月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

316.大村のキリシタン②破壊→弾圧→折衝(月刊「祭」2020.12月4号)

2020-12-13 18:11:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●キリシタン大名の神社仏閣の破壊
 種子島への鉄砲伝来、ザビエルの来日などを経て、キリスト教が日本に広まりつつありました。大村純忠も永禄六年(1563)に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名となります。
 しかし、大村純忠がヨーロッパ諸国との交流で得たものは、厚い信仰だけではありませんでした。長崎港の開港などを経て、西洋諸国との貿易による経済的な豊かさも同時に手に入れることになります。一方、西洋諸国にとっても日本を他国同様征服する機会を狙っていたと言えるでしょう。
 こちらのサイトによると、宣教師コエリョが大村の民衆を教化し、やがて仏像を破壊するようになったとのことが、ルイスフロイスの「日本史」に書かれているとのことです。また、サイトの管理人さんが言うように、宣教師が止めている様子もないところを見ると、彼らの教唆と考えることもできるし、少なくとも黙認していたことは間違い無いようです。
 貿易と植民地化をきっかけに伝わった信仰の負の側面が垣間見れる出来事です。やがて、下の新約聖書の言葉にあるように「滅びと破壊」の憂き目にあう人が現れますが、皮肉な結果になります。

  富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。 

●秀吉のキリシタン弾圧
 やがて秀吉は、信長以来のキリシタン保護の方針を改め、弾圧の方に舵を切り始めます。その中の最初の殉教者とされるのが、ペトロ・バチウスタ司祭をはじめとする二十六聖人です。
 東彼杵町の案内板によると、見せしめのために堺より陸路を1日8里馬かあるいは徒歩でゆっくりと行幸させ、九州に渡り、大村の東彼杵から長崎に船でわたらせました。


↑26聖人の乗船場のあと
↑26聖人の乗船場のあとの解説板

↑26聖人の乗船場のあとより海を見ると美しい夕日が

 そのあとは処刑となります。植民地化の下心のツケを払ったのは、純粋な信者だつたのは皮肉な話です。
 一方このような処刑を敢行した秀吉も、天下を取ったのも束の間、大阪夏冬の陣を経て子孫は途絶えます。

 ところで秀吉は幼名を日吉丸というそうですが、これは、比叡山延暦寺の麓にある延暦寺の鎮守の社である日吉大社に由来します。その延暦寺創建者である伝教大師最澄は「御遺戒」でこのようなことを述べたと伝わっています。

怨をもって怨に報ぜば 怨止まず

怨をもって怨に封じてしまった秀吉の未来もまた最後は悲しいものになってしまったようです。

●その後のキリシタン
 禁教は江戸幕府にもうけつがれ、やがて、島原の乱など激しい弾圧劇が繰り広げられます。が、やがては、「黙認」するようになったところもあったのではないかということを、こちらの記事に書いています。
 結局は貿易のあれこれなどの利害に反しなければ、日本は宗教的に寛容な土地柄ということなのでしょう。


 


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