「にこり それはまるて、急須ていれたような こたわったあし…」。車内で、風変わりなコピーが目に留まった。「本物には、にごりがある」と結ばれる。にごりのうま味を売り物にする、ペットボトル入りのお茶の宣伝だった。
「白河の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」。江戸時代中期に老中の松平定信が主導した寛政の改革は、四角四面にすぎた。狂歌のなかで、音を上げた庶民が、以前の田沼意次による腐敗政治の方がましだった、とため息をついている。しかし多くの場合、にごりは嫌われる。
「お茶をにごす」も、「いいかげんに、その場しのぎでごまかす」といった意味だ。そんなにごりのマイナスイメージを、コピーは見事に逆転させた。言葉のにごりの素(もと)である、濁点がなくなったら、こんなに締まりのない文章になりますよ、と言っている。
戦国時代最大のライバル同士、武田信玄と上杉謙信の間で、俳句の贈答があったそうだ。「杉枯れて、竹、たぐひなき朝かな」。信玄が謙信に送った一句だ。杉が上杉家、竹が武田家を指していることは、言うまでもない。すると謙信は、濁点を付けたり取ったりして、送り返した。「杉枯れで、武田首なき朝かな」。
国文学者の池田弥三郎が『日本故事物語』のなかで、「誰かの創作だが」とことわって紹介している。日本語は、濁点のあるなしで正反対の意味になることがある。「世の中は、すむとにごるで大違い」とあって、「はけに毛があり。はげに毛がなし」と続けたり、「福にとくあり。ふぐに毒あり」と続けたりする。
美しい日本語を子供たちに伝えていくのは、何より大切なことだ。加えてその楽しさ、面白さも、大いに知ってもらいたい。
産経抄 産経新聞 6/29
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