本を読むときや、
録画したテレビ番組を見るとき、
レンタルしてきた映画のDVDを観るときにね、
「この本を読まないといけない!」みたいにおもいながら
読んだり観たりするのはけっこう辛いなーと感じて。
「これをしたい。」って言えばよいのに、
なぜだか「しないといけない!」と考えてしまう。。。
「しないといけない!」の辛さってのは、
「ない」ということばが2つ入ってるからかもなー。
「ない」って実はむつかしいことばのような気がしていて。
「ない」を使う場面は、
結構たくさんあると思うけれど。もしかしたら、
使うときには少し慎重になったほうがよいかもしれない。
というので思い出したのはねぇ。
コピーライター・谷山雅計さんの著書
『広告コピーってこう書くんだ!読本』より、
谷山さんが糸井重里さんから伺ったと仰るおはなしでの‥‥
これは以前、糸井重里さんにお聞きした話ですが、
たとえば、
「この香水はウンコのような香りはしない、
すばらしい香りです」という文章があったとすれば、
受け手はどう感じるでしょうか。
(『広告コピーってこう書くんだ!読本』76頁より。)
「のような香りはしない」
と否定してみても、まったく否定しきれずに、
どこか感覚が引っ張られてしまう。
この逆ではさ、『人志松本のすべらない話』での
「すべらない」のことばは、
すごい叡智を含んでるような気がするー。
考えてみれば『◯◯のおもしろい話』というタイトルよりも、
『すべらない話』のほうがよい気がする。
このへんはうまく言えないけども。
他にたとえばぼくが最近ちょっと感じたのは、
「あきらめない。」ということばが、
ときにじぶん自身を苦しませてしまうことになるかも、と。
Mr.Childrenの桜井和寿さんが以前にね、
【「諦める」とは「明らかに見極める」こと。】
と話していて。桜井さんの
そのことばがぼくはとっても印象残っているのですが。
「あきらめない。」とは、
「『明らかに見極める』ことをしない。」という宣言にも、
受け取ってしまえるのではないか?!
たとえば逆に「つづけたい。」とかのほうがさ、
ときに健康的なのかも、とも少し思う。
そして、早野龍五さん×糸井重里さん共著
『知ろうとすること。』をまた読み返して。
糸井重里さんの「あとがき」を読み、
このたび初めて感じたことがございまして。まずは、
糸井さんの「あとがき」より引用を申しあげます。
2011年のある時、ぼくはこんなツイートをしました。
<ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、
「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
「より脅かしてないほう」を選びます。
「より正義を語らないほう」を選びます。
「より失礼でないほう」を選びます。そして
「よりユーモアのあるほう」を選びます。>
これは、いまにして思えば、
早野龍五さんの姿勢を語っているとも言えそうです。
あくまでも、どこまでも
「事実」を尊ぶためにとっている姿勢を、
ぼくなりにスケッチしたのが、
上記の短文になったのだと思います。
(『知ろうとすること。』180頁より。)
この糸井さんのツイートでは、
「スキャンダラス」「脅かす」「正義」「失礼」は、
【ない】ほうなのだけど。
唯一最後の「ユーモア」だけは【ある】となっていて。
これには何か意味があるのだと感じました。
「ない」のことと、「ある」のことと。。。
2016年3月10日 @ かぞえうた
録画したテレビ番組を見るとき、
レンタルしてきた映画のDVDを観るときにね、
「この本を読まないといけない!」みたいにおもいながら
読んだり観たりするのはけっこう辛いなーと感じて。
「これをしたい。」って言えばよいのに、
なぜだか「しないといけない!」と考えてしまう。。。
「しないといけない!」の辛さってのは、
「ない」ということばが2つ入ってるからかもなー。
「ない」って実はむつかしいことばのような気がしていて。
「ない」を使う場面は、
結構たくさんあると思うけれど。もしかしたら、
使うときには少し慎重になったほうがよいかもしれない。
というので思い出したのはねぇ。
コピーライター・谷山雅計さんの著書
『広告コピーってこう書くんだ!読本』より、
谷山さんが糸井重里さんから伺ったと仰るおはなしでの‥‥
これは以前、糸井重里さんにお聞きした話ですが、
たとえば、
「この香水はウンコのような香りはしない、
すばらしい香りです」という文章があったとすれば、
受け手はどう感じるでしょうか。
(『広告コピーってこう書くんだ!読本』76頁より。)
「のような香りはしない」
と否定してみても、まったく否定しきれずに、
どこか感覚が引っ張られてしまう。
この逆ではさ、『人志松本のすべらない話』での
「すべらない」のことばは、
すごい叡智を含んでるような気がするー。
考えてみれば『◯◯のおもしろい話』というタイトルよりも、
『すべらない話』のほうがよい気がする。
このへんはうまく言えないけども。
他にたとえばぼくが最近ちょっと感じたのは、
「あきらめない。」ということばが、
ときにじぶん自身を苦しませてしまうことになるかも、と。
Mr.Childrenの桜井和寿さんが以前にね、
【「諦める」とは「明らかに見極める」こと。】
と話していて。桜井さんの
そのことばがぼくはとっても印象残っているのですが。
「あきらめない。」とは、
「『明らかに見極める』ことをしない。」という宣言にも、
受け取ってしまえるのではないか?!
たとえば逆に「つづけたい。」とかのほうがさ、
ときに健康的なのかも、とも少し思う。
そして、早野龍五さん×糸井重里さん共著
『知ろうとすること。』をまた読み返して。
糸井重里さんの「あとがき」を読み、
このたび初めて感じたことがございまして。まずは、
糸井さんの「あとがき」より引用を申しあげます。
2011年のある時、ぼくはこんなツイートをしました。
<ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、
「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。
「より脅かしてないほう」を選びます。
「より正義を語らないほう」を選びます。
「より失礼でないほう」を選びます。そして
「よりユーモアのあるほう」を選びます。>
これは、いまにして思えば、
早野龍五さんの姿勢を語っているとも言えそうです。
あくまでも、どこまでも
「事実」を尊ぶためにとっている姿勢を、
ぼくなりにスケッチしたのが、
上記の短文になったのだと思います。
(『知ろうとすること。』180頁より。)
この糸井さんのツイートでは、
「スキャンダラス」「脅かす」「正義」「失礼」は、
【ない】ほうなのだけど。
唯一最後の「ユーモア」だけは【ある】となっていて。
これには何か意味があるのだと感じました。
「ない」のことと、「ある」のことと。。。
2016年3月10日 @ かぞえうた