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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

「ない」のこと。

2016年03月10日 | 日常
本を読むときや、
録画したテレビ番組を見るとき、
レンタルしてきた映画のDVDを観るときにね、
「この本を読まないといけない!」みたいにおもいながら
読んだり観たりするのはけっこう辛いなーと感じて。
「これをしたい。」って言えばよいのに、
なぜだか「しないといけない!」と考えてしまう。。。

「しないといけない!」の辛さってのは、
「ない」ということばが2つ入ってるからかもなー。
「ない」って実はむつかしいことばのような気がしていて。
「ない」を使う場面は、
結構たくさんあると思うけれど。もしかしたら、
使うときには少し慎重になったほうがよいかもしれない。

というので思い出したのはねぇ。
コピーライター・谷山雅計さんの著書
『広告コピーってこう書くんだ!読本』より、
谷山さんが糸井重里さんから伺ったと仰るおはなしでの‥‥





これは以前、糸井重里さんにお聞きした話ですが、
たとえば、
「この香水はウンコのような香りはしない、
 すばらしい香りです」という文章があったとすれば、
受け手はどう感じるでしょうか。


(『広告コピーってこう書くんだ!読本』76頁より。)





「のような香りはしない」
と否定してみても、まったく否定しきれずに、
どこか感覚が引っ張られてしまう。

この逆ではさ、『人志松本のすべらない話』での
「すべらない」のことばは、
すごい叡智を含んでるような気がするー。
考えてみれば『◯◯のおもしろい話』というタイトルよりも、
『すべらない話』のほうがよい気がする。
このへんはうまく言えないけども。

他にたとえばぼくが最近ちょっと感じたのは、
「あきらめない。」ということばが、
ときにじぶん自身を苦しませてしまうことになるかも、と。
Mr.Childrenの桜井和寿さんが以前にね、
【「諦める」とは「明らかに見極める」こと。】
と話していて。桜井さんの
そのことばがぼくはとっても印象残っているのですが。
「あきらめない。」とは、
「『明らかに見極める』ことをしない。」という宣言にも、
受け取ってしまえるのではないか?!
たとえば逆に「つづけたい。」とかのほうがさ、
ときに健康的なのかも、とも少し思う。

そして、早野龍五さん×糸井重里さん共著
知ろうとすること。』をまた読み返して。
糸井重里さんの「あとがき」を読み、
このたび初めて感じたことがございまして。まずは、
糸井さんの「あとがき」より引用を申しあげます。





2011年のある時、ぼくはこんなツイートをしました。

<ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、
「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
「より脅かしてないほう」を選びます。
「より正義を語らないほう」を選びます。
「より失礼でないほう」を選びます。そして
「よりユーモアのあるほう」を選びます。>

これは、いまにして思えば、
早野龍五さんの姿勢を語っているとも言えそうです。
あくまでも、どこまでも
「事実」を尊ぶためにとっている姿勢を、
ぼくなりにスケッチしたのが、
上記の短文になったのだと思います。


(『知ろうとすること。』180頁より。)





この糸井さんのツイートでは、
「スキャンダラス」「脅かす」「正義」「失礼」は、
【ない】ほうなのだけど。
唯一最後の「ユーモア」だけは【ある】となっていて。
これには何か意味があるのだと感じました。

「ない」のことと、「ある」のことと。。。

2016年3月10日 @ かぞえうた

出る力

2016年03月09日 | 日常
前回エントリではインプットについて書きまして。
インプットとは「入(い)れる」でなく「入(はい)る」、
つまり「入力」は【入る力】ではないか???
ってすればだよ、逆に、
アウトプットとは「出(だ)す」でなく「出(で)る」、
つまり「出力」は「出す力」じゃあ無くって、
【出る力】なのかもしれない。のことを今回書きます。

ぼくが昨日申したように、
ある「作品」の中へ入ってゆくとしたら、
そこをくぐり抜けて、そして最後には、出てゆきたい!!
ここでイメージするのは「洞窟」なんだけどねぇー。
洞窟へ、入り、進み、出る、って、
じつはけっこうむつかしいことのような気がしている。
例えばゲームでの洞窟を抜けてつぎの世界へ行くみたいな…
抜けた先の景色が少し劇的に見えたり、見えなかったり、
それは洞窟の中での「経験」が関係してるのかも?

と。そーすれば、洞窟へ「入る」前のじぶんと
洞窟から「出た」後のじぶんでは、
もう別人のように変化している時があって。つまり、
この変化のことを【出る力】なのだと思いたいんだけどね。

インプットやアウトプットって言うのは、
たぶん機械やコンピュータの用語で。その用語を、
人間が「記憶する」や「表現する」の場合で使ってしまえば
なにかじぶんも機械のように思えてきちゃって。
入力して出力して、って、おれはロボットか?!

なのでその「イン」と「アウト」のことを
「入れる」や「出す」の意味ではなくって、こーいう、
「入る」や「出る」に置き換えてみたいと思ったの。
まぁ詭弁なのかもしれないけれども、
ぼくはなんだか大事かもなぁと思いました。

2016年3月9日 @ Body Feels EXIT

入る力

2016年03月08日 | 日常
なにか「アウトプット」をするために、
まずは「インプット」する。ていうのがさ、
ぼくはどこかちょっと違和感を思っていて。

この場合の
「アウトプット(=出力)」とは「表現」のことで、
「インプット(=入力)」は「鑑賞」だと思うけど。
「作品」を食べてじぶんのからだに「インプット」させて、
その中に含まれる「栄養(のようなもの)」を取り入れ、
「アウトプット」する。という流れは、
一見合理的なような気がするけれど。
ほんとうにはそんなことができるのかどうか、わからない。

つまりちょっと単純に言ってしまえば、けっきょくは
じぶんの「表現」のために、
じぶんの「作品制作」のために鑑賞するというのは、
どーなんだろーか? と、じぶんの中で悩んでおって。。。

それからすこし考えたのはね。
「インプット」って「取り込む」とか「吸収する」とかの
からだに「入れる」こと、つまり、
「入力」とは【入(い)れる力】だと思ってたけれど。
もしかしたらそれはそうではなくってさ。
たとえば鑑賞をするときには、
作品をこちら側へ「取り入れる」でなく
作品の内部へ「入ってゆこう」とすること、つまり、
「入力」とは【入(はい)る力】なのかもしれない。

目の前に在る「作品」は大きくて、
逆に「じぶん」は小さくて、
どーやっても「じぶん」の「口」に入れることができない。
切り分けたり、ミキサーにかけたり、スムージーにしたり、
なんてことを勝手にしてしまってよいものかどうか???

ある「作品」の中へ「じぶん」が入ってゆき、
そこでなにかを「経験する」ということが、
鑑賞なのかもしれない。
たべものをたべて「栄養」を取り入れるみたいな、
そういうことじゃあ無いような気がしてる。

2016年3月8日 @ 隔たり

すごもりむしとをひらく

2016年03月05日 | 日常
ぼくは二十四節気のことぜんぜん知らないけれど、
「啓蟄」っていうのは、
なんだかことばのひびきがすき~。
「清明」や「穀雨」や「芒種」や「処暑」や「霜降」やも、
かっこよいっておもうですが。
「啓蟄」とはくわしくはわからんけどすきっ。

スマホに入れてちょこっと見ています
アプリ『くらしのこよみ』によると‥‥





地中で冬ごもりをしていた虫たちが、
早春の光を浴びて温もった土を啓(ひら)き、
這い出してくる、という意味です。
「虫」とはいいますが、
この場合はいわゆる昆虫だけではなく、
蛇や蛙、蜥蜴(とかげ)など、土にひそんで冬を過ごす
さまざまな生き物をさすとされます。


(アプリより引用です。)





‥‥というその「啓く」と言うのがねぇ、
どこだか暗い穴のなかから抜ける的なイメージで。
なにかポジティブな気がするの。

二十四節気をさらに3つに分けた七十二候では、
「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」
と呼ぶらしいのですが。
「蟄」とは「こもる」の意味で、
そこから「虫」が「戸」を「ひらく」感じなのねー。

暦どおり、最近ちょっとあたたかくなってきたし。。。

『くらしのこよみ』に出ていた旬の「さわら」たべたい!!
こどもの頃ちょっとおさかなのことを敬遠してたけど、
どーしてだか「さわら」だけはすきで。
「さわら、たべたいー!」ってよく言ってたらしい。

2016年3月5日 @ 穴を掘る

TARO MONEYのつかいかた。

2016年03月02日 | 日常
今から10年前の2006年。
岡本太郎さんの壁画『明日の神話』再生への「寄付」のため
つくられたコイン『TARO MONEY』を、
ぼくも当時購入しまして。
(銅製の『1 TARO』のほうを1セット買っただよ。)




片面には、太郎さんの顔。




もう片面には、太郎さんの作品『午後の日』の絵柄。

この『TARO MONEY』をねぇ、
ぼくはWEBページで紹介されていたみたいな、
すてきなつかいかたは全然できなくって。
アクセサリーとか、キーホルダーとか、ピンとか。。。

‥‥と、そーしてそのまま時が経ち、




現在ではこんな感じの、




電気スタンドの台に置き、飾っておく。
ていうように落ち着きまして。
んでもあるとき(2014年)にさ、ぼくは、




iMacを買いましてん。

そのiMacのキーボードと、
指をスライドさせコンピュータ操作するトラックパッドの
左側面には、乾電池を入れる場所があるんだけれど。




(↑これですね。)

あけるにはくぼみにはめる「コイン」が必要で。
初めてのときにふとひらめいたのはさ、
目の前に在る『TARO MONEY』でひらけばよいじゃん!と。
お財布から毎回「お金」取り出すの地味に面倒だし…。
『TARO MONEY』で、って決めとけば、
楽だし、楽しいかなぁと思ったのよ。

こうしてぼくの『TARO MONEY』のつかいかたが、
数年越しに決まったの~。
(いや、まだまだ他に考え中であるけれど。。。)
最近「お金」についてブログ書いていて、
このことを思い出したもんで書こうと思いましたっ。
「お金」のことは折に触れてじぶんのなかで考えてみるです。

2016年3月2日 @ Dance With Me

外れた前掛け

2016年02月25日 | 日常
2014年公開の映画
『WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~』でね。
染谷将太さん演じる主人公が、
山でふと出あったお地蔵さんへ「おにぎり」をお供えして。
すると、その後主人公たちに見舞われたトラブルを、
お地蔵さんが助けてくれる。というシーンがございまして。
すてきだなーって思いながら映画を観ていたのですが。

当時、そのシーン観てちょっと思い浮かんだことはさ。

ぼくの近所にもお地蔵さんがいて、
そこのお地蔵さんはふたりいるんだけれども。
かたほうのお地蔵さんの「前掛け」が下に落ち、
裸になって立っていたなー。と思ったのよ。
そして、映画館から帰って来て、
そのばしょを通ったときお地蔵さんを見てみれば、
やはり前掛けは外れていて。
だからぼくは下に落ちてしまってる前掛けを
かけてあげようと思い。お地蔵さんへ手を伸ばし、
前掛けをつかみ「すこしだけ失礼します…」と想いながら、
お地蔵さんの背中でひもを結い、着せてあげた。

そのときに気づいたのはねぇ、
お地蔵さんは「こども」を抱いている。。。

これまでもっと遠くから見てたから、
全然わからなかったのだけれど。
お地蔵さん、小さなこどもを抱えるデザインになってて。
近づいて手で触れることで初めて知ったー。
前掛けがちょうどおなかの辺りにいるこどもをつつみ、
これならあったかそうだなぁと感じたの。

それからはどこかちょっと親近感を覚えちゃって。
通るときにはしゃがんでお地蔵さん達に手を合わせてる。
最近では、どなたかの方が、
おNEWの前掛けを用意してくださったようで。
(以前までのはすこしボロに成ってしまっていた…)
ふたりのお地蔵さんに、まっかの前掛けが似あってる~。

2016年2月25日

書かなかったことの集積

2016年02月24日 | 日常
古賀史健さん
『20歳の自分に受けさせたい文章講義』のなかで、
古賀さんは「文章を書く」ときには、
【なにを書くか?】ではなく【なにを書かないか?】が
大事だと書いておられるですが。(書籍230頁~)
ってなるとつまり「文章」とは、
「書いた形跡」ていうよりも
「書かなかったことの集積」であって。
たとえば、ぼくが書いた「文章」を見るときにはさ、
【なにを書いたか?】というのが見えると同時に、
【なにを書かなかったか?】さえをも
じぶんの文章から透けて見えちゃうものではないか?!
って思ったんだよねぇ。

たとえば前回同様きょうのブログでもまたぼくが、
「デヴィッド・ボウイ」について書こうといたしまして。
エントリ末尾まで「ボウイ」のことだけを書き、
他のことは書かなかったとします。
他のことと言えば、たとえば、、、

・『鶴瓶の家族に乾杯』で、
 鶴瓶さんと間寛平さんがおとずれて、
 ぼくは初めて知りました「福島県新地町」という町のこと。

・今読んでおります水谷孝さん著・吉本ばななさん協力
 『長年スペインに暮らし多くの人を救った僕が伝える
  幸せの極意10』という本のこと。

・乃木坂46・生駒里奈さんをぼくはほとんど存じませんが、
 cakesで昨日連載スタートしました
 生駒さんインタビュー第1回目がかなり面白かったこと。

・昨年12月に購入した『海町diary』のDVDを、
 最近になってよーやく観ていること。
 (特典Disc「現場密着ドキュメント」の途中まで観た。)

・夕ごはんでつくって食べた「マーボー丼」のこと。

・昨日の夜すこし雲に隠れながら見えた満月のこと。

・おのののかさんのおっぱいのこと。

・ぼくがかつてついてしまった「うそ」のこと。

・あたらしい掃除機を買おうと考え検討してること。
 念願で憧れのdysonかー???

・フィデル・カストロとチェ・ゲバラのキューバ革命のこと。

・豊田東JCTまで開通した新東名高速道路のこと。

・民主党と維新の党が合流するかどうかのこと。

・あらゆる名称の「アクセント」はどこに置く?問題のこと。

・「受動態」でしゃべるときに起こってしまう
 被害妄想的な思考の危険性について。

・どーしたら「鑑賞」のパフォーマンスが上がるか??

・超簡単確実にできるダイエットの方法。

・2008年1月体調不良での退職以来、
 ぼくが療養をしながら仕事せずに暮らしてること。

・シリア情勢。

・今年になりワイドショー等で話題にされている
 あのことやあのことやあのことについて。。。

‥‥と、いくつか挙げました内容を、
ぼくがブログへ「書かなかった理由」というのがあり、
その理由は内容それぞれで違うけれど。
「書いたこと」の中身には、ぎゃくに、
「書かなかったこと」を「なぜ」書かなかったのか?!
というじぶん自身が持つ思想のようなものが、
まぎれこんでしまっているはずで。

たぶんさ、ただ1つの「文章」だけで、
じぶんがどーいう人間なのかがわかってしまう。
隠せば隠したことが書かなくてもなんかバレてしまう。

世界に在るすべてのことを網羅して記すのは不可能で。
ぼくが申しました上記のこと以外でも、
そこへ書かなかった事柄もあれば、
知らなくって名称聞いたことないようなものごとは
書けるはずがないし。「書いたこと」とは、
「わたしはこれを書き(書け)ませんでした。」って
表明しているのと一緒だと感じたの。

2016年2月24日

企画とは「卵」か?!

2016年02月19日 | 日常
「やりたいこと」があるときにね、そのことを、
宣言すれば「実現しやすくなる」場合もあれば、
宣言すれば「実現しにくくなる」場合もあるとおもう。
って前回エントリでは申しまして。
そのふたつの宣言はどのようにちがうか?
について今回ブログ書いてみたいとぞんじます。

「やりたいこと」つまり「夢」や「企画」というのは、
しろうとのぼくが言っても説得力ないけれど
たとえ「すばらしいもの」であったとしても実現は、
困難かもしれない。と想像している。
いちばん最初のおもいつきやひらめきみたい天啓があっても、
そこから問題なく滞りなくすすむかどうか、
最後の最後まで何があって頓挫してしまうのかわからない。
と、しろうとながら想像している‥‥

ぼくが勝手におもってるのはねぇ、
「企画」とは【卵】なのではないか?!
っていうのでして。たとえば、
最初のひらめきが【卵】の産まれた瞬間だとすれば、
その【卵】をじっとあたため、孵化を待つ。
孵化した「ひよこ」が「にわとり」に成るまでの過程がさ、
「企画」の実現だというような???

なにか「やりたいこと」があったときにね、
それをすぐ言ったり書いたりしてしまうのってぼくは、
孵化まで待つことせずに【卵】を手で割り中身を外へ
出しちゃうことだと感じるの。
【卵】の中身は、やらかくて、もろいから、
外へ出した瞬間死んでしまう。
【卵】の中身が成長し自身のくちばしで中から殻を破って、
【卵】より出てくるまではこちらから
【卵】を開けてはならない。。。

「企画」という【卵】が孵化したタイミングで、
言えばよいのかもしれないわ。
それまでは誰にも知られないよう心のなかで抱いておく~。

2016年2月19日 @ 壁と卵

あたかも「煮物」のように。

2016年02月16日 | 日常
湯を揉んで よう揉んで いい湯だな~
腹の底から生き返れ
は~ 湯冷めはしないでよ


温泉/くるり





お風呂入ってるときに気がついたことなのだけどね。

ぼくは、まず軽くシャワーで流してから湯舟につかり、
すこし時間経って温まってきたなーという頃、
湯舟より出てからだを洗う。
全身洗い終わって、もいっかい湯舟に入る前に
いちど浴室の外へ出てさー、
浴室すぐとなりの洗面台に置いてある
ハブラシを手に持って、浴室へ、湯舟へ帰る。

湯舟のなかで歯をみがき、そんで、
もうだいぶ温まってきたなーという頃、
お風呂タイム終わり!! ってな感じなんだけれど。

これ、何に気づいたかと申しますと。
からだを洗い終わりハブラシ取るため外へ出たときには、
まだからだに少し堪えるぐらい寒いけれど。
もーいちど湯舟につかりまたあたたまってから
ふたたび浴室の外へ出るときにはさ、
もう寒くないんだよねぇ。。。

そんときゃあ、からだが完全にあたたまっている~。

これが、ちょっと不思議だなぁと感じたので、
どーいうわけか考えてみてみると。。
これってお料理のたとえば「煮物」をつくるとき、
食材の中まで火や味を通すために
いちど火を止め鍋を「寝かせる」のと似てるって思った。
お肉とかお豆腐とかニンジンや大根やじゃがいもなどなど、
最初ぐつぐつ煮たあとでいちど冷ましてから、
また火を入れればその中まで味がしみてくる‥‥

これってお風呂での「人間」もおんなじかもしれん!

いちどめのお風呂でぬくぬくしても、
まだからだの中までは湯舟の熱が入っていなくって。
湯舟より出てからだを洗い、さらに浴室の外へ出ることで、
からだはじゅうぶん冷まされて。の、それから、
ふたたびの湯舟によりからだの底まで熱がしみわたる~。
あたかも「煮物」のように。。。

食材やからだだけに限らず例えばアイディアとかもさ、
いろいろと「寝かせる」ことって、
大事やもしれないっていうのも思いました。

2016年2月16日 @ 目玉のおやじ

僕は歩く。会場まで。

2016年02月11日 | 日常
いきなり、唐突なのだけれど。
三年前に開催されました
あいちトリエンナーレ2013をぼくは、
【愛知県美術館&長者町】
【岡崎市】
【納屋橋&名古屋市美術館】
の3度に分けて観にゆきまして。

そのなかでもさ、
【納屋橋&名古屋市美術館】の時には、地図見てみれば、
「名古屋駅」から「納屋橋会場」まで歩いてゆけるかも?
とおもって。さらには、
「納屋橋」から「名古屋市美術館」までも、
徒歩で行けそうだなーと感じ。それで歩いたのね。
多少は時間かかったものの、
歩いてみればけっこう行けちゃう距離で。。。

(あのー、今回、ローカルな話題でごめんよ。)

以前までは、名古屋市美術館へ行くってなると、
たいてい「金山駅」より名城線「矢場町駅」下車か、
「名古屋駅」より東山線「伏見駅」下車のどちらかで。
(距離は「大須観音駅」が一番近いですが、
 乗り換えをしなきゃなのでそのどちらかで…)
そこから徒歩で行っていたけれど。

あいちトリエンナーレ2013がきっかけで知りました、
「名駅(名古屋駅)」より「市美術館」まで歩いて行ける。
ていうのが、名古屋のことをあまり知らない、
豊橋人のぼくとしては大発見だったの!!

同じことで言えばだよ、
ライブハウスのZepp Nagoyaへ行くときもさ。
初めて訪れたときにぼくは「名駅」からあおなみ線へ乗り、
最寄り「ささしまライブ駅」で降りてたけど。
あるときに、「名駅」から徒歩で行けるんじゃなーい?!
ってふと思い立って。
(「名駅」構内のJR線・名鉄線改札から、
 あおなみ線ホームまで行くのって遠いしさ。)

そうやって歩いてみると、
実はよく知らなかった「名古屋」の地理や距離感も、
ちょっとずつわかってきて。各土地と土地が繋がって‥‥

てゆうそのことを踏まえまして。
先週観てまいりましたサカナクションのコンサート会場は、
センチュリーホールだったのだけども。
いつもは最寄り「西高蔵駅」と「金山駅」のあいだ一駅を
地下鉄乗って行っていたのを、初めて歩いた~。
想像してたよりも近く感じまして。
歩ける距離だし、初めて通る道はちょっとたのしいし。
時間あるときには徒歩もよいなーとおもったです。

2016年2月11日 @ アルクアラウンド

オーブントースターのこと。

2016年01月20日 | 日常
昨日「ほぼ日」連載最終回でございました、
バルミューダ株式会社・寺尾玄さん×糸井重里さん対談
バルミューダのパンが焼けるまで。』が、
おもしろくってぇー!!
そして、ちょっと落ちこんだ。。。
じぶんのダメさが、ちょっと見えてしまった、みたいな…

バルミューダの「トースター」でパンたべたい~。

去年のときから(いつか!)とおもいながら。
でもね、うちには、
まだまだこの方がご健在でございまして。



ほぼ40年前に母親が買ったらしい、
ナショナル」製のオーブントースター。
母は当時オーブントースターが憧れだったらしくて。
母曰く、念願叶ってようやく買ったものとのこと。



製品右上には「ナショナル」のロゴタイプ。

2・3年前、クリーム挟まれたパンを温めたときにね、
そのクリームが溶けトースターの蛍光管へ付着してしまい、
蛍光管も黒く焦げ、
ちょっとした煙り騒ぎになったことがあるのですが。

もうダメかも? とおもっても、
拭き取ったり掃除してみると無事復活して。
今でも元気に動いてるー。松下幸之助さん、すごい!!



右下の「タイムスイッチ」というつまみのネーミングが、
ぼくはすき~。そして、そのしたにあります
【5以下に合わせるときは、6以上まで
 回してからもどして合わせてください。】
の文も、ぼくは何度読んでるかわからないけど、すきやわ。



このみどり色がなんともすてきだし。
あらためて思えばデザインかっこよい!
なのでさ、いまはどーいうタイミングで、
バルミューダの「トースター」へと引き継ぐのかっ?!
を考え中。。。

芸能事務所にはりつき『アメトーーク』の家電芸人さんへ、
「いますごい扇風機持ってるんです。見たいですか」
そう声をかけたとおっしゃる寺尾さんのおはなし、
すごい~。

2016年1月20日

2016年01月18日 | 日常
小学1年生のふゆやすみにね、
「凧」に「防災の絵」を描く、という宿題がございまして。
それをぼくはどーしてだったかは忘れたけど、
たぶんもう描けないとか言って、
父親に描くのをお願いしたんよ。

それで父が描いてくれて、
完成した「凧」を休み明けに提出いたしまして。
その後、教室の後ろで飾られるのを見て、
ぼくはこどもながらになんだか恥ずかしさをおもった。

その「凧」の絵はさ、
もうあきらかに大人のひとが描いたタッチで。
父はあんがい器用で丁寧なんだけれど、
小1の課題っていうのまでは考えなかったかもしれない。
みんなのとはちがって、ぼくだけ、無性にきれいな絵。。。
それを見たとき「こーいうことはやっちゃいかん。」と、
「じぶんでやらにゃいかん。」と感じたの。
じぶんで頼んどいてそう言うの父にも申しわけがない。

そんで、それから学校の宿題&課題は、
(なるべく)じぶんでやるようになったですが。
だからと言ってそれがなにかじぶんの身になったかと言えば
ぜんぜんそんなことないんじゃがの。
なにかができるようになったとか別にないし。
でも、あのとき感じた恥ずかしさの気持ちは、
なかなか忘れられない~。

2016年1月18日

センター試験のあとから

2016年01月17日 | 日常
センター試験の日ですので、
センター試験のときのことを思い出してたですが。
じぶんのなかでは、高校のころを思えば、
センター試験終わったあとがいちばん楽しかったなー。
なにかこれまでと学校授業の雰囲気が変わってさ、
みんなそれぞれ自由にやっている。というか。。
うまく言えないけれどあの感じ、なかなかすきだった。

ぼくはセンター試験「国語」がぜんぜんできなくて。
自己採点もうめっちゃわるくって。
どーしよー?! と思っていたら担任の先生が、
「国語」の配点を低くし合計する公立大学を探してくれて。
現在はどういう配点になってるかわからないだけど、
それが母校の前橋工科大学建築学科だったのね。
(建築へ進みたいって当時思ってたからさ。)
ぼくは大学では完全にダメ学生だったですが、
「前橋」の日々はやはり思い出ぶかい。
それがなければぐんまけん行かなかったし‥‥

高校のころに話し戻りまして。学校のね、
「進路指導室」ていうところにみんな集まって。
ぼくは、友だちがよくそこへ行ってたので、
そのよしみでついていき。それも、たのしかったぁ。
二次試験でおのおの全国各地をおとずれるときには、
駅弁大会やろー! ってことで男子みんな駅弁買ってきて。
じぶんは高崎駅で「だるま弁当」「鶏めし弁当」買った~。
食べ比べるの、たのしかった!!
卒業後はその進路室メンバーでね、
友人宅(←友輔んち。とってもお世話になりました。)
にて集まり会もして。振り返ればそのときのことって、
じぶんのなかで大事なおもいでだわ。

センター試験終わって次の学校行った日の帰り、
みんなでカラオケ行っちゃったのは、
まぁしょーがないなーと思う。16年前の2000年1月。。。

2016年1月17日 @ 蜂蜜パイ

「死」を想う。(後編)

2016年01月16日 | 日常
前々回および前回エントリのつづきです。】

えっと。なんの話だったかと申しますと、
デヴィッド・ボウイを聴きながら、
ぼくはこどものころから比べると亡くなった方のことを
思ったり話したりすることが少し多くなった気がする…
って思ったところからでした。

このブログでも、先日はまた
吉本隆明さんの講演『芸術言語論』のことを、
なぜだかどうしても書きたくなったので書きまして。
昨年末は水木しげるさんのこと2015年中には書こうと、
思っていたら30・31日の暮れに成りつつも書きまして。

そして年が明け数日後、リーディングリストに入れながら
なかなか読めずにいた岩田聡さん追悼企画記事を、
読みながら。。。 糸井重里さんの、
「深夜寝室へ入り『じぶんのベッド』に
 じぶんがいない光景を見て、
 死んだあとの世界がどういうことだかわかった。」
ということばのことをまた想ったり‥‥

ぼくは以前、辛くなればじぶんで、
(死にたい…)と思ってしまっていたたちで。
それはさ、久保ミツロウさんの漫画『モテキ』での、
小宮山夏樹に振られた主人公・藤本幸世の頭の中、、、





あ~~死にたい超死にたい
このまま飛び込んじゃったらニュースになるかなー
そしたら そのニュース 夏樹ちゃん見て
「私のせい…」とか思ったりするかなー
一生 トラウマになってくんないかなー


(『モテキ』1巻・第6話より引用です。)





的な。それはたぶんひとに心配をかけようとしたり。
ひとをおとしいれてしまうような(死にたい…)だったと、
じぶんで振り返れば思うのだけれど。
ごめん。。。

かたや、ぼくのすきな「ほぼ日刊イトイ新聞」では、
糸井さんが引退されてからの糸井さんのいなくなったあと、
「ほぼ日」の場をどうするか??
という問題を考えていると知り。これは、かつて
ぼくが考えてしまってた「死」とはちがう種類の「死」が、
そこには在って。ぼくは反省したのですが。
つまり、ああいう(死にたい…)はよくない。と。

そのときのじぶんのせめてもの戒めとして、
ぼくは亡くなった方のお悔やみを想っているかもしれない。
とも感じてきた。
芸能や有名人だけでなくて亡き祖父母やご先祖のこと。。。

2016年1月16日 @ INTERNET KISS

「死」を想う。(中編)

2016年01月15日 | 日常
本日は前回エントリで申しあげました、
岡村靖幸さん著『岡村靖幸 結婚への道』を読み、そこには、
「結婚」だけでなく「死」のことも多く書かれている‥‥
のつづきでございます。

岡村さんインタビューでの、
松田美由紀さんの回では松田優作さんを想いますし。
小山明子さんの回では大島渚さん。。
松尾スズキさんとのお話しの中では、松尾スズキさんが
岡本太郎さん・岡本敏子さんのご関係にも触れられ。。。
そして、田原総一朗さんは二度のご結婚をなされて、
どちらの奥様も病気で亡くなられたというのは、
ぼくは初めて知りました。

また、鈴木おさむさんの回では、
奥様・大島美幸さんへの想いを「死」ということばで、
表現しておられます。

これより、この場面の引用を申しあげます。





岡村 大島さん、かなり
体当たりのロケをされてましたもんね。


鈴木 僕もテレビの人間だからよくわかるんですが、
ケガとか事故も十分あり得るし、
ましてや、海外は危険な場所が多いじゃないですか。
何日も連絡がとれなかったりすると、
最悪の事態を本気で考えてしまうんです。
ああ、どうしよう。奥さんがいなくなったらどうしよう。
死んでしまったらどうしよう。
毎月1回それを考えさせられ続けたんです。
で、もしも奥さんがいなくなってしまったら。僕は
自殺するだろうなっていうのがいまの僕の答えなんです。


岡村 えっ? 本気ですか?

鈴木 はい。妻が死んだら僕も死にます。
妻がいなくなったら僕が生きている理由はもうないんです。


岡村 えっ……。

鈴木 もちろん、子どもがいれば別です。
なんとか生きる方向を考えますし、
子どもの存在は僕が生きる理由になります。でも、
子どものいない現時点では、それが僕の答えなんです。


(書籍175頁より引用です。)





このインタビューは2014年8月号雑誌掲載されまして。
その後2015年6月、ご夫婦に待望の第一子が誕生。
とのことであります。

最後の回では、シーナ&ロケッツ・鮎川誠さん。
昨年お亡くなりになられた奥様シーナさんのおはなし、
すてきでした。。。

ぼくは結婚をしておりませんので、
これはもういかんともわからないんですが。
「結婚」とは、「生」と並行しながら、
「死」が密接に結びついているかもしれないと感じました。

(次回へつづく。)

2016年1月15日 @ Merry Christmas Mr.Lawrence