平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

落合監督の「完全試合よりも勝利への采配」の是非 3

2007年11月09日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

本日は、昨日までのそれとは直接関係ないのですが、まあ、続きと言えば続きです。

まず、先日、俳優の中井貴一さんが、テレビで、「先般、中国で俳優兼プロデューサーとして映画を撮影した・・・」という話をしておられました。
実は、中井氏と私は同年でして、それで、「ああ、こいつも、やってるんだな・・・」という妙な同級生意識から、たまたま、何気に、点いていたテレビを見るとも為しに見てしまった・・・というだけの話だったのですが、その中で、「俳優兼プロデューサーというのは、俳優としてこだわる部分があっても、プロデューサーとしては、予算のことがわかっているから、それを主張ことが出来ず、その葛藤に苦しんだ」という意味のことを述べておられました。
これは、テレビ時代が到来して後の黒澤 明監督などにも共通することなのかもしれませんね。
あの人も、映画監督としては、撮影のために、川の流れを変えたり、家を立ち退かせたり・・・と、かなり、伝説的なことをやってますが、それは、裏を返せば、それに伴う資金面の苦労はプロデューサーがやっていたから出来たわけで、それが、プロデューサーも自分でやらないといけないようになると、急に、黒澤映画は色褪せてしまった・・・と。
つまり、良い物を作りたいという「現場」の欲求と、資金面を管理する「営業(経理)」との葛藤ということでしょうか。

もうひとつ、今、緒方竹虎という人の伝記を読んでいるのですが、その伝記の中でも、実に興味深い、同様のことが述べられてました。
(緒方という人については、以前、平太郎独白録 : 昭和は遠く成りにけり、「父・緒方竹虎と私」を読み終えて 1や、平太郎独白録 : 昭和は遠く成りにけり、「父・緒方竹虎と私」を読み終えて 2などでも申し述べたとおりですが、1950年代、「あの、岸 信介よりも総理に近い」と言われた人です。)
2.26事件直後、事態収拾のために広田弘毅内閣が出来るということになったとき、朝日新聞では今後の広田内閣に対する態度を決定すべく、当時、編集面での責任者であった緒方が論説委員らを招集し、「朝日新聞はこれまでいずれの内閣に対しても、つかず離れずの態度でやって来たが、この情勢では今後は広田内閣を支持し、文官の力を強めることにより、軍部の力を抑えるという方針をとる外あるまい」という案を切り出したところ、論説委員の一人が、「これまで不偏不党であった朝日が、特にある内閣を支持することはできない」と反対したといいます。
(結局、この反対意見に同調する人たちはこれを良しとせず、まもなく朝日を去ったとか。)
「理念」「現実」か・・・、何とも悩ましい問題ではありますが、私なら緒方さんと違い、理念を採ったでしょうね。
一度例外を作ってしまった時点で、理念というものは、死文化してしまいますから・・・。

で、ここで、今回の落合監督の采配に話を戻せば、確かに、人はとかく、「右はけしからん、左もけしからん」と言いたがるもののようで、要は、人が何と言っても、三原 脩さんのように自分なりの基準があり、「それに従って、決めたことだから・・・」という、つまり、自分自身がその采配に納得できていればそれでいいという「信念」の問題になるのではないかというのが、私の実に曖昧な結論です。
やはり、これもけしからんですかね、御同輩・・・。

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