします。試みに軍勢を整え、車を護衛して、行って迎え奉り、君子としてお迎えしようではないか」

こうして仲哀天皇陛下の五世の御孫・倭彦王をお迎えに上がりましたが、
倭彦王は受けてくれませんでした。

翌年の正月、大伴金村連は、ふたたび百官を前に提案します。

「応神天皇陛下の五世の孫・男大迹王(おおどのおおきみ)は人柄もよく慈悲深く、帝位を継ぐにふさわしいお方である。なんとかしてお迎えしたい」

物部麁鹿火(もののべのあらかい)・許勢男人(こせのおひと)らも同意しました。

「皇孫の中で選ぶとしたら、男大迹王(おおどのおおきみ)ただ一人です」

正月6日、役人を遣わして、御旗をかざして御車を用意して、越の国にお迎えに行きました。その時、男大迹王が落ち着き払って床机にすわり、役人たちを整然と従えるさまは、すでに帝王の威厳がありました。

「ああ…やはり、この人しかいない」

御旗をもっていた使いの者たちはかしこまり、つくづく心打たれ、忠誠を尽くそうと願うのでした。しかし男大迹王は、なお疑いのお気持ちもありました。

「私に天皇陛下になれ…いかにも急な話だ。反対もたくさんいるはずだ。全員の賛成が欲しい。」

そのまま、数日が経過します。河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)という者が使者を遣わして、皆が男大迹王をお迎えしようとしている真意を切々と説きます。

「武烈天皇陛下の崩御により、皇統が断絶し、天下の危機です。皇孫の中に君子としてお迎えするとなると、その人柄のすぐれていることは、あなた以外にありません。どうか天下のために、立ち上がってください」

「うむむ…」

二日三夜の後、ついに男大迹王は出発することにしました。

「馬飼首(うまかいのおびと)よ、よく使者を送ってくれた。あのまま断っていたら、天下の笑いものにされるところであった」

それで即位された後も、馬飼首を厚く用いました。こうして新しい帝王をお迎えします。26代継体天皇です。御年58歳。武烈天皇の姉(または妹)・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とします。

即位

507年正月24日、河内の樟葉宮(くずはのみや)に、継体天皇陛下が到着なさいました。

「ようこそはるばるいらっしゃいました」
「どうか君主として、我らを治めてください」
「うむ…」

2月4日、大伴金村連はひざまづいて、皇位継承の証である剣と鏡を捧げ持って差し上げようとします。そこで改めて事の重さに討たれた天皇は、躊躇なさいました。

「民を子として国を治めることは、重いことである。私には才能が足りない。どうか、考えなおして、賢い人を選んでくれ。私はふさわしくない」

「そんな、わが君、なにとぞ、なにとぞ。あなた以外にありません」

大伴金村連は地面に頭をこすりつけて、願い申し上げます。

「どうか、どうか」

天皇陛下は南に向かって二度、西に向かって三度、ご辞退されました。しかし、大臣・連らは皆、

「どうかお願いします。天下の大事を、我々は軽い気持ちで言ってるのではございません。どうか、なにとぞ、帝位におつきください」

「ううむ…皆がそこまで言うなら…。もはや断ることはできぬ」

「おお」「では!」

継体天皇陛下は帝位継承の証たる剣と鏡をお受けになり、その日のうちに帝位につかれました。

こうして河内で即位した継体天皇陛下でしたが、なかなか倭に入ることはできず、山代の筒木、弟国と転々して大和の余磐宮(いわれのみや)に入りました。

継体天皇陛下は国政をまとめて
外交も乗り切り
しっかりと継承しました。

われら大和を救いました。

我が国英雄の日本武尊皇子の功績の後半

2019年04月05日 | ヤマトタケルさま
ヤマトタケル皇子はクマソタケル、イズモタケルを征伐して
天皇陛下のもとに戻ってきました。

「きっと父上もお喜びくださる。
お褒めの言葉をいただけるに違いない」

しかし、父である天皇陛下から
返ってきたのは予想もしなかった言葉でした。

「東の方にある十二の国々と
服従しない者どもを屈服させ平定してこい」

ヤマトタケルは、天皇陛下の命令を受けて、やむなくヤマトの国を出発しましたが、まず伊勢神宮を参拝(さんぱい)するために、立ち寄られました。そこで、その神殿にお仕えになっている叔母さんであるヤマトヒメに、こう訴えられたのです。

「父の天皇陛下は、わたしが一刻も早く死んでしまった方がよいと思われているのでしょうか。なぜなのでしょうか。わたしは、西の国の悪い者たちをすべてやっつけて、ヤマトヘ帰ったばかりというのに、すぐに父は、兵も与えてくれずに、さらに東の十二の国の悪人たちを征伐して来いとおっしゃった。これはどう考えても、わたしのことを早く死んでしまえと思われているからにちがいありません。」

 このように、悲しみながらすすり泣くヤマトタケルの姿を見たヤマトヒメは、どてもかわいそうに思って、
天皇家の宝である叢雲の剣(むらくものつるぎ=スサノオノミコトが、八岐大蛇を退治したときに、その尾から出て来た刀。)と一つの小さな袋を授けて、こうおっしゃいました。

「もし、あなたの身に危ないことがあれば、この袋の口を開けなさい。」

○火攻めの受難 草薙剣の名前の由来

皇子が駿河の国(静岡県東部)まで行かれた時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付けるものがありました。
皇子はこの時、この剣で周りの草を切り払い、火による害を防ぎました。この故事により、
この剣はその後、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになります。なおこの場所もこの故事により焼津と呼ばれるようになりました。

オトタチバナヒメはヤマトタケルの奥さんで船を海神の怒りから救う為に入水したと言われている。

ミヤズヒメとの恋

日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃。

尾張の豪族の娘。日本武尊は東征の帰途、媛を娶(めと)って草薙剣(くさなぎのつるぎ)を預けた。

伊吹山の神 英雄の最期

無事に婚約者のミヤズヒメの元へと帰ったヤマトタケル。約束通り結婚し、次は伊吹山の神を倒しに行きます。これまで負け無しだったので油断したのか、叔母であるヤマトヒメから授けられた草薙の剣をミヤズヒメの元に置いてきてしまいます。

伊吹山に着くと、山の中でヤマトタケルは白い猪を見かけます。白い猪を伊吹山の使いだと思ったヤマトタケルは、神を倒した後で狩ろうと白い猪を侮ります。しかし、その白い猪こそが伊吹山の神で、怒った神は大きな雹をヤマトタケルにぶつけます。これに当たったヤマトタケルは正気を失いますが、なんとかようようと泉の所まで辿りつきます。そしてどうにか山をおりますが、だんだんと身体は悪くなっていきます。しかし身体にムチ打って、愛しい故郷大和へと足を進めました。
しかし、ついに己の死期を悟りました。「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるはし」(大和は国の中で最も秀でている。重なり合う美しい山々(青垣)、その山々に囲まれた倭は美しい)と歌い、亡くなってしまいました。


滋賀の彦根に荒神山という山がある。

大昔、ヤマトタケルが伊吹山へ荒神退治に行って手酷くやられて、それが原因でなくなった。

白鳥となって飛び立った

知らせを聞いた景行天皇陛下は、群臣に命じて能煩野に墓を作りヤマトタケルを埋葬した。
すると、ヤマトタケルは白鳥になり、墓 から出て大和を目指して飛び去る。
群臣が棺を開いて中を確認すると衣服を残して亡骸は消えていたという。

白鳥の行方を追わせたところ、大和の琴弾原ことひきがはらに留まっていたため、そこに墓を造った。
白鳥はさらに飛翔して今度は河内の古市邑に留まったため、再び墓を造った。その後、白鳥は高く飛翔して天に上ったという。

三種の神器(じんぎ)は、
鏡、まが玉、剣(つるぎ)、
つるぎを持っていた
ヤマトタケルのみことの墓だと言われているのが、ここ 熱田神宮近くの白鳥古墳です。

白鳥

日本武尊皇子は八尋白智鳥となって飛んでゆく

我が国英雄のヤマトタケル前半の功績

2019年04月05日 | ヤマトタケルさま
ヤマトタケルはわが国古代の英雄である。
大功労者でスーパースターである。

いまの我が国を築いた
天照大御神や神武天皇陛下や大国主命神様とともに尊敬のお方です。

ヤマトタケルを尊敬している方は皇族、貴族、武将、平民まで古代からいままでたくさんいますね。

尊敬しているし、勇ましいしかっこいいです。

(やまとたける、景行天皇2年 - 43年)は、記紀に登場する皇子である。
ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。

第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父。

征西 クマソタケル兄弟征伐

天皇陛下の命令で、オウスノミコトは、クマソ(=現在の熊本県と鹿児島県の辺りの地域)へ出発することになりました。
その時は、オウスノミコトはまだ15歳のあどけなさが残る色白の美少年でありました。
髪の毛もその当時の子どもがするように額のあたりで結んでおりました。そして、
伊勢神宮に仕えていた叔母のヤマトヒメの着物を借り、
刀を懐に隠して出発しました

熊襲征伐

宴会の日になりました。

オウス命は少女の髪のように櫛で梳き、垂らして結んで叔母からもらった服を着て、少女のようになり、宴会の女性達の中に混じって家に入っていきました。

するとクマソの兄弟はオウス命が化けた少女を見て気に入り、兄弟の間に座らせて、酒盛りしました。

宴もたけなわとなったとき、オウス命は懐より剣を取り出し、クマソの兄の服の衿(エリ)を掴んで、引き寄せて剣を胸に突き刺しました。

クマソの弟は恐ろしくなって逃げ出しました。

すぐにオウス命は追いかけ、その家の階段の下へと追っていき、背中の皮を捕まえ、剣を尻から突き刺した。

○スサノヲは映画「日本誕生」(稲垣浩監督)の中で三船敏郎が演じていましたね。同映画中で三船はヤマトタケルも演じています。女装したヤマトタケルを見て熊襲が「美しい…」とつぶやくシーンは必見です。

ヤマトタケルノミコトを名乗るようになる

クマソ兄は、自分は国で一番強かったのでクマソタケルと呼ばれたが、あなたほど強い人は初めてだという。これからはどうぞヤマトタケルとお名乗り下さいと言った。これを承知したオウスはクマソ兄を切り裂いた。

出雲にてイズモタケル征伐



出雲国にお入りになって、その出雲タケルを殺そうと思って(出雲タケルのもとへ)行って、すぐに友誼を結んだ。(殺そうとする)故に、ひそかにイチイを贋の刀に作って、腰に佩いて、一緒に斐伊河で水浴びをした。

そこで倭建命は、河から先にお上がりになって、出雲タケルが解き置いた横刀を取って帯び、「刀を取り替えよう」とおっしゃった。そのため、後から出雲タケルが河から上がって、倭建命の贋の刀を帯びた。ここで倭建命が、「さあ、刀合わせをしよう」と誘っておっしゃった。そしておのおのその刀を抜いたとき、出雲タケルは贋の刀を抜けなかった。たちまち倭建命は、刀を抜いて出雲タケルを打ち殺した。そして御歌を詠まれて、
  〈八つ目刺す〉 出雲タケルが 佩く刀は
  葛は巻くとも 中身はない 哀れ
とお詠みになった。こうして、このように討伐して、帰還して報告した。