東宝映画
「 日本で一番ながい日 」
三船敏郎演じる阿南惟幾陸軍大臣
「 一死ヲ以テ 大罪ヲ謝シ奉ル 」
敗戦の責任をとって自決する場面である。
時代劇での割腹シーンは、吾々の世代は馴染み深い
「 武士が責任をとる 」 ・・・とは、切腹するもの。
吾々は、子供の頃から そう認識していたのである。
明治維新なりて
国民は天皇に忠誠を誓った。
『 七生報国 』
「 殉死する覚悟をもつ者、憂国の至誠と認む 」
国に殉じることは、天皇陛下への忠義であったのだ。
神風特攻隊
殉国
親泊朝省
いよいよ降伏と決定
大日本帝国は有史以来初めて敗北を喫した。
親泊が精神の拠り処と仰いだ大元帥陛下は敵の軍門に降られ、皇軍は消滅する。
その上、故郷の沖縄は敵手に落ち、同胞の軍官民 数千人が戦死したという。
「 帰りなん、いざ、魂は南溟の果てに 」
敗戦と決定して以来、親泊の心中を去来したのは
この思いではなかったか。
彼の動かぬ決意を知った妻の英子は、
「 愛児とともに是非お連れ下さい 」
と、同行を願った。
長文の遺書 「 草莽の文 」 をしたため
この命断つも残すも大君の
勅命 (マケ) のままに益荒男達よ
九月二日の夜
「 ガ島で死すべかりし命を今断ちます、諸兄皇国の前途よろしく頼む 」
と、同期の井本、種村、杉田宛にしたため
妻子とともに 四十三年の清冽な生涯を終えた。
敗戦時は大本営陸軍報道部員として、
民間の報道機関に戦況を報知する任務についていた。
しかし、この任務は正直な親泊にとっては、辛い、耐え難い職務であったらしい。
「 軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。
心の中では申し訳ないと詫びつづけている。 ほんとうに辛い職務だ 」
と、うつむいていたという。
「 その時は大佐殿はもう四十をすぎておられたが、青年時代そのままの純真で清潔な、
心中一点の曇りもないようなお人柄であった。
終戦の前後はたいむが忙しくてお会いする機会はなかったが、
その悲痛な御心中はよくお察しすることができる。
大佐殿が御家族もろ共自決されたことは、九月上旬たしかに騎兵学校内で開いた。
ああ、やっぱり誤りの報道をしていた ( それはたとえ軍の命令であったにしても ) ことを、
自決して国民にお詫びなされたのだと思った。
大佐殿の平素の御性格、御心中を知る私には、
乃木大将と同じく立派な御最期だと、今でも感服し敬慕している」
と・・・岡治男 元機甲大尉
親泊の自決は、親しい人にはうすうす感づかれていたらしい。
形見わけのつもりで持ち物を知人にやっていた。
終戦処理のため、
名古屋東海軍管区司令部に転じていた私は、
憲兵隊の課長をしていた岡村適三の世話になった。
ある日 東京から帰った岡村は、
「 小山、親泊は死ぬらしい。新聞記者がそういうとる。
何でも持ち物は自分のものは勿論奥さんや子供さんのものも惜し気なく人に呉れるそうだ 」
「 そらいかん、貴様いってとめてくれ 」
「 うん 」
岡村が上京した時は既に後の祭り、
親泊は夫人と共に愛児を道連れに朱にそまっていた。
たしか彼が陸大専科学生の頃だったろう。
夫人は可愛い子供さんをつれて私の家を訪れた。
夫人は妻の兄の教え子
その義兄から 「 妻を娶らばああいう人を 」 とすすめられた人である。
私は うちくつろぐ二人の女を比較して、親泊の幸を羨ましく思った。
それは 私の浮気性ばかりではなく、真に非のうち所のない婦人であった。
その人も共々・・ ( ・・小山公利手記 )
昔から
「 慷慨死に赴くは易く、従容義に就くは難し 」 と、言う。
従容死に赴くのはさらに難しいのではあるまいか。
大日本帝国は降伏し
天皇陛下は 「 万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 」 と仰せられた。
これから平和が来るのだという時に、その平和に背を向け、
祖国の終焉に殉ずる決意は容易なものではあるまい。
額田坦著 「 世紀の自決 」 に五百六十八柱の芳名が載っている。
しかしそれ以外に、民間人でありながら祖国の難に殉じた人も多い。
尊攘同志会の人々の愛宕山上の自決、明朗会 ( 高級船員の団体 ) の人々、大東塾の人々の集団自決がある。
これらの人々はまことに国難に殉じた人であり、日本人の華である。
降伏時陸軍大臣であった阿南惟幾、
東部軍司令官であった田中静壱、
特攻隊の生みの親であり軍司令部次長であった大西滝治郎、
後には杉山元、本庄繁と、いずれも立派な最期を遂げている。
しかし、この人々は軍における枢機に参じ、責任のある地位にいた人々である。
この 五百八十六柱の中には、中少尉から兵士までいわゆる草莽に生きた人々が、
国の内外で祖国の敗北に殉じている。
岡潔は 「 世紀の自決 」 の序文で、この人々の散り際を花吹雪にたとえている。
「 日本人が桜の好きなのは散り際が潔いからである 」 といっている。
親泊朝省もそのうちの一人である。
「 親泊は敗戦と決定した直後から、自決を心中深く決していた、
もっと壮烈な死に方をしたいと思っていたようだ。 いつ死ぬか、その日を選ぶのに苦慮したようだ。
出来れば降伏した八月十五日に死にたかったようであろうが、
大本営の後始末、書類の焼却などで、自決などできる状態ではなかった 」
と、親泊の親友菅波三郎は語ってゐる。
そこで、九月三日、東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印される日の前夜、
降伏を潔しとせぬ皇軍軍人としての誇りを秘めて、妻子ともども皇軍の終焉に殉じたのである。
菅波三郎と親泊朝省(右)
・
満蒙の風雲がしだいに険しさを増しつつあった昭和五年の春、
鹿児島にいる菅波三郎の下宿へ、ひょっこり親泊朝省が訪ねてきた。
つもる四方山話に興じていた親泊が、急に姿勢を正すと、
菅波の目を見すえながら、
「 菅波、お願いがある。貴様の妹を俺の妻にくれないか、一生大事にする 」
と、言った。
突然のことで 菅波も返事の言葉に窮したが、
「 うむ、英子本人が何と言うか、こういう事は本人次第だ。俺には異存はない 」
と、言うより外はなかった。
その年の秋、東京で式をあげた。
この時 親泊二十五歳、英子十九歳
「 親泊様、御一家一同御自害、相果てられました 」
昭和二十年九月三日の早朝、
小石川大原町の親泊宅の隣家なる米屋さんが、
目黒区碑文谷の拙宅へ駈けつけての報せを受けて、愕然とした。
かねての覚悟の上のことではあったが、かく現実のものとなってみると、
哀痛、万感交 ゝ この胸に迫る。
取るものも取りあえず、現場へ急ぐ。
空襲を免れた古い街並みの一角、シーンと静まる親泊の家、
一瞬ハッと戸締りのしてある二階を見上げた。
「 あそこ、か 」。
玄関の扉を排して階段を上り、八畳の間に行ってみると、
親子四人、枕を並べ、キチンと姿勢を正し、
右から親泊朝省、英子、靖子、朝邦の順に、晴着を着て、立派な最期を遂げていた。
凛々しい軍服の朝省と、盛装して薄化粧の英子は、拳銃でコメカミを射ち抜き、
十歳の靖子と五歳の朝邦は、青酸加里で眠るが如く、一家もろとも息絶えていた。
件 (クダン) の拳銃は、私が満州事変で使ったもので、
二・二六事件後出所してから、出征する朝省に贈ったブローニング二号であった。
通夜、翌日納棺、荼毘に付す。
いよいよ出棺の間際、
「 お別れを 」 と 係の者が蓋を開けると、
大勢の近所の仲よしだった子供たちが中をのぞき見て、
「 ワーッ 」 と 一斉に声をあげて泣き出した。
無理もない。
きのうまで無邪気に睦み戯れた二人の顔が土色になって横たわる姿を、
まのあたりにして、ああ。
・・・・・・
終戦の日から、ミズリー艦上の降伏調印の日までの間に、
一度だけ朝省が拙宅に来た。
「 千年の後、明治天皇と大西郷が出現する。
その日まで待つのだ。祖国日本恢興の日まで」
と 語った。
「上に戴くわが皇室、上御一人の周辺から崩れ去った。
だらしなさ、国民の下部から壊れたのではない」
とも。
また別の日、
妹英子が子供を連れてそれとなく、お別れに来た、
帰る時、五歳の朝邦が、私の長男隆(四歳)の手を握り、
「 うちに行こう、一緒に行こう 」
と 言って泣き出した。
虫が知らせたのかと、あとで思った。・・・・」
・・・菅波三郎談
親泊朝省時に四十三歳、
妻英子三十七歳、
十歳の長女、
五歳の長男と共に逝いた。
英子は菅波三郎の妹である
・・・二・二六事件 青春群像 須山幸雄著から
嗚呼
敗戦が為、殉死したと
嘆に想うな
哀しいことと想うな