イタリア“ネオリアリズモ”映画の原点として有名な作品
日曜日の夜、BSイレブンで放送していたのをみました。
たまたま先日のことですが
映画評論家の佐藤忠男氏の過去の著作から再構成した
「映画でわかる世界と日本」(キネマ旬報社)という本をながめていたら
「映画は“逃避”である」という論評なかでこの作品を取り上げられていました。
多くのイタリア国民がファシズムに傾倒していた事実があったにもかかわらず
この映画をみるかぎり市民みんながパルチザンに参加していたようにみえるのは
自己を正当化し現実を逃避する手段として映画がなりたつ好例だというのです。
この作品の監督であるロッセリーニもかつてファシズムに与する内容の映画を
とっていたではないかというようなことまで言及していますが
決して作家を否定しているわけではありません。
そういうことは当時のフランス映画にもみられたし最近の邦画でもあります。
苦しい過去の忌まわしい現実を忘れさせてくれるのは
誠にありがたい映画という芸術が有する一つの側面であり
そういうことを承知していると映画の理解の助けになりますよというわけです。
さて、前置きが長くなりました。
べつに佐藤氏の考えを錦の御旗にするつもりもありませんし
こうした映画の描き方を否定するものでもありませんが
リアリズムよりも前述の逃避にもつながる少々一方的ともいえる感情でとらえた
“ドラマ”のほうが勝っている作品というのが正直な印象でした。
同じネオ・レアリズモの範疇にあるデ=シーカの『自転車泥棒』(1948)のほうが
断然胸に迫りくるのは
貧乏や失業が身近な昨今ゆえ
否、平和ボケしている証拠でしょうか?
☆☆★
日曜日の夜、BSイレブンで放送していたのをみました。
たまたま先日のことですが
映画評論家の佐藤忠男氏の過去の著作から再構成した
「映画でわかる世界と日本」(キネマ旬報社)という本をながめていたら
「映画は“逃避”である」という論評なかでこの作品を取り上げられていました。
多くのイタリア国民がファシズムに傾倒していた事実があったにもかかわらず
この映画をみるかぎり市民みんながパルチザンに参加していたようにみえるのは
自己を正当化し現実を逃避する手段として映画がなりたつ好例だというのです。
この作品の監督であるロッセリーニもかつてファシズムに与する内容の映画を
とっていたではないかというようなことまで言及していますが
決して作家を否定しているわけではありません。
そういうことは当時のフランス映画にもみられたし最近の邦画でもあります。
苦しい過去の忌まわしい現実を忘れさせてくれるのは
誠にありがたい映画という芸術が有する一つの側面であり
そういうことを承知していると映画の理解の助けになりますよというわけです。
さて、前置きが長くなりました。
べつに佐藤氏の考えを錦の御旗にするつもりもありませんし
こうした映画の描き方を否定するものでもありませんが
リアリズムよりも前述の逃避にもつながる少々一方的ともいえる感情でとらえた
“ドラマ”のほうが勝っている作品というのが正直な印象でした。
同じネオ・レアリズモの範疇にあるデ=シーカの『自転車泥棒』(1948)のほうが
断然胸に迫りくるのは
貧乏や失業が身近な昨今ゆえ
否、平和ボケしている証拠でしょうか?
☆☆★