月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

249.禁教と信仰の折衝-長崎県大村市日蓮宗本経寺より-(月刊「祭」2019.12月12号)

2019-12-30 15:31:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●日本最初のキリシタン大名大村藩主・大村純忠
 今回も長崎県大村市・旧大村藩のお話です。大村の戦国時代末期の領主大村純忠は、日本最初のキリシタン大名と言われ、領民の多くがキリシタンを信仰していました。しかし、秀吉の天下統一や江戸幕府の発足を経てキリシタン禁教への圧力は厳しくなり、純忠の子で初代大村藩主となった大村喜前(よしあき)は加藤清正の勧めもあり、日蓮宗に改宗しました。その時に建てられたのが、本経寺です(本経寺案内板より)。
 では、いくら禁教政策をひいたとはいえ、そう容易く信仰の灯を消すことができたのでしょうか。そこには、公式の文書には記されにくかった現場ならではの折衝があったと見受けられます。
 そのために、日蓮宗を大村家に勧めた加藤清正が治めた熊本藩の事情を見ていきます。
 

↑本経寺の仁王門

↑朱塗りの、仁王像左側

↑朱塗りの仁王像右側

↑本経寺本堂

●戦国末期より江戸初期の熊本藩の事情
 加藤清正が熊本を治める前は、共に朝鮮半島に出兵した小西行長が熊本の領主として君臨していました。小西行長もクリスチャン大名であったものの、関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、加藤清正に領地を譲ることになります。しかし、熊本もまたクリスチャンの領民が多く清正も頭を悩ませたことでしょう。
 清正自身は熱心な日蓮宗の信者でした。その日蓮宗では妙見信仰もさかんであり、妙見堂に使われたのがなぜか、竹矢筈十字紋と呼ばれる紋です。能勢妙見ももともとはキリシタン信仰の根強い地域で「いやいや法華」とよばれていたようですが、そこでも十字紋が使われています(参考サイト)。
 熊本においても、能勢においても、そして大村においても、信仰の根強いクリスチャンをすぐに改宗させるのは難しかったのだと思われます。そこで日蓮宗に十字紋を用い、形だけ改宗させたのが実情なのではないでしょうか。

●本経寺の十字
 本経寺で妙見堂を見つけることができなかったのですが、大村家の墓所には至るところに十字が見られました。

クルス灯籠
 禁教を厳しく履行した大村純長の七男大村次郎太の墓所ですが、灯篭の窓が十字です。大村純長は郡崩れ事件で、隠れキリシタンのいたことをすぐ幕府に報告し、仏教への改宗とキリシタンの取り締まりを強化して、改易やお取り潰しを逃れています。一方でキリシタンは斬首されるなどの憂き目を見ることになりました。しかしながら、一方的な改宗の強制だけでは、領民が納得しなかったのだと思われます。
 本経寺ではデザインがかわいいからとしていますが、あきらかな十字架です。藩の面目=仏教への、改宗という既成事実、領民の思い=信仰の継続という相反する要望の折衝点が、寺院の中の十字紋だったと言えるのでしょう。このような十字と思われるものは他にも見られました。





柵の十字
 柵には太くてわかりにくいですが、十字がならんでいました。





●笠塔婆も??
 笠塔婆と呼ばれる仏塔もともすれば、十字にみえるかも。。知れません。。。



御霊屋の背後には、、
 御霊屋の背後は、「柱」を模したものですが、十字に見えます。とくに、

↑御霊屋この背後は。。。


↑背後は十字に見える柱。石の板が三枚使われているので、三間にすれば、中心に十字が来ることはありません。あえて二間にして十字を中心に持って来ているようです。

↑こちらも十字が中心に来ています。一間でよさそうなものですが、なぜかニ間とっています。

手水
 上から見るとやはり十字でした。



●大村の禁教
 大村の禁教は熾烈を極めたものでした。しかし、恐怖だけでは領民は納得しなかったのかも知れません。藩を存続させたい大村家、信仰を存続させたい領民。双方の利害の折衝点が日蓮宗寺院の中の十字だったのだと管理人は考えています。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿