思えば「脱・下請け」から始まった!山ちゃんのレントラ的言いたい放題

函館出身の代表がレントラ便の普及と、公共インフラとしての使命感を強く持って想いのまま綴ります

「普通」であることのありがたさ

2011年12月24日 | Weblog
今年は未曾有の震災がありました。

お亡くなりになった方や、いまだ行方不明の方も多く、東北では「仮設住宅」や「みなし仮設」、自主避難など、従来のご自宅に帰れない方が多くいらっしゃいます。

私は幸か不幸か縁があり、震災翌日より東日本大震災に関わることが出来ました。
目の前で広がる惨状を、自分の五感で見て、感じましたが、いまだに理解することはできません。

自分の今までの人生経験や見識を一瞬にして覆す惨状を目の当たりにして、
多くの東北の方とお話させて頂いて、いまも「震災」の答えを探しています。

・先ほどまで一緒にいた大切な人
・帰る家
・道路
・鉄道
・橋
・信号機
・職場
・・・・・

これら当たり前の日常が、一瞬にして無くなった方がいて、私は何一つ失っていない現実。
普通に生活していることが、何か悪いことをしているような感覚(嫌悪感)に陥ることもあります。

支援活動していても、被災された方から感謝されても、私には帰る家もあり、大切な人も健在です。
同じ悲しみを背負うことは、絶対に出来ることではありません。
被災していない私は、少しでも支援することで、その嫌悪感を拭おうとしているだけなのかも知れません。



私の「価値観」も大きく変わりました。
当たり前の大切さ、自然の非情さ、人間のはかなさ。
これが前面に、全面に立ちはだかっています。

私はこの気持ちを生涯忘れることなく、日々懸命に生きることが、
「震災を風化させない」ことに繋がり、ニッポンの真の復興に導くと信じています。




震災に関しても、国の行く末に関しても、
他人事のような政治家が多い中、同じくニッポンの危機(岐路)ということを今一度、私たちも考えなくてはならない時だと思います。

先人が血を流し、私たちに託した過去の誉れ高きニッポンは、今や地に落ちる寸前です。
これでは先人や、未来のニッポン人に対して申し開きが出来ません。
現代を預かる私たちは未来のニッポン人対し何を残せるか。何をすべきか。
震災を機に「頭を冷やして考える」いい機会ではないでしょうか?


取り留めのない話になってしまいましたが、
被災地のことを、ニッポンのことを今日も考えてしまう私です。