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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

額縁ワンダーランド(後編)

2015年06月04日 | デザイン/芸術
【本日のエントリは前回からのつづきです。】



うーんと。こう、なんて申しあげましょうか、
「額縁」とはいったいなんなのだろう?
っておもうんだよね。

たとえば、先日おうかがいを致しました、
先生からのおはなしでございますと、、、

とっても印象的なむらさき色のとあるお花たちをみて、
その景色や雰囲気にふかくご感動され、
それらの「イメージ」がつよくこころに残る。。
その後、街を歩いているときに(はっ!)と
ひとつすてきなやわらかなむらさき色の「額縁」をみつけ、
この「額縁」はあのお花の「イメージ」そのまんまだ。
よし、これより、あの「絵」を描こう!!

‥‥とゆうような流れなのでございましょうか、
どうなのでございますでしょうか。
あの、その、この場合における「額縁」ってさ、
いったいなんだろう??

それはなんだかとても不思議な話のように感じるのですが…

今までなんにもなかった空間で、
とつじょ「額縁」があらわれた瞬間、
空間における「額縁」の「内」の世界が一変する。

「額縁」があらわれる「まえ」と、
「額縁」があらわれた「あと」とでは、
その場所の成り立ち方はもうぜんぜんちがう。

「額縁」という、「城壁」の
「内」の世界ではストーリーがたちあがる。
それは「城壁」の「外」の世界とは一線を画してる。

その場所ってのは、たとえば、
「パーク」や「ランド」や「スタジオ」や、
劇場であり、美術館であり、スタジアムであるよーな、、

いわゆる、なにか、不思議な空間なのだ。

「外」の世界とは、ルールみたいなことがちょっとちがう。
似ているところはもちろんあるだろうけれど、
よく見てみると、ちょっとだけ、なにかがちがう。。

うーんと。「額縁」って、なんなのだろう???

2015年6月4日 @ Black Night

額縁ワンダーランド(前編)

2015年06月03日 | デザイン/芸術
先日、専門学校で教えていただいた先生(朱音せんせい)の
「絵」の展覧会にへと訪れまして。
そのとき、ご在廊されていた先生にひさしぶりにお逢いして
うかがったおはなしのこと、
おとといのエントリにつづきまして申しあげます。

先生によります「作品」のご解説や、「制作」について等、
先生のおはなしどれもとってもおもしろかったのですが、
とくに面白いー!! と思いましたのが、
「額縁」のことでございます。

「額縁」と「絵」の関係性ってのはさ、
ぼくは素人ですのでそれがどういう感じで成り立っているか
実際にはよくわからないのだけれど。。
ぼくのこれまでの感覚ですとね、
「絵」が完成してからそれに似合う「額縁」を見つけ、
「額装」をする。

っていうことだけしかじぶんの考えに無かったのですが、
先生のおっしゃるには‥‥

「『額縁』を見つけてから、その
 『額縁』へ填めたい『絵』を描く。」

とゆうような、ぼくが思っていたものとは
全く逆の流れでありまして。
ぼくの解釈でもう少しだけ申しあげますと、、、

まずは頭の中に描きたい「イメージ」があって、
その「イメージ」を携えたまま、でもまだ描かず、
いつかどこかのときに
ある「額縁」と運命的に出逢うことによって、
これまで頭の片隅に置かれていた「イメージ」と合わさり、
この「額縁」には、この「絵」を描きたい!
と感じることから「絵」を描き始める‥‥

ってゆうふうなのでございましょうか??
えーと、ちょっとよくわかりませんが。。。

先生曰く。
「額縁」より「絵」を描く場合と、
「絵」を描いてからあとで「額縁」を探す場合とでは、
半々。と仰っていたかどうかは記憶あいまいなのですが。

んでも、そのおはなしとってもおもしろーい!!
と感じてからそれからはすこし
「額縁」のコトを考えておりまして、、

(後編へつづく。)

2015年6月3日 @ Prisoner in a Frame / 額の中の囚人

「ぴったり」の交差点。

2015年06月01日 | デザイン/芸術
さくじつは専門学校のときの先生(朱音せんせい)が、
「絵」の展覧会をご開催。とのことで、
名古屋へと行って参りました。

先生の「絵」の展覧会、ぼくはこれまでに
幾度か訪れたことはございましたが。
こんかいはねぇ、先生の、
高校生時代の同級生5名のかたがたの「作品」がつどう
「グループ展」とゆうことで。これまでの展覧会とは、
またすこし趣きもちがい、とってもすてきでした!

そして会場では、先生がご在廊されていて
おあいできてうれしかったぁ。。

先生とおあいしていろいろなお話をうかがえまして。
そのね、先生とのお話のなかでの、
ひとつをほんじつブログで申しあげます~。
と申しますのも、グループ展メンバーみなさんの
これまでのお仕事やご活動のこと、そして、
グループ展開催のいきさつについてお話をいただけて。

すると。メンバーのみなさん、もうほんとうに
あらゆる道を歩まれて来られた、
とのことで。そして、
縁のような偶然のような数十年ぶりの再会のもと、
グループ展が開催されたの。ってそのように先生は仰って。

それを聞いたぼくはさ、そのグループ展が
「交差点」のようだなぁ! と感じました。

5名のかたがそれぞれ別々の「道」を歩まれ、
それはときに曲がりくねっていたり、坂道だったり、
渋滞だったり、車や電車やフェリーに乗ったり、
立ち止まったり休んだり誰かと手をつなぎあったり……

…てゆうのは、ぼくには計り知ることができませんが。。。

それぞれの方々が歩まれた「道」のその先々にて、
たまたま、この「時間」の、この「場所」で、
5人が「ぴったり」すれちがった。

と、その「ぴったり」と申しあげますような地点がさ、
「交差点」のごとしだなぁと存じまして。
つまりは、「交差点」を過ぎればその地点をまた背にし、
それぞれのかたがたが各々の「道」を再び進まれてゆく。

そのイメージがねぇぼくのような若輩者と致しましては、
なにか未来の希望のようだと感じたんだよね。
だからぼくは、じぶんの「道」を、進もうとおもった。
いや進まなくっても上ったり下ったり立ったりしゃがんだり
そんなコトでもよいかもしんないとおもった。

先生に、感謝!

2015年6月1日 @ innocent world

『今治タオル 奇跡の復活』(その3)「ブレ & 2%」

2015年04月12日 | デザイン/芸術
どーも、こんにちは!

ほんじつブログは前々回前回のエントリに続きまして、
佐藤可士和さん・四国タオル工業組合さんの
共著『今治タオル 奇跡の復活』でのことがらについて、
また引用を致しながら、考えながら、申しあげますっ。

さて、こんかいの「その3」では、
『今治タオル 奇跡の復活』の中でも、
いちばん、きょうみぶかい、おもしろい、と感じました
場面のことでございますー。

まずは、佐藤可士和さんの書かれた「第一部」より、
83~84ページに渡りますことばを、
こんかいはすこしずつ引用を申します‥‥





ブランドを「つくる」ことは難しい。
しかし、もっと難しいのは
つくったブランドを「守っていく」ことだ。
(83頁-)





ブランドは「つくる」ことよりも、
「守っていく」ことのほうがむつかしい。

そして、、





ブランドは、一度認知されると、
構築までの苦労を忘れてしまいやすい。






そして、、

ブランドとは一度認知されれば、
それまででの苦労は忘れてしまいやすい。。





重い病に苦しんでいた人が、完治には至っていないけれど、
とりあえず痛みからは解放されたような状態で、
そこにはつい油断や過信が生じることもあるだろう。
今治タオルプロジェクトは、いままさに、
そんな状況にあるという気がする。






つまりは、たとえばお医者さんのおかげで、
とりあえず痛みより解放されたような状態であっても
そこにはついの油断や過信の芽が出て来て……

…って、なんか耳が痛い。これ、ぼくのことか?!





ブランディングの効果が見え始めてくると、
組合のほうからも意見やアイデアを
提示してくることが増えてきた。それ自体は、いわば
患者と医者のコミュニケーションが深まったわけだから、
悪いことではない。ただし、






な、なるほど。それとはまさに、
さまざまな意見が飛び交っている場のよーな??

た、ただし、、





病はまだ完治しておらず、
治療は続いているのだ
ということを忘れるわけにはいかない。






「病はまだ完治しておらず、治療は続いているのだ」
のことを忘れるわけにはいかない。。。
って、やはりなんかじぶんのコトのよーだわ、まるで~♪





南青山店がオープンした頃、
ようやく広告宣伝に注ぎ込む予算が捻出できるようになり、
空港や地下鉄の通路に看板広告を出すことになった。






このこと↑は前回エントリでも申しあげました、
「今治タオル」ショップ南青山店がオープンされた
2012年6月頃、
「ようやく予算が」とのことで、、





これも戦略的イメージコントロールの一貫なのだから、
余計なものを提示する必要は一切ない。
シンプルに、今治タオルのロゴマークを掲げる。
それだけで十分かつ最大の効果が得られる。

ところが、






シンプルに! っと、ところが、、





組合側からもいろいろな看板のアイデアが提示された。
たとえば、
毛を刈り取られたヒツジが今治タオルのバスローブを着て
気持ち良さそうにしているイラストのデザイン。
僕は、一目見て即座に却下した。






可士和さん曰く、
「僕は、一目見て即座に却下した。」の箇所は、
なにかその時の風景を想像しちゃって、すこしビビる‥‥





それは、どん底にあったときの痛みを感じなくなり、
「遊び心」が出てきた証拠だった。
まだ治療中に患者が、
「体調がいいのでタバコを一本吸いたい」
と言い出したようなもの。
せっかく築き上げてきたブランドイメージを、
コミカルなイラストでこわしてしまいかねない
深刻な状況なのだ。
(83-84頁)





この場面↑での、
「痛みを感じなくなり『遊び心』が出てきた」と仰るのは、
なるほど、とおもいました。
そのたった1本のタバコが、もしや、
これまでの全てのイメージを壊すことにもなりかねない……

…と、そしてっ。。

ここからは書籍の「第二部」より、
四国タオル工業組合さんの理事長・近藤聖司さんの
ことば(196~197ページ)より引用を申しあげます。。。





追い風を産地のメーカーの力だと過信してしまうと、
ブランディングの基本線から逸脱する危険が生じる。

実際に、今治タオルのプロモーションに使う
予算が確保できるようになってきたことで、
われわれは広告代理店の知恵を借りて
宣伝用のイラスト案をつくってみたことがあった。
(196頁-)





「第一部」で可士和さんが書かれていた
「過信」のことを近藤さんもおっしゃっておりまして、
そしてまた
「宣伝用のイラスト案」についても記され、、





たとえば、しかめっ面をしていたベートーベンが、
今治タオルを使った後でニッコリ笑っているイラスト。
あるいは、浮世絵の歌舞伎役者が
今治タオルを首に巻いて見えを切っているイラスト。

「僕らはおもしろいと思ったけれど、
 それが ″ブレる″ということだった。
 佐藤可士和さんにイラスト案を見せると、
『あなたたちは、
 まだこんなことをやろうとしているんですか!』
 と、ブレを五分でビシッと戻された」(近藤聖司)
(196-197頁)





「しかめっ面のベートーベンのイラスト」、
「浮世絵の歌舞伎役者のイラスト」、
それを、可士和さんからは5分でビシッと戻された。

と近藤さんがおっしゃる
そのような ″ブレる″ のコトってば、じぶんでも
実際たくさんやってしまいそうな気がしていてー。
あの、ね、ちょっと(おもしろい)とか思ってしまい。。

反省‥‥。

さて、それらのようなあらゆることがらを経て、
書籍『今治タオル 奇跡の復活』の「あとがき」では、
佐藤可士和さん、
「2%」と云う「とある数字」のおはなしをなされます。

これよりその場面の引用を申しあげます。。





この本は、かつての産地・今治のように、
危機を乗り越えようとしている日本中の人たちに向けた
エールだと僕は思っている。もしも、
今治タオルの復活を特別なケースだと感じている人は、
「二パーセント」という数字を記憶しておいてもらいたい。

今治タオルの国内市場における
二〇十三年のシェアは、一一・二パーセント。
生産数量の底だった二〇〇九年は、九・二パーセントだった。
伸び率は、二パーセントでしかない。
わずか二パーセントの成長で、国内では
″奇跡の復活″ が果たせることになったのだ。
(223頁)





ここ↑で可士和さんがおっしゃる「2%」のこと、
それをねぼくは、ちょっとだけ拡大解釈をしてしまって。
じぶん自身の中にある「なにか」の事柄においてもねっ、
そんなほんの「2%」の成長を見据えてゆきながら
ぼくも ″奇跡の復活″ を果たしたい!! とおもいました~。

へい、ではさて。3日間に渡りましてブログ超駆け足での
毎回とーーっても長い各エントリではございましたが、
どうもどうもありがとうございまする。

どーぞおげんきで。よい1にちを~!
あたくしは選挙に行ってくるよん。

2015年4月12日 @ Easter / 復活祭

『今治タオル 奇跡の復活』(その2)「白」

2015年04月11日 | デザイン/芸術
前回よりひきつづきましてほんじつも、
先日に読了いたしましてとてもステキでした
佐藤可士和さん・四国タオル工業組合さんの
共著『今治タオル 奇跡の復活』について、
引用をいたしながら考えて申しあげたくぞんじます。

前回エントリでは可士和さんのおっしゃった、
ぼくにとって「とくに大事だなぁ!」と感じられた
「4つのことば」を申しましたですが、
この書籍ではさ、可士和さんのことばだけではなくて
四国タオル工業組合さん、つまりクライアントさん側の
歩みや考えを読める「第2部」も魅力的で。。

今回ブログでは、
佐藤可士和さん×四国タオル工業組合さん、つまりん、
デザイナーさん×クライアントさんとのご関係性のコト、
すこし考えるためにもエントリ申しあげます。

まずは、引用を申しまするは、
可士和さんのこのことば‥‥





組合の人たちからは、もしかすると僕は
取っつきにくい人間だと思われていたかもしれない。
今治のプロジェクトに限らず、どんな仕事でも、
僕はクライアントと頻繁に飲みに行ったりはしないし、
プライベートなつき合いの機会も
できるだけ持たないようにしている。

もちろん、仕事は自分事として親身になって取り組むし、
クライアントとは仲良くならなければ信頼関係は築けない。
でも、情に流されたら判断は鈍る。だから、
相手との距離感を考えながら、あえてドライな関係を保つ。
そのほうが的確な思考ができるし、結果も出しやすいと、
これまでの経験から僕は感じているからだ。
(39頁)





可士和さん曰く
「僕は取っつきにくい人間だと‥‥」のように、
本のなかでは書かれておられるのですが。

はたまた、その、組合さん側のほうからでは
どのようかと申しますと、、





組合の理事会では、佐藤氏の名前を聞いたとき、
じつは年配の理事の多くが
「誰だ、それは?」という顔をした。
しかし、若手の反応は違った。二〇〇六年から理事になった
田中良史(『田中産業』代表)は、こう話す。

「そんなすごい人が、
 本当に今治のために力を貸してくれるのか?
 それが佐藤可士和さんの名前が出たときの私の印象でした。
 プロジェクトが始まった当初は、
 マークをつくればブランディングになるという考えを
 持つ人もいたくらいで、今から考えてみると、私自身も
 ブランディングとPRの違いもまだよくわかっていなかった。
 そんな素人同然のわれわれに、
 ブランディングとはなんなのかを一から教えてくれたのが
 可士和さんだったんです」
(129頁)





2006年より理事となった田中良史さんは、
「ブランディングとはなんなのかを一から教えてくれたのが
 可士和さんだったのです」
とお話をなされて、また、





産地・今治が復活への道を歩み始めることができたのは、
ブランディングの設計図を描いてくれた
佐藤可士和氏の力があってのことだ。

とは言っても、何から何まで「先生、お願いします」では、
プロジェクトは自立することができない。
「みんなで寄り集まって考える」こと、
それを藤高は組合の基本スタンスに掲げていた。
(148頁)





06年から09年まで理事長をなされる
藤高豊文さんは、
「何から何まで『先生、お願いします』では、
 プロジェクトは自立することができない。」
と仰る。

そのような関係性ってさ、とてもすてきだなぁ。
と感じたのでございますが。
そのコトがとてもよくわかるおはなしだと想ったのが、
「白いタオル」についてでございまして。
書籍より、その「白いタオル」のコト、
いくつかピックアップで引用申しあげます。

まずは、可士和さんのこのおはなしより、、





わかりやすく伝えるための戦略として、
非常に効果的だったのは、
「白いタオル」をキープロダクトに設定したことだった。(‥‥)
今治タオルの本質的価値は「安心・安全・高品質」。
そこを際立たせるために、他の特徴はむしろ
表に出さないほうがいいと僕には思えた。
(31-32頁)





可士和さん曰く、
「安心・安全・高品質」という
今治タオルの本質的価値を際立たせるためには、
「白いタオル」をキープロダクトに設定し
他の特徴は表に出さない。とのことと、また、、





白いタオルなんて、どこがつくっても一緒じゃないか?
そう思った組合員も多かった。
それが普通の感覚かもしれないが、リクエストした時点で、
僕には結果がイメージできていた。

グラフィックの仕事をしていれば、白い紙を
嫌というほど見ることになる。
同じ「白い紙」でも、色、厚さ、質感……、
驚くほどの違いがある。
試しに、人からもらった名刺を見比べてみるといい。
白い紙にも、さまざまな個性があることがよくわかるはずだ。
白いタオルも同様だった。
(33頁)





可士和さんはこのような、
「白」についてご自身の考えを述べられて。。
さらには、





インテリア・デザイナーに頼めば、さまざまな装飾の
ノウハウを使って店内に独特の世界観を
表現することもできるに違いない。
でも、南青山店には必要ない。
花や絵画といった、タオル製品以外のものは一切飾らない。

今治タオルのコンセプトを伝えるための店に、
ファンシーショップや
サロンのような雰囲気はふさわしくない。
MADE IN JAPANのハイクオリティな世界観が伝わる
シンプルな空間を目指したのだ。
(77頁)





2012年6月、東京・南青山にてオープンの
今治タオルのショップでは、
(←ぼくは、まだ訪れたコトはありませんが。。。)
什器(じゅうき)には「白木」を使用して、
今治タオルのコンセプトのためには、
今治タオル以外のお花や絵画は一切飾らない……

…とのように可士和さんがそう伝えられてゆくなかで、
四国タオル工業組合さんのかたがたは、
書籍「第二部」において、次のように述べておられます。





キープロダクトとなった「白いタオル」は、
産地のメーカーにとって高品質とは対極にある商品だった。
「われわれの感覚からすると、白いタオルというのは
 年賀や開店祝いで大量にタダで配られる安物の代表格。
 そんな、のっぺらぼうのタオルなんか、
 誰も買うわけがないというのが、
 当時のわれわれの常識だった」(藤高)
(132-134頁)





藤高豊文さんは、ここ↑で
「のっぺらぼうのタオルなんか、誰も買うわけがない。」
と。そしてまた田中良史さんは‥‥





「展示会のブースを白いタオルで埋めると
 可士和さんに言われたときも、最初は抵抗を感じました。
 いろんなデザインのタオルを発表するのが
 展示会じゃないのか、と。でも、
 白いタオルで勝負する理由を聞かされたら、
 ブランディングというのはそこまで考えてやるものなのか
 と、PRとの違いがよくわかった」(田中)
(134頁)





最初は抵抗を感じられたものの、
「そこまで考えてやるものなのか」
とのように、ここではおっしゃっておられます。

そのとき可士和さんはどのような
プレゼンテーションをなされたかと申しますと、、





佐藤氏の説明は明快だった。たとえたのは、水やコメ。

──水の品質を伝えるときに、
いきなりコーヒーを淹(い)れて出しますか?
炊きたてごはんのおいしさを伝えるのに、
カレーをかける必要がありますか? タオルも同じです。
ベースとなる品質を伝えようとするのに、色や柄やいらない。
今治タオルの素晴らしさを、余計な要素を加えずに伝えるには、
「白」しかないんです──。
(134頁)





そのような、
可士和さんの「水」や「コメ」の比喩等により
「白いタオル」がキープロダクトと成ったことが、
後に組合員の足並みがそろうきっかけの一つとなった‥‥

と、書籍では述べられております。さらには、、





「展示会場に並んだ白いタオルを見たときに、
 僕はビックリしたんです。
 ″白″ だけで、ここまで強いインパクトのある
 メッセージが伝えられるとは、考えたこともなかった。
 一目見て、ウチもここに商品を置きたいと思いましたよ。
 無地のタオルといえばブルー、ピンク、イエローなどの
 三原色が定番で、白が商品になるとは考えていなかったし、
 メーカーは自社でつくる白しか知らないから、
 バリエーションも可能性も想像できなかったんです。(‥‥)」
 (近藤聖司)
(143頁)





2013年5月より組合理事長であります
近藤聖司さんも、
「″白″ だけで、ここまで強いインパクトのある
 メッセージが伝えられるとは、考えたこともなかった。」
とのことでございまして。。。

そんな、佐藤可士和さんと四国タオル工業組合さんとの、
やりとりやご関係性すばらしいなー!
と読みながらおもいました。

ではさて。こんかいも超長文のエントリだったですが、
次回あともういちどだけ、
『今治タオル 奇跡の復活』について申しまする~。

2015年4月11日 @ WHITE BREATH

『今治タオル 奇跡の復活』(その1)「4つのことば」

2015年04月10日 | デザイン/芸術
佐藤可士和さん、四国タオル工業組合さん、
共著『今治タオル 奇跡の復活』を読了。
おもしろかったぁ。そして、すてきでした!!

可士和さんの著書、ぼくはこれまでいくつか
拝読をしておるですが(ファンなのでー)、
これまでの本では、沢山あるプロジェクトのことを
1冊にまとめられたものが多かったけれども。

今治タオル」と云うひとつのプロジェクトについて、
こんなにも詳細に描かれるなんて。そしてこの書籍では、
第1部が佐藤可士和さん、
第2部が「四国タオル工業組合」さんとなっておりまして、
クライアントさん側の歩み・考えも読むことができ、
とてもきょうみぶかかったです。

で、ございますので、
このたびはこのブログ何回かに分けて(たぶん3回に)
その共著『今治タオル 奇跡の復活』について、
申しあげたくぞんじます。

こんかい申します「その1」では、
じぶんにとってここはとくに大事だなぁ、と感じました
可士和さん仰る4つのおはなしの事、
引用をいたしながら考え記したいとおもいます。

まずは「はじめに」より、可士和さんのこのことば‥‥





「いいモノをつくる」という考え方は、
日本のモノづくりの生命線。そこはブレてはいけない。
ただし、モノづくりは転換期にある。
一定のクオリティを守りながら、なおかつ
存在意義を「きちんと伝える」ことを考えていかなければ、
これからの時代を乗り切ることはできない。

では、その価値をどう伝えたらいいのか? 
それがブランド戦略ということになる。
 (2頁)





「いいモノをつくってさえつくってさえいれば売れる」
なのではなくて、
「いいモノ」の一定のクオリティは守りながら、
なおかつ、その存在意義を「きちんと伝える」こと。

「いいモノ」をつくることが出来る。だけでは、
伝わらない。とはまさにそうだとおもうけれども、
とてもむつかしそう。。

でも、それこそが、可士和さんの仰る「ブランド戦略」…

そして頁をめくれば「第1部」がはじまりまして、
そのさいしょでは、可士和さん、
当初は「この仕事を引き受けるのは無理かな」
と思われた。のだと記されて、、





「よし、やろう!」という前向きな気持ちには、
まったく傾かなかった。
ところが、その気持ちは一日で覆った。いや、
正確には、たった一分で覆った。
僕に「よし、やろう!」という決断をさせたのは、
今治のタオルそのものだった。

打ち合わせに訪れた富山さんは、
今治の白いタオルをプレゼントしてくれた。(‥‥)
富山さんや帰り際に、「とりあえず使ってみてください」と、
念を押すように言い残した。

その日の夜、さっそく風呂上がりに使ってみた。
おろしたてのタオルは、水を吸わないという印象が
僕にはあった。が、富山さんからは、
「最初に洗わなくても大丈夫です」と言われていた。
半信半疑のまま、新品のまま体を拭いてみた。

「!」

驚き、というより、感動だった。
 (16-17頁)





「今治タオル」を使ってみて、
その「!」がスタート。というおはなしは、
とてもすてきだなー! と思いまして、
ですが、それだけではプロジェクトは先に進まない。





寝る間も惜しんでアイデアを考えるほど没頭するためには、
クライアントの意向を
他人事ではなく ″自分事″ にしなければならない。
ここは僕自身が仕事に取り組む上で
常に重要なポイントになる。(‥‥)

東京で生まれ育った僕は、それまで
今治へは行ったことがなかった。
縁がなかったために、産地・今治の危機をなかなか
自分事としてとらえられずにいた。
これでは、自分自身のモチベーションも高まってこない。

他人事を自分事にするというのは、言い換えれば、
どこかに接点を求めることでもある。
「今治」と「自分」との接点が、どこにあるのか……。
(19頁)





「!」という感動、さらにプラス、
クライアントの意向を ″他人事″ から ″自分事″ にする。。。

引用をいたしましたこの文書の次シーンでは、
可士和さんはあるキーワードを出され、そして
「今治タオル」プロジェクトは進んでゆくのですが。

″自分事″ にするというのはさ、ひとによって
じぶんにとっての ″自分事″ はちがうのだから、
ひとそれぞれ本人で考えないといけん。とおもい、
読んでいて、身が引きしまる、背筋の伸びる想いでした。

そして、ほんじつは、あともうひとつだけ。。

それは可士和さんの、
「プレゼンテーションの原則」について。
のことなのですが、、





今治に何度も出張し、ブランディングによる
産地復活の意義を繰り返し伝えて、
インターナル・マーケティングに努めてきた。
それは説得ではなく、いかにプロジェクトに
″共感″ してもらうかという作業だった。

説得というのは、
自分の主張を相手に受け入れさせることをいう。
巧みな話術を駆使したり、あるいはその場の雰囲気や勢いで
相手を説得できるケースもないことではない。
しかし、受け入れさせるというコミュニケーション手法は、
極論すれば押しつけることでもある。
後から反対意見が出てくることもあるし、
場合によっては見返りを求められることもある。

納得してもらい、自らの意思で動いてもらうためには、
こちらの考え方に相手が
どれだけ共感できるかが重要になる。これは、
僕がプレゼンテーションするときの原則だ。
必要なのは、
テクニックではなく、誠実に向き合って率直に話すこと。
「これだけのリターンが期待できます」
といった聞き心地のいい言葉を並べるだけでは、
物事の真意を伝えることはできない。
 (56-57頁)





ここ↑での「インターナル・マーケティング」とは、
「組織の内部へ向けて行われるコミュニケーション」
の意で、よいのかな。。

じぶんの主張を相手へ受け入れさせる「説得」ではなく、
相手方がどれだけこちらの考えに「共感」できるか。
のことは、これはもうじぶんでは完全に出来ていない、
あらゆる場面で、ときに
相手に考えを押し付けるようなことをしてしまう。。

可士和さんの仰る「共感」のことは、もう少し
じぶんの中で考えてみたいとおもいました。

ではさてっ! 今回とても長くなってしまいましたが、
えーとたぶんこんな感じで、次回もつづきまする~。
どーぞおげんきで、よい1にちをっ!!

2015年4月10日 @ 俺たちに明日はある

古民家を想う。

2015年03月16日 | デザイン/芸術
よく行く美術館、はじめて訪れるギャラリー、
の場所でね美術作品を鑑賞するのもよいんだけれども、
ぼくは、なんかねぇ
古民家で行われる展示がすきなのやわぁー!!

たとえば先月、豊川市にて観てきました
豊穣なるもの - 現代美術 in 豊川』での
平松伸之さん+伊東里奈さんの「古民家」作品や、
おととし『あいちトリエンナーレ2013』の
とくには岡崎市「松本町会場」での各作品。

そしてまた、いつか(←調べれば、2010年。)の
豊田市美術館・企画展『知覚の扉 Ⅱ』で第二会場となった
喜楽亭」と云う旧料理旅館での展示。
などなど。。。

パッと思いついたのはこれらの展覧会・作品なのですがっ。

もしそのような展示・企画がなかったら、ほぼぜったい的に
生涯そこをおとずれて建物内へ入ったりとかせず
(そんな古建物があることすら知らないまま…)。
映像作品などの作品をゆっくり拝見いたしながら
その古民家・部屋の空気感に触れ、その場所での
かつての生活・仕事を少しおもったりしてみたり……

また、古民家だけでなくってさ、そのほかにも、
お知り合いのかたの展覧会にて知らない土地の
普通では出合えるはずの無いギャラリー・お店のなかに、
入れる! とゆーのも、すき。

そんでたまには、かつて訪れた
その場所の風景をちょっと思い出したりしてみたり、
あたまのなかでは
その場所に本当に行っているかのよーな。。

まぁ、つまりはドラクエ呪文の「ルーラ」だわねぇー。

いちど訪れた場所は「欄」に表示されるから、
いつでも行けるし(←想像の中で)、多少MP使うけど
そこでちょっと休んでゆっくりしてたり、的な~!!

その「ルーラ」の欄が、日々少しずつ増えてゆくっ。

2015年3月16日 @ そして伝説へ…

答えはいつも…

2015年01月17日 | デザイン/芸術
アートディレクター・佐藤可士和さんが、
著書『佐藤可士和の超整理術』の中でおっしゃっていた
あるお話のことをまた思い出しておりまして。

その箇所を、まずは、引用を申しあげます。


──────────────────────────────────


 「僕の考えるアートディレクションは、
  自己表現が原動力ではありません。
  「いろいろなジャンルのプロジェクトを数多く手がけていて、
   アイデアが尽きることはないのですか?」。
  こう聞かれることも多いのですが、その心配は全くありません。
  なぜなら、答えはいつも、
  自分ではなく相手のなかにあるからです。
  それを引き出すために、相手の思いを整理するということが、
  すごく重要になってくるのです。」(29頁)


──────────────────────────────────


あの、とくには、その

 「答えはいつも、自分ではなく相手のなかにある。」

の部分なのでございますが。このことってさ、
可士和さんの仰るデザインやアートディレクションの
以外にも応用できるのではないかなぁ?! って、
ぼくは拡大解釈してみたりして。

たとえば、なにかに悩んだり苦しんだりしたときには、
「答えはいつも、自分ではなく相手のなかにある。」
と云うことばを思い出し、
もうじぶんの「なか」を探すのをやめてしまうの。

と、さらには「相手」とは、
「自分」ではない「他人」のことであると思うんだけれど。
それも拡大させて、
「『自分』の『そと』にあるものすべて」なのだと。

つまりん、
じぶんの「なか」ではなく、
「そと」を「見よう・感じよう」と試みる。的な‥‥

悩んだり苦しんだりしているときってのはさ、
まぁ、じぶんの「内部」には、恨みや怒りやらの感情やら、
あとは身体的に云えば内臓とか水分とかしか無くって。
そこにはたぶん「答え」は用意されていなくって。

そんなとき、
「外部」にある別のことがらを感じようとすることで、
なんらかの執着からは逃れる事が出来るんじゃないかっ?!

って、そのようにちょっと思いながら、
「答えはいつも、自分ではなく相手のなかにある。」
とあたまのなかで念じてたりするんだけどねぇ~。

まだまだちゃんとは出来ていないわね!
うーんと、練習中。

2015年1月17日 @ 【es】~Theme of es~

「誤答」は、許される?!

2014年12月04日 | デザイン/芸術
先日訪れました、後輩の
絵の展覧会(@掛川)について今いちど考えております。

先日のエントリでもすこし申しましたが、
その展覧会でぼくが感じましたのは
「絵と鑑賞者との距離が、ほどよい近いここちよさ。」
でありまして。それでね、
そのよーなことを後輩に伝えると、後輩は

「このまえ来て下さったお客さんの感想で嬉しかったのは、
『絵ってこれまでむつかしいものだと思っていたけれど、
 あなたの絵を観ていると
 そうでは無いような気がしました。』でしたぁ!」

とのようにおっしゃって。うん、
つまり、そういう距離感が素晴らしいのよぉー。
ってゆーのを話しておって。

と。そのことで、さっきなんとなく思い出されたのが‥‥

いつかの以前、(←検索したら、2010年4月10日。)
豊田市美術館にて村瀬恭子さん展覧会を訪れまして。
そこで、
村瀬さん × 奈良美智さん × キュレーター天野一夫さん
の「アーティストトーク」を拝見いたしました。

トークでは、村瀬さんの
作品(その瞬間のは、山の絵だったかな?)が
プロジェクターに映し出されて。でもそれを観た奈良さんは


  「銀紙に包まれたおにぎりみたいだ。」


とおはなしされた。たしかその絵は、
周りが銀色の山々に囲まれた盆地を上より描かれた風景画
(うろ覚えで違っていたらごめんなさい…)でありまして。

でも奈良さんは、それを「山々」ではなく
「銀紙のおにぎり」と形容される。
そして、


  「絵を観るって、こんな感じでいいんだよ。」


とのようにおっしゃった光景がねぇ、
なんか、ふと、あたまに思い出されました。

たとえば「絵が解らない。」という感想ってさ、
ぼくが、前回エントリで申しあげましたような
「正解」のことと、どこか関連していると思ったのよねー。

「『正解』を出さねばならぬっ!!」

と想ってしまったら、
なんとしてでも間違えてはいけないっ。
ってなことまで考えてしまう。

そこでは、「誤答」は許されない。

仮にね、とても稚拙なのではありますが、
絵のモチーフとして


──────────────────────────────────


  「1+1=」


──────────────────────────────────


とのように描かれていたとしたならば、
「あっ。この絵は、おれわかる。『2』だ!」。
でも、その次に観た(たとえば)ピカソの絵は、
(何が書いてあるか、おれにはよくわからない‥‥)
と感じられる。。。 

そういうときには、

「誤答」も「誤解」もしてはダメ!
「正解」を出さないと怒られる…

という心理が、働いてしまうからなのかなぁ??

以前、奈良さんがおっしゃっておりました
「どんな見方をしても、よい。」と云うのは、
じぶんとしては、それでかなり救われた想いがありまして。

ですので。そのことを、こんかい申しました~。

ほいではっ!
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
後輩の「絵」も、そのような「赦し」があって優しいのよ。

2014年12月4日 @ 春少女

いまさらの激白!(オムライスver.)

2014年10月11日 | デザイン/芸術
じぶんは以前、専門学校の
グラフィックデザイン科に在籍していたのだけどね。
1年生から2年生に上がるための修了制作でのとある課題で
とあるポスター(←のようなもの?!)をつくりまして。

それは、

「オムライスの上に、
 ケチャップで『ありがとう』と書いて
 感謝を伝える。」

っていうよーな内容でありまして。

自宅で調理してお皿に盛りつけて。まずは、
料理をラップにくるんでケチャップ文字の練習をして。
本番記し、そして写真に収める。の行程だったのですが…

数年が経ち、いま改めて考えてみますと、
あの「オムライス」って実は「オムライス」ではなくって
「オムレツ」だったわー。

よくよく思えば、「ライス」を入れておらんかったー。

じぶんでも全く気づいていなかったんだけども、
今となって、(はて?)と頭によぎって。。。
それで当時「オムライス」って言っちゃって。ねぇー・・・

と。そんな、どーでもよい激白でございましたっ!

それでは~。
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
昔ながらか、ふわとろか。チーズ入りか、デミグラスか。

2014年10月11日 @ チキンライス

おもしろい問いを立てる?!

2014年08月18日 | デザイン/芸術
土曜の夜、テレビをつけてみると
たまたま「世界ふしぎ発見!」が映ってて、
んで、そのまま続けてテレビ観ていたのだけどね。

今回の番組テーマは、
誰も知らなかったニューヨーク
 グレート ピラミッド シティ
」と言うことで。
ぼくが観始めたときは、ちょうど
ニューヨーク・メトロポリタン美術館の
「エジプト・コレクション」のシーンが放映されていて、
おもしろい! と思いながら観ておったのですが。

そのうちのひとつ、ツタンカーメンの
石像(?! うろ覚えなので記憶があいまい‥‥)が、
通常ならば、エジプトからの持ち出しが
法律で禁止されているはずなのに(←ここも記憶あいまい。)
なぜ、それが
メトロポリタン美術館に収蔵されておるのかーっ?!
っという場面がとても興味深かった。

そこにはある事情が隠されていたのですが、
その「事情」のことよりもネ、感じたこととは‥‥

果たして、ぼくには
美術館で鑑賞しているとき、
そのような問いを思い浮かべることが出来るのか?!

というよーなことでして。

知識が無いから、全く思いもよらないだろうし。
もしかしたら、
たぶん見ていてもふらっと眺めるだけで
気にも留めず、その場を立ち去ってしまうだろうなぁ。

って考えていましたら、
「収蔵品」や「作品」を鑑賞しているときに
「おもしろい問い」を立てられるひとが素敵なのだなー!
とおもいました。

いや、それってとってもむつかしいことだろうけどもさ。

そしてまた、番組のなかで解説をなされていた
考古学者の先生が、
もうなんか、すごくってカッコよかったです!!!

ほいでは、ほいでは。
ブログに来てくれてどうもありがとうございます。
出す「答え」の質よりも、立てる「問題」の質の方が大事?

2014年8月18日 @ アジアの純真

往生写集

2014年06月30日 | デザイン/芸術

先日は、豊田市美術館へと、
アラーキーさんこと荒木経惟さんの展覧会
荒木経惟往生写集―顔・空景・道』に行って参りました。

会期ギリギリになってしまったけれど(期間は昨日まで。)
ようやく行けてよかったぁ。

アラーキーさんのさまざまな写真はもちろんのこと、
展示室おのおのでの、
作品の展示風景がとても素敵でした。

たんたんと作品が飾られているかと思えば。
つぎの展示室では、
無数の写真が壁いっぱいに敷き詰められていたり。
そしてまた、つぎの部屋に進めばさらに展示は一変して。

つぎはどうなるんだろう? って、わくわくしたり!!

雲や空が撮影された『空景』という作品では、
観るひとの目の高さよりすこし上に展示されているので、
顔を上げ、まさに空を見上げるように鑑賞するところが、
まさに『空景』だなぁ! と感じたり。

大きな写真もあれば、小さな写真もあり。
モノクロ作品が続くと思えば、パッとカラーで華やいだり。
そのままピンで留められているものから、
白・黒・木の額縁の違いで、雰囲気が変わって見えたり。

そしてっ。

裸んぼの赤ちゃんを、裸のおかあさんが抱いている、
『母子像』という作品が並ぶ展示室では、
白くてやさしい丸型のソファーと木のスツールが置かれ、
それに腰かけ、ゆっくり作品を眺めていると
こうなんとも言えないやさしさとあたたかさを感じたり‥‥

ほかにもたくさんっ!!
シンプルだけれど、力強いアイディアに満ちた
展覧会に感激をいたしました。

ではではっ。
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
豊田市美術館の壁の白さが作品でさらに際立ち綺麗でした。

2014年6月30日 @ 銀座、富山、京都、チロと陽子さん

完成までの濃密な道のり

2014年05月18日 | デザイン/芸術
完成がなされた作品を鑑賞するときには、
どこのなににいちばん感動するのかーっ?!
って言えばさ、それはもしかしたら、
「完成」に至るまでの「道のり」を感じ取ったとき。
なのではないかなぁー?? とおもいました。

いえ、もちろん完成品には、
そんな「道のり」のことはどこにも示されておらず。
鑑賞者は、「完成」された
その作品をしか見ることが出来ないのでありますが。

だからこそ、
そんな「道のり」を感じるにしても、
深い深い無意識のもとでおこなわれる受信だもんでよ。

「あぁー! これは、
 こんなにも長い濃密な道のりを経ての完成なのだ!」

というよーな、
具体的なことばには、
もちろん成ってはいなくって。

んでも、
「いいなぁ!」「すばらしいなぁ!」「素敵だなぁ!」
と思われる作品のかたがたからからは、どこかしら
そのようなことばにならない「道のり」や
「時間」を感じ取るに相なったからこそ、
感動したり、うれしくなったり、笑顔になったり、する。

そんなよーなことをねぇ、このたび思いましてー。

ぼくはさ、ド素人でございますので。
こんなこと言えば、
生意気なことをぬかすな! と怒られてしまうかもですが。

そのような「濃密な道のり」ってのは、
いったいなにであるのか?!
とゆーのをね、もうすこしだけ考えてみますと‥‥

それは、

「完成」へと至るまでに、
じぶんのなかで、
どれだけの数の「問い」に「答えた」のか?!

であるのかなぁ、と考えました。

そして、その「問い」の中にはサ、
「素敵な問い」と呼ばれるものが多ければ多いほど、
完成品も「素敵」なものに成ってくる。

うーん‥‥ と、なんかじぶんへの
戒めのようにブログが進んできているけれど。

こんな感じの、文書になってしまったところで、
更新ボタンを押すことといたします。
読んでくださったかたへ、どうもありがとうございます!

豊橋、晴れたよ! きょうこそ洗車する~。

2014年5月18日 @ 春風亭昇太さん

先生に恵まれた男

2013年12月27日 | デザイン/芸術
せんじつは、名古屋にて、
専門学校でお世話になりました
先生(朱音先生)の個展に行ってきました。

すてきだったー!!

ことばでは
どーにもいいあらわせないですが、
すてきだったー!!

ひとことで言うなら、
展覧会の雰囲気が、すてきだった。

絵や、色や、展示を
ずーっと観ていたい感じ。
って言うのかな??

また、会場にいらっしゃた先生に
あいさつもできてー。
先生がお元気そうで、うれしかった。

ありがたいおことばも
いただけて。感謝!

そしてっ!!
会場の最寄駅が「大須観音」駅だったので、
初めての大須を歩き、観音さまへもお参りして。

と、それから、

愛知県美術館にて開催中の
『アイチのチカラ! 戦後愛知のアート、70年の歩み』
も観てきまして。

いろいろとおもしろかったー。

『アイチのチカラ!』での
最後のほうの展示室では、
奈良美智さんの絵が飾られているのですが。

奈良さんの絵の正面には、
奈良さんの
大学時代の先生・櫃田伸也さんの作品と。

その周りには、奈良さんと同じく
櫃田さんの教え子である方々、
杉戸洋さん、森北伸さん、小林孝亘さんの作品で
部屋のスペースが囲まれていて‥‥

ちょうどさ、朱音先生の個展を観たあとだったから、
そんな「先生と生徒」のことも想いながら、
じんわりと込み上げてくるものがありました。

さいきん思うのは、

おれってさ、こう、いろいろ思い返すと
なんていうのか、何に恵まれているのか?! と言えば、
「先生に恵まれてる」やね。

朱音先生だけじゃなく、いろんな先生の
顔を思い浮かべながら‥‥

もうこれ、将来じぶんの墓石にさ、
「先生に恵まれた男、ここに眠る」
とか記しても、だれにも怒られない気もしてきたーーっ!!!

というわけで。

クリスマスも終わって、
年の瀬ねー。

みんな元気でね!

名古屋市美術館の出入り口

2013年10月26日 | デザイン/芸術
岡崎市の会場にひきつづき、名古屋での
あいちトリエンナーレ2013』、
観に行ってきましたー。

回り歩くの大変だったけど、
たのしかったぁー。

なかでもね、
特に驚いたのが
名古屋市美術館の出入り口!

名古屋市美術館、これまで何度か
あそびに行ったことはあるけれど、
こんかいは本当に驚いた。

いつものように、
プラネタリウムの科学館側から
白川公園へ入り。

そしてまた、いつものように
美術館のなかへと入ろうとすると‥‥
出入り口付近に立つスタッフの方から


   「向こうが入り口となりますのでー」


とのことで。マップをもらい、
美術館わきの
細道をぐるりに歩いて

(こんなところもあるんだなぁ)

なんて思いながら進んでいくと。
小さい勝手口のまえにおられるスタッフの方より
「こちらが入り口ですよー」の声で、館内へ。

(ここは、どこだ?!)

と見渡すと、いつもなら
1階の展示を終えて
そのまま2階へ昇る、階段のところ。

そんな階段の横にさー、
勝手口あるなんて、知らなかったよ。。。

それからそれから!
ぜんぶ観終わって出ようと思えば、そこには
また観たことのない重そうな扉。

「力ずくで開けてるのよー!」

と話すスタッフのおばちゃんに
扉を開けてもらうと。

こんどは、
発電室みたく小さな部屋に
杉戸洋さんの絵画作品が飾られていて。

作品鑑賞後には、となりにある
これまた重そうな扉を
つぎはじぶんで開けて、外へ。

つづく狭い階段を
コンコンと降りていく‥‥‥


そんな、
いままで見たことない出入り口から
出たり入ったりすることで、

何度も来たことある美術館が、
まるで、はじめて訪れる新しい場所のように
変身していて。それがすごく面白かった!

これは、各地の会場でも
感じたことなのだけれど。

いままで入ったことのない、
入ろうと思ったことさえない、
場所と出合う。

っていうのが、もしかしたら
『あいちトリエンナーレ2013』のテーマ


   「揺れる大地 - 
    われわれはどこに立っているのか
    場所、記憶、そして復活」


で言われていることかもしれないなぁ。
とおもいました。

トリエンナーレ、
たのしかったです。感謝!