あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

底がぬけた柄杓で水を飲もうとした  放哉

2009-09-28 05:50:23 | 日記
人災植物園の薔薇

実は、今が薔薇の見頃です。
ちょっと虫に痛めつけられていますが
それでも、人は少ないし
十分に美しい花が咲いています。

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今日の放哉

底がぬけた柄杓で水を飲もうとした  放哉

「愛している」というのと「寂しい」は多様で深い
おですが体感するけど何なのか分からないものですね。

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お祭りの提灯だけはともし

きょうはお祭り、わたしが出かけないので、待ちくたびれた俳友たちが、むこうから押しかけてきた。燈明が、田子を下げてやってきた。一句つくる。
月夜おまつりのタコもつてくれた
この章魚が、ことのほかうまかった。
あまり飲みたくなかった酒も、ずい分すすんでしまった。お祭りの提灯がゆれている。こんな貧しい庵ではあるが、ひとなみに提灯だけは吊るして、お祝いしているのだ。

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今日の一茶

秋風に歩て逃げる蛍かな

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今日の方代さん

包丁の錆を落としてねてしまうただそれだけの方代と風

最近は、あれこれ深読みすることも過剰に反応することもなく
それ以上にならないようにしています。
でも、この「ねてしまうことただそれだけ」という言葉に引きつけられますね。

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朝は涼しい茗荷の子  山頭火

2009-09-27 07:15:58 | 日記
駅構内の朝顔

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今日の山頭火

朝は涼しい茗荷の子  

山頭火の俳句と言うより、普通の俳句。そんな感じですね。
でも、茗荷という言葉がいいですね。どうして、このような名前になったのでしょうか。ときどき、理由が分からないことで不思議なことがありますね。

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今日の方代さん

朝めしをかるくすませて面映ゆく世間をよそに横になりたり

方代さん人の好意で生きているようなところがありますが、それはそれで
「生きる形」なのでしょうね。

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今日の斎藤茂吉

とどめなくこころ狂ひて悲しむをいだきて寝しとわれに聞かしむ

堂々としており、万葉からの息吹が流れているいい歌ですね。
斎藤茂吉はやはり現代の代表的な歌人としての風格がありますね。

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今日の放哉

春の山うしろから烟がでだした

最後の句ですね。
何回も取り上げましたね。淡々とした「ある種の境地」に達したのでしょうかこれまでとは違った納まりのよさを感じます。

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今日の蕪村

小原女の足の早さよ夕もみじ

やはり、蕪村はいいですね。言葉の選び方がすでに色彩的
姿や構図が計算されつくしているというか天性のものですね。
素晴らしい。何を題材にしても作品になる。
そんな感じですね。

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夕暮れの風小学生を押し出して  あきオジ


夕空みてから夜食の箸とる  放哉

2009-09-26 05:43:46 | 日記
昭和記念公園のコスモス
今週から見ごろですね。

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自分だけにいいこともない秋の風  あきオジ

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今日の放哉

夕空みてから夜食の箸とる  放哉

そんな童謡のような世界なのに寂しい。
それが放哉にかかると独自の世界が広がりますね。

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今日の方代さん

冬の日が遠く落ちゆく橋の上ひとり方代は瞳をしばだたく

独自の世界が見えているのでしょう。それを私たちは遠景にして見ている。
方代さんと気づかなければただ、薄汚いおやじとして見ているのだろう。
そう思うのです。人って、親切な言葉をならべながら実際には残酷な視線を浴びせているのですね。

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今日の白秋

空晴れて鐘の音美し苜蓿(つめくさ)の受胎の真昼近づきにけり

白秋に懸かると色彩も美しく風も涼やかですね。
これって、とこても不思議です。
色彩を感じても濁ってしまう人と、そうでない人がいる。
まあ、そんなことなのでしょう。

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はたと倒れし箒の影の夕べ    放哉

2009-09-25 05:58:55 | 日記
昭和記念公園の池

静かです。
歩いている人も疎らです。
人がいないのが当たり前だと思っているので
たまに、曜日を勘違いして休日に出かけると
こんなに人がいるのだと思います。
静かなのもいいし、
人の気配をいっぱい感じるのもいいですね。

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はたと倒れし箒の影の夕べ    放哉

静かで音もない。
音を感じない風景ってありますね。
そこで、突然、音がする。
当たり前の小さな音なのに驚いてしまう。
そして、また、当たり前に戻る。
静寂って、音によって気付かされることなのですね。

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今日の山頭火

寒い風がいそぐ

この句は、放哉の「咳をしても一人」を意識したのでしょうが
「寒い」が率直であるけど、当たり前、個性てきでもなければ
広がりもない。
でも、そんなことはどうでもよくて、言葉がアクセントになっていれば
それでいいのです。

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今日の方代さん

朝めしをかるくすませ面映ゆく世間をよそに横になりたり

こんな負い目もあるのですね。

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ひねくりし一枝活けぬ花椿   子規

2009-09-24 05:26:47 | 日記
昭和記念公園のコスモス

昭和記念公園のコスモスは見応え十分
花の色が鮮やか
そしてロケーションがいいですね。
これからの変化が楽しみです。


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今日の子規

ひねくりし一枝活けぬ花椿   子規

軽快な句ですね。
同じことをいいますが
どんなところでも切り口鮮やかに表現してしまうので
後の時代の人は表現の独自性
素材の面白さ
どれもこれもすべて子規に吸い取られてしまって
すべてが二番煎じ
だから、知的な技巧に走るか
完成度の高さに向かうしかなさそうですね。
何かみずから制限を付けている姿が
伝統芸能というか家伝に流れた茶道に似ている。

時代を動かすような動きはないでしょうかね。

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今日の放哉

ねむの花の昼すぎの釣鐘重たし

蕪村のような世界ですね。
このねむの花と釣鐘という組み合わせで描こうとしている世界ですね。
それもあるかなという感じ
破綻が放哉の表現の面白さなのですが
破綻がないと「おさまりのいいおじさん」という感じで
まっとうですね。
でも、好きです。

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今日の山頭火

まことお彼岸入の彼岸花

彼岸になると必ず咲く彼岸花。なるほど。
そんな「当たり前の発見」なのですね。
彼岸花が咲くと
「昔はどこに行ってもさいていたのにね。」
「私の郷里の神社の床下に咲いていた」
そんな同じ話題が登場し
その去年と同じ話題を楽しんでいる。
人の日々はそんなことで成り立っているのだろう。
そんなことを思ったりもする。

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今日の芭蕉


酔て寝むなでしこ咲ける石の上

酔った姿となでしこの花との組み合わせ
そして、その舞台が石のうえ
「さすがの芭蕉」「お見事芭蕉」という感じでしょうか。
一度、取り上げたかもしれません。
テキストに赤線が引いてあります。

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今日の方代さん

鎌倉の古街道に鎌を入れほたるぶくろを刈り残しおく

正統的な作品ですね。刈り残しす、そっとしておく、この趣向どこにでもあって珍しくないのですが方代さんがとりあげるとなると、生真面目そうで面白いですね。
この可憐だから残しておこう。というような感性と表現はどのあたりにあるのでしょうか。やはり芭蕉あたりでしょうか。

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今日の茂吉

あはれあはれ備前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨

過剰で思い入れが深い茂吉好きです。いいとしの親父がこんな歌を作るのだ。
そう思うと嬉しいですね。過剰を嫌うのは日本人の感性であり、鑑賞眼だと思うのですが、そうなると幅が狭くなってしまう。「ひらがな」で「小さなためらい」を与えるような歌がいいですね。



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海が少し見える小さい窓一つもつ   放哉

2009-09-23 05:28:18 | 日記
昭和記念公園のコスモス

コスモスの季節
人の表情が替わるような気がします。
何かにこやかで
「さあー」と声を出す勢いのようなものがあります。

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今日の放哉

海が少し見える小さい窓一つもつ   放哉

今はシルバーウイーク中
そんなことば、今年、はじめて知りました。
そんなこと関係なく
静かな日々を淡々と過ごす。
それがいい。
それがいいに決まっている。

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今日の方代さん

甲州の柿はなさけが深くして女のようにあかくて渋い

笑顔が見えるような作品ですね。だからどうのというようなものではないとしても、店頭に並んでいる旬の果物のように「季節の風」を感じますね。そうですね。甲州の「ころ柿」の写真を撮りにいかなくちゃね。

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今日の子規

秋晴れてものの煙の空に入る

秋晴れて敷浪雲の平なり

秋の日、写真ネタがない時空を撮る。これって、面白いですね。春は小川がいいですね。探せばどこにでも被写体は見つかる。自分で歩けばなんでもある。

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今日の山頭火

おべんとうをひらく落葉ちりくる

きょうも冷たい草鞋を穿き、一日じゅう山河を歩いた。半日ほど歩いて、途中でお弁当をひらいた。行乞はきびしいけれど、昼食は楽しい。あたりは葉を落としてしまった雑木山。お弁当の上にも、はらはらと残った落ち葉がちってくる。お弁当のご飯は、まだあたたかかった。朝が寒かっただけに、このほかほか弁当が、何ともうれしかった。安宿で、朝出発するときつくってくれた。お婆さんの漬物がおいしい。親切が身にしみてありがたかった。

出家の坊さんなら、このような弁当に意味を与えたり、過剰な思い込みをするのでしょうがさすがの山頭火。素直に喜んでいる。このようにして、人の親切に感謝しながら「まだいいだろう」と溺れてしまう。それが山頭火なのでしょう。でも、絵本のような優しさが見える句ですね。

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今日の蕪村

山は暮れて野は黄昏の薄哉

「里の秋」という童謡があったことを思い出します。

静かな静かな 里の秋
お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ 母さんとただ二人
栗の実 煮てます いろりばた

明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ 父さんのあの笑顔
栗の実 食べては 思い出す

さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
今夜も 母さんと 祈ります

この歌、南方から引き揚げて来る父親を思い出して歌っているのですね。
それぞれの人にそれぞれの思い出があり
そんなことを引っ張り出してくれますね。

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今日の一茶

大根引き拍子にこけり小僧かな

おもわす微笑みが湧く。
それにしてもこどもをどうして「小僧」と呼ぶのしょうかね。

萩咲くや生きて今年の望足る   子規

2009-09-22 04:56:18 | 日記
巾着田の彼岸花

これで秋がいっぽ深まり
コスモスが恋しい季節になりますね。

そして、紅葉に季節が終わると
色がない寂しい季節になります。
私は12月から2月までは好きではありません。
寒くて色がないからです。
西行ではありませんが
桜が咲くのを待っているだけです。

今日は昭和記念公園のコスモスを見てきました。
見ごろ始まりですね。
しばらくは昭和記念公園のコスモスを楽しみましょう。
そのうち、南京櫨も色づくでしょうね
アカシヤも輝いてくるでしょう。

今日は今日の木々を楽しみましょう。


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今日の子規

萩咲くや生きて今年の望足る   子規

胸が痛くなるような句ですね。明治30年の句です。子規は明治35年まで句をつくり続けます。短い人生、その短い時間に成長し、変化し、燃え尽きたのですね。子規は、時代の輝く星のような存在であり、ときには、その後の俳人が居場所を失うような「怪物」のようにも思えます。

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今日の放哉

島の女のはだしにはだしでよりそう

この風景、漁師町では当たり前に見えた景色ですね。
ゴーギャンの絵のようなおおらかで逞しく、くったくがない
大声で話し合う姿が浮かびます。

それとも「寄り添う」はいたわり合っていることを意味するのでしょうか。
火急の用事、慌てている風景とも読みとれます。

それでいいのような、それが俳句の危うさなのか分かりません。

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今日の芭蕉

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月

美しい格調高い図柄の柄なのに宗教的なものまで感じる。
そんな句ですね。月日が流れて行くのに、人は替わっても、家に入り込む月は変わらない。とても、いいですね。口にすると、心地よい秋の風を感じます。名句と言うか「大好きな」句です。わからない句が多い中で、ときどき、すっと入りこむような句があるのが芭蕉ですね。「さすが芭蕉」というような技巧的あったり、伏線を準備した「なるほど芭蕉」もありますが、素人の私は学問的に見る力もありませんし、俳句専門家の視点で見るつもいもありません。素人目の素朴な受け止め方からはみ出さないようにしようと思っています。

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今日の一茶

ちまちまとした海もちぬ石路の花

これも一茶かという句。蕪村のようなスケッチ風の句ですが
黄色い花が鮮やかですね。一茶の屈折した思いを描いた藤沢周平の「一茶」読みなおしてみようかなと思います。弟子にこびなければ生活できなかった一茶、金がないために、身勝手な男と言われ続けた一茶、それだから一茶は孤高の世界を生みだした。そんなものかもしれませn。そこを知りたいですね。

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懐かしい啄木

田も畑も売りて酒のも
ほろびゆくふるさと人に
心寄する日

このような啄木の歌は、今の時代はやらないし
響かないでしょうね。
でも、時代を切りとるものとして興味深いですね。
渋民村の時代、石川一族は借金を踏み倒し
せびり、寺さえも乗っ取ったという噂も流れるほど
村の人とは折り合いが悪く
「石もて追われるごとく・・・」
出て行ったのですから
この歌は、怨みつらみを込めて
作った歌かもしれません。

歌人は、その歌の精神性、芸術性を高めることで
読む人に感銘を与えるのですね。
その要素が希薄だと、「なるほどね」の続きがないのですね。

石川啄木、中学生のころ、痛いような感性に共感しましたが、今は魅力を感じるところがありませんね。時代が彼の存在を消してしまうかもしれません。

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