平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

落合監督の「完全試合よりも勝利への采配」の是非 2

2007年11月08日 | スポーツ
親愛なるアッティクスへ

昨日の続きです。

その意味では、「日本シリーズ史上初の日本一決定完全試合」などというのは、まさしく、それだったのでしょうし、野村克也 楽天監督などが「私だったら変えない」と言ったというのも、「営業」と「現場」をの兼ね合いをよく心得ている野村監督らしいコメントだったと思いますが、一方で、落合監督を含む、多くの監督経験者が、これまで、日本シリーズでの、そのほんの一瞬の躊躇という名の「油断」で、その試合どころか、シリーズ自体の大逆転を許し、敗者になってしまったというのもまた、必ずしもない話ではないわけで・・・。
これも、短期決戦での見逃せない事実なわけです。
で、そうなった後に、「あそこで続投させた落合は偉い!」と言ってくれる人は、まず、いないわけで、それどころか、逆に、「あそこで続投させた落合の甘さが敗因!」などと言われるように思いますし、何より、その顧客重視の采配の結果、シリーズに負けてしまったら、一生懸命に死力を尽くして戦ってくれた現場社員である選手たちに対し、現場の指揮官としてはあまりに、面目がないことになるでしょう。
「俺たちのは何だったんだ。ふざけた気持ちで仕事をしないでくれ」と。
それら諸々を考えれば、落合さんが営業担当だったのならともかく、現場の指揮官としては、決して責められない采配だったと思います。

その上で、昨日も採り上げた三原 脩さんですが、翁は、確か、「監督はスタンドとも勝負する」という名言を遺しておられたと記憶しておりますが、ここで注目すべきは、三原さんは、「スタンドとも勝負する」と言っておられたわけで、「スタンドと勝負する」と言っておられたわけではないということです。
それは、私的に解釈するならば、現場指揮官としては「勝利優先」であり、勝利に向かって精進するが、許す範囲で「顧客満足」・・・ということではないかと。
それを具体的に言えば、三原さんがどこかの監督時代に、娘婿である中西 太ヘッドコーチに経験を積ませるために、事実上の采配を委ねていたそうですが、三原さんは、中西氏が序盤から、三番打者送りバントのサインを出したのを見て、「中西ではだめだ。まったくわかっていない」と言ったといいます。
つまり、勝敗をが決まる終盤ならともかく、まだ、試合が始まったばかりの序盤からチームの看板打者である三番打者に打たせない・・・というのは、観客が何を期待して試合を見に来ているのかがわかっていないということで、観客は、看板打者の快打や主力投手の快投を期待して球場に足を運んでいるのではないか・・・と。
つまり、監督は勝つことを求められる職業である以上、試合には勝たなければならない、しかし、勝ちさえすれば観客のニーズは無視して良いということではない・・・と。

この点では、ロック歌手・矢沢永吉さんは、「客はハプニングを期待している」という意味のことを言っておられました。
これは、よく、マイク・パフォーマンスを披露しているときに、誤って、マイクが吹っ飛んでいくハプニングがあることを言っておられたようですが、まあ、ヤザワ風に言うならば、「一生懸命、一定のレベルのものを提供していて、その上で、この会場だけのハプニングというものがあると、客は喜ぶんだよ・・・」というところだったかと。
「俺は、あのとき、あの会場にいたんだよ!」と言える何かが。
が、ここでも大事なのは、矢沢さんは「客を喜ばせようとしてマイクを投げていない」ということですね。
あくまで、「一生懸命、良い音楽をやっていて、その上で起こるハプニング」なわけです。

明日に続くともなく続きます(笑)。

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