旅慣れた二人のお気に入り

北から南から有名な場所を巡り 旅行した中でのすばらしき大きな感動を得られたお気に入りの場所です。

西の丸居館庭園跡・大門櫓・時鐘櫓跡

2012-06-18 10:16:35 | 日記







西の丸居館庭園跡

 臼杵護国神社境内は延宝3年(1675)に城主居館が移された場所です。
 現在、地上遺構は全く見当たりませんが、わずかにその庭園の一部が残されています。
 西の丸居館北石垣は最大高さ約7メートルの現存する最も大規模な石垣です。
 上から三分の二は江戸中期以降に積み替えを行っていますが、下部は17世紀前半の状態保っってる





大門櫓(だいもんやぐら)

 17世紀初頭に城内通行の利便を高めるために造られたと思われる櫓門で、玄関口のような
 存在になりました。
 平成12年に模擬復元建物が整備されました、両脇の石垣は18世紀後半と見られる
 「亀甲積(きっこうずみ)」です。



時鐘櫓跡(ときかねやぐらあと)

 稲葉氏入城後に造られた時報施設です。
 元禄14年(1701)に時鐘楼(じしょうろう)が二王座に移されるまで、時計が置かれ
 臼杵城下に鐘で時を報せていました。
 この櫓を造る直前の整地層からは、十字架を刻む軒瓦が出土しています。
 写真のようにここからは臼杵の街並みが見渡せます。



 

古橋口と鐙坂(ふるはしぐちとあぶみざか)

2012-06-18 08:50:30 | 日記










古橋口と鐙坂(ふるはしぐちとあぶみざか)


 大友宗麟公時代から登城路として、使われていた道で

 外敵を防ぐため岩を掘り切って造った狭い道です。

 馬の鐙に似ていることから「鐙坂」と呼ばれました。

 太田市時代には内堀をまたぐ橋が掛けられ、

 稲葉氏時代に「古橋」と呼ばれていました。

臼杵城の周辺の風景

2012-06-18 08:20:50 | 日記









臼杵城の周辺の風景

 かって臼杵城は丹生島(にうじま)という島に造られた城で

 回りを海に囲まれた海城でしたが、その後臼杵城は稲葉氏

 により改築され、明治初年に城郭のほとんどは破却されました。

 明治6年(1873)明治新政府は全国の城郭を残すものと
 残さないものとに分けました。(城郭存廃決定)

 軍の施設にならなかった臼杵城は廃城と決定され、本丸・二の丸

 は当時、新政府が進めていた公園制度による「公園地」に

 指定され、三の丸は宅地となりました。


 今は埋め立てられ、この写真のように周辺は家に囲まれて
 昔、島であった面影はまったく見あたらず残っていません。


臼杵城跡(臼杵公園)

2012-06-14 10:25:38 | 日記










臼杵城址(臼杵公園)

 大友宗麟公によって築かれた全国でも珍しい海城。

 現在は陸続きだが、当時は臼杵湾に浮かぶ小島だった

 小高い丘に永禄5(1562)年に大友宗麟が築城。

 当時は臼杵湾に浮かぶ海城で別名「丹生島城」
 今は臼杵公園として整備されています。

 明治4年(1871)の廃藩置県で稲葉氏の居住でした。

 2001年に復元した大門櫓(だいもんやぐら)と
 鐘楼が迎える。

 関ヶ原合戦直後の慶長5年(1600)からは美濃(郡上八幡)
 から入封した稲葉氏が廃藩置県まで15代にわたってこの城を
 居住とし、臼杵藩の支配にあたっていました。

 春は千本桜、夏はツツジが咲く
 春は桜の名所として有名で約1000本の桜が咲き誇る。
 この城跡は臼杵市民や観光客の憩いの場として親しまれ
 ています。


大友宗麟公・「国崩し」と呼ばれる大砲

2012-06-14 09:38:24 | 日記






大友宗麟公

 大分の歴史を語るに欠かせない人物・大友宗麟公、大分の礎を築いた立役者。
 守護大名の大友家二十一代当主、戦国時代には大内義隆や毛利元就と合戦し、
 九州北部6ヶ国を支配するなか、南蛮貿易によって、西洋の文化や技術を
 積極的に取り入れた。

 天正6(1578)年にはキリシタンの洗礼を受け、4年後ローマ教皇のもとへ
 天正少年使節団を派遣、キリシタン大名として知られる大友義鎮(よししげ・宗麟)は
 弘治2年(1556)大友氏代々の本拠地であった府内(大分市)を離れます、
 移った「新しい城」は臼杵城でした。
 臼杵城は臼杵湾に浮かぶ丹生嶋の岩上に建つ北・東・南の三方が海に囲まれた
 天然の要害でした。

 府内(大分市)に比して極めて高い防御性をもつ臼杵城は義鎮(宗麟)の入城から
 天正15年(1588)の大火で焼失するまでの間、大友宗麟の居城として機能していました。
 
 写真は臼杵城の中にある大友宗麟公のレリーフです。




「国崩し」と呼ばれる大砲

 当時「国崩し」と呼ばれていた大砲、「国崩し」は日本最初の大砲とされる。
 古くは「石火矢」と呼ばれたものを大友宗麟が「国崩し」と命名したという。
 (鉄砲は手火矢」といった)
 「国崩し」のレプリカの展示してある、臼杵城址公園の説明碑文には
 天正4年(1576)「沸狼機砲(フランキ砲・国崩し)ポルトガルより送られたと説明してる
 説明文には書いてありませんが本物は靖国神社に展示されているらしい?です。