平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

ホンダの広告塔としての「本田宗一郎」の功罪是非

2007年11月21日 | 経済・マネジメント
親愛なるアッティクスへ

先日、ホンダの営業の方と、一献やる機会がありましたので、「本田宗一郎に会ったことあるの?」と聞いたところ、「いえいえ、まったくありませんよ」との答え。
なるほど、言われてみれば、本田さんが引退してからすでに、30年以上が経っているわけで、ホンダの社員といえども、会ったことがあるのは、まあ、私より上の世代の人たちでしょうから、まだ、三十代のこの人が会っているわけがないよな・・・と思い至りました。
(以前、平成元年頃に、別のホンダの方と話したときに、「本田さんが引退して、全国のホンダ販売店を廻ったときに、うちにも来られましたよ」という話を聞いていたものでこの人にも聞いてみたのですが、思えば、それも、20年前ですからね(笑)。ちなみに、このとき、この販売店では、全員整列・・・と言われて並んでいると、一人、若い社員がトイレに行っていたようで、慌てて、駆け込んできて、本田さんの脇をすり抜け、列に並ぼうとしたところ、本田さんはその若い社員の頭を軽く一発、ペシっと叩いてこらっと言って大笑いしたとか。いかにも、本田さんらしいエピソードですが、この、叩かれた人は、今や、「あの本田宗一郎に頭をはたかれたやつ」なわけですから、ある意味、人間国宝みたいなものですね(笑)。)

で、まあ、会ったことはなくても・・・と思い直して、企業人として私が敬愛する、本田宗一郎の盟友にして、共同創業者であった元本田技研工業副社長・藤沢武夫氏についても、この営業の人に聞いてみました。
すると、「藤沢?それ、誰ですか?」という答え・・・。
説明しても、やはり、「まったく知りません」と。
どういえば、藤沢さんが亡くなったとき、ホンダの広報が「藤沢武夫が亡くなりました」とマスコミ各社に連絡したところ、どこのマスコミも、皆、「藤沢?誰?」という反応だったといいますが、一方の本田宗一郎氏が今では伝記にすらなっていることを考えれば、私としては、藤沢さん自身がそういう生き方を選んだという意味で、少々、感慨深い物がありました。
(つまり、当時、本田・藤沢コンビは、ソニーにおける井深 大・盛田昭夫のコンビと並び称されたそうですが、藤沢武夫は社長にならず盛田昭夫は社長になった・・・と、そういうことですね。)

そういえば、一年ほど前、やはり、別のホンダのディーラーに行ったところ、その営業マンが、「うちのエンジンは本田宗一郎以来の・・・」「うちの基本設計には本田宗一郎の・・・」と、本田宗一郎の名前をやたら連呼するのを聞いて、少し、違和感を覚えたことがあります。
で、知らないふりして、「え?本田って、まだ、生きてるの?」と言ったところ、「いえ、死んでますけどね・・・」と言う。
「だったら死んだやつのこと言っても関係ないだろう」
「いえ、理念は生きてますから」と。
「その理念が生きているかどうかなんて、どうやって確認するんだ?本人が確認するのか?」と言うと、口をもぐもぐさせながら、「まあ、そうですけどね」と・・。

少し意地悪な気がしましたが、セールストーク代わりに本田宗一郎という人の名前を使う・・・というのは、私には何か違う・・・という気がした次第でした。
(その一方で、得てして、こういう人は藤沢武夫の名前は知らない・・・というケースが多いような・・・。語るのなら、そこまで語れよ・・・みたいな(笑)。)
この点は、本田・藤沢のコンビが揃って引退するという鮮やかな出処進退もあったことで、経済誌などで大きく採り上げられたこともあり、さらには、本田宗一郎という人が、まるで、アイドルのような扱いをされたことで、ある程度、ホンダの広告塔にもなっているんだろうな・・・という気はしていましたが・・・。
無論、たまたま、私が当たった営業の人が個人的に本田宗一郎を尊敬していただけなのだろうとは思いますが、一般論として、その会社の社員が創業者を崇拝するのは悪いことではないとしても、聞かれたら答える程度で止めておくべきで、最大のセールスポイントにしてしまうのは如何なものか・・・という気がしたまでです。

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