本当に久しぶりになってしまいました。
4月4日に母が亡くなりまして。
バタバタしている間に、すっかり日記から遠のいていました。
重ねてパソコンは壊れるし。
新しいmacを買って、やっとこさ、なんとか環境整った感じでしょうか。
2年ほど前から肺がんを煩っていた母が、
とうとう逝ってしまいました。
余命平均で7ヶ月と言われてから、2年近く生き延びました。
最後の一ヶ月ほどはもう、
面会に行ってもほとんどウトウトしていて話すこともない感じで、
ほぼ寝たきりの母の体をマッサージしてあげるくらいしかできませんでした。
体からほとんど肉が削げ落ちて、骨と皮のようになっている体は、
マッサージといっても少しの力でさすってあげる程度しかできなかったのですが。
もっと会いにいってあげられたら、とかまあ諸々悲しい想いもありますが、
最後は妹と二人で看取ってあげることができました。
行けても週に一回程度だったので、もう危ないですと連絡をもらい、
急いでかけつけても間に合わない、と想像していたので、
最後の時間を一緒に過ごせたことは本当によかったと思います。
亡くなる4日前の日曜に一人で面会に行ったとき、
ほとんど寝ていて話しかけても反応のなかった母。
食事もほとんどとれない状態になっており、もう長くないなーと。
このところ面会に来たときには、
毎回もうこれが最後かもしれないなーという思いでいました。
これが最後の会話になるかなー、
母の最後の言葉はなんだろうというのがずっと頭にありました。
この日、一方的にポツポツとはなしかけながら、
眠っている母の体をさすっていると、
突然パカッと目を覚まし、
母が裸足の自分の足をまじまじと見つめながら、
「かわいい赤い靴」と言いました。
意識も朦朧としている様子でも、
母が見ているものが恐ろしいものやいやなものでなく、
かわいい赤い靴で良かったなーと思いました。
そして、これが最後の言葉になるかもなと思いながら帰りました。
次の火曜日、旦那の休みの日で子供たちは春休み。
家族全員で車で面会に行こうと予定していたら、妹から電話が。
母の呼吸の様子があまりよくないと主治医の先生から連絡がきたというので、
急いで支度して母のところへ。
つくとすぐに主治医の先生がいらして、
もうここ1日、2日でしょうと言われました。
子供たちが会いにきたよーと呼びかけても
もうあまり反応はありませんでした。
子供たちも一人一人、
「グランマーきたよー」と顔の前で挨拶しましたが、
わかっているのかいないのか。
妹もかけつけ、旦那と子供たちは家に帰し、私と妹は母の部屋に泊まることに。
呼吸は浅いが、続いている。
老人ホームでしたし、延命措置はしないということになっており、
酸素マスクのみ。
ホームの方々も母が慣れたこの部屋で看取ってあげたいと言ってくださり、
ひどい痛みが出るなどがなければ病院にはつれていかないことになっていました。
15年前に他界した父の友人ご夫婦がお見舞いにくださったジュースが気に入っており、
ときどき少し意識がもどったなーというときに、
喉かわいた?何か飲む?と聞くと
うん。と答えました。
もうごくごく飲める状態でもなく、気管に入ればそれこそ大変なので、
ジュースをスポンジにしみ込ませて口の中に入れてあげると、
おいしそうに吸い付いて飲んでました。
老人ホームのスタッフの方々が、ときどき覗いてくださいました。
母は石原裕次郎と福山雅治が大好きだったので、
部屋では福山のCDをかけておりました。
寄ってくださったスタッフさんが母に顔を近づけて大きな声で、
「いいねー、福山かかってるね!
福山と裕次郎、どっちが好きなのー?」と問いかけると、、、、、
それまで意識もなく眠っていた母が、かなり大きい声で、
「ゆうじろう!」と答え、
私たちはあわてて「ごめんごめん!」と
曲を裕次郎さんにとりかえました。
福山ごめんなさい(笑)
そのあとも時々母の体制を変えてあげたり、
ジュースを飲ませたり、体をさすったりしながら、
私と妹は交代で食事を買ってきたり、
シャワーをあびに家に帰ったりしながら、そばについていました。
また馴染みの男性スタッフさんが部屋に寄ってくれて、
母の顔の目の前で、
「ぼくーーー、誰だがわかるー?誰だかわかるーーー?」
と聞くと、母が大きな声で
「おとこまえーーー!」
と言いました。
母は園のスタッフの方々から愛されていたし、
こんな状況でもギャグを忘れない人でしたねー。
と、おとこまえと言ったことがギャグ、、、、というのも
そのスタッフさんに失礼だ(笑)
ギャグじゃない、真実です!男前です!
そんな風に最後まで笑いをとりながら、
4日の午前中にだんだんと呼吸が少なくなり、
やがて止まりました。
ナースコールで呼んだ看護師さんとスタッフさんも最後を看取ってくださり、
そこにいた全員がぼろぼろと泣いてくれていました。
私たち姉妹もひとしきり泣きましたが、
ふと我にかえり、
まず思いついたのが入れ歯!
入れ歯をしていなかったので、
ほおがこけて口元もしょぼしょぼに。
「死後硬直になる前に入れ歯!」と、
姉妹と看護師さんで口をこじ開けなんとか入れ歯を入れました。
女性の死顔、そりゃー、不細工はいやでしょう。
そこ大事。
母の顎ががくんと落ちて口が開いた状態だったので、
看護師さんからのアドバイスをもらい、
頭上から手を回し、交代で顎を押さえていました。
こちらに向かっていた妹の旦那さんが、
間に合わずに到着して、
すぐに「僕がやります。」と言って母の顎を押さえていてくれました。
いやあ、これには感心しました。
うちの旦那だったら、そんなこと絶対言わない、気がつかない。
その後、うちの旦那は会社を早退して子供たちを拾って母の顔を見にきました。
数日前の生きているときにも一度顔を見られて良かったです。
最後はベッドから動くこともできず、
楽しい日々ではなかったと思うので、
母は亡くなってやっと自由に、楽になれたのだなーと、
ホッとしました。
スタッフの方々も次々顔を見にきてくれて、
「ブラックなところが好きでした。」などと、
うちの母らしいコメントをいただきました。
みなさん本当によくしてくれて、
母はこのホームでけっこう楽しくやっていたのだなーと、
感謝しています。
そんなこんなで振り返ってみると、
気になっていた母の最後の言葉は、、、、、、
男前。
4月4日に母が亡くなりまして。
バタバタしている間に、すっかり日記から遠のいていました。
重ねてパソコンは壊れるし。
新しいmacを買って、やっとこさ、なんとか環境整った感じでしょうか。
2年ほど前から肺がんを煩っていた母が、
とうとう逝ってしまいました。
余命平均で7ヶ月と言われてから、2年近く生き延びました。
最後の一ヶ月ほどはもう、
面会に行ってもほとんどウトウトしていて話すこともない感じで、
ほぼ寝たきりの母の体をマッサージしてあげるくらいしかできませんでした。
体からほとんど肉が削げ落ちて、骨と皮のようになっている体は、
マッサージといっても少しの力でさすってあげる程度しかできなかったのですが。
もっと会いにいってあげられたら、とかまあ諸々悲しい想いもありますが、
最後は妹と二人で看取ってあげることができました。
行けても週に一回程度だったので、もう危ないですと連絡をもらい、
急いでかけつけても間に合わない、と想像していたので、
最後の時間を一緒に過ごせたことは本当によかったと思います。
亡くなる4日前の日曜に一人で面会に行ったとき、
ほとんど寝ていて話しかけても反応のなかった母。
食事もほとんどとれない状態になっており、もう長くないなーと。
このところ面会に来たときには、
毎回もうこれが最後かもしれないなーという思いでいました。
これが最後の会話になるかなー、
母の最後の言葉はなんだろうというのがずっと頭にありました。
この日、一方的にポツポツとはなしかけながら、
眠っている母の体をさすっていると、
突然パカッと目を覚まし、
母が裸足の自分の足をまじまじと見つめながら、
「かわいい赤い靴」と言いました。
意識も朦朧としている様子でも、
母が見ているものが恐ろしいものやいやなものでなく、
かわいい赤い靴で良かったなーと思いました。
そして、これが最後の言葉になるかもなと思いながら帰りました。
次の火曜日、旦那の休みの日で子供たちは春休み。
家族全員で車で面会に行こうと予定していたら、妹から電話が。
母の呼吸の様子があまりよくないと主治医の先生から連絡がきたというので、
急いで支度して母のところへ。
つくとすぐに主治医の先生がいらして、
もうここ1日、2日でしょうと言われました。
子供たちが会いにきたよーと呼びかけても
もうあまり反応はありませんでした。
子供たちも一人一人、
「グランマーきたよー」と顔の前で挨拶しましたが、
わかっているのかいないのか。
妹もかけつけ、旦那と子供たちは家に帰し、私と妹は母の部屋に泊まることに。
呼吸は浅いが、続いている。
老人ホームでしたし、延命措置はしないということになっており、
酸素マスクのみ。
ホームの方々も母が慣れたこの部屋で看取ってあげたいと言ってくださり、
ひどい痛みが出るなどがなければ病院にはつれていかないことになっていました。
15年前に他界した父の友人ご夫婦がお見舞いにくださったジュースが気に入っており、
ときどき少し意識がもどったなーというときに、
喉かわいた?何か飲む?と聞くと
うん。と答えました。
もうごくごく飲める状態でもなく、気管に入ればそれこそ大変なので、
ジュースをスポンジにしみ込ませて口の中に入れてあげると、
おいしそうに吸い付いて飲んでました。
老人ホームのスタッフの方々が、ときどき覗いてくださいました。
母は石原裕次郎と福山雅治が大好きだったので、
部屋では福山のCDをかけておりました。
寄ってくださったスタッフさんが母に顔を近づけて大きな声で、
「いいねー、福山かかってるね!
福山と裕次郎、どっちが好きなのー?」と問いかけると、、、、、
それまで意識もなく眠っていた母が、かなり大きい声で、
「ゆうじろう!」と答え、
私たちはあわてて「ごめんごめん!」と
曲を裕次郎さんにとりかえました。
福山ごめんなさい(笑)
そのあとも時々母の体制を変えてあげたり、
ジュースを飲ませたり、体をさすったりしながら、
私と妹は交代で食事を買ってきたり、
シャワーをあびに家に帰ったりしながら、そばについていました。
また馴染みの男性スタッフさんが部屋に寄ってくれて、
母の顔の目の前で、
「ぼくーーー、誰だがわかるー?誰だかわかるーーー?」
と聞くと、母が大きな声で
「おとこまえーーー!」
と言いました。
母は園のスタッフの方々から愛されていたし、
こんな状況でもギャグを忘れない人でしたねー。
と、おとこまえと言ったことがギャグ、、、、というのも
そのスタッフさんに失礼だ(笑)
ギャグじゃない、真実です!男前です!
そんな風に最後まで笑いをとりながら、
4日の午前中にだんだんと呼吸が少なくなり、
やがて止まりました。
ナースコールで呼んだ看護師さんとスタッフさんも最後を看取ってくださり、
そこにいた全員がぼろぼろと泣いてくれていました。
私たち姉妹もひとしきり泣きましたが、
ふと我にかえり、
まず思いついたのが入れ歯!
入れ歯をしていなかったので、
ほおがこけて口元もしょぼしょぼに。
「死後硬直になる前に入れ歯!」と、
姉妹と看護師さんで口をこじ開けなんとか入れ歯を入れました。
女性の死顔、そりゃー、不細工はいやでしょう。
そこ大事。
母の顎ががくんと落ちて口が開いた状態だったので、
看護師さんからのアドバイスをもらい、
頭上から手を回し、交代で顎を押さえていました。
こちらに向かっていた妹の旦那さんが、
間に合わずに到着して、
すぐに「僕がやります。」と言って母の顎を押さえていてくれました。
いやあ、これには感心しました。
うちの旦那だったら、そんなこと絶対言わない、気がつかない。
その後、うちの旦那は会社を早退して子供たちを拾って母の顔を見にきました。
数日前の生きているときにも一度顔を見られて良かったです。
最後はベッドから動くこともできず、
楽しい日々ではなかったと思うので、
母は亡くなってやっと自由に、楽になれたのだなーと、
ホッとしました。
スタッフの方々も次々顔を見にきてくれて、
「ブラックなところが好きでした。」などと、
うちの母らしいコメントをいただきました。
みなさん本当によくしてくれて、
母はこのホームでけっこう楽しくやっていたのだなーと、
感謝しています。
そんなこんなで振り返ってみると、
気になっていた母の最後の言葉は、、、、、、
男前。