HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

延岡北川町 西郷隆盛宿陣跡

2022-12-05 | その他
西南戦争・和田越の戦い(1877年8月15日)で政府軍に敗れて退却した薩軍は、4キロほど北の北川町長井の可愛岳ふもとの自軍陣地に戻ります。

現在、俵野とよばれる山村の小さな集落です。
当時、西郷が宿泊した民家は今も残っており、資料館として開放されています。



この民家は児玉熊四郎という人物の邸宅だったそうです。

入場料は無料です。
管理人からチラシを受け取り、説明を受けてから自由に見学します。

後から知ったのですが、説明してくれた管理人は家主だった児玉熊四郎さんのひ孫さんだそうです。知らなかったので事務的な対応をしてしまいましたが、よくご尊顔を拝しておくべきでした。

さて、西郷はここに3日間滞在したそうです。
薩軍に自宅を追い出された児玉熊四郎さんご家族はどんな気持ちだったでしょうか。



奥座敷には人形が置かれていました。
西郷が村田新八、桐野利秋、別府晋介ら側近たちと話し込んでいるようです。



8月16日の夕方、薩軍はここで最後の軍議を開き、西郷は薩軍の解散を宣言します。



そして、西郷は宿陣の裏で陸軍大将の軍服を焼却します。かの有名なシーンです。

ここがその焼却したとされる場所です。



大河ドラマ「西郷どん」でもこのシーンは丁寧に描かれていました。





西郷が妻である糸と長男菊次郎と最後の別れをしたのもこの俵野です。

「飛ぶが如く」では、西郷が従軍を志願する菊次郎に投降を命じるシーンがありましたが、それもこの児玉邸だったのでしょうか。
ちなみに、菊次郎が加療した民家はここから東側に数十メートルの場所だったそうです。間にはJR日豊線の線路が走っていますが、これは後に敷設されたものです。

資料館に入ってみます。
館内には興味深い資料がたくさん展示されていました。



西郷が使っていたという硯。



可愛岳の山中から見つかったという刀。薩軍のものでしょうか。



桐野利秋が置いていったと伝わる刀。



官軍に降参するものは殺さず。政府軍が投降を呼びかけた木札です。



児玉邸の庭先からは可愛岳が眼前にそびえます。

解散宣言の翌日の17日の22時、西郷を含む薩軍の一部はこの山をよじ登って延岡を脱出し、三田井(高千穂)を目指します。

今度は児玉邸の裏側に回ってみます。
裏側は高くなっています。もうここから山が始まっている感じです。



ニニギノミコトの御陵墓とされる宮内庁の陵墓参考地です。



薩軍はここにニニギノミコトの陵墓があることを把握しており、包囲した政府軍も皇族の墳墓には砲撃を仕掛けてくることはできないと考えたそうです。
西郷が敬愛した明治天皇の祖先です。

西隣の民家の庭にはこんな石碑が立っていました。



この後、車で三田井まで走ってみたのですが、延々と山と深い谷が連なる大変なコースでした。

真夏の炎天下に、本当に政府軍の包囲をかいくぐってこんな過酷なルートを徒歩で踏破したとは、にわかに信じがたい思いでした。
薩軍は8月21日に三田井に到着したとありますので、4日あまりを要したことになります。明治のトレイルランです。

僕が定年退職したあとにまだ足腰が丈夫だったら、このルートの一部だけでも歩いてみようと思います。
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