芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

千住魚河岸俳句の募集について

2016年01月22日 | お知らせ
                                                   

 3月12日(土)に「足立市場の日」イベントがあり、「千住魚河岸俳句」の募集&コンテストが行われます。
 東京都中央卸売市場足立市場は都内唯一の魚専門の市場です。その取扱量は築地に次ぐものです。ふだん一般のお客様は入れない市場ですが、通常営業日を活用して「足立市場の日」イベントを実施し、消費者の方々に市場の取引を見てその理解を深め、様々な水産物と魚食文化と食育への関心を高めてもらおうというのです。
 プロの方たちが買われる仲卸の店から、活きの良い魚介類をお安く買い物できます。大きなマグロの解体ショーもあります。

 「足立市場の日」イベント概要
  期 日  平成28年3月12日(土)
  時 間  9:00~13:00(お買い物は11:00まで)
  場 所  東京都中央卸売市場足立市場 足立区千住橋戸町50番地
       ※ 京成本線「千住大橋」駅 徒歩5分
  主 催  足立市場協会
  共 催  東京都足立市場
  後 援  足立区

「足立市場の日」イベントのひとつとして、周辺地域と共に連携・共創し、地域の歴史に因んだ文化的な発信をしようということになり、「千住魚河岸俳句 募集&コンテスト」が行われます。

 足立市場の正門横に松尾芭蕉の像があります。芭蕉は舟で隅田川を遡航し橋戸河岸で降り、千住大橋のたもとから「奥の細道」に旅立ちました。そのときの句が「行く春や鳥啼き魚の目は泪」です。
 当時、その地には何軒かの魚問屋が出ており、周辺の隅田川、荒川、幾つもの湖沼、田圃から多種類の淡水魚が獲れ、それらを商っていたのです。また千住周辺で採れた根深ねぎや、野菜や穀物も集まり、やっちゃばも賑わい、江戸の三大市場のひとつとなっています。
 芭蕉の句は、魚問屋に並んだ盥や桶の中の魚を見、また見送りに来た弟子たちの泪を見て詠んだものでしょう。
 また足立区六月(地名)の炎天寺は、平安末期創建の古刹ですが、小林一茶が訪れて「蝉鳴くや六月村の炎天寺」という句を残しています。寺の境内に「蛙の池」があり、池水に顔を出した石の上で蛙が二匹相撲をとっています。「やせ蛙負けるな一茶是にあり」…。代々のご住職は子どもたちに俳句を教えてきました。子どもたちの俳句大会が行われ、昨年は全国の小中学生から約11万句が寄せられたといいます。炎天寺ご住職が指導する子どもたちの中から、俳句甲子園で活躍する高校生たちも出ています。また炎天寺では毎年11月23日に「一茶まつり」が開催され、全国から一茶ファンや俳句愛好者が集まります。
 足立区は俳句が盛んな土地なのです。

【千住魚河岸俳句 募集&コンテスト要項】
 ご応募資格 : 性別、年齢、国籍は不問。ただし居住地は日本国内の方に限らせていただきます。
 応募規定 : 当季雑詠。千住、旅立ち、さかな(魚河岸、魚市場…)などはご自由に詠み込んでください。
 定型、自由律等はご自由に。お一人様で六句までとさせていただきます。(なお、投句料は無料です。ふるってご応募ください。)
 募集期間 : 平成28年2月2日(火)~平成28年2月15日(月)
 審査員 : 青山丈先生(足立俳句連盟会長)、吉野秀彦先生(炎天寺住職)、足立
     市場長
 最終選考 : 2月24日(水)
 表彰式 : 入賞者のみ表彰(2月末までにご連絡いたしますので、3月12日
     (土)当日にご来場ください。なお、交通費はご負担願います。)
 会場は足立市場内特設会場、時間は10時~約30分(予定)です。
 大賞(一句)特別優秀賞(二句)優秀賞(六句)特別賞(六句)を発表し、
 表彰と金一封を授与いたします。

 ご応募 : 記載事項は 1. 作品  2. 〒番号・ご住所  3. ご本名(俳号をお持ち
 の方は俳号も) 4. 電話番号、Eメールアドレス 5. 句会・俳句サークル所属
 の方は所属名、学生は学校名
 下記事務局宛に、 FAX(A4サイズ)もしくはメール、もしくはハガキに
 てご応募ください。  ※ お問い合わせも下記事務局宛にFAX、もしくはメールにて
               お願いたします

   
   株式会社 龍頭(リューズ)内 「千住河岸俳句」事務局
   〒232-0022 神奈川県横浜市南区高根町3-17-12 KSビル3F
   メール:adachi@ryuse.net
   FAX番号/045-261-6766 

 どうぞふるってご参加ください。ご応募をお待ちしています。


追記
 当日は「創作ねぎま鍋まつり」コンテストも開催されます。
 ねぎま鍋は千住の名物です。江戸時代、名物の千住の根深ねぎとマグロを組み合わせた鍋として広まり、江戸中の庶民に親しまれました。
 市場の仲卸とお取引のある飲食店が、新しい創作ねぎま鍋に挑みます。ご来場者に試食をお楽しみいただき、審査してもらいます。ぜひ新しい名物料理の誕生にもお立ち会いください。
 ちなみに池波正太郎作品には、随所に「根深汁」が出てきます。単純な味噌汁なのですが、具は太くて白い甘みのある根深ねぎをぶつ切りにしただけのもの。「剣客商売」の秋山大治郎はこの大好きな根深汁で朝食をとり、「仕掛け人・梅庵」はこれに一滴ごま油をたらすのが大好きです。「鬼平犯科帳」の長官はこれに目を細めます。


 さて、この企画とイベントに多少関わる者として、先ず拙い一句を…
      魚河岸の 声も春めく 千住かな (天野雀空)
                                                                                         

エッセイ散歩 草枕

2016年01月21日 | エッセイ
      パソコンに保存されていた古いデータを見つけた。いつ書いたものか。
      3、4年前だろうか?


 日本の、そして世界の、あらゆる事態が劣化し続けているのではないか。…最近、新聞もテレビのニュースもほとんど見る気がしなくなった。癪に障る からである。被災地の復興も、 原発問題も、政治も外交も、経済も、教育も、海外の事件も、竹島問題も尖閣問題も、反吐が出るほど愚かしく、そしてそれらを報道するメディア、 ジャーナリ ズムも、あまりにも愚劣で、その空しさと無力感に健康な体調が崩れるほどである。この危機的非常時に、国民の生活より選挙が第一、政局、政争、世襲党首選びに選挙のための維新ファシストブームなど、もうどうでもよろしい。世襲政治とは政治の私物化。癪に障る。全員暗殺されてしまえ。目眩がする。反吐が出る。みな滅びてしまえ。
 ある出版社の社長が「新聞を読まない奴はクズなのです。あの、私たちより何倍も何十倍も優れた人たちが書いた記事や解説を、読まないような奴はクズ人間な のです」と言っていた。これは新聞記者の知識、教養や知性を、そのジャーナリストとしての姿勢を、あまりに過大に評価した噴飯ものの発言であった。その発言は彼の劣等感と、聞き手への加虐意識から出たものである。彼の加虐的品性や、新聞記者・論説委員らへの過大評価は論ずるに値しない。新聞や雑誌のような活字ジャーナリズムへの不信は、すでに誰もが感じていることだろう。まことに癪に障る。
 テレビ・ジャーナリズムの浅ましさは言うまでもない。レジス・ドブレイはその「大衆迎合主義」と「状況のヒステリー化、短絡化」を指摘した。テレ ビはその 特質から「イメージが論理を駆逐し」「分析的思考を無力化し想像力を奪う」メディアなのである。そしてドブレイは論じていないが、現代のインター ネット、 ソーシャル・ネットワークは「流言飛語」メディアなのだ。何がジャスミン革命だ、何がアラブの春だ。

 新聞とニュース番組を見なくなったかわりに、古びて黄ばみ読みづらくなった夏目漱石の古い文庫本を読み返すことになった。先ず「草枕」と「門」で ある。特 に「草枕」である。癪に障るロンドンから日本に戻ると、日本もまた実に「癪に障る」世の中なのである。その癪に障る日本からいかに遁世するかを 「山路を登りながら、こう考えた」のである。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。」しかし「人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかり だ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。」

 漱石は「吾輩は猫である」を書き続けながら「草枕」を書き、また「夢十夜」を書いた。「草枕」と「夢十夜」は奇想と幻想において一対の作品であ る。「草 枕」に「思想」はない。しかしこれは「思考小説」というべきものだろう。「意識の流れ」を小説にしたのは、「ユリシーズ」のジョイスより漱石のほ うが十五年も早かったのだ。漱石自身が言っている。「こんな小説は天地開闢以来類のないものです。」「この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論ない。 それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に於ける新しい運動が、日本から起こつたといへるのだ。」
 このとき漱石三十九歳。彼はその年齢で、日本、日本人、世界、人間を見極めてしまったかのようなのだ。漱石の死は四十九歳。何という濃密な十年だっただろう。
 今ほど平均寿命は長くないが、昔の人は成熟するのが早かったのだ。樋口一葉が「たけくらべ」「大つごもり」「にごりえ」を書いて亡くなったのは二十四歳。正岡子規が三十五歳。石川啄木が第一歌集 「一握の砂」を出したのが二十四歳。亡くなったのが二十六歳。第二歌集「悲しき玩具」は死後に出された。あの若さで彼等は成熟し、あれだけの作品 を残した。現代人はいっこうに成熟することなく、いつまでも 幼稚なままと思われる。また昔は、今よりずっとゆっくりと時間が流れていたかに思われる。

 漱石は膨大な漢籍の素養と、短いロンドン時代に膨大な英文学を吸収しながら、なかなか思うような語彙をひねり出せず、またその思考を思うようには 作品化、 思想化できなかったのではないか。彼の苦闘はそこにあったのではないか。つまり我々が知っている文豪漱石の巨大な作品群は、その全総体に比しわずかに海上 に一角を出した氷山のようなものに過ぎないのではなかったか。
 さて、「門」を読み終わったら、新橋遊吉の古典的名作とも言える膨大な競馬小説でも読み直そうと思う。彼が盛んに書いていた頃の競馬には、「住み にくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて」詩があり、画があり、音楽と彫刻があった。浪漫があり、下克上の物語と、非人情の芸術がある。馬群が大地を轟 かせて目の前を走り去るとき、小さく千切れた芝草と砂埃の匂いには、胸を高鳴らせるものがある。

光陰、馬のごとし 馬の物語をあざなう

2016年01月20日 | 競馬エッセイ

 宮代八郎は大正11年、神奈川県二宮町の馬車運搬業の家に生まれた。八郎は小学校を出ると地方競馬の羽田競馬場少年騎手養成所に入所し、騎手となって羽田や八王子競馬場で騎乗した。
 日中戦争の激化にともない、地方競馬の多くが休止され、彼は日本競馬会に移った。東京競馬場の川崎敬次郎厩舎に入門し、昭和17年に日本競馬会の騎手免許を取得したが、間もなく徴兵され、陸軍近衛師団で終戦を迎えた。
 復員後、かねて馬主に紹介されていた京都競馬場の谷栄次郎厩舎に所属した。やがて谷調教師の姪と結婚し、婿養子となって谷八郎と改姓した。騎手としては恵まれず、現役時代98勝しか挙げていない。
 昭和34年に調教師に転じたが、あまり預託馬に恵まれなかった。競走馬生産の僻地とも言われた九州産馬や、雑種血統と呼ばれたサラ系など、安馬が多かったのである。そんな中からサラ系ヒカルイマイが出た。
 ヒカルイマイは兼業農家の小さな牧場で生まれた。人手不足で夜も厩舎に入れてもらえず、その夜間放牧で丈夫さと精悍さと度胸が備わり、山の斜面の狭い放牧場で自然に足腰が鍛えられたのである。
 谷八郎調教師は自厩舎の若い田島良保騎手をヒカルイマイに乗せた。ヒカルイマイはいつも最後方に位置する競馬で、馬主やファンをハラハラさせ、「やはり田島のような若僧じゃあ駄目だ」とも言われた。谷は、それでも彼をヒカルイマイに乗せ続けた。騎乗機会を増やさなければ騎手は上達せず、また強い馬が騎手を育てるものなのである。
 ヒカルイマイは「後方一気」の怒濤の末脚を爆発させ、皐月賞とダービーに優勝した。田島は戦後の最年少ダービー騎手となったのである。ヒカルイマイは雑草、反逆児、風雲児と呼ばれた。
 谷八郎調教師はヒカルイマイ以外にこれといった大物を出せなかった。しかし門下生として、必殺仕事人・田島良保、天才・田原成貴、幸英明騎手らを輩出した。これは凄いことなのだ。ちなみに谷厩舎の馬主は九州出身者が多く、九州の馬産地にも人脈が多かった。田島良保や幸英明も鹿児島の出身である。
 
 谷八郎調教師の長男・潔は、幼い頃から馬に親しんだが、乗馬はしたこともない。騎手になろうとか、競馬関係の仕事に進もうとかは全く考えなかった。同志社大学に進んだが、父の弟子の田島や田原騎手の素晴らしい活躍を見て、競馬の仕事に進む気になった。卒業後に父の厩舎で厩務員となった。 
 一年後に調教助手の資格を取り、やがてアメリカに二年間の修業に出た。西海岸の厩舎でエクササイズ・ライダーとなり、さらにケンタッキーの名門・ゲインズウェイファームで厩務員になった。帰国後再び父の厩舎で調教助手を務め、調教師免許を取得し、1995年、栗東に谷潔厩舎を開業した。しかし、なかなか良い馬が集まらず、苦労が続いた。
 開業二年後、アイルランド産馬のヒコーキグモがきさらぎ賞を勝ち、これが厩舎の初重賞勝ちとなった。こんな不思議な馬名だから、すぐ小田切有一氏の所有馬と知れる。その後ヒコーキグモも低迷し続けたが、谷潔厩舎も低迷した。

 谷潔が厩舎を開業した年、門別の日高大洋牧場に一頭の黒鹿毛の牡駒が生まれた。父はかのサンデーサイレンスである。母キャンペーンガール(父はマルゼンスキー)は妊娠中、幾度もの疝痛に苦しんで衰弱していき、牡駒を出産した五日後に死亡した。そのとき仔馬は母馬と離された馬房にいたが、ずっと悲しげに啼き続けていた。
 ばんえい競走用の農耕馬が乳母となって、その仔馬に乳を与えた。乳母はかなり気性のきつい馬だったため、常に牧場スタッフが見守って仔馬を育てた。そのため仔馬は人間に懐き、人間を信頼した。放牧場で他の仔馬たちと一緒に遊んだり、走り回ったりすることもなく、いつも一頭だけ離れたところにいた。
 やがてこの仔馬はスペシャルウィークと名付けられた。育成牧場でスペシャルウィークの素質は目についた。乗り手に従順で賢いため、競走しても走りにロスが無いのである。彼は栗東の白井寿昭厩舎に入厩した。温和しく賢く、人間に対して素直であった。
 スペシャルウィークはダービー、天皇賞(春・秋)、ジャパンカップを勝ち、17戦10勝で引退したが、その獲得賞金は日本で初めて10億円を超えた。スペシャルウィークのライバルは、セイウンスカイ(皐月賞、菊花賞)、エルコンドルパサー(ジャパンC)、グラスワンダー(宝塚記念、有馬記念)であった。
 種牡馬となったスペシャルウィークは数多くの重賞勝ち馬を輩出し、ライバルたちを凌駕した。しかしG優勝馬はシーザリオ(オークス、アメリカンオークス)、ブエナビスタ(桜花賞、オークス、ジャパンC、天皇賞・秋)の牝馬で、後継種牡馬となりうる牡馬に恵まれなかった。
 ちなみに、馬の毛色で栗毛は普通だが、たてがみや尾がススキの穂のように輝く華麗な尾花栗毛は珍しく、年に一、二頭ぐらいしか生まれない。しかし近年の尾花栗毛馬のほとんどはスペシャルウィーク産駒なのである。彼自身は黒鹿毛で、父サンデーサイレンスは青鹿毛、母キャンペーンガールも母の父マルゼンスキーも鹿毛である。またキャンペーンガールの母レディシラオキも鹿毛、サンデーサイレンスの父ヘイローも母ウィシングウェルも鹿毛である。果たしてスペシャルウィーク産駒によく出る尾花栗毛はどこから遺伝してきたものか。…おそらく祖母レディシラオキの父セントクレスピン、その父オリオール、その父ハイペリオンらの栗毛の遺伝だろう。
 ちなみにオリオール産駒で日本に来たオーロイから、かの伝説の癖馬・魔王カブトシローが出、セントクレスピンから四白流星の貴公子タイテエムと、気まぐれの天才エリモジョージが出た。

 2011年3月11日の薄暗い朝まだき、日高の竹島幸治牧場で一頭の牡駒が生まれた。父はスペシャルウィーク、母は栗毛のトーホウガイアである。ガイアは地母神、大地の象徴である。仔馬の濡れた黒い身体が乾き始めると、美しい栗毛馬と知れた。仔馬は何度も立ち上がろうとして尻餅をつきながら、やっと震えて揺れる四肢を踏ん張った。…その日の午後、北海道の大地も震度4の強い揺れに襲われた。仔馬は大地がユサユサと長く揺れる恐怖を、母馬に寄り添って耐えた。
 竹島牧場は繁殖牝馬など25頭を繋養する小規模の生産牧場である。スタッフは社長を含め、わずか三人に過ぎない。みな凄まじく悲惨なニュース映像を見ながら、奇しくもこの日に生まれた仔馬を、新しい生命の象徴として、元気に育てなくてはならない…と思っていた。
 その仔馬は美しい尾花栗毛に育っていった。東豊物産の所有馬として、競走名をトーホウジャッカルと名付けられ、栗東の谷潔厩舎に預託されることになった。しかし育成牧場で鍛えられていた二歳時、重い腸炎を患ってしまった。一時は生死の境をさ迷い、なんとか危機を脱したが50キロも痩せ細り、もう競走馬としては無理かも知れないと思われた。
 やっと回復したものの、谷厩舎に入廏したのは三歳の3月である。彼のデビューはダービー前日で、京都の未勝利戦であった。対戦相手のほとんどは何戦も体験している馬たちである。彼は10着に敗れた。騎乗した酒井学はこの馬に魅力を感じたらしい。2戦目は幸英明騎手が騎乗し9着に敗れた。酒井はまたジャッカルに騎乗したいと谷調教師に申し入れた。夏競馬が始まり、ジャッカルは酒井学騎手を背に中京の未勝利戦に出て、人気薄で初勝利を挙げた。
 小倉に移動し、500万下レースを連勝、続く玄海特別を古馬と闘って首差の2着。この馬の素質が明らかになってきたのである。
 谷調教師は無謀かも知れないがジャッカルを重賞神戸新聞杯に挑戦させたかった。獲得賞金額が少ないジャッカルの出走可否は、抽選である。運良くこの出走権を獲得した。さすがにダービー馬のワンアンドオンリーが1番人気で、ジャッカルは16頭立ての10番人気に過ぎなかった。ジャッカルは直線で大きな不利を被りながら、差のない3着に突っ込んだ。…穴党はこのレースぶりを見逃さなかった。もしこの馬が菊花賞に出てくれば、狙いだ。ちなみにこのレースを勝ったのはダービー馬であった。
 神戸新聞杯3着でトーホウジャッカルは菊花賞の優先出走権を得た。ジャッカルはクラシックレースへの登録をしていなかった。陣営は急遽クラシックの追加登録を行い、菊花賞に臨んだのである。

 淀の競馬場、第75回菊花賞(G)、3000メートル、18頭立て。前日オッズに異変が起きていた。出走馬中で獲得賞金が一番少ないトーホウジャッカルが、一時的とはいえ1番人気に推されたのである。異変である。当日はそれでも3番人気に推されていた。こうなれば、もう穴馬ではない。
 なぜジャッカルは人気になったのか。よく言われる菊花賞のセオリーは一に、「夏の上がり馬」を狙え。一に、長距離血統、晩成型血統を狙え。サンデーサイレンス系は万能型が多く、スペシャルウィークもそういう馬である。強いて言えばサンデー系種牡馬の中で、フジキセキはマイラー色が濃く、スペシャルウィークは長距離色が濃い。しかしジャッカルの母の父アンブライドルズソングはマイラー型なのである。毛色を思い出そう。ジャッカルの栗毛は、セントクレスピン、オリオール、ハイペリオンの遺伝が色濃い。これらは極めつけの長距離血統、あるいは晩成型の重厚な血なのだ。
 リアリストは思う。神戸新聞杯の直線、大きな不利がありながら、差の無い3着に突っ込んだ脚色、勝負根性、そしてこれまでのレース記録で分かるコンスタントに出せる上がり34秒台のスピード。
 ロマンチストは思う。東日本大震災の日に生まれた馬、生死をさ迷う大病を患った「遅れてきた青年」という物語、そして美しい「尾花栗毛」のこの馬に勝たせたい、とても綺麗…。
 さてレースである。内枠を利したジャッカルは終始5番手という好位置に付け、落ち着いていた。京都の4コーナーから直線に入るとき、内にいる馬が有利だ。ジャッカルは前を塞がれることなく早めに進出した。人気のワンアンドオンリーは伸びなかった。ジャッカルは直線、もう一頭の人気馬トゥザワールドを力でねじ伏せた。3分1秒0、3000メートルのコースレコード、いや驚異的な日本レコードだった。そしてデビューから149日の菊花賞制覇は最短の記録となった。遅れてきた青年が勝ったのだ。
 谷潔調教師は開業20年で初のG!制覇、菊花賞制覇であり、酒井学騎手も初の菊花賞制覇となった。今年九十二歳となった谷八郎は、このレースをどこで見ていたのだろうか。彼がヒカルイマイの故障で達成できなかった菊花賞を、息子の潔が成し遂げたのだ。