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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

西南戦争 和田越の戦いの跡をあるく

2022-12-02 | その他
今年一時帰国をした際、宮崎県内に残る西南戦争の痕跡を歩いてみました。

9月初めのことです。

西南戦争は様々な媒体からあまたの情報が発表されていますので、ここでは詳しい紹介は省略します。

宮崎が戦地になったのは戦争の終盤戦でしたので、日本国内で最後の戦争が起きた場所といえます。

戦跡も比較的残っているはずですが、僕は故郷であるにもかかわらずどこにも行ったことがありません。子どもの頃は関心がなかったからです。

和田越の戦いは、北に向かって敗走する薩摩軍が政府軍にとどめを刺された最後の激戦です。

この戦いでは、それまで指揮を桐野利秋らに任せていた西郷隆盛が初めて自ら陣頭指揮に立ったとされます。和田越の峠の薩軍本陣跡には記念碑が立っているそうです。そこを目指します。

国道10号線を北上すると、通りに「和田越」という交差点がありました。そこから東側の細い側道に入って峠の坂道を登っていきます。
車一台がギリギリ通行できる道幅です。対向車が来たら交差できないので、来ないことを祈りながら慎重にハンドルを握ります。



石碑らしきものが見えてきました。この辺りが西郷の本陣があった場所のようです。

周囲は茂みに覆われてひっそりとしています。



この石碑を南側に少し下ってみます。



すると視界が開け、眼下に東海地区の田園風景が広がります。





とてもわかりやすい掲示板が設置されています。一目瞭然でありがたいです。

戦いが起きたのは1877年8月15日です。

正面に見える樫山は政府軍が本営を置き、山縣有朋中将が戦況を観望した場所です。

西郷はこの場所に立って政府軍と対峙しました。

このとき、もはや薩軍には銃も弾も食料も満足に残っていませんでした。

司馬遼太郎の「飛ぶが如く」では、西郷は和田越決戦が最後の本格交戦であり、自軍に勝ち目がないことを悟り、自らが敵弾に当たって死ぬことを望んで陣頭指揮に立ったに相違ない、と描いています。

政府軍には西郷従道と大山巌も従軍してこの戦いに参加しています。

後に日露戦争で第一軍司令官として活躍した黒木為楨もこの延岡攻略に参加しています。

右側(西側)に目を向けると、薩軍が陣を張った高畑山や長尾山が広がります。



今は国道10号線のトンネルがありますので簡単に長井方面に通り抜けることができますが、当時は峠越えをするしかありませんでした。すぐ東側は北川です。
ここが天然の要塞のような地形になっていることがよくわかります。

きわめて穏やかな田園風景が広がるこの地で、145年前にわが国の歴史に残る凄惨な軍事衝突が起きたとはとても信じられません。





次は北川町長井の薩軍陣地跡に向かいます。

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