KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

34年ぶりの校歌~東海大相模

2010-08-11 20:02:44 | 高校野球

 甲子園大会5日目、33年ぶりに夏の甲子園の土を踏んだ東海大相模高校の初戦です。相手は茨城県代表の水城高校(初)。好投手・一二三は3点を許したものの、味方の打線の援護にも助けられ、10-5で34年ぶりの夏の甲子園大会勝利となりました。

東海大相模 040 201 102 = 10
水   城 101 100 002 = 5

 次の試合は、10日目(順延がなければ16日)の第1試合。明日、行なわれる土岐商(岐阜)と八頭(鳥取)の勝者との試合になります。お盆休み最後の日。「一度は甲子園に行きたいなぁ」という気持ちもありますが、どうなることやら。

 さて、34年前の第58回大会は、原辰徳選手(東海大→巨人、現・巨人監督)、津末英明選手(東海大→日本ハム→巨人)、村中秀人投手(東海大→プリンスホテル→東海大相模監督→東海大甲府監督)にとって最後の夏でした。東海大相模としても黄金時代最後の夏(翌年も県代表にはなっていますが、相模の「黄金時代」といえば、やっぱり原世代だと思うので)。

 初戦は開会式直後の第1試合。釧路江南(北北海道)に5-0で勝利。しかし、2回戦で小山(栃木)に0-1で敗れています。

 釧路江南  000 000 000 = 0
東海大相模 211 000 01x = 5

小   山 000 000 010 = 1
東海大相模 000 000 000 = 0

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幻の甲子園

2010-08-07 21:42:20 | 高校野球

 私がブログを書くときに参考にしているのが、「朝日新聞」高校野球のサイトです。

http://www2.asahi.com/koshien/

 一般的に、1941(昭和16)年から1945(昭和20)年まで、甲子園大会は「戦争のために中止」とされています。「朝日新聞」のサイトでも、この期間は「戦局悪化し中止」と表記されています。

 ところが、1942(昭和17年)にも甲子園大会が行なわれていたことを、「幻の甲子園」(NHK、7日放送)で知りました。優勝したのは徳島商業。しかし、徳島商業の優勝はもちろん、全国16の代表校の試合記録は、高等学校野球選手権大会の記録には存在しません。

 1915(大正4)年にはじまる全国中等学校野球選手権大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の主催者は朝日新聞社です。「幻の甲子園」大会は、文部省の主催で行なわれました。

 当時の日本は、同盟国・ドイツが、ベルリン・オリンピック(1936年)を「国策」に利用したように、中等学校の体育大会を「国策」として利用しようという狙いがありました。このもとで行なわれたのが「幻の甲子園」大会です。

 すべては「戦争に勝つ」ため。出場した選手たちは「戦士」とよばれ、今では甲子園「名物」の試合開始を告げるサイレンも、この大会では試合開始を告げたのは「進軍ラッパ」でした。

 さらに、「戦士を交代してはならない」「球をよけてはならない」・・・という奇妙なルールも・・・。これは、雑誌「體育日本」に掲載された「国防上より観たる体育」(児玉久蔵・陸軍大佐)という論文で、「戦争に如何に貢献すべきか。不十分と認められるは、野球選手が味方の陣営不利と見るや臆面もなく交代を要求し責任を回避するが如き」(番組のナレーションより)…というところからきているそうです。

 選手が途中交代するのは敢闘精神に欠ける、体調が悪くても交代することは許されない――今では、想像することもできないルールです。軍隊の「精神主義」が学生野球に持ち込まれた瞬間です。

 そういう制約のもとでも、球児たちは白球を追いました。大会屈指の剛速球投手と注目された平安中学の冨樫淳投手もその一人です。初戦は大阪の名門、市岡中学をノーヒット・ノーランに抑えた冨樫投手も、肩の故障で苦戦を余儀なくされてしまいます。「戦士を交代してはならない」というルールのためです。優勝戦まで進んだ冨樫投手ですが、最後は延長戦の末、徳島商業に敗れてしまいます。

 この冨樫投手の好投も、徳島商業の優勝も、球史に残されていないのは前述のとおりです。そして、戦局の悪化にともない、「文部省主催」の体育大会も中止。「幻の甲子園」に出場した多くの選手たちも戦地に赴くことになります。

 どれだけの球児が「もう一度、野球をやりたい」という思いで戦地へ赴いたのか。その夢もかなえられずに、戦死された方も多いことでしょう。番組の最後に、少しだけ心が救われる場面がありました。

 「幻の甲子園」大会で準優勝となった平安中学は、戦後、第38回大会(昭和31年)に全国制覇を果たします。選手たちに胴上げされた若き監督は、「幻の甲子園」大会の剛速球投手、冨樫淳さんでした。

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鶴見工高野球部、最後の夏

2010-08-01 01:40:28 | 高校野球

 「Going Sports&News」(日本テレビ系、31日)を見ました。高校統廃合が行なわれるなか、今年が「最後の夏」となった横浜市立鶴見工業高校野球部に密着取材。

 野球部員は3年生14人だけ。「一日でも長く14人で野球をやりたい」という生徒の言葉が胸にしみます。

 鶴見工業高校は、「鶴工」の名前で親しまれてきた学校。創部65年、1954年には甲子園大会にも出場、私が小・中学生の頃には、夏の大会では毎年のように「シード校」になるなど、神奈川県の高校野球界にあって、忘れることのできない学校のひとつです。

 鶴工ナインは、大会初戦の前日、練習の後に3年間汗と涙を流したグラウンドを入念に整備。最後は14人そろって校歌を斉唱。

 さぁ、いよいよ鶴工「最後の夏」が始まりました。1回表、2死満塁のピンチ。打球が飛んだのは右手人差し指を骨折している遊撃手へ。怪我を感じさせないプレイでピンチを凌ぎます。

 4回裏の攻撃では、1塁にヘッドスライディングをした副主将が、左手中指を脱臼。チームの中軸選手が、相次いでアクシデントに見舞われる不運。

 そして5回表、先頭バッターの打球は、中指を脱臼しているセンターへ。見事、好捕。

 5点を追う8回裏、鶴工は一塁に走者を置いて、右手人差し指を骨折している選手がバッターボックスへ。打球は三塁手正面へ。一塁への悪送球の間に1点を返し、なおもタイムリー・ヒットが出て、この回、2点を返します。

 そして9回裏。2死ながらも、ランナーは満塁。外野を越えれば同点、ホームランなら逆転サヨナラのチャンスです。ここで打席に入ったのは、右手人差し指を骨折しているO君。「本当に骨折してるの?」と思うほどの会心の当たり。しかし打球は三塁手の正面、鶴工、「最後の夏」が終わりました。

 試合前のインタビューで、「記憶に残る試合がしたい」と言っていた主将。十分、高校野球ファンの心に残る試合となったと思います。

西湘 020 300 000 = 5
鶴工 000 000 020 = 2

 この番組では、鶴見工にスポットを当てていましたが、今年が「最後の夏」という学校は、全国に何校あったでしょうか。その一校一校に、生徒一人ひとりにドラマが生まれたことでしょう。ちなみに私の母校の「最後の夏」は2002年。1回戦は13対6で勝利、2回戦は3対12で敗れています。

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東海大相模高校、33年ぶりの夏

2010-07-30 21:07:07 | 高校野球

 全国一の激戦区、神奈川を制したのは東海大相模高校でした。2000年に選抜大会で優勝するなど、甲子園ではお馴染みの学校ですが、選手権大会は実に33年ぶりの出場(8回目)だそうです。もっと出場していたような気がしていたので、これには私もビックリしました。

東海大相模 101 320 020 = 9
横   浜 100 002 000 = 3

 同校が最後に夏の甲子園大会に出場したのは、1977年の第59回大会。宇都宮学園に0-10で敗れ初戦敗退でした。

 私は東海大相模と縁もゆかりもありませんが、私が野球に目覚めたころ、神奈川代表として甲子園に毎年のように顔を出していたのが東海大相模高校だった(古くは巨人の監督の原辰徳さんが現役の頃から知っていますから)ので、好きなチームの一つなのです。

 甲子園での試合をほぼ毎試合テレビ観戦していたせいか、東海大相模の応援、これが好きなのです。なかでも一番有名なのは「T・O・K・A・I 東海相模」とコールする「Tのテーマ」です(耳にすれば、知っている方も多いと思います)。

 得点をしたときに流れる「乾杯の歌」と「サンバ」に乗せて、“♪喜びの歌 さぁ今歌おう 勝利を導く ○○ホームイン 東海! 東海!~”と、入った得点の数だけ繰り返す応援も東海大相模ならでは。

 そのほかにも、ベートーヴェンの「第九」をモチーフにした応援、“♪T、O、K、A、I、東海 カッセ カッセ カッセー○○ カッセ カッセ 東海勝つぞー オー!”など、他校とは一味違った応援を、ぜひ甲子園大会で注目してみてください。

東海大相模高校の応援のようすがYotTubeで観られます→こちら

冒頭のファンファーレの後に流れるのが「Tのテーマ」
最後が「第九」をモチーフにした応援歌です。
ときどきファンファーレとともに「乾杯の歌」が入っています。

 この映像、ファンファーレから始まっているのでイニング最初からのものではありませんが、応援歌から最低でも何点取ったかが分かります!! 

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史上初の松本対決~高校野球・長野県大会決勝

2010-07-26 19:04:36 | 高校野球

 私が初めて高校野球を「生」で観戦したのは小学生のとき。母の母校の試合を観に連れて行ってもらいました。それいらい夏になれば高校野球観戦が私の日課になりました。もちろん、我が母校の試合は(夏の予選に限ってですが)毎試合、応援に出かけました。私の記憶が正しければ、1年生の夏は、創部いらい初勝利だったように思います。

 思い出に残っているのは3年生の夏。ベスト16をかけて優勝候補の一角だった藤嶺藤沢と対戦(藤嶺藤沢は翌年、優勝を果たします)。戦前の予想を覆しての勝利に、友人と喜びを分かち合いました(でも翌日の新聞の見出しは「藤嶺破れる」・・・私の母校は主語にならなかった)。

 ベスト8をかけた一戦は、その年の優勝校・桐蔭学園が相手でした。当時の桐蔭学園は、後に慶応大学に進み東京六大学でも活躍した志村亮投手を要する強豪校。ところが志村投手は登板せず。選手層の厚さを見せつけられました。

 高校を卒業してからも、「夏といえば高校野球」と甲子園大会のテレビ観戦は欠かしていなかった私ですが、毎年、「今年こそ球場へ行こう」と思いながら、今年も行けずじまいでした。

 さて、本題。

 今年の長野大会決勝戦は、92年の球史のなかで初めての「松本対決」となりました。全国最多の35回の甲子園出場を誇る強豪・松商学園に対するのは松本工高。それぞれ「松商」「松工」の名で市民に親しまれている学校です。両校は薄川を挟んで「お隣」どうし。「薄川の合戦」となりました。

薄川をはさんでお隣同士の松商と松工
松商学園はテレビドラマ「白線流し」の舞台となりました

 3回に2点を先制した松工は、6回に逆転を許し、7回にも追加点を与えながらも、9回に同点においつく粘りをみせ、延長10回に勝ち越し、初の甲子園への切符を手にしました。

 松工 002 000 012 1 = 6 
 松商 001 101 200 0 = 5 

 松商学園をはじめ、昨年の優勝校の長野日大、佐久長聖、東海大三など、私学に強豪校が多い長野県にあって、公立高校の優勝は、2006年の松代高校いらいの快挙です。

 ちなみに私の出身地、神奈川県は、1990年に横浜商業(Y校)が優勝していらい公立高校の優勝はありません。さらに神奈川県立高校に絞り込むと(Y校は横浜市立)、1949年の湘南(スポーツキャスターの佐々木信也さんが1年生で出場し全国優勝)、1950年の神奈川商工(現、県商工。日本ハムの元監督の大沢啓二さん=タレントの大沢あかねさんのお爺さんです=が2年生で出場)、1951年の希望が丘と3年連続で優勝していますが、それいらい優勝がありません。今年もベスト4に残っているのは、横浜、横浜隼人、武相、東海大相模・・・全部、私学です。

 わき道にそれてしまいましたが、松工ナインは、初めての晴れ舞台で、どのようなドラマを見せてくれるでしょうか。甲子園大会は、来月7日に開幕します。ガンバレ松工健児!!

松本工業高校のHPは→こちら

勝ち上がり表は→こちら(県高野連HP)

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