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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

「死」を想う。(後編)

2016年01月16日 | 日常
前々回および前回エントリのつづきです。】

えっと。なんの話だったかと申しますと、
デヴィッド・ボウイを聴きながら、
ぼくはこどものころから比べると亡くなった方のことを
思ったり話したりすることが少し多くなった気がする…
って思ったところからでした。

このブログでも、先日はまた
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』のことを、
なぜだかどうしても書きたくなったので書きまして。
昨年末は水木しげるさんのこと2015年中には書こうと、
思っていたら30・31日の暮れに成りつつも書きまして。

そして年が明け数日後、リーディングリストに入れながら
なかなか読めずにいた岩田聡さん追悼企画記事を、
読みながら。。。 糸井重里さんの、
「深夜寝室へ入り『じぶんのベッド』に
 じぶんがいない光景を見て、
 死んだあとの世界がどういうことだかわかった。」
ということばのことをまた想ったり‥‥

ぼくは以前、辛くなればじぶんで、
(死にたい…)と思ってしまっていたたちで。
それはさ、久保ミツロウさんの漫画『モテキ』での、
小宮山夏樹に振られた主人公・藤本幸世の頭の中、、、





あ~~死にたい超死にたい
このまま飛び込んじゃったらニュースになるかなー
そしたら そのニュース 夏樹ちゃん見て
「私のせい…」とか思ったりするかなー
一生 トラウマになってくんないかなー


(『モテキ』1巻・第6話より引用です。)





的な。それはたぶんひとに心配をかけようとしたり。
ひとをおとしいれてしまうような(死にたい…)だったと、
じぶんで振り返れば思うのだけれど。
ごめん。。。

かたや、ぼくのすきな「ほぼ日刊イトイ新聞」では、
糸井さんが引退されてからの糸井さんのいなくなったあと、
「ほぼ日」の場をどうするか??
という問題を考えていると知り。これは、かつて
ぼくが考えてしまってた「死」とはちがう種類の「死」が、
そこには在って。ぼくは反省したのですが。
つまり、ああいう(死にたい…)はよくない。と。

そのときのじぶんのせめてもの戒めとして、
ぼくは亡くなった方のお悔やみを想っているかもしれない。
とも感じてきた。
芸能や有名人だけでなくて亡き祖父母やご先祖のこと。。。

2016年1月16日 @ INTERNET KISS

「死」を想う。(中編)

2016年01月15日 | 日常
本日は前回エントリで申しあげました、
岡村靖幸さん著『岡村靖幸 結婚への道』を読み、そこには、
「結婚」だけでなく「死」のことも多く書かれている‥‥
のつづきでございます。

岡村さんインタビューでの、
松田美由紀さんの回では松田優作さんを想いますし。
小山明子さんの回では大島渚さん。。
松尾スズキさんとのお話しの中では、松尾スズキさんが
岡本太郎さん・岡本敏子さんのご関係にも触れられ。。。
そして、田原総一朗さんは二度のご結婚をなされて、
どちらの奥様も病気で亡くなられたというのは、
ぼくは初めて知りました。

また、鈴木おさむさんの回では、
奥様・大島美幸さんへの想いを「死」ということばで、
表現しておられます。

これより、この場面の引用を申しあげます。





岡村 大島さん、かなり
体当たりのロケをされてましたもんね。


鈴木 僕もテレビの人間だからよくわかるんですが、
ケガとか事故も十分あり得るし、
ましてや、海外は危険な場所が多いじゃないですか。
何日も連絡がとれなかったりすると、
最悪の事態を本気で考えてしまうんです。
ああ、どうしよう。奥さんがいなくなったらどうしよう。
死んでしまったらどうしよう。
毎月1回それを考えさせられ続けたんです。
で、もしも奥さんがいなくなってしまったら。僕は
自殺するだろうなっていうのがいまの僕の答えなんです。


岡村 えっ? 本気ですか?

鈴木 はい。妻が死んだら僕も死にます。
妻がいなくなったら僕が生きている理由はもうないんです。


岡村 えっ……。

鈴木 もちろん、子どもがいれば別です。
なんとか生きる方向を考えますし、
子どもの存在は僕が生きる理由になります。でも、
子どものいない現時点では、それが僕の答えなんです。


(書籍175頁より引用です。)





このインタビューは2014年8月号雑誌掲載されまして。
その後2015年6月、ご夫婦に待望の第一子が誕生。
とのことであります。

最後の回では、シーナ&ロケッツ・鮎川誠さん。
昨年お亡くなりになられた奥様シーナさんのおはなし、
すてきでした。。。

ぼくは結婚をしておりませんので、
これはもういかんともわからないんですが。
「結婚」とは、「生」と並行しながら、
「死」が密接に結びついているかもしれないと感じました。

(次回へつづく。)

2016年1月15日 @ Merry Christmas Mr.Lawrence

「死」を想う。(前編)

2016年01月14日 | 日常
デヴィッド・ボウイのおんがくを聴きながら、
きょうのブログ書いているのだけどね。
そーいえば、ぼくはこどものころから比べると、
亡くなったひとのことを思ったり、想ったり、考えたり、
お話しの話題にすることが多くなったような気がする。。。

あ。でもぼくはボウイをよく知らなくて。
B'zの稲葉さんがフェイバリットに挙げられていたり。
奈良美智さんがテレビ番組のなかで、
『Starman』を紹介されていたり。の、
そのことを耳にしてからぼくも聞くようになったぐらいで。
それでもさ、たとえば年上のお知り合いのかたから、
ボウイのお話しを少し伺いながら、「死」に想いを馳せる…

前回エントリで申しました、
岡村靖幸さん著『岡村靖幸 結婚への道』は、
岡村さんが「結婚」について
様々なひとへインタビューをしてゆく本なのですが。
「結婚」だけでなく、
「死」のことも多く書かれている気がしたの。

岡村さんが著書の冒頭でおっしゃる、
“ジョン・レノンにおけるオノ・ヨーコのような、
 尊敬できる女性と出会って結婚を、と思う。”
(書籍2頁より引用です。)
という、ジョンのことは、やはり「死」について想うし。
その後の岡村さん×ピーター・バラカンさんのお話しでは、
ジョンのことがたくさん語られていて。
当時のことを、より、知ることができてよかったと思った。

と。もうちょっと文章が長くなりそうですので、
次回へつづきます。

2016年1月14日 @ All The Young Dudes

Will you marry me?

2016年01月13日 | 読書


昨年末、図書館の新刊コーナーを見ておりましたら、
光り輝いて見えたので思わず手にとって。
そして昨日、その、
岡村靖幸さん著『岡村靖幸 結婚への道』読了ー。

岡村さんが、
「結婚とは何か?」をインタビューしてゆく本なのですが。
おもしろかった~!!



ぼくはこれまで岡村さんのことよく知らなくて。
知っているとすれば、
Mr.Childrenの桜井さんが「Bank Band」でカバー、のと、
クラムボンがカバーされた『カルアミルク』。
また、漫画&ドラマ&映画『モテキ』での場面から、
のことだけぐらいなのですが。
(なので「岡村ちゃん」とはなかなかまだ呼べない…)
図書館で思わず本を手に取りましてからの数日後、
クルマに乗っててラジオつけますと、
坂本美雨さんの『ディアフレンズ』が放送されていて。
その日のゲストがちょうど岡村さんでしたので、
なんだかぐーぜん! と思ったりとか。。。

著書でのインタビューお相手の方みなさんが、
「結婚」についてとっても本音でお話されているかのようで。
それがすてきだなーと感じました。
たぶん、岡村さんのお人柄なのかも?? とも思ったり。

岡村靖幸さんの音楽聴き始めてるよ~!
あたらしい出あいが有難いです。

2016年1月13日@マシュマロハネムーン~セックス

変身シーンの官能性。

2016年01月12日 | 考えごと
前回エントリでは「変化」について申しまして。
そこからさ、「変化」や「変身」には、
「変身シーン」がつきものだなぁーと思ったんよねぇ。

たとえば、
「特撮ヒーローもの」でも「魔法少女もの」でも
「プリキュア」でも「セーラームーン」でも、
なんでもそうなのだと思いますが。
主人公が「変身」するためには「変身シーン」が不可欠で。
「変身前の状態」から、「変身シーン」が始まって、
「変身シーン」のあいだは「変身中」、そして、
「変身」が完了され「変身シーン」が終わることにより、
「変身後の状態」に成る。的な。厳密に言えば。。。

そーいうよーな「変身シーン」ってなにか、
官能的だわーとつねづね思うの。

たとえば「セーラームーン」で申しあげますと、
いったん裸になって服を「着替える」というだけでなくて、
からだの細胞ごとすべて「入れ替わる」働きが
「変身シーン」にはあって。
その「入れ替わり」が官能的なのかも? と思ってる~。
ん?! おれはいったい何を言っているんだろう‥‥
ま、いいや。それでさ、
誰だって、なにか戦士に「変身」するというよーな、
大げさなメタモルフォーゼじゃなくっても、
「変化」するには「変身シーン」を経過させることが
肝要だと感じてるのよね。

本人が歩いているときとかに本人の意思とは関係なく、
いきなり「セーラームーン」に「変身」しちゃったら、
それはまた奇妙な話だし。。。

いや、でもその「変身シーン」とはなにか?!
ってぇのはぼくはまだよくわかっていないんだけれど。
えーと、こう言ってはもしや怒られてしまうかもですが、
「変身シーン」とはつまり吉本隆明さんおっしゃる
自己表出」と近いものがあるかもしれない。
と思いました。

「変身シーン(のようなもの)」が無ければ、
「変身」や「変化」はできない気がする~。

2016年1月12日

「できない」から「できる」へ

2016年01月11日 | 考えごと
「わからない」から「わかる」へ、でもよいだけども、
「できない」から「できる」へ移るときってさ、
じぶんのなかで何があったときなのかねぇー??

「できない」から「できる」へ、とは言いましても、
あるときにふと「できる」ようになるときもあれば、
そう言えばいつのまにか「できる」ようになってた!
のときもあるかのう。
どちらとしましてもそのどこだかの段階で、
じぶん自身の「変化」と呼べるような、
経過があると思ったんよね。
「できない」の状態から、なにかしらの「変化」があり、
「できる」に成った。みたいな。。。

その「変化」とは、いったいなんだろう?!

‥‥と、最近またすこし考えております、
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』のなかで、
吉本さん仰る

「人間がある表現をすると必ず、
 人間の表現しただけ自然が変化します。そして必ず、
 表現した自分もその表現と同時に、
 自然の方から逆に変化させられてしまいます。」

のことが頭によぎりまして。でもその、
「表現によって自然の方から逆に変化されてしまう。」
という「変化」こそが、
「できない」から「できる」へ移るときの
「変化」なのかもなぁ?? と思いました。
うーんと、うまく言えないだけど。
たとえば練習をするとかさ。よく考えるとか。
会話や対話をするなかでなにか突破口が見つかるとか。
なんでもよいのですが。
「表現」をすれば必ず表現した人間も「変化」させられ、
その「変化」に人間は決して抗うことができない。

ここで言われる「変化」にはさ、
たぶん「よい変化」だけじゃなくって、
「悪い変化」だってもちろんあるだろうけど。
「変化」の境目には、
必ず「表現」や「表出」と言うものがあるんだと思って。
じぶんの「表現」による「悪い変化」にも目を向けつつ、
「よい変化」のほうだって、もしかすれば
できるかもしれない。って想うことが希望であるかも??

つまり、吉本隆明さんの講演『芸術言語論』とは、
そういう希望かもしれないと感じたの。
いや、まだよくわかってないのでまたじぶんで考えますー。

2016年1月11日

「わかった!」と言えるためには…

2016年01月10日 | 考えごと
「わからない」ことは「わからない。」って、
ちゃんと言えたらよいなー。と思っているだけれど。
じゃあさー、逆にいったいどーいうふうになれば、
「わかった!」て言えるんだろーか?!
を考えておりまして。。。

まずはねぇ、「わかる」とは、
「できる」と関連してるような気がしますので、
「できない…」から「できる♪」へ移ったときが
「わかった!」を言えるさいしょの一歩かと思ったの。
「わかってるけど、できない。」のときは、
まだまだ、わかっていない。

「『できる』ようになる」ていうのもさ、
なんていうか、自転車に乗れるようになったときみたく、
乗れるようになればもうこれからもずっと忘れずに
乗り方をからだが覚えている。のよーな??
そーいうのが真の「できる」だと思った。

「わかってるけど、できない。」の逆パターン、
「できるけど、なぜできるかがじぶんでもわからない。」
のときもあるとおもうけれど。
それはもう、それでよい、と思う。
「できる」か「できない」か、に比べれば、
「わかる」か「わからない」か、なんて、
ごくささいなことのような気がするー。
できるのならば、わからなくともよい、とも思える‥‥

かと言って、
「わかった!」を言えるようになるためには、その
「できるけど、なぜできるかがじぶんでもわからない。」や
「できないし、わからない。」でも、
じぶんで「わかる」ようにならなきゃ言えなくて。
つまり、じぶん自身で説明をこころみて、
さらに、その説明を相手に伝えて、
ひとりでもよいから誰かに納得してもらえたときに初めて
「わかった!」を言えるんではないかなー。と思った。

ってなればだよ。そんな段階を経てなんて、
おれが「わかっている」ことなんて皆無だわー。
うそになってしまうから、
「わからない」ことは「わからない。」て言わないとだわ。

2016年1月10日

半世紀に渡って

2016年01月09日 | 考えごと
ブログでなんどか書いているとも思うけども、
2008年7月開催されました吉本隆明さんの講演会
芸術言語論――沈黙から芸術まで』を、
ぼくは会場まで観に行きまして。

吉本さんのお話はぼくにはやはりむつかしく。
その後のテレビ番組やDVDや講演の音源、
ほぼ日での糸井重里さんの解説などを観ながら読みながら、
考えたりしてみても、それでも、
まだまだじぶんでわかっていない。とおもう。。。
できてないんだよねぇ。

「沈黙」って、どういうことだろう?!

当時、会場で拝聴しておりまして、
とくに印象的でした場面はいくつかございますですが。
それはたとえば、吉本さんが身ぶり手ぶりで
宙に舞うことばをつかまえるかのようにお話されていたり、
ときに黙ってことばを考えておられるお姿。。。
そして講演の最後。
終わりの時間がやって来たことを
糸井さんが講演中の吉本さんへ伝えに登壇されたとき、
吉本さんがお話されたことばがかっこよいなーと思ったの。
それはね…

「ほぼ半世紀に渡って頭のなかで考えてきたことだから、
 そうかんたんに、あんまり・・・」

と、そうおっしゃって、
お客さんみんな「わーっ!」て拍手されて。
その光景がすてきだったー。

吉本さんが、半世紀かけて考えてこられたことを、
ぼくがすぐわかるはずがない!!
折にふれて吉本隆明さんの「沈黙」について考えたい。
思い出したい~。 あ、そーかっ、
「沈黙」って、どういうことだろう?! て考えてる時が、
つまり「沈黙」な瞬間かもしれない。

2016年1月9日

「パンくず」をたどる。

2016年01月08日 | 読書
「口」と「からだ」がそれだけ遠いのならば、
たとえば「本」を読むときでの、
「本」と「からだ」の距離ってどんだけ離れてる?!

てゆうか、じぶんの「口」よりも近いはずがないっ。

「本」を読むときにはさ、たとえば、
その「本」の紙面を照らす「照明」が太陽で。
読者である「じぶん」は地球。「本」が月。そして、
じぶんの「腕」は月と地球とを繋ぐ万有引力となって。
月の「白黒模様」を地球から眺めるように、
「本」を読むんだとぼくは思ってるだけれど。
つまり、だいたい30cmぐらいある「本」との距離は、
約38万kmだった。みたいな。。。

の、それから、最近ちょっと考えてたのはねぇ、
「本」の文字って、
『ヘンゼルとグレーテル』の「パンくず」のようかも、と。

ヘンゼルが道に迷わないようにパンをちぎって
地面へ落としてゆく「パンくず」みたいに、
作家のかたがつけてくださった目印を見失わないように、
たどってゆくことが読書なのかも???
道順を記憶したり早く目的地へ到着したり、のことよりも、
ひとつひとつ慎重に「パンくず」をたどりながら
そこから見える風景をぼく自身も眺めたりすることが、
大事なのかなぁ。とおもったのよね。

最初のページから最後のページまでの「距離」で言えば、
もうすんごい遠い。。。
約38万km離れた場所にある「パンくず」を、
ひとつずつ細かくたどってゆくなんて、大変よ~。
でも、「じぶん」と「本」との距離感ってば、
そのぐらい離れているようにも思えるし、
そう思ってないとじぶんの読書が間違えちゃう気もするの。

たった30cmだからと言って、それが、
本当に30cmなのかどうか?! 

2016年1月8日

「からだ」と「口」の距離

2016年01月07日 | 考えごと
「からだ」と「口」って、近いように見えるけど、
じっさいはどんだけの距離がある?!

言おうと思えば、
なんでも「口」で言えるように感じられても、
「言えること」は言えても「言えないこと」は言えないし。
「言えないこと」を言ったところで、
さっぱり言えてないし、どちらかと言えば、嘘っぽい。。
「口」からのことばでじぶんを飾り立てようとしてみたり、
自慢ばなしだったり、
おれはこれだけ知ってるぞとアピールするようなことって、
じぶんでも今だに日常茶飯事で。じぶん自身を、
よく見せたい欲求が出てきちゃうのってどーして???

言おうと思ったところで、
「民話」も「寓話」も「落語のお噺」も「すべらない話」も
とうてい言えないし。かと言って、
じぶんの「からだ」そのままの「ことば」っていうのも、
言えない。

「言えること」って、なんだろー。

まるで「口」と「からだ」が、
遠いところまで離れて行ってしまったようだわ。
「からだ」から「口」が「家出」しちゃったみたいなさ。
とするのならば、
「からだ」のほうが「口」まで「来てもらう」よりも、
「口」のほうが「からだ」まで「帰ってゆく」ほうが、
現実的のよーな気もする。
かつて「口」に何があったかは関係なく、
遠くまで離れちゃった「口」が「からだ」へ戻る旅をする…

とするようなことが前回エントリで申し上げました、
吉本隆明さんおっしゃる
「沈黙の言語」なのかもしれないと思いましたです。

でもたぶんさー、仮に
帰ることができたとしてもまたすぐに離れちゃいそうだし。
ってなると「首輪にリードでむすんでおく。」
なんてことをしてもよくねぇだろうし。
どーすればよいか、とかは、まだよくわからない~。

2016年1月7日

「幹」から発せられることば

2016年01月06日 | 考えごと
前回エントリを書きながら、
ぼんやり思い出しておりましたのは、
吉本隆明さんの講演『芸術言語論――沈黙から芸術まで
なのですが。。。

前回、ぼくが「人間」を「木」に例えましたのは、
そういえば吉本さんの例えそのまんまだし。でも、
かと言って、ぼくがその中でも「実」について考えていた
というのは、じぶんはまだまだ『芸術言語論』で、
吉本さんがお話されていたことは理解できていないなぁ。
とおもったのよね。

つまり、それは「沈黙」のこと、なのだけれど。

吉本さんおっしゃるには、
樹木の枝のところに「花」が咲いたり「実」をつけたり、
また「葉っぱ」をつけたりするというのは、
春には芽が吹き出して、秋から冬にかけては例えば
風にちょっと吹かれるだけで落ちてしまうものだから、
それは決して言語の「幹」ではない。
季節ごとに変化したり落ちてしまったりするような、
枝葉から出てくるのは「コミュニケーション言語」であって、
それは言語のほんとうに重要なところではない。

いわゆる「木」の「幹」と「幹」に近いところ、
「幹」のすれすれのところから発せられることば、
つまり「沈黙の言語」があって。
「花」や「実」という「コミュニケーション言語」と、
「幹」や「根」という「沈黙の言語」とを、
分けて考えれば考えやすい。とおはなしされます。

あ。いえ、すみません。ぼくはまたさ、
わかっていないことをわかっていないまま、
理解できていないまま、書こうとしてる気がする。。。

うーん‥‥

「幹」から発せられる「沈黙」のことばとは、
どういうものなのか?!
のことをまた少し考えてみたいとぞんじます。
ちゃんとできるかどうかはわかりませんが、わかりたい~!

2016年1月6日

「自分のことばで考える。」とは?!

2016年01月05日 | 考えごと
古賀史健さんが書いておられる「note」での、
バトンズ3つのルール
という昨日のエントリを読みまして。
ぼくにはお仕事での原稿のことはよくわからないけど、
じぶん自身が日々で言う「ことば」にだって、
それらは大切なことかもしれない。
と思い、考えましたことを本日ブログ申しあげます。

古賀さんおっしゃるくわしい内容は上部リンク先での、
「note」をご参照いただきたいですが。
ぼくがとくに思いましたのはルール3つめの、

【自分のことばで考える。】

でございます。
【自分のことばで考える。】とはよく言われることだし、
でも、それってじつはどういうことなのか?! 
って、ぼくはあんまりわかっていないんだよねぇ。
じぶんが言う・言っている「ことば」は、
果たしてほんとうに【自分のことば】なのか??

古賀さんは、
「借りもののことばでなく、一般化に逃げ込むことなく
『わたし』を主語にして考えること。」
とのように書いておられますが、
聞けば簡単そうに思えても、なかなかできない。

ぼくが実際にできてるかできてないかは別といたしまして、
じぶんで思ったイメージを申しますと。。。
たとえば、「人間」を「木」に、
「ことば」を「実」だといたします。
その、じぶん自身の「木」に成った「実」のことを
【自分のことば】と呼び、そして、
どこかのお店で買ってきたり他の木より採ってきた「実」を
セロハンテープ等でじぶんの「木」にくっつけたりすれば、
【借りもののことば】となる。のかなぁと思った。

誰かからの「ことば」でございましても、
その「ことば」をじぶんの根っこちかくに撒いたりでの
「水」や「養分」やまた「日光」とすることにより、
「実」が成ればそれは【自分のことば】だし。
つまり、じぶんという「木」の「内部」を
「通している」という意味なのだけどね。

ってゆうそれのいちばんの問題点はさ、
「実」が枝に成るまでに「とても時間がかかる!」なのかも
しれないなー。セロハンテープだと一瞬だもんねぇ‥‥

じぶんの「木」に「実」が成るかどうかわからないし、
その「実」がおいしいのかどうか、
いや、食べられるかどうかさえも知らないけれど。
ちょっとこのようなことを思いました~。
古賀史健さんのおっしゃる「3つのルール」のこと、
できるように成りたいです。

2016年1月5日

「ふく」5連発

2016年01月04日 | 日常
おととい2016年1月2日初売りの日。
豊橋駅ビル・カルミア無印良品でね、
福缶」買えてうれしかった~。
なかに入っておりました縁起物は、、、



福岡県福津市・筑前津屋崎人形巧房さんの、
筑前津屋崎人形 モマ笛」です。
かわいいっ!!



↑ななめからみた図。

説明リーフレットによりますと、
津屋崎の地方ではふくろうのことを「モマ」と呼ぶ、
とのことで。
先をみ通す能力を持つとされるふくろうの、
「ホウホウ」という優しい音色を奏でる土笛は、
吹くと気道が広がることから、かつては
お年寄りが食べ物を喉につまらせないおまじないとして、
食卓で吹かれていた。ようですー。

なので今回はじぶんの部屋でなく、



食卓ちかくのサイドボードに飾りました。

最初の写真では「モマ笛」の座布団として敷きました、
同梱のハンカチには、
福岡県みやま市「きじ車」の形が刺繍されておりまして。
「きじ車」はまたリーフレットによりますと、
「開運や縁結び、家庭円満のお守り、玩具として親しまれ」
とのことでこちらもうれしい。

「福缶」「福岡県」「福津市」「ふくろう」の笛で「吹く」
というような、
「ふく」の5連発がなんだか有難いです。。。

2016年1月4日

しゃっくりのこと。

2016年01月03日 | 日常
ぼくの「しゃっくり」が出るときには、
たいてい2パターンございまして。
ひとつはね、お酒(とくに炭酸系)をけっこう呑んで、
じぶんのアルコール許容量がもうギリギリまで
近づいて来てしまったとき。

あとひとつは単純に「疲れた」とき。

こどものころにさ、
「しゃっくり」とは「横隔膜の痙攣」ていうのを知って。
それからは横隔膜と言えば呼吸かなぁ?! って、
息を止めたり吐いて吸ってを繰り返して止めようと思い、
こどものころはそれでかなり止まったんだけれど。
近頃ではそーもいかないのよ。。。
お酒のときではたとえばウーロン茶を頼んだりして、
そこからすこしでもアルコールが抜けてくれば
「しゃっくり」止まるのじぶんで大体わかっているの。
んでもよ、疲れた場合での「しゃっくり」が出ちゃって、
しかも休めないときにはどーするか??
の問題はじぶんにとってむつかしい~。

昨日は初売りでいろいろ出かけたですが、
やはり疲れたのか超ひさしぶりに「しゃっくり」が出て。
それも2回!(最近ではあんまり出ないんだけど…)
一度目は夕方ぐらいに出て、ひとりベンチで腰かけながら、
呼吸を整えたりいろいろしてみたけどダメで。
それで昨日は母と出かけまして、母の用事が済み、
よし次のところへ行こー! となったところで、
場面が転換したかのように止まった。

二度目は帰りのクルマ運転中、
もうちょっとで家に着くというところで
またもや「しゃっくり」出てきて。ぜんぜん止まらんくて。
もうあきらめつつ運転し家へ到着して、
部屋でからだを横にさせたら一瞬で止まった。。。

「しゃっくり」ってなぜ出るかとかよく知らないけれど、
じぶんの状態を教えてくれる
ひとつの「アラーム」のような気もする~。

2016年1月3日

フジモトマサルさんのカレンダー

2016年01月02日 | 日常


昨年のクリスマスの日、
フジモトマサルさん「卓上カレンダー2016」届きまして。
そして元日の昨日、




壁に飾りました~。

卓上で置くところがないので、
でもかと言って「カレンダー」に穴も開けたくないので、
鋲と壁のあいだに滑り込ませ収納させる方法で、飾る~!

昨年の前半は、
村上春樹さんの期間限定サイト「村上さんのところ」へと、
朝起きて読みにゆくのがもう日課になって。
イラストすてきだなぁ! と日々おもいながら、
フジモトマサルさんをぼくはそこで初めて知ったのですが。
フジモトさんのご逝去を聞きましたときには、
ぼくはほんの少しの時間だけしか知らないけど、寂しくて…
それから、新潮社のサイトで、
「卓上カレンダー2016」購入いたしました。
すてきです! 大事につかいたいっ。

改めましてご冥福をお祈り申しあげます。

2016年1月2日