2チャンネルに、先日こんな質疑応答が載っていましたが、この質問に対しての上祐さんの回答に、どうしても違和感を感じてしまうのは、私だけなのだろうか?おそらく以前は、違和感無くそのまま言葉を受け入れ、「そうそうその通り。」と思っていたと思うのですが、最近はへそ曲がりになってしまったものですから、こういう文章を見ると何か妙な感じがして仕方ありません。
『質問者
「何故お布施を欲するのですか?他人の金で賠償金ですか? 」
上祐氏回答
「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践であると共に、実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり、やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」』
回答の文章を3つに分けて考えたいと思います。
「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践である」
これは間違いないのですが、何か違和感を感じるのは、出家修行者に布施するのは何のためなのかという点に引っかかるからかもしれません。大体において、なぜ出家が生まれるのか?覚者や真理勝者がこの世に生じたことで、その法を学び、実践するために出家制度が出来上がるのだと思うのですが、M派は真理の御霊を否定してしまっていますし、行くところがないサマナのためとか、賠償金支払いのためと言う理由で出家制度を維持しているのであれば、そういった本来の出家の目的からは、はずれてしまっているのではないだろうかという疑問が湧いてきます。
旧団体からの制度的な引継ぎのために、残しているとしか思えないのですが、そうするとM派に布施しても、他のボランティア団体に布施しても、功徳という点で変わらないのではないかということになってきます。大体M派に布施して、功徳になるのだろうかというのも疑問です。
次に、
「実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり」
これは、一番分かりやすいです。為したサービスに対しての対価として支払われるわけですから、ヨーガ教室の授業料みたいなものと考えてよいのでしょう。これは、宗教事業といわれる部分なのかもしれません。
最後に、
「やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」
これは、ミクシィ内での一般の方に対する回答なんですよね?
この回答をされて、理解できる一般の方がいるのだろうかという疑問があるのですが、どうなのでしょう?だいたい、普通の方の感覚としたら、前に座って黙っていても、5000円や10000円のお布施を、信者がうやうやしく持って来てくれるんですから、受け取れるものなら受け取りたいと思うのが人情じゃないですか。(笑)2,3時間で10万円くらいは集まるわけですから、時給4,5万円といったところです。誰でもやってみたいんじゃないでしょうか。
信徒相手にこの発言をしたなら、信徒は教義に基づいて、煩悩の塊であるお金を受け取ることによって、受け手は相手の煩悩を引き受け、ひどく精神的にも肉体的にもダメージを受けるのだろう。それは大変なことだろうなと、推察することも出来ますが、教義も入っていない、一般の方相手にこんなことを言っても、??が一杯増えるだけのような気がします。
逆に、お布施は口八丁手八丁でうまいことやらないと、相手から引き出すのはなかなか大変なのだな、などと言う、曲解さえ生まれかねないのではないかと心配してしまいます。
私は以上のような点から、どうも違和感を感じてしまっています。
『質問者
「何故お布施を欲するのですか?他人の金で賠償金ですか? 」
上祐氏回答
「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践であると共に、実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり、やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」』
回答の文章を3つに分けて考えたいと思います。
「宗教的には、お布施は、在家信徒が出家修行者に行う宗教的実践である」
これは間違いないのですが、何か違和感を感じるのは、出家修行者に布施するのは何のためなのかという点に引っかかるからかもしれません。大体において、なぜ出家が生まれるのか?覚者や真理勝者がこの世に生じたことで、その法を学び、実践するために出家制度が出来上がるのだと思うのですが、M派は真理の御霊を否定してしまっていますし、行くところがないサマナのためとか、賠償金支払いのためと言う理由で出家制度を維持しているのであれば、そういった本来の出家の目的からは、はずれてしまっているのではないだろうかという疑問が湧いてきます。
旧団体からの制度的な引継ぎのために、残しているとしか思えないのですが、そうするとM派に布施しても、他のボランティア団体に布施しても、功徳という点で変わらないのではないかということになってきます。大体M派に布施して、功徳になるのだろうかというのも疑問です。
次に、
「実際的には、教団がなす宗教的サービスに対する在家信徒の支払いの側面もあり」
これは、一番分かりやすいです。為したサービスに対しての対価として支払われるわけですから、ヨーガ教室の授業料みたいなものと考えてよいのでしょう。これは、宗教事業といわれる部分なのかもしれません。
最後に、
「やってみれば分かりますが、お布施を受けることは容易ではありません。」
これは、ミクシィ内での一般の方に対する回答なんですよね?
この回答をされて、理解できる一般の方がいるのだろうかという疑問があるのですが、どうなのでしょう?だいたい、普通の方の感覚としたら、前に座って黙っていても、5000円や10000円のお布施を、信者がうやうやしく持って来てくれるんですから、受け取れるものなら受け取りたいと思うのが人情じゃないですか。(笑)2,3時間で10万円くらいは集まるわけですから、時給4,5万円といったところです。誰でもやってみたいんじゃないでしょうか。
信徒相手にこの発言をしたなら、信徒は教義に基づいて、煩悩の塊であるお金を受け取ることによって、受け手は相手の煩悩を引き受け、ひどく精神的にも肉体的にもダメージを受けるのだろう。それは大変なことだろうなと、推察することも出来ますが、教義も入っていない、一般の方相手にこんなことを言っても、??が一杯増えるだけのような気がします。
逆に、お布施は口八丁手八丁でうまいことやらないと、相手から引き出すのはなかなか大変なのだな、などと言う、曲解さえ生まれかねないのではないかと心配してしまいます。
私は以上のような点から、どうも違和感を感じてしまっています。
あのヨグマタでさえ布施を取りすぎだと非難轟々みたいですから、新団体とされても「布施させて頂く」ことに喜びを感じられるだけの魅力を打ち出してもらわないとねっ。
今生で解脱悟りも夢でないというなら最高、せめて現世での願望成就でもね。
私信ですがメール送りました。
これを言われたら、
「はいっ!そ~れ~ま~で~よ~!」と植木等になってしまいます。(笑)
>新団体とされても「布施させて頂く」ことに喜びを感じられるだけの魅力を打ち出してもらわないとねっ。
これが出来れば、元だけでなく、新人選手獲得も夢ではありません。
されてきたのは、教団の今までの言い分では
悟り・解脱する目的の為に出家したものを支えるのは
大きいとされたからです。
しかし、上祐さんはそこを濁していて、うわべだけの団体を作ってしまったので、みんなの心は何故、お布施しないといけないの?と思うのだと思います
出家している人はちゃんと仕事して、それで賠償すればいいし、それを信徒のお布施で払うのは基本、全然謝罪になっていないと思います。
これは泥棒が泥棒して、賠償するに等しい行為と
被害者でもある私は思うのです。
今までは世界を救う唯一の教団から犯罪者集団まで
落ちたのです。それをそうではないといい続け、騙し続けてお布施させてきたのです。
それをコロっとかえれば、みんな目が覚めてやめる
人もでてくると思います。
だから、教団側は上祐さんを魔境扱いするのです
それはおっさんにこころを縛り続けてお布施してもらえるのに、みんなが事実に気付いて辞めてしまうからです。
こんな人がいました。
マンションを借りるお手伝いをした信徒が会社を
首になったそうです。
何故こんなことが起こるのか?基本を考えてください
所詮何を言おうが世間はオウムを犯罪者の集まりと
見るし、私も基本はカルトと思っています。
そう思われてもいい人だけ残ればいいし、
お布施すればいいと思うのです。
私はオウムに1500万も使いました
今考えると無駄でしたし、それだけあれば
ナンだって今ではできます。
だから、皆さんも無駄なお金を使わないで
有益に使ってほしいです。あなた達のお金はさまなの
無駄遣いに使われいます
海外旅行にいっている師も少なからずいます
早く眼を覚ましてほしいですね
搾取され続けていることに……
純粋な気持ちをふみにじられていることに……
私も教団は長く持たないと思いますよ。
師の脱出計画の話は知りません。
財施サマナとのことですが、どこからアクセスですか?
2007/04/07(Sat) 20:56 | URL | VT #-[ 編集]
だから私も、しつこく解脱に関する説明を求めているのです。
>出家している人はちゃんと仕事して、それで賠償すればいいし、それを信徒のお布施で払うのは基本、全然謝罪になっていないと思います。
普通に当たり前に考えるとそうなんですよね。
正悟師がこのようにおっしゃるということは、
遅かれ早かれそのようになるということでしょうね。
サマナは今から身の振り方を考えておいたほうが良いですね。
ビートたけしの小説「教祖誕生」で、
布施を受け取る心理的苦痛が書かれていますよ。
変な話ですが、例えば私に、
リサイタルのワンステージで100万やる、
という依頼があったとしましょう。
私はこれを、単に割りの良い話として、
簡単に受け取ることができます。
これはなぜかというと、
私の職人の技を高く評価してくれてるだけだし、
実際に相場の範囲内ですから。
一方、私にこんな話が来たとしましょう。
顧客名簿、300件入力してくれたら100万。
これではまず悩むと思いますね。
相場の範囲外な金額である上、
私にこの仕事に関する誇りもプライドもないから。
こんな、単なる「もらい過ぎ」でも、
悩みの種になるのです。
如何に宗教とて、特に自分は何もしていないのに、
お金を受け取るってのはかなり苦痛ありますよ。
お金を受け取るってのはかなり苦痛ありますよ。
とも子さん・三女は年に1500万円ももらって贅沢しているけど、それも苦痛なのかな?
四女は「苦痛だ!」と言って家を出て行ったけど。
あとアッサージさんはどうなのかな?
>お金を受け取るってのはかなり苦痛ありますよ。
これは、ぼんち@ボーダフォンさんのように、
良心の呵責というものを知っている、まともな人間の場合です。
布施を受けるのが当たり前だと思っている人達とは、
種族が違います。(笑)