宮崎の西南戦争戦跡巡りの最後は、佐土原の「西郷札」を製造した場所です。
西郷札とは西南戦争中の1877年、軍資金が枯渇しつつあった薩軍が戦費を調達するために発行した軍票のことです。
軍票には「南洲翁五十年祭記念 西南役 薩軍札」という文字が印刷されていますので、これが正式名称でしょうか。
政府の承認を得ていない証券だったため、薩軍の敗戦により紙くず同然となり、これを買わされた宮崎の商家たちが困窮したと言われています。
松本清張は1951年の小説処女作「西郷札」でこれを題材にした歴史小説を発表し、直木賞候補作に推薦されています。

現存する西郷札は多くないようですが、延岡の西郷隆盛宿陣跡資料館に3点が展示されていました。

西郷札の製造場所は佐土原の瓢箪島という場所にあったそうです。
松本清張の小説の主人公である樋村雄吾もここ佐土原生まれの士族でした。
僕は実家から近い佐土原は多少土地勘があるつもりですが、瓢箪島とよばれる場所があったでしょうか。思い出せません。
調べてみると、広瀬の石崎川沿いの一角だったようです。
今は河川の改修でなだらかになっていますが、明治時代の古地図を見てみると、かつて石崎川は平橋から石崎橋の間でくねくねと大きく蛇行しています。石崎川に流れ込む支流もここにあり、周りを川の流れで囲まれた「でべそ」のような形をしていました。
そのためこの地は「島」とよばれたのではないでしょうか。
堀で囲まれているようなものですから、軍票を製造するには格好の場所だったわけです。

左側が瓢箪島だった場所です。

石崎川に流れ込む支流です。瓢箪島を囲っています。
西郷札は桐野利秋(中村半次郎)の発案で作られたとされています。
桐野は大河ドラマ「西郷どん」では無鉄砲で忠誠心の強い熱血漢として描かれていましたが、実はそういう戦費調達の知恵を編み出す戦略家としての一面があったのですね。
今は西郷札製造所の痕跡は何も残っていないそうです。
薩軍が意図的に消し去ったのか、何らかの思惑がありそうで、なかなかミステリーです。
県埋蔵物文化センターの駐車場にこのようなプレートがひっそりと掲げられていました。




それにしても、当時の佐土原の人たちは西郷札を作らされ、西郷札を買わされ、しまいには街を焼かれてしまい、相当な苦労を強いられたわけです。
知られざる故郷の近代史を学びました。
西郷札とは西南戦争中の1877年、軍資金が枯渇しつつあった薩軍が戦費を調達するために発行した軍票のことです。
軍票には「南洲翁五十年祭記念 西南役 薩軍札」という文字が印刷されていますので、これが正式名称でしょうか。
政府の承認を得ていない証券だったため、薩軍の敗戦により紙くず同然となり、これを買わされた宮崎の商家たちが困窮したと言われています。
松本清張は1951年の小説処女作「西郷札」でこれを題材にした歴史小説を発表し、直木賞候補作に推薦されています。

現存する西郷札は多くないようですが、延岡の西郷隆盛宿陣跡資料館に3点が展示されていました。

西郷札の製造場所は佐土原の瓢箪島という場所にあったそうです。
松本清張の小説の主人公である樋村雄吾もここ佐土原生まれの士族でした。
僕は実家から近い佐土原は多少土地勘があるつもりですが、瓢箪島とよばれる場所があったでしょうか。思い出せません。
調べてみると、広瀬の石崎川沿いの一角だったようです。
今は河川の改修でなだらかになっていますが、明治時代の古地図を見てみると、かつて石崎川は平橋から石崎橋の間でくねくねと大きく蛇行しています。石崎川に流れ込む支流もここにあり、周りを川の流れで囲まれた「でべそ」のような形をしていました。
そのためこの地は「島」とよばれたのではないでしょうか。
堀で囲まれているようなものですから、軍票を製造するには格好の場所だったわけです。

左側が瓢箪島だった場所です。

石崎川に流れ込む支流です。瓢箪島を囲っています。
西郷札は桐野利秋(中村半次郎)の発案で作られたとされています。
桐野は大河ドラマ「西郷どん」では無鉄砲で忠誠心の強い熱血漢として描かれていましたが、実はそういう戦費調達の知恵を編み出す戦略家としての一面があったのですね。
今は西郷札製造所の痕跡は何も残っていないそうです。
薩軍が意図的に消し去ったのか、何らかの思惑がありそうで、なかなかミステリーです。
県埋蔵物文化センターの駐車場にこのようなプレートがひっそりと掲げられていました。




それにしても、当時の佐土原の人たちは西郷札を作らされ、西郷札を買わされ、しまいには街を焼かれてしまい、相当な苦労を強いられたわけです。
知られざる故郷の近代史を学びました。
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