私がブログを書くときに参考にしているのが、「朝日新聞」高校野球のサイトです。
http://www2.asahi.com/koshien/
一般的に、1941(昭和16)年から1945(昭和20)年まで、甲子園大会は「戦争のために中止」とされています。「朝日新聞」のサイトでも、この期間は「戦局悪化し中止」と表記されています。
ところが、1942(昭和17年)にも甲子園大会が行なわれていたことを、「幻の甲子園」(NHK、7日放送)で知りました。優勝したのは徳島商業。しかし、徳島商業の優勝はもちろん、全国16の代表校の試合記録は、高等学校野球選手権大会の記録には存在しません。
1915(大正4)年にはじまる全国中等学校野球選手権大会(現・全国高等学校野球選手権大会)の主催者は朝日新聞社です。「幻の甲子園」大会は、文部省の主催で行なわれました。
当時の日本は、同盟国・ドイツが、ベルリン・オリンピック(1936年)を「国策」に利用したように、中等学校の体育大会を「国策」として利用しようという狙いがありました。このもとで行なわれたのが「幻の甲子園」大会です。
すべては「戦争に勝つ」ため。出場した選手たちは「戦士」とよばれ、今では甲子園「名物」の試合開始を告げるサイレンも、この大会では試合開始を告げたのは「進軍ラッパ」でした。
さらに、「戦士を交代してはならない」「球をよけてはならない」・・・という奇妙なルールも・・・。これは、雑誌「體育日本」に掲載された「国防上より観たる体育」(児玉久蔵・陸軍大佐)という論文で、「戦争に如何に貢献すべきか。不十分と認められるは、野球選手が味方の陣営不利と見るや臆面もなく交代を要求し責任を回避するが如き」(番組のナレーションより)…というところからきているそうです。
選手が途中交代するのは敢闘精神に欠ける、体調が悪くても交代することは許されない――今では、想像することもできないルールです。軍隊の「精神主義」が学生野球に持ち込まれた瞬間です。
そういう制約のもとでも、球児たちは白球を追いました。大会屈指の剛速球投手と注目された平安中学の冨樫淳投手もその一人です。初戦は大阪の名門、市岡中学をノーヒット・ノーランに抑えた冨樫投手も、肩の故障で苦戦を余儀なくされてしまいます。「戦士を交代してはならない」というルールのためです。優勝戦まで進んだ冨樫投手ですが、最後は延長戦の末、徳島商業に敗れてしまいます。
この冨樫投手の好投も、徳島商業の優勝も、球史に残されていないのは前述のとおりです。そして、戦局の悪化にともない、「文部省主催」の体育大会も中止。「幻の甲子園」に出場した多くの選手たちも戦地に赴くことになります。
どれだけの球児が「もう一度、野球をやりたい」という思いで戦地へ赴いたのか。その夢もかなえられずに、戦死された方も多いことでしょう。番組の最後に、少しだけ心が救われる場面がありました。
「幻の甲子園」大会で準優勝となった平安中学は、戦後、第38回大会(昭和31年)に全国制覇を果たします。選手たちに胴上げされた若き監督は、「幻の甲子園」大会の剛速球投手、冨樫淳さんでした。
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