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あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

蓮ひらく黄金の芯を守るごと  あきオジ

2011-07-08 18:16:09 | 日記
深大寺の蓮です。

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暗闇の下山くちびるをぶ厚くし  兜太

さすらえば冬の城透明になりゆくも  兜太

歩みゆくや稲妻片片と散りぬ  兜太

(骨太の言葉の選び方と組み合わせで別の何かを表現しているのでしょうが、私には理解不能であるし、魅力も感じません。それでも新しい形を創り出そうとする意欲と足掻きを感じます。それで十分かどうかは専門家同士で考えてください。そんな感じでしょうか。)

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「ボリス・ゴドノフ」(オペラ・ムソルグスキー作曲)を聞きながらの更新です。
オペラの中で唯一好きな曲です。
音楽は情緒を揺さぶりますね。

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梅雨明けてベンチにほしたるシャツ3枚  あきオジ

2011-07-08 18:04:41 | 日記
神代植物公園です。

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穀値段どかどか下がるあつさ哉  一茶

(生活のせつなさを素材にした句は一茶の世界ですね。一茶の存在理由はこんなところにあるかもしれません。なるほどという句もありますし、貧しさの本質が見えないこともあります。ある意味で、一茶は貧しさの痛さを理解している人ではなかったかもしれませんね。)

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涼しさや艫(とも)へながるる山の数  建部涼袋

(眼の涼しさがいいですね。こんな句も楽しい。)

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薔薇咲く夜山頭火が疎ましく  あきオジ

2011-07-08 17:50:25 | 日記
神代植物公園ではまだ薔薇が見頃です。
でも、花は旬がいいですね。
桜も8分が見頃ですね。

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稲妻や芒がくれの五十貌  一茶

稲妻やかくれかねたる人の皺  一茶

(一茶の句を選ぶのに苦労しています。その日の気分に馴染む句が見当たらないのです。ときどき、そんなことがありますね。それがないのが蕪村と山頭火です。不思議ですね。芭蕉には妙に親しみを感じるときもあれば、ちょっと違っているなと思うこともあります。その差がありますね。その理由は私が人生をさほど侘びしいとか、ひとりぼっちという実感がないからなのですね。多分、そうだと思います。そんなときは北斎の天才を思うことにしています。)

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カルメンに誘惑される夜の深さ   あきオジ

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懸命に生きてみよ梅雨明ける  あきオジ

2011-07-08 06:15:23 | 日記
神代植物公園です。
紫陽花も終わりますね。

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雑草花つける強い夕風  放哉

降る雨庭に流れをつくり侘び居る  放哉

(放哉には身の周りの世話をしてくださる近所のおばさんや庵を世話してくれた住職などがいたのですが句はなぜか周囲の人の存在が見えませんね。日記等に登場する石工のおじさんや奥さんとのいかにも小豆島という雰囲気の人がいますが、放哉はそのような存在を排除しているような表現が目立ちます。それはそれとして放哉ですね。)

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わが家のうしろで鍬ふるふあるじである  放哉

(深読みしたり、背景を調べたりすることなく、ただ、俳句だけ読んでみようと思っていますが、ついつい気になってしまうのですね。そして、あれこれの人が描いた評伝を気にしたり、その人たちの評価を参考にしたりします。素人の鑑賞方法は、逆に難しいのですね。正統的に講座等で勉強するのもいいかもしえませんね。でも、このままで満足しています。)

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まあいいか蓮を探す日々となり  あきオジ

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「おや」ダリア季節流れる深大寺  あきオジ

2011-07-08 05:58:10 | 日記
深大寺ではダリアが咲き始めました。
季節は巡るのですが
全体をが見えるようになりました。
年をとったということなのでしょうね。

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鎌をとぐ夕焼おだやかな  山頭火

(「おだやかな」の「な」がいいですね。山頭火にはこのようなほのぼのとした言葉の使い方がありますね。放哉には「ぬくもり」さえも切り捨ててしまうこだわりがあり、それが魅力なのですね。きっと、この句は日常を描いたこれといって深読みする必要のない句かも知れませんが、好きですね。ぼんやりした風景に言葉はこぼれ落ちたような、そんな句をみつけるとほっとしますね。)


死のしずけさは晴れて葉のない木  山頭火

(深く読むと死を想起して歌った重い句なのでしょうが、死を明るい「当たり前」のことなのだという境地を感じますね。「死」をいかに迎え入れるか、人生の最大のテーマですね。自分もそろそろそんな年齢に入ってきました。でも、何の準備もしていませんね。)

うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする  山頭火

(晩年の放哉なら決して取りあげないテーマですが、山頭火は「思い出してはいけない」のに、溢れてくるように言葉にしますね。どちらがどうのということではありませんが、その時代の親子関係のありようを知るような気がします。どちらも素敵ですね。)

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空あおぎ背丈をこえた蓮を見る  あきオジ

2011-07-08 05:45:06 | 日記
神代植物公園の蓮です。

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みのむしのぶらりと世にふる時雨哉  蕪村

みの虫のしぐれや五分の知恵袋  蕪村

みのむしの得たりかしこし初しぐれ 蕪村

(「蕪村春秋」高橋治著を読みます。よく利用します。そして、選ばれた句を利用します。その中でみのむしを扱った句を並べていました。自分を孤高の存在としてみの虫を重ねているのがすごいですね。芭蕉にしても山頭火にしても人生そのものを重ねて句にするのですね。私のような俳句は、もどきで、暇つぶしで、人生を重ねる重さは避けたいものには、まだまだですね。まあいいか。私は芭蕉でもなければ山頭火でもない。ただのおっさんで十分なのだから。でも、それはそれ惹かれますね。)

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釣り人の情のこわさよ夕しぐれ  蕪村

(孤高をおそれない蕪村を象徴する句で、お気に入りなのです。それにしても「夕しぐれ」というのは、言葉そもののもいいですね。北斎の版画にもありますね。)

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夕しぐれ蕪村のひとりをしのびけり  あきオジ

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