私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ・・・ 産経抄 八葉蓮華
「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」。「パリで最も有名な日本人画家」だった藤田嗣治(つぐはる)は晩年、君代夫人に何度も愚痴(ぐち)をこぼした。1949年に日本を離れてから、1度も帰国していない。 ▼55年にフランス国籍を取得、4年後にカトリックの洗礼を受けて、レオナール・フジタとなった。戦争中日本に戻っていたとき、軍の要請で戦争記録画を多数描いたことで、戦後「戦争協力者」として非難され、深い心の傷を負った。ただ、フランスへの帰化を決意したのは、それだけが理由ではないらしい。 ▼戦前からすでに、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家として、名声を得ていたにもかかわらず、日本画壇の評価は低かった。おかっぱ頭にちょびひげという独特のスタイルや、5回の結婚に対する偏見も強かった。 ▼大宅賞を受賞した『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(近藤史人著)などによって、その実像が伝えられ、大規模な展覧会が日本で開催されるようになったのは、最近のことだ。今、上野の森美術館では、没後40年を記念して「レオナール・フジタ展」が開かれている。 ▼初期から晩年までの作品約230点のなかには、「すばらしき乳白色」と絶賛された裸婦像や長く幻の大作とされてきた「構図」「争闘」なども含まれている。小欄のお気に入りは、猫やライオン、馬など動物を描いた作品だ。躍動感あふれる筆致は、国宝の「鳥獣戯画」を思わせる。藤田が日本画の伝統技法を駆使していたことは、専門家たちの常識だ。 ▼君代夫人によると、藤田がパリ郊外のアトリエで、繰り返し聴いていたのは、広沢虎造の浪曲「森の石松」だった。食事も和食ばかり。やはり藤田が日本を捨てたことはなかった。
産経抄 産経新聞 11/23
八葉蓮華 hachiyorenge
「私が日本を捨てたのではない。捨てられたのだ」。「パリで最も有名な日本人画家」だった藤田嗣治(つぐはる)は晩年、君代夫人に何度も愚痴(ぐち)をこぼした。1949年に日本を離れてから、1度も帰国していない。 ▼55年にフランス国籍を取得、4年後にカトリックの洗礼を受けて、レオナール・フジタとなった。戦争中日本に戻っていたとき、軍の要請で戦争記録画を多数描いたことで、戦後「戦争協力者」として非難され、深い心の傷を負った。ただ、フランスへの帰化を決意したのは、それだけが理由ではないらしい。 ▼戦前からすでに、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家として、名声を得ていたにもかかわらず、日本画壇の評価は低かった。おかっぱ頭にちょびひげという独特のスタイルや、5回の結婚に対する偏見も強かった。 ▼大宅賞を受賞した『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(近藤史人著)などによって、その実像が伝えられ、大規模な展覧会が日本で開催されるようになったのは、最近のことだ。今、上野の森美術館では、没後40年を記念して「レオナール・フジタ展」が開かれている。 ▼初期から晩年までの作品約230点のなかには、「すばらしき乳白色」と絶賛された裸婦像や長く幻の大作とされてきた「構図」「争闘」なども含まれている。小欄のお気に入りは、猫やライオン、馬など動物を描いた作品だ。躍動感あふれる筆致は、国宝の「鳥獣戯画」を思わせる。藤田が日本画の伝統技法を駆使していたことは、専門家たちの常識だ。 ▼君代夫人によると、藤田がパリ郊外のアトリエで、繰り返し聴いていたのは、広沢虎造の浪曲「森の石松」だった。食事も和食ばかり。やはり藤田が日本を捨てたことはなかった。
産経抄 産経新聞 11/23
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