本日、実家に帰りましたので、この日記の記載のとおり、将棋世界を見返してみました。
将棋世界2005年10月号「時代を語る・将棋昭和紀行 特別編 丸田祐三九段その3」より
陣屋事件
王将戦はタイトル戦に昇格した。第1期の挑戦者決定リーグは丸田八段、升田八段、大山九段、坂口允彦八段、塚田前名人というメンバーで各二番指した。優勝は升田八段。7勝1敗で挑戦者になった。
木村名人対升田八段の七番勝負第1局は、中盤で木村名人が優勢になった。記者の人に形勢を聞かれた。夕刊の締め切りの時刻が迫っていた。私が、「木村名人のほうがいいですよ」と答えたら、そのまま活字になった。
ところが、木村名人が必勝の将棋をぐずりにぐずり、大ポカをやって逆転負けした。そうしたら升田さんにからまれた。「俺が弱いから負けると思ったのだろう」と。木村名人は、この第1局を負けたのが、そのあと香落に指し込まれる遠因となった。勝っていれば逆に升田さんを指し込んだかもしれない。しかし、いま喋ったのが夕刊に出て、それを対局者が見るとは考えもしなかった。苦い思い出です。
勢いに乗る升田八段は○○●○○の4勝1敗でタイトルを獲得するとともに、木村名人を香落に指し込んだ。升田さんは悲願がかなった訳だが、この時の心境は複雑だったようだ。名人に香を引けば名人の権威に傷がつく。名人戦は朝日新聞社が主催している。升田さんは朝日の嘱託だ。
昭和27年2月17日。注目の第6局、升田八段が木村名人に香を引いて指す前日です。関係者は神奈川県秦野市の鶴巻温泉“陣屋”に集まった。対局室は2階の“紫雲閣”(現“松風”)。みぞれの降る寒い日だった。
当時、私は鎌倉に住んでいた。江ノ電で藤沢に出て小田急線に乗り換え、“陣屋”のある鶴巻温泉へ行った。土居市太郎八段(名誉名人)が正立会人で私が副立会人だった。木村名人は来ていた。そういう約束で始めたのだから来るよりしょうがない。ところが、升田さんは現れない。そのうち電話がかかってきたそうです。升田さんからだった。電話には毎日新聞社の人が出た。
升田さんは、玄関でベルを何度も押したが誰も出てこない、それで腹を立てて近くの旅館“光鶴園”へ行ったと話したそうだ。しかし、ここの人が言うには、ベルは前から錆びていて当時すでに鳴らなかったそうだ。「そのことは升田先生も知っていたはずです」と先代の女将で現陣屋会長の宮崎カズヱさんも言っていた。これなんか一番の傑作ですよ。
升田さんが“陣屋”に来ないと言うので、毎日の記者の村松喬さんと“光鶴園”へ出掛けた。村松さんは将棋の担当で、私より2つか3つ年上だった。この人は作家の村松梢風さんの息子です。
升田さんは酒を飲んでいた。毎日事業部の人も一緒に飲んだ。結構な時間いて説得に務めたが、升田さんは聞き入れない。仕方なく私たちは“陣屋”に戻った。その時、升田さんが、「対局場を替えれば指す」と言ったと巷間伝えられているが、そういう話は出なかった。
そもそも村松さんは升田さんに、「“陣屋”の対局に何時頃お出かけですか?私も一緒にまいります」という電話を入れている。タイトル戦の主催紙が対局者に車を差し向けるのは常識です。この時、升田さんは、「知っているから1人で行く。車はいい」と返事をしたそうだ。升田さんは、断って電車で行った。断ったのに車が来なかった、と言うのは変です。
鶴巻温泉の駅前でタクシーが見当たらず、升田さんは歩いたという。“陣屋”は駅から約5分。それほど遠くない。当時はタクシー乗り場もなかった。ある時、珍しくタクシーが止まっていた。私は体の具合が悪かったので、「近くで悪いんだけど“陣屋”まで行ってよ」と言った。そうしたら運転手さんに、「お客さん、からかわないでくださいよ」と断られた。“陣屋”というのは、つまり、そういう距離です。
(つづく)
<以下ひげめがね的考察>
・上記に「大山九段」とあるが、大山康晴が名人を獲得するのはこの年の名人戦。「大山八段」の誤りと思われる。コメントで「当時九段のタイトルを保持していたはず」との指摘を受けました。確かにそのとおりでしたので、削除いたします(2021年2月27日追記)。
・丸田八段の言がそのまま新聞に掲載されてしまったことも、陣屋事件に発展した一因かもしれないと丸田九段はお考えだったのだろう。ただ、この点について本当のところは升田先生のみぞ知る。ちなみに私は、そんなこと升田先生は気にしていなかったろうと思われる。升田八段は丸田八段のことをそんなに評価していなかったはず。九段昇段制度が変わるときの第1号(3人いた)のうちの1人が丸田先生であったが、そのことに升田先生が「あんな弱いの九段にするな」的な発言をした、という記述をどこかで読んだことがある。
・陣屋事件の大きなポイントである「陣屋で升田八段がどのような行動をとったのか?」ということにつき、「ベルを押したが鳴らなかった」が升田の言い分と、丸田九段は述懐されている。ほかの言い伝えでは「大声で呼んだが陣屋のものが出てこなかった」というのがあり、むしろこちらの方が信じられている。確かに今の感覚で、旅館に到着して呼び鈴押すか?と考えると、こちらの方が正しいように思える。しかし、陣屋の女将の「そのことは升田先生も知っていたはずです」との発言もあり、丸田九段の官僚的折り目正しさも考え合わせると、さすがにそこの記憶違いはないだろうというのが、現在の私の結論である。陣屋は高級旅館なので、ひげめがねのような庶民は行けるとしても一生に一度のことであろう。もし行けた際は、ベルがあったのかどうか、現在の女将に確認したいものである。
・「車」の話が出てくるが、ポイントは「ベル」だったわけで、車で来たか電車で来たかは陣屋事件の本質ではない。にもかかわらず、ここでその述懐をしているのは、きっと丸田八段が升田八段の説得に行ったとき、升田八段が「なんで俺には車をよこさなかったのか?」とくだをまいたのであろうと推測される。
将棋世界2005年10月号。佐藤棋聖4連覇、瀬川アマ初勝利を報じている。ぽつねんと座る丸田九段が印象的な表紙。
将棋世界2005年10月号「時代を語る・将棋昭和紀行 特別編 丸田祐三九段その3」より
陣屋事件
王将戦はタイトル戦に昇格した。第1期の挑戦者決定リーグは丸田八段、升田八段、大山九段、坂口允彦八段、塚田前名人というメンバーで各二番指した。優勝は升田八段。7勝1敗で挑戦者になった。
木村名人対升田八段の七番勝負第1局は、中盤で木村名人が優勢になった。記者の人に形勢を聞かれた。夕刊の締め切りの時刻が迫っていた。私が、「木村名人のほうがいいですよ」と答えたら、そのまま活字になった。
ところが、木村名人が必勝の将棋をぐずりにぐずり、大ポカをやって逆転負けした。そうしたら升田さんにからまれた。「俺が弱いから負けると思ったのだろう」と。木村名人は、この第1局を負けたのが、そのあと香落に指し込まれる遠因となった。勝っていれば逆に升田さんを指し込んだかもしれない。しかし、いま喋ったのが夕刊に出て、それを対局者が見るとは考えもしなかった。苦い思い出です。
勢いに乗る升田八段は○○●○○の4勝1敗でタイトルを獲得するとともに、木村名人を香落に指し込んだ。升田さんは悲願がかなった訳だが、この時の心境は複雑だったようだ。名人に香を引けば名人の権威に傷がつく。名人戦は朝日新聞社が主催している。升田さんは朝日の嘱託だ。
昭和27年2月17日。注目の第6局、升田八段が木村名人に香を引いて指す前日です。関係者は神奈川県秦野市の鶴巻温泉“陣屋”に集まった。対局室は2階の“紫雲閣”(現“松風”)。みぞれの降る寒い日だった。
当時、私は鎌倉に住んでいた。江ノ電で藤沢に出て小田急線に乗り換え、“陣屋”のある鶴巻温泉へ行った。土居市太郎八段(名誉名人)が正立会人で私が副立会人だった。木村名人は来ていた。そういう約束で始めたのだから来るよりしょうがない。ところが、升田さんは現れない。そのうち電話がかかってきたそうです。升田さんからだった。電話には毎日新聞社の人が出た。
升田さんは、玄関でベルを何度も押したが誰も出てこない、それで腹を立てて近くの旅館“光鶴園”へ行ったと話したそうだ。しかし、ここの人が言うには、ベルは前から錆びていて当時すでに鳴らなかったそうだ。「そのことは升田先生も知っていたはずです」と先代の女将で現陣屋会長の宮崎カズヱさんも言っていた。これなんか一番の傑作ですよ。
升田さんが“陣屋”に来ないと言うので、毎日の記者の村松喬さんと“光鶴園”へ出掛けた。村松さんは将棋の担当で、私より2つか3つ年上だった。この人は作家の村松梢風さんの息子です。
升田さんは酒を飲んでいた。毎日事業部の人も一緒に飲んだ。結構な時間いて説得に務めたが、升田さんは聞き入れない。仕方なく私たちは“陣屋”に戻った。その時、升田さんが、「対局場を替えれば指す」と言ったと巷間伝えられているが、そういう話は出なかった。
そもそも村松さんは升田さんに、「“陣屋”の対局に何時頃お出かけですか?私も一緒にまいります」という電話を入れている。タイトル戦の主催紙が対局者に車を差し向けるのは常識です。この時、升田さんは、「知っているから1人で行く。車はいい」と返事をしたそうだ。升田さんは、断って電車で行った。断ったのに車が来なかった、と言うのは変です。
鶴巻温泉の駅前でタクシーが見当たらず、升田さんは歩いたという。“陣屋”は駅から約5分。それほど遠くない。当時はタクシー乗り場もなかった。ある時、珍しくタクシーが止まっていた。私は体の具合が悪かったので、「近くで悪いんだけど“陣屋”まで行ってよ」と言った。そうしたら運転手さんに、「お客さん、からかわないでくださいよ」と断られた。“陣屋”というのは、つまり、そういう距離です。
(つづく)
<以下ひげめがね的考察>
・
・丸田八段の言がそのまま新聞に掲載されてしまったことも、陣屋事件に発展した一因かもしれないと丸田九段はお考えだったのだろう。ただ、この点について本当のところは升田先生のみぞ知る。ちなみに私は、そんなこと升田先生は気にしていなかったろうと思われる。升田八段は丸田八段のことをそんなに評価していなかったはず。九段昇段制度が変わるときの第1号(3人いた)のうちの1人が丸田先生であったが、そのことに升田先生が「あんな弱いの九段にするな」的な発言をした、という記述をどこかで読んだことがある。
・陣屋事件の大きなポイントである「陣屋で升田八段がどのような行動をとったのか?」ということにつき、「ベルを押したが鳴らなかった」が升田の言い分と、丸田九段は述懐されている。ほかの言い伝えでは「大声で呼んだが陣屋のものが出てこなかった」というのがあり、むしろこちらの方が信じられている。確かに今の感覚で、旅館に到着して呼び鈴押すか?と考えると、こちらの方が正しいように思える。しかし、陣屋の女将の「そのことは升田先生も知っていたはずです」との発言もあり、丸田九段の官僚的折り目正しさも考え合わせると、さすがにそこの記憶違いはないだろうというのが、現在の私の結論である。陣屋は高級旅館なので、ひげめがねのような庶民は行けるとしても一生に一度のことであろう。もし行けた際は、ベルがあったのかどうか、現在の女将に確認したいものである。
・「車」の話が出てくるが、ポイントは「ベル」だったわけで、車で来たか電車で来たかは陣屋事件の本質ではない。にもかかわらず、ここでその述懐をしているのは、きっと丸田八段が升田八段の説得に行ったとき、升田八段が「なんで俺には車をよこさなかったのか?」とくだをまいたのであろうと推測される。
将棋世界2005年10月号。佐藤棋聖4連覇、瀬川アマ初勝利を報じている。ぽつねんと座る丸田九段が印象的な表紙。